川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

松本茂立教大学教授(2021年より東京国際大学教授)の提唱する授業(朝日新聞「英語をたどって8:2「英語で授業」本当の意味は)は高校生にはできない授業。やっても何の効果もない。

(2019年時点での肩書で記載してあります)

私が立教大学教授松本茂氏に「こちらの新聞記事(朝日新聞 3月25日夕刊 英語をたどって8:2 「英語で授業」本当の意味は)に書かれているティーチングプランで公開授業をしてください」とお願いしてから今日で一か月たちました。  高校の多くの先生方が松本茂氏の言うような方針で授業が出来ない現実を考えれば、「何をおいてもその授業を高校の先生方に見てもらいたい」と思うのが、 「英語教育の在り方に関する有識者会議」の委員として、当然のことだと思っていました。  ですから一か月たっても公開授業の予定が示されないということは「松本茂氏には、こういう授業は出来ないのだ」と私は解釈致しました。 

出来ないはずです。  その理由は、
2013年5月19日のブログ「高校生の皆さんへ」を読んでいただけば、複雑な英文の構造を高校時代に母国語でしっかり理解しなければ、英文を正確に理解することはできないとわかります。
2017年2月4日のブログ「英語の思考活動」を読んでいただけば、中学卒業程度の英語力で英文資料(高校レベルの英文)を日本語に訳さず読んでも理解できないことが分かります。
2015年4月13日のブログを読んでいただけば、「英語で」新しく学んだこと(つまり日常使っていない言語で教えられたこと)は、生徒の頭の中には残らない、ということがわかります。

つまり松本茂氏の提唱するこの授業は実際にはできないものであり、仮に行ったとしても子供たちの英語力を上げる効果はありません。 生徒の学習段階に合いませんので。  

立教大学教授松本茂氏は、自分ができないモデル授業をあたかも出来るように新聞で紹介し、日本語で授業をする高校の先生方を批判していますが、これは文部科学省有識者会議の委員として、控えたほうが良い行為だと思います。  

私は「英語を日本語に訳すのは害がある」「英語のまま理解すれば英語力が上がる」と提唱するのは偽りであり、詐欺だと石渡誠氏に言い続けてきました。  石渡誠氏は無視し続けていますが、それを認めると、謝罪や損害賠償の問題が発生するからでしょう。  松本亨氏が間違えて「日本語訳は害になる」と思いこんだことから生まれた指導法を「英語で考える指導法」と宣伝して、25年以上も生徒から車を売るほどの多額な授業料をとってきたのですから、詐欺商法といわれても仕方ないでしょう。  (実際には日本語訳を知らなかったら、初級者中級者は言いたいことも英語で表現できませんので松本亨氏の「英語で考える指導法」は全くの誤りです。)  

松本茂氏の主張も「読むイコール和訳ではない。英語で読んだり聞いたりしたことに基づいて、考え、英語で意見を言ったり、やり取りしたりすること。「英語を」学ぶのではなく「英語で」学ぶことという」と新聞に書いてありますので、石渡誠氏の主張と同じだと思います。  そして実際にはご自身もできない授業方法ですから、やはり、詐欺指導法でしょう。  18年間日本語だけで思考してきた高校生が、和訳しないで、英文資料を読んで、内容を理解できるはずはありませんし、意見を英語で言えるはずもありません。 少なくとも高校時代の私にはそういうことは出来ませんでしたし、私の息子もハイスクール一年生ではできませんでした。  大学入試の英文読解も、松本茂氏の言うように、和訳しないで英語のまま読んでいれば、意味も分かるしそれについて英語で意見も言えるようだったら、大学入試の英語で誰も苦労はしません。  でもそうやって、合格した受験生は一人もいないでしょう。  松本茂氏の教える立教大学の入試問題もそうでしょう。  英語のまま読んでいれば意味が分かって、英語で意見も言えるような入試問題ではないでしょう。 松本茂氏の言うやり方で英語が習得できるのであれば、フランス語もロシア語もアラビア語も世界中の言語はみんな和訳しないでそのまま読んでいれば、意味も分かって、それぞれの言語で意見も言えることになりますので、非常に簡単に外国語を習得できることになります。  実際にはそういうことをやっても習得できません。  松本茂氏もロシア語やアラビア語では和訳しないで読んでも意味は分からないでしょう。  松本茂氏が和訳しないで意味が分かるのは英語だけでしょう。  なぜ英語は、和訳しなくても松本茂氏には意味がわかるかといえば、最初のころ、単語の意味を日本語で学び、文法事項をひとつひとつ日本語で学び、そのあと大量に英語を使ってきたからです。  ロシア語やアラビア語でそれが出来ないのは、自分が理解できる日本語でそれらの言語を学んでいないからです。  松本茂氏は日本語で英語の基礎を学んだころのことは忘れてしまったのでしょうね。      

文部科学省有識者会議の委員が詐欺指導法を提唱していては、子供たちの英語力は上がりません。  英語教育改革は国の事業です。  税金も投入されています。  「英語で授業」の方針を打ち出してから10年が過ぎた、と書いてありますが、10年も詐欺指導法に税金を投入してきたのなら、税金の無駄遣いです。  会計検査院は、詐欺指導法に10年税金を使ってきたことを問題にすることはないのでしょうか。  詐欺指導法で英語教育改革をしても子供たちの英語力は上がりません。  私が2015年5月6日のブログに書いた通り、この指導法は失敗に終わっています。  

最初に「英語で授業」を提唱していらした、安河内哲也氏は、もはやそれを提唱はされず、今は「4技能、4技能」とおっしゃっています。  けれどもスピーキングの基本スキル(正しい発音で文章をしゃべる)の指導も学習指導要領に盛り込まないで、「4技能、4技能」と提唱されても、生徒が困るだけです。  高校生も、中学生も学校で教えてもらってもいないスピーキングのテストを大学入試や高校入試でされることになって、本当にかわいそうだと思います。  英語教育改革を先導する「英語教育の在り方に関する有識者会議」の委員が次々と間違った方針を打ち出すので、それに翻弄され、犠牲になっている今の高校生は本当に気の毒だと思います。  わからない英語で授業をしろといわれ、習ってもいないスピーキングのテストをされ、英語教育改革どころか、有識者会議の委員によって、生徒の英語力のぶち壊しが始まっているとしか思えません。

私の心の中では、渡米直後、「こんなもん、いくら英語で説明されたってわかんないんだよ」と苦しそうに私に言った息子の姿と、今、有識者会議の委員の犠牲になっている高校生の姿が重なります。  息子がそう言えたのは、相手が母親だったからです。  生徒は大人の決めたことに文句は言えません。  黙って従うしかありません。  でも、高校の先生方は「英語で授業」の方針が生徒にはできないとわかっているから、日本語で教えてくださっています。

そういう高校の先生方に対して、松本茂氏は、有識者会議の委員として、「自分は正しいことを言っているのに、言われた通りやらない高校の先生方が悪い」とお考えですか。  ご自分が提唱した授業でさえ、ご自身が出来ないのですから、もう一度ご自分の主張が正しいのかどうかお考えになってください。  「日本語で教えてもわからない生徒がいるのに、英語でどうやって理解させるのだ」という高校の先生方の悲痛な叫びに、もっと真剣に耳を傾けてください。「自分は正しいのに、言われた通りやらない高校の先生方が悪い」という「心の驕り(おごり)」を捨てて、もっと謙虚に高校の先生方のいうことに耳を傾けてください。

補足ですが、
アメリカで英語教育を学ばれた方々はあまりそれを日本で振り回さないでください。  社会全体で英語が話されている国で育つ子供と、全く英語を聞くことがない国で育つ子供に対する英語教育の仕方は違います。  英語が話されている国で育つ子供にとって、英語は「実体を持つ言語」です。 英語の言葉の後ろには生まれた時からの体験が積み重なっています。  けれども日本で育つ子供にとって、英語は「実体を持たない言語」です。  生まれてから一度もその言語で人とのかかわりを持ったことはありません。  その言葉を使った実体験もありません。  だから日本の子供たちは英語を「実体を持つ言語」つまり日本語に訳さないと理解できないのです。  こういう違いがあるから両者に同じ英語教育は出来ないのです。  「アメリカでは英語で授業をやっているのだから日本の英語の授業も英語でする」というのは、この言語の持つ実体の違いを知らない人です。  こんなことは少し落ち着いて考えれば誰でもわかることです。   

また、アメリカと日本では、小学生のころから行われている教育内容も違います。  そういうことを知らないで、ただアメリカでしている教育を日本の高校生にさせようとする主張は、おやめになってください。  小学生のころから何の指導もしないで、いきなり高校生になってプレゼンテーションだの、ディベートだのやらせても効果はありません。  アメリカ人の生徒だって、いきなりディベートをさせているわけではありません。  小学校高学年くらいから2つのものを比較して文章にまとめる。 原因と結果を整理して文章にまとめる。  自分の意見がどういうpoint of view から引き出され、その理由をサポートする事実や事例をどう選ぶか、そういういろいろな訓練をして、年齢が上がっていくとディベートの活動も入ってくるわけです。  そういうことを何にも知らないで生半可な知識で学校教育をかき回さないでください。  しかも子供たちにとっては、英語は「実体を持たない言語」なのですから、英語でプレゼンテーションだのディベートだのさせても、無意味です。  もし、本当に子供たちに「論理的に考え、大勢の人の前でわかりやすく自分の意見を発表できるようにさせたかったら、そういう指導は、

子供たちの中で、本当に言語として機能している言葉、
子供たちが一日中、思考している言葉、
言葉の後ろに子供たちの経験や思考が蓄積されている言葉、
子供たちの血となり肉となって毎日彼らの思考活動を動かしている言葉

そういう言語、つまり母国語(日本語)で練習させなければ、子供たちは日常そういう考え方や、意見の言い方をするようにはなりません。

私が外資系の会社で働いていた頃、こういう本を読みました。  当時アメリカでも女性が男性と同じように職場で認められるよう女性たちの運動が活発になっていました。  そのとき読んだ本には次のような例が書かれていました。  ある女性が職場で昇進の機会が与えられないことに悩んでいました。  同じ仕事をしている男性は何年かすると昇進していくのに自分は全く昇進の機会が与えられないと悩んでいました。  

彼女は来週上司との面接があるので、その事をどう伝えたらよいか考えていました。  それで、夫に相談して、夫に上司役になってもらい、面接の練習をしました。  彼女は「自分の仕事のクオリティーは高い。  勤務態度も極めて良いし、業務の改善などにも新しい提案をしたりして貢献している。 けれども職場で同じ仕事をしている男性のように昇進させてもらえない。 自分も男性と平等な扱いをしてほしい。」と言いました。  

それを聞いた夫が、「他の理由よりも”自分も男性と平等な扱いをしてほしい。”  ”Fair(公平)な扱いをしてほしい。” その点を前面に出して面接の時に話した方がいい」とアドバイスをしました。  彼女は夫のアドバイスに従いフェアな扱いをしてほしいと強調して、昇進の機会を勝ち取ることが出来た。  という話でした。

今のアメリカ(トランプ大統領アメリカ)のことはよくわかりませんが、1980年ごろのアメリカは人種のるつぼといわれ、いろいろな人種の人々がいました。  そういう社会ですから、「どの人もFairに扱われなければならない」ということは国民のだれもが、小さいときから学校で教えられていました。  先生方も教室で公平に子供たちに接して、子供たちはそれを見て、どの人も公平に扱われなければならないことを実際に学んで育ちました。(私はアメリカにいた時、その例を娘の友達のお母さんキャシーさん(仮名)から聞きました。  彼女は日本人とユダヤ人の間に生まれた子で、日本にいた時は、けがをするほどひどくいじめられたそうです。  でもアメリカに移住した時、彼女がやはりひどいことを言われ、泣きながら教室を飛び出したら、先生が彼女を教室に連れ戻して、クラスみんなの前で、彼女にひどいことを言った子に「キャシ―に謝りなさい。  そういうことは、言ってはいけないことです。」と指導されたそうです。  いじめた子はキャシーにひどいことを言ったことをクラス全員の前で謝ったそうです。  キャシーは、その時「私はここでなら、生きていける」と思ったといっていました。 

そういう社会で、相手に最も説得力がある理由が、「フェアな扱いをしてほしい」ということだと、この本に出てきた夫は思ったわけですね。  「フェアな扱い」という理由は、この夫婦のいるアメリカの社会では多くの人が正しいと認める理由、大義名分が立つ理由、誰も反対しにくい理由だと夫は考えたわけです。

論理的に考える、自分の意見を正しいと裏付けする強力な理由や事実を考えて選ぶこと。  こういう、「多角度から様々な要素を考慮して、自分でもまだ正解が分からないことを考えて、答えを出していくような思考の仕方」は、母国語でないとできません。  つまり、わざわざ訓練までしてやらせる意味のある「思考」というのは、母国語でなければできないということです。  英語のような学んで間もない言語では出来ません。  自分の生活で使っていない言語ではできないのです。  だから私の子供たちも宿題は日本語で考えて、考えたことを英文に訳して提出していました。  

思考の仕方とか、相手にわかりやすく自分の意見を述べるとか、そういうことは、子供が無意識でも使える言葉、子供の経験や思考といつも結びついている言葉でやらないと、こどもたちには身についていかないのです。 
 

ですから、小学校からそういう訓練をしてこないで、高校の英語の授業でいきなり「小笠原諸島の貴重な自然について和訳しないで英文を読んで、開発か自然保護か英語で意見を言いなさい」と先生が言っても、教室で手を上げる生徒は、ほとんどいないでしょう。(総合学習の形式にしたいのであっても、個々のスキルについてまったく指導していない段階では、生徒はこの”総合学習”から何も学ぶことはありません。) 高校生は和訳しないで、英文資料など理解できませんし、自分が意見を言うときの意見の構成の仕方も習っていません(アメリカではこの練習は小学校高学年くらいから始まっています。) 大勢の前で発表することにも慣れていません(アメリカでは幼稚園の時からshow-and-tellでみんなの前で発表する練習が始まります)。 そういう状態でこのような授業をしても生徒は何も学ぶことはありません。 松本茂氏はそういう教室の様子も想像できませんか。 有識者会議の委員がそんなに教育現場の様子を知らなくていいのですか。  シーンとした教室で、先生が困るだけです。  子供たちに社会生活で一度も使ったことのない言語(英語)で自然保護か開発か考えさせて英語で意見を言わせるなど、日本のどこの学校で出来ますか。   松本茂氏ご自身も、公開授業が出来ませんでしたね。  たとえやってもそんな授業に意味はありません。  シーンと静まり返った教室で、手が上がるのを待つより、日本語で分詞構文を教えるほうがよっぽど意味のある授業です。  松本茂氏の提唱する授業より、日本語で分詞構文を教えている高校の先生方の授業の方がよっぽど、意味のある授業だということです。    

「実体のない言語 - 英語 - で授業をすれば、子供たちの英語力が上がる」などということはありません。  「英語で授業」は、子供たちの発音も英語力もボロボロにするやり方です。  はっきり言って、詐欺です。  それに、日本語を母国語として育つ子供(初級者中級者)は、日本語訳と一緒に英語を覚えないと、自分の言いたいことを英語で表現することは出来ません。 これはアメリカでは起こってこない問題です。  英語だけで事足りる国では日本語訳はいりません。  そういう違いがありますので、日本でアメリカと同じ授業をすると問題が生じてきます。  こういうことを松本茂氏はご存じでしょうか。  

一国の中学校英語教育、高等学校英語教育が二つとも「英語で授業」という詐欺指導法に乗っ取られるなど、前代未聞の不祥事です。  この方針を主導したのは、松本茂氏ですか。

この10年、もし、日本で生活する子供たちに適する英語教育をしていたら、少なくとも基本的な表現については、生徒はアジアのトップレベルの発音でスピーキングをしていたはずです。  それなのに詐欺指導法を学校教育にもちこんだためにいまだに生徒はそれができません。

「英語で授業」をすれば子供たちの英語力が上がるなどといって税金を使わせるのは、詐欺です。 (反論のある方は「アラビア語だけで、アラビア語を習得してその学習記録を公開してください。  「自分は日本語訳を使ったけれど、それは害になる」などという、石渡誠氏や松本亨氏のような言い訳は一切受け入れられません。  日本中の中学生、高校生にかかわる問題です。  この子たちは中学、高校時代を終えたら、もう二度とその時代に戻ることはできないのです。  それなのに、石渡氏のように自分もやってもいない方法を「英語で考える指導法」などと称して学校教育に持ち込むのは許されないことです。  そんなもの、ただの松本亨氏の勘違いだったのです。  自分は日本語訳を使ったのに、「それは害になる」と自分で勝手に事実を否定しただけです。  石渡誠氏も同じです。  そして、日本語訳を使わない魔法のような方法があたかも存在するかのように「英語で考える指導法」と宣伝していたのです。  これは詐欺です。)
  
松本茂氏は「英語で授業」という詐欺指導法を英語教育改革と称して主導してきたご自分の責任をどうお考えですか。生徒の前に立って教える教育者が間違った教育方法を主張して、日本中の高校生にやらせて、謝罪もせず、責任も取らず、知らんぷりしていていいのですか。 あなたは生徒の前に立って教える教育者なんですよ。   

松本茂氏は、正しい英語教育を受けられないまま卒業していった中学生や高校生のことをお考えになったことがありますか。  松本茂氏は彼らに取り返しのつかないことをしてきたのですよ。  中学時代に正しい英語教育をしていれば彼らは今頃ネイティブ発音で話していてもおかしくなかったのに、そういう教育をしてあげられませんでした。  私は最近は4月になると気が重いです。  今年の新中学一年生もネイティブ発音にしてあげられないのか、と思うと気が滅入ってきます。  日本人がそこらじゅうで、ネイティブ発音で英語を話すようにすることだって、出来るのに。。。。。なんで、何年もそれが出来ないまま過ぎていくんだ。  CDぐらいつけてあげればいいでしょうが。  生徒をネイティブ発音にしたいのでしょう?(今はCDより、MP3の方がいいのでしょうか? とにかく音声モデルをつけてください、ということです)中学生をネイティブ発音にする方法は「期間は2年かかりますがやり方は簡単」です。 なぜ簡単なのか、といえば、中学一年生の「優れた耳の力」を利用するからです。  2018年3月8日のブログに書いてあります。 

立教大学教授松本茂さん、詐欺指導法の犠牲者が「大人にものを言えない子供だから」知らんぷりしていていいわけではないのですよ。あなたは、生徒の前に立って教える教育者なんですよ。  

世界の国々の中には国際社会での生き残りをかけて戦略的に教育を行っている国もあります。  それなのに日本の英語教育改革は実現不可能なことばかり唱えています。  これでは到底太刀打ちできません。  こんな英語教育改革の提言に10年間も国家予算を投入してきたのですか。

英語教育改革が進まないのは方針が間違っているからです。 以下の通りです。

(1)文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 は全く効果がない。 (理由は2017年10月12日のブログ)
(2)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がない。  (理由はこちら
(3)「CAN-DOリスト形式」は効果がない。 (理由はこちら
(4)「4技能」は効果がない。  (理由はこちらこちら
(5)入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの(理由はこちら
(6)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではない。 (理由はこちら
(7)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受ける。 (理由はこちら

上記の項目の中にどれか有効な方法がありますか。
アメリカでやっている英語教育をそのまま日本でやらせても、日本人の英語力は上がりません。

私は、2015年5月6日のブログで「英語で授業」は失敗します。 失敗の現れ方は「ゆとりの教育」より早く、「ゆとりの教育」より顕著にわかる形になります。」と述べました。  そして失敗した時は「英語で授業」を学校教育にもちこんだ方にその責任を取っていただきましょう。と書きました。  失敗が確定したようです。  「英語で授業」を主導したのは、立教大学教授松本茂氏ですか。  

生徒の発音も英語力もボロボロにする「英語で授業」の方針を学校教育にもちこんだ人の責任は重いと思います。 教育者でしたら、その責任に知らんぷりしないことです。



私はこの朝日新聞の記事「(英語をたどって8:2)「英語で授業」本当の意味は」を読んで非常に驚きました。  「高校生に小笠原諸島の貴重な自然について英文資料を読ませて和訳しないで理解が出来て、英語で意見も言える」と本気で思っている大学の先生がいることに衝撃を受けました。 その衝撃は、私の体の中でアラーム(非常ベル)がなるような強烈な衝撃でした。  

「英語教育改革を主導する大学教授がここまで現実の高校生の英語学習段階を知らない」 

「何かおかしい」そう思った時は、必ず何か重大な原因があります。  それで、松本茂氏の経歴を拝見させていただきました。  

松本茂氏は、大学で「経営学」を学ばれて、アメリカの大学院で「コミュニケーション教育学」を学ばれたそうですね。  「コミュニケーション教育学」というのは英語の発音や文型を教えることではありませんね。  コミュニケーションについて教えることですね。  そして日本の大学院で「国際社会文化」を学ばれています。 ということは、松本茂氏は「発音や文型など英語力そのものを教える英語教育については大学で全く学んでいない」ということですね。(英語教育法や音声学を学んでいない)  だから高校生の英語力のレベルも具体的に知らないのですね。  中学高校の教科書を共同執筆されていますが、ご自身は、大学で「英語教育」を学んでいませんね。   

だから英語教育改革と言って、こういう生徒の学習段階を無視した突拍子もない高校の授業を提唱されるのですね。  はっきり言って、この授業は高校生の英語力向上には全く役に立ちません。  その理由をこれから説明します。


下の図は、私がいつも言っている英語習得の過程を子供たちの年齢を追ってまとめたものです。


A―――――――――――B―――――C―――――――――――D
(中学・高校の英語指導)  (大学1、2年) (大学3年生以降)

AからBまで(中学高校)は、まず、英語そのものを習得する時期です。  
1.発音を習得させ、2.語順の通り、正しく構文を取って英語圏で大人が読む文書も正しく読める英語力を養成します。

Bで、大学に入学します。2年間位、英書を用いて、大量のインプットを行います。

CからDまでは大学3年生以降の英語活動です。  この英語レベルなら、英語でエッセイを書いても英語でディスカッションをしても、ある程度意味のある活動が出来るようになります。
松本茂氏は、新聞記事の中で「英語を」学ぶのではなく「英語で」学ぶこと。とおっしゃっていますが、AからBの区間の生徒、つまり中学生高校生は、まず「英語を」学んでおかないと「英語で」学ぶことはできません。  「フランス語で」学ぶためにはまず、「ブランス語を」学んでフランス語の意味が分かるようにしなければならないのと同じです。

ですからこの時期の生徒はまず、「英語を」学ばなければなりません。

松本茂氏が主張するように「英語で」学ぶことが出来るのはC地点を過ぎて、英語をある程度自由に使えるようになった生徒です。  つまり、松本茂氏の提唱している「英語教育」はC地点を過ぎた人が対象であり、AB間の生徒、つまり、中学生、高校生には出来ないということです。
現在文部科学省が日本人の英語力を上げようと行っている英語教育改革は生徒の英語力を上げることが最も重要な課題だと思います。  そのためには、AB間、つまり中学高校の英語の授業が主な対象になります。(私が小学校での英語教育を考えていない理由はこのブログの最後に書いてあります。)
松本茂氏の提唱する教え方は上の図のC地点を過ぎた生徒が出来る内容です。 つまり、英語力を身につけた後に、生徒が出来る活動です。 英語力そのものの習得には使えない方法です。中学生、高校生にはできない授業のやり方です。  

松本茂氏ご自身も英語力そのものを生徒に習得させる教育法を大学で専門的に学んでいらっしゃいません。   ですから、具体的に中学生高校生の英語力を把握していません。  その結果、松本茂氏ご自身は自分の頭の中で中学生、高校生の英語力を想定して、改革を考えています。  ですから、高校生が「小笠原諸島の自然について英文を読んで開発か環境保護か英語で意見が言える」と思うのでしょう。  けれどもこれは、相当現実からかけ離れた高校生の英語力です。    

高校の先生方は、英語教育を専門的に学ばれていますので、分詞構文を教える時期の生徒の英語力がどの程度かを正確に把握しています。  ですから、こういう授業は無理だとすぐにわかります。 「英語で授業」では、生徒の理解が不十分になり、支障をきたす、と知っています。

松本茂氏が新聞に書かれているような授業を高校の教育で提唱するのは、ご自身が高校生の英語力を正確に把握できないからです。 英語教育を専門的に学んだことがないから高校生の英語力のレベルが具体的にわからないのです。   

英語教育では、新しい文法事項はやさしいものから難しいものへ一つずつ段階を踏んで教えていきます。  一つ一つの文法事項が生徒によく理解され、定着するようにするためです。  例えば、現在完了と仮定法を一緒に教えるようなことはありません。  ですから、教えてもいない文法事項がたくさん使われている文書を読んで意見を英語で言わせるような授業はやりません。  これは中学、高校の先生方にとっては当たり前のことです。

松本茂氏の提唱する授業は、大人が使う英語力の習得が終わった人のすることです。  C地点を過ぎた人がすることです。  AB間の中学、高校の生徒には、出来ません。  松本茂氏は大学で経営学を専攻されたそうですね。  でしたら音声学も学ばれていないと思います。  文部科学省はコミュニケーションに重点を置いた教育と言っていますが、まず最初に発音が通じなかったら、コミュニケーションは成立しません。  中学生の英語はまだそのレベルです。  まず、耳と口を使って音を教える段階です。  私はこのブログを書くにあたって、松本茂氏が書かれた「生徒を変えるコミュニケーション活動」という本をざっとですが、読みました。  中学1年生から高校1年生までの英語の授業で何をするか書いてありました。  英語に慣れさせるため「授業は英語で行う」とも書いてありました。  けれども、その程度のことでは生徒は全然英語には慣れません。  また、正しい発音が生徒に定着するには2年位かかりますが、それを行わず、生徒が作った文で勝手にしゃべらせていると、生徒の発音は自己流でボロボロになります。  松本茂氏は大学で音声学も学ばれていませんから、お分かりにならないと思いますが、こういうやり方では生徒の発音は自己流でボロボロになります。 通じない発音ではコミュニケーションも成り立ちません。  全く役に立たない授業です。 知らないことについて大学の先生が本を書いて提唱されるのは無責任です。

英語教育を専門に学ばれている先生方が出来ない指導法(英語で授業)というのはやはり問題があるのです。  そういう方針を英語教育改革として提唱しても先生方はついていけません。  松本茂氏のように英語教育について専門的に学んでいない人の決めた方針に従わなければならないのでは、中学高校の先生方があまりにもお気の毒だと思います。  やらなければ、また、「やらない」と批判されますし。

私は松本茂氏の名誉を傷つけるつもりはありません。  「AERA」(朝日新聞出版)5月13日増大号に、松本茂氏の大学のことが松本茂氏のコメントと共に掲載されたそうですから、C地点を過ぎた人が学ぶ大学で、優れたご指導をなさっているのだと思います。

ただ専門的に英語教育を勉強していない人、実際の高校生の英語のレベルも知らない人が、英語教育改革の方針を立案されるのはどうなのだろうか、と思います。  対象となる生徒の英語力を知っているからこそ、どこを強化すれば生徒の英語力が向上するのかもわかります。  これを知らない人が作った教育方針は失敗します。

(A)「英語で」何かを学ぶ指導と(B)英語そのものを習得させる指導は、まったくちがいます。  「英語で」学ばせておけば、英語が身につく、ということはありません。 私はアメリカで2年間そのことは嫌というほど知りました。  

英語教育を学んだことのない人が、対象となる生徒の英語のレベルも知らないまま作った英語教育改革の方針に、現場の先生方が従わなければならないのでは、先生方もお気の毒だと思います。  

この新聞記事で、松本茂氏は「目の前で展開したのは「分詞構文がどうこう」と教師が日本語で説明する従来型そのもの」と批判していますが、分詞構文を日本語で教えることを批判する人の提唱する英語教育改革には誰もついていけません。  私はアメリカにいても2年間も日本語で子供達に英語を教えていました。

母親というのは本能的に自分の子供を守ろうとします。  子供が苦しい状況に置かれると無意識にでも、子供の苦しさを軽減しようとします。  アメリカに親の都合で連れて行った子供が授業についていけなくて苦しんでいたら、 最も彼らに役立つことを必死にやります。  それが日本語で英語を教えることでした。  英語のまま教科書を読んでも、彼らは何もわからない。  それが、ひしひしと分かりました。   英語のまま読ませていれば日本語で説明するより早くわかるようになるのでしたら、私は真夜中まででも息子に英語のまま教科書を読ませていたでしょう。 

日本語で分詞構文を教えることを批判する人の提唱する英語教育改革には、誰もついていけません。  「英語で授業」が出来ると思うのは、松本茂氏が「発音や文型など英語力そのものを中学生、高校生に教える」英語教育について、大学で専門的に学んでいないからです。 専門的に学んでいないことについて、口を出すのはおやめください。  現場の先生方がお困りになります。  生徒もかわいそうです。  こんな授業では、子供たちには発音も英語力も身につきません。




余談ですけれど、この朝日新聞の記事が載った日に、松本茂教授のブログを読んだ私は呆れてしまいました。 新聞に載った自分の写真が若く見えると喜んでいるようでは本当に日本の英語教育を心配して新聞記者に記事を書かせたわけではないですね。  大学教授の自己顕示欲のために事実無根の罪で新聞で批判される高校の先生方はたまったものではありません。 松本茂立教大学教授はもっとまじめに英語教育に関する有識者会議の仕事をしたらどうですか。 松本茂教授は高校の先生方に正式に謝罪しないのですか。 朝日新聞の記者にメールを送って、間違った根拠に基づいて先生方を非難する記事を掲載させたのですから、正式に謝罪するのが、責任の取り方ではないのですか。 松本茂教授は、立教大学のグローバル教育センター長をなさっているのですね。 そのような責任のある地位にいる方が、間違った根拠に基づいて先生方を批判する記事を朝日新聞に書かせて、謝罪もしない、というのは問題だと思います。高校の先生方は悪くもないのに非難されたのですよ。 謝罪するのが怖いから知らんぷりしているというのは卑怯です。 非難するときだけ、自分もできもしない華々しい授業を掲載させて、間違っているとわかったとたん知らんぷりというのは卑怯です。 しかも、高校の先生方は「日本語で教えてもわからない生徒がいるのに、英語でどうやって教えるのだ」と松本茂教授の間違った主張のために非常に苦悩されてきたのですよ。  それだけでも謝罪するべきなのに、朝日新聞の記者にわざわざメールまで送って高校の先生方を非難する記事を書かせたのですから、きちんと謝罪して高校の先生方の名誉を回復する責任があります。 先生方を自分の自己顕示欲の道具に軽々しく使って、自分はこんなに華々しい授業が出来るんだ、と言いたかっただけでしょう。 実際にはできもしない授業なのに。 松本茂教授が若く見える新聞に載った自分の写真を楽しんでいる間中、先生方は生徒の英語力が上がらないのはまるで先生方が悪いからのように世間に思われていたのですよ。松本茂教授が正式に訂正、謝罪しないから、今でもそう思っている人はたくさんいるでしょう。 高校の先生方にきちんと謝罪してください。 それからこの記事の最後に「なぜ(教育が)変わらないと思いますか。」という朝日新聞の刀祢館正明記者の質問に松本茂氏が「先生は英語が実際に使われている現場を知らない」「(教師が)英語が苦手だったり嫌いだったりする生徒のことは実感として分からないのでは」と24年前と同じ答え(教師論)をされた。というくだりがありますが、24年も英語教育の問題点を教師のせいだと思っていた、というのには、あきれました。 松本茂教授は「英語教育」に対する不勉強もはなはだしい。 そうやって、24年も、高校の先生方を馬鹿にしてきたから、こういう記事を書かせるのでしょう。実際に英語が使われている現場を知ろうが知るまいが、「日本での」英語教育に変わりはないのですよ。アメリカ人ばかりの学校にいる子だって日本語で教えなければ英語なんか理解できないのですから。 松本茂氏は24年も高校の先生方を馬鹿にしてきたから、こういうことが何の抵抗もなくできるのです。 批判されるべきは高校の先生方ではなく、松本茂教授ご本人の英語教育に対する研究の怠慢ではないのですか。 「自分は実際に英語が使われている現場を知っている」だから英語教育を知っていると思い込んで、英語教育に対する研究を怠ってきた松本茂氏の方に問題があるのです。 高校の先生方にきちんと謝罪してください。 立教大学教授であり、立教大学グローバル教育センター長であり、立教大学では責任ある仕事をなさっているのですから、自分のしたことに対してきちんと責任を持ってください。 高校の先生方が間違ったことをしていないと人々に示してください。 それとも、自分が傷つくのが怖くて人々に真実も話せませんか。 高校の先生方を悪者にして、自分は傷つかずに済ませるおつもりですか。大学教授は傷つけられてはならないが、一般の高校教師は罪を着せられてもかまわないと松本茂氏が考えているからですね。 それは卑怯なやり方です。 「立教大学教授」であり「立教大学グローバル教育センター長」であり、国の「英語教育に関する有識者会議」の委員もしている大学教授がすることではありません。 松本茂立教大学教授は高校の先生方に謝罪してください。  高校の先生方に対してそんな「上から目線」で有識者会議の委員の仕事をしているのですから、英語教育改革などうまくいくはずありません。 英語教育がうまくいかないのは高校の先生方のせいではありません。 うまくいかないのが高校の先生方のせいだと24年間も思っていたなど、松本茂氏は勉強不足も甚だしい。松本茂氏は英語教育に関して、24年間何の勉強もしていない。 何の進歩もしていない。 松本茂立教大学教授は、まずその認識を改めて、高校の先生方に謝罪してください。


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お知らせ

2016年6月から行いましたネット上セミナーのブログにある音声ファイルが、現在聞けない状態になっています。  はてなダイアリーからはてなブログに移行した際の私の不手際によるものだと思います。  現在音声ファイルの復元を試みておりますが、子音の日本語化を防ぐ練習の音声ファイルはホームページの「通じない日本人の発音」のページでお聞きになってください。 現在あまり目の状態が良くありませんので(ブログについても原稿は紙の上で完成させて、少しずつパソコンに入力しました。)パソコンの画面を長時間見ていることができません。  それで復元がいつできるか、わかりません。  ご不便をおかけして申し訳ありません。

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私が小学校の英語教育を考えていない理由を簡単にお話しします。
日本人が国際社会で生き残っていくためにはそのための教育を限られた時間で効率的にしていかなければならないと思います。  生き残るためには、英語だけ勉強していてもだめです。  英語力があっても、(1)大勢の人の前で、堂々と話すことが出来なかったら(自信なさそうに話していたら)説得力に欠けますし、(2)賛同を得ることが出来る根拠を提示して意見を述べなければ、たくさんの国が集まったときに、自国の利益が守っていけません。  ですから英語力だけでなく、そういう訓練もしていかなければならないと思います。  そして、そういう訓練は小さいときから母国語でやっていかなければ身につきません。 上に書いた通りです。  小学校ではそちらの指導をしたほうがいいと思っています。

シカゴにいたころ、日本で有名な画家の姪御さんと友達になりました。  「川合さん、毎週火曜日に私の家に来て一緒に油絵をかかない?」と誘われました。 油絵など描いたことがなかったので、お断りしたら、美術学校を出た友達も来るから、教えてくれるから大丈夫よ、といわれ、教えてもらいました。  楽しかったので、帰国後私は週に1度、美大を退職された先生のアトリエで油絵を習うことにしました。 油絵は次にニュージャージーに赴任することになる2002年まで8年間、習いました。  生徒は5人ほどいて、その中に大学で都市計画を教えていらっしゃる先生がいました。  国際機関からの仕事もたくさんなさっていました。  当時発展し始めたアジアの国々でよくお仕事をしていたようでした。  その方が、次のようなことをおっしゃったことがありました。「インドやパキスタンの人たちは、絶対に自分の言うことは通すんです。  何を言われても最後まで絶対に通すんです。  我々の間では、「インxx」って言って、それは有名なことなんですよ。」とおっしゃいました。  (xxのところはパキスタンの国名の最初の2字が入ります。  こういう言い方が、適切かどうかわかりませんので、xxにしました。)  
私は先に、「小さいときからプレゼンテーションや人を説得するタイプの小論文で自分の意見が正しいと訴える方法を訓練している国民がいる」と書きましたが、訓練していなくてもこの先生がおっしゃるような国の人々もいるわけです。  こういう人たちが集まる国際社会に私達の子供たちが何の訓練もしないで出て行ったら、全く無力になってしまいます。  例えていえば、鎧(よろい)、兜(かぶと)、剣(つるぎ)で武装した人に、なんの訓練も受けず、素手で対戦するようなものです。  大人になって「人前で意見を言いなさい」といわれても日本人はなかなかできません。  せめて、堂々と意見を言う練習くらいは小さい時からさせたほうがいいと思います。  こういうことは練習量の問題ですから、場数を踏ませる以外ありません。

また、小さいころから自分の意見の根拠となる事実や事例を持って考えることになれていたら、話し合いの時に新しい局面に突き当たってもそこでまた必要な手順で考えていくことが出来るでしょう。  ですからそういう考え方が成長とともに年齢相応のレベルで出来るように教育するのも大事だと思います。  思考が発達していく小学校高学年くらいから少しずつさせていけば無理なく身に着けることが出来ると思います。  小学校では母国語でそういう練習をしたほうがいいと思います。  大きくなってからでも、そういう練習はできないとは言いませんが、やはり、大人の思考に入っていくその時期から少しずつ行っていくほうが、そういう考え方になじんでいけると思います。  発音を含めて英語の基礎の習得は中学校3年間で出来ます。  3年で出来るものを小中7年もかけることはないと思います。
以上が私が小学校での英語教育を考えていない理由です。

補足ですが、
私は自分の子供が小学校、中学校、高校でバイリンガルになるのを見ました。  そこで気づいたのは、帰国子女の英語は、日本に帰ってきたら、「自然に大人の英語にはならない」ということでした。(だから小学生のころ海外で過ごしたけれども、大人になったら英語はできない、という帰国子女も多いのです)  つまり、年齢相応の英語を話すためには、常にその年齢で英語を勉強していなければならない、ということです。  ですから、小学校で英語を習っても、それから大人になるまでずっと年齢相応の英語を勉強していかなければならない、ということです。  小学生で習う英語は中学生の初期に習う英語でカバーできますので、何もそういう初期の英語に4年もかける必要はないと思います。  「小学校で学べば発音が良くなる」という人もいますが、2015年8月30日のブログ文部科学省の方針(小学校から英語の授業)を実施したので、小学生がカタカナ発音で話しています(1)」を読んでいただくと、小学生の発音はちっとも良くないのがお分かりになると思います。 (臨界期仮説は母国語並みの英語のインプットがあった場合を取り上げています。  週に数時間では「自然に」ネイティブ発音にはなりません) それなら、中学生で「意識的に」発音を身に着けさせた方がいいと思います。 やり方は2019年3月8日のブログに書いてあります。(真ん中より後ろの部分。「中学生の耳の力を使い。CDを用いて中学3年間、英語の発音そのものを文章のまま徹底的に子供たちの頭と口にコピーする」と書いてある部分です。)  おそらく小学校からの英語教育を提唱する人は、正しい英語の発音とカタカナ発音の区別がつかない人だと思います。 音声学を学んだことがない人だと思います。  つまり、大学で英語教育を専門に学んだことのない人だと思います。  正しい英語の発音とカタカナ発音の区別もつかない人が英語教育を論じるのは止めていただきたいと思います。  めちゃくちゃな発音で英語をしゃべらせるのは無意味です。  そのために使う時間も無意味です。  正しい発音とカタカナ発音が聞き分けられない人にはその無意味さも分かりません。  英語教育を論じるのであれば、少なくとも「カタカナ発音」と「英語の発音」の区別がご自身で出来るようになってからにしてください。  特に日本人の場合は「発音が通じない」ということが大きな問題ですから、この問題を認識できない、つまり、「カタカナ発音と英語の発音の区別できない人」には、日本の英語教育の問題点を解決する方法はわかりません。  発音は英語教育の最も基本的な学習事項です。  基本学習事項も習得出来ていない方は、英語教育に口をお出しになりませんよう、お願いいたします。   

高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの(大学入試も同じ) 発音教育の塾への丸投げはやめてください(中学3年間で生徒がアジアのトップレベルの発音でスピーキングができるようにする方法をお話しします)

テストでスピーキング能力は身につかない
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高校・大学入試でスピーキングテストをやってもスピーキング能力は身につかない。生徒にCDを与え生徒自身の口で正しい発音で文章を言えるよう教え、練習させなければ身につかない。日本人は、北米やヨーロッパと同じ英語教育をしても効果はない。 【理由】ヨーロッパの言語は英語と親せき関係にあるので、「発音」も「語順」も最初から大方できている。しかし日本語の子音は、常に母音と一緒に発音されるので極端に短く、英語として通じない。【語順】は、日本人は主語の直後に動詞や否定語がすぐ言えない。だからヨーロッパで行われている英語教育方法を日本でしても効果はない。(詳しくはこちら) 北米やヨーロッパの英語教育方法は日本では使えない。  日本人には日本語を母国語とする人の為の英語教育が必要です。 私は英語教育の専門家です。中学でこういう発音を身に着け、高校で英語の語順で理解し、大学で大量の読書を行い英語で考えるようにする。その英語教育のやり方はこちらです。


(2023年4月5日加筆)
余談ですけど、私はコロナが始まる前は、よくオペラ歌手の方が指導して下さるオペラの講座に参加しました。途中お休みした期間もありますけれど、トータルで3年くらい通ったと思います。 その時、隣で歌っていた方から「川合さんて、外国語をしゃべりなれているっていう感じがする」と言われました。 その講座で歌った歌はオペラですからイタリア語の歌でした。 私が何十年も発音練習をしてきたのは英語だけです。 でも、その私がイタリア語の歌を歌うのを聞いて「外国語をしゃべり慣れている」と隣の方が感じたという事は、やはり英語と同じグループに分類される言語は、言葉のつなげ方や口の動かし方が日本語よりは似ている、という事だと思いました。 例えば Puccini のオペラ La Boheme の中に出てくる Quando men vo' という歌(こちらで聞けます)の中には、traspira とか struggi という言葉がでてきますけれど、これなどは日本人は子音をつなげて言うことを練習していないとうまく歌えません。 でもこれが母国語のイタリア人は発音練習などしなくても子音が続く英単語はしゃべれるでしょう。 そういう意味ではやはり、英語と同じ言語グループが母国語のヨーロッパの人々がしている英語教育とは違う英語教育が日本人には必要なのだと思います。


(2022年3月4日)下村博文が教育行政にいることによって、日本の国際競争力は30%低下する。

「業者を儲けさせる為に、公教育の内容の一部を作為的に学校で教えないこと」によって、日本の国際競争力は30%低下する。

東京都は高校入試でスピーキングテストを実施することを決めています。 高校入試は本来中学校で習ったことを出題することが決まりですが、中学校でスピーキング教育は行われていません。 私がここで言っているスピーキング教育とは、「生徒が通じる正しい発音で英文を言えるようにする」教育です。 日本では現在、生徒に英語の教科書のCD(音声モデル)も持たせていませんので子供たちは発音練習するすべもありません。

学校で教えてくれないことが高校入試で出題されるとわかった時、保護者がすることは決まっています。 「塾や会話学校で教えてもらう」です。  けれども経済的な事情で塾にも会話学校にも行けない子供たちがいます。 以前塾に行っているのは生徒の7割くらい、と読んだ覚えがあります。 現在はどのような割合かわかりませんが、似たような割合だろうと思います。(そして、この高校入試でのスピーキングテストはやがて全国に広がっていくでしょう。東京都に導入させた政治家は全国に広げるつもりでしょう。)

つまり3割の子供は必要なことを学校で教えてもらえなかったら、身に着けることはできません。 私は英語の教科書のCD(音声モデル)を生徒に与えてください、と言い続けてきました。  日本語と英語ではこれだけ音もリズムも違うのですから、それを身に着けようと思ったら、CDが必要だということは誰でもわかります。 コンピュータだって学校にあれだけ大量にそろえてくれるのですからCD一つ生徒に与えないのは、作為的に文科省がやっていると容易にわかります。  学校で、完璧なスピーキング能力を身に付けられれば、誰も会話学校に行きませんから。業者を儲けさせる為に公教育でするべき内容を作為的に教えないようにしています。 2020年「東大に英語民間試験をやらせろ」とすごんでいたのは下村博文でした。 教育行政で、業者が儲かるように方針を決めているのは下村博文です。

3割の子供は、スピーキング教育を受けられないまま高校受験に臨む。 本来なら学校でスピーキング教育を受け、学校から配布された教科書のCDで練習して、その努力に見合ったスピーキングテストの点数を取得して、自分が行きたい高校に入れるよう点数を取得できるはずなのに、学校で教えてくれないから、スピーキングテストの点数が取れないままの点数でいける高校に進学していきます。

つまり3割の子供たちは必要なことを教えてもらえない、そして自分にふさわしい教育を受ければ、本来の実力を発揮して進路を歩むことができたのに、不利をこうむった点数で進路を決めていくことになる。 つまり自分の本来の実力にあった教育を受けることが出来なくなる。 その子たちは自分の実力を十分に伸ばす機会を失います。

世界の国々では、業者が儲かるように公教育の内容の一部をわざと教えない、などという国はありません。  どこの国でも、国の未来を作る子供の教育では、教えるべきことはきちんと学校で生徒に教えています。  だから、例えば、外国では、10000人の子供に公教育を行えば、100人の各方面でリーダー的存在になる国民が育っていくとすると、日本では3割の子供が、公教育で充分な内容の教育を受けられないので、10000人の子供に公教育を行っても、70人しかリーダー的存在になる人間が育たない。ということになります。 

(大学入試でも、各大学はスピーキングテストをするよう文科省から求められていますが、自分の大学でスピーキングテストをする施設も人材もない大学がほとんどでしょうから、多くの大学が民間試験に頼ることになります。 その結果、経済的に複数回受けられない、あるいは住んでいる地域での受験が難しい、という理由で不利をこうむる受験生が何割か出てくるでしょう。 そうするとまた、受験料だけで済むはずの教育で、追加で課されるスピーキングテストのため、学力以外の要因によって自分の実力を充分に発揮して進路を選べない生徒が出てきます。 つまりここでも、何割かの生徒が充分に能力を伸ばす大学への入学が出来なくなり、人材の育成の割合が低下します。)

つまり、公教育の内容を「業者を儲けさせるために」作為的に取り除く下村博文のような政治家がいることによって、日本で育つ人材の数が低下するということです。

岸田首相が、日本の国際競争力を高める方針を懸命に実施しても人材が、他国より3割減少した人数しか育ちませんから、首相の努力は 0.7倍(3割減)しか機能しないことになります。 人材が育たない、というのはそういうことです。 政府がいくら良い政策を実行しようとしても人材が足りなかったら、効果は0.7倍(3割減)となります。

「公教育を浸食する」「業者が儲かるようにわざと公教育の内容の一部を子供に教えない」「公的なテストを業者に肩代わりしてやらせる」というのはそういう問題を引き起こします。  経済的に恵まれる、恵まれない、に関係なく能力や才能のある子はいます。 そのすべての子供の能力を伸ばそうとするのが、公教育の役割です。  ところが業者の利益のために、その公教育で本来教えるべきことをわざと教えない。 本来国がやるべきことをわざと業者に(例えば、スピーキングテストという形で)させる政治家がいると日本の人材は他国の0.7倍しか育ちません。 つまり3割少ない人数しか育たない、ということです。

公教育は国家の未来を創る人間を育成します。 公教育を浸食する政治家、下村博文がいるために、日本の国際競争力は30%低下します。
生徒全員に英語の教科書のCDを与え、学校で生徒全員にスピーキング教育をするべきです。
公教育を妨害し、日本の人材育成を妨害する下村博文は、首相の努力も政府の努力も妨げる。





本題のブログは後ろから、1/3くらいのところの****から始まります。  その少し前の部分で、日本の子供たちがアジアのトップレベルの発音でスピーキングできるようにする方法が書いてあります。 核となる練習は中学2年間かかりますが、原理、やり方はとても簡単です。 CDさえあれば、今すぐにでも始められます。 高校入試(大学入試)のスピーキング試験などより何十倍も子供たちの発音習得に効果があります。 テストなどやっても、学校で教えなければスピーキング(通じる発音でしゃべること)は習得できません。 発音教育に無知で(つまり英語教育を知らないで)、業者テストをやらせたい人だけが「スピーキングテスト」「スピーキングテスト」と騒ぎます。 



(2019年4月18日)文部科学省有識者会議の委員、立教大学教授松本茂さん、この新聞記事に書いてあるティーチングプランでぜひ公開授業を行って見せてください。【もし本当にできるのであれば】英語教育改革で示された方針のやり方が分からない多くの先生方の参考になるでしょう。文部科学省有識者会議の委員のモデル授業ならどこの都立高校でもさせてくれると思います。公開授業の日程が決まりましたら「松本茂official blog おとなだから」 でご紹介ください。見学させていただきたいと思います。英語教育改革は国民の税金で行われています。誠意をもってご対応ください。ご自分からニュースメディアに連絡を取って「自分が英語教育改革として考えているのはこういう授業だ」と発言されたわけですから公開授業は当然だと思います。本来 マスコミに言うより先生方に見てもらう方が先です。 頭を打って、つまり命がけで「英語で授業」に反対してきた私の問いに立教大学教授松本茂氏に答えていただきたいと思います。新聞社にメールして先生方の非難はするが自分で提唱した授業はできない、ということであれば有識者会議の委員として問題だと思います。公開授業の際には生徒に配られたものと同じ英文資料(「小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英文資料」その他)を見学者にも配布してください。終了後、先生方との質疑応答の時間を取ってください。「こういう授業をする場合の準備の手順について」「題材をどういう基準で選ぶかについて」質問が出ると思います。 先生方に本当にこういう授業をしてほしいと思っているのであれば、質問には、丁寧にお答えになってください。 また、「生徒が日本語に訳さず、どのように英文資料を理解したのか」生徒自身から聞かせてください。(アメリカで全文和訳して子供たちの宿題を手伝ってきた私はこれが一番聞きたいです。)英語教育改革は国の事業ですから、誠意ある対応をよろしくお願いいたします。 



2019年4月13日
英語教育改革というと、アメリカで学んだ英語教育の専門家が、「なんでも英語でさせれば子供たちの英語力が向上する」と主張して、日本語で授業をする英語の先生方を批判していますが(こちらの新聞記事立教大学教授・文部科学省有識者会議委員 松本茂氏が批判していらっしゃいますが)、果たして本当にそうなのか、お読みになってみてください。
赤い文字から始まるパラグラフで***で区切られた部分です。


本題のブログは真ん中から少し後ろのピンクの文字の部分から始まっています。  その少し手前の部分で中学3年間の英語教育で、子供たちがアジアのトップレベルの発音で、英語でコミュニケーションが出来るようにする方法が述べてあります。
本題に入る前に長く文章が続いていますが、「文部科学省に正しい英語教育をしていただくこと」「松本亨氏、石渡誠氏(FORWARD英語学校)の提唱する英語で考える指導法を終わらせること(なぜならこの指導法を提唱する人が「英語で授業」を学校教育に持ち込んだからです)」「日本人の発音する英語の子音が短いから通じにくいと理解していただくこと」この3つを主要な目的と考えておりますので、併記してあります。


2019年1月17日(木曜日)
(1)英語学習において、初級者中級者は単語の日本語訳を手掛かりに自分の言いたいことを英語に訳して、しゃべります。  ですから初級者中級者は英単語を日本語訳と結び付けて覚えないと、自分の言いたいことを英語でしゃべることはできません。  I like ......  と言った後に、自分の好きなもの(日本語)と英語が結びついていないと初級者中級者はしゃべれません。  つまり、松本亨氏、石渡誠氏(FORWARD英語学校)の提唱する「日本語訳を使ってはいけない」という指導法は、学習者の英語力向上の障害となります。  初級者中級者は日本語訳で意味を知っている単語が多ければ多いほどいろいろなことが英語でしゃべれます。

(2)また、最初から言いたいことを英語で生徒に言わせる方法(英語で授業、あるいは校内英語オンリーのやり方)も、発音がめちゃくちゃになりますので、英語力向上の妨げになります。  この場合モデルとなる文章の音声が生徒の頭の中に蓄積されていませんので、発音矯正を行っても効果はありません。 ここはアメリカではありませんので耳で聞いていない音を生徒はしゃべれませんので。  うわべだけ生徒にアメリカの真似をさせて喜んでいるのは、単なる教師の自己満足です。  明治時代の鹿鳴館(ろくめいかん)と同じです。(こちらのブログの青字の部分)  日本語しか聞かない日本でアメリカ本土と同じ英語教育が出来るわけないでしょう。 英語指導の前提条件を教師は正しく把握してください。 

アメリカのESLのクラス(英語が母国語でない人たちのためのクラス)の教え方と、日本の英語学習者のための教え方は根本的に違います。  前者は生活の中で一日中英語を聞いていますが、後者は生活の中で、英語を聞くことは全くないからです。 「生活の中で一日中英語を聞いている」ということは、「身の周りの事象」と英語が結びつく体験を一日中しているということです。 日本では、「身の回りの事象」と英語が結びつく体験は一切ありません。

石渡氏はアメリカで英語教育を学ばれたそうですが、この前提条件の違いを明確に認識していますか?  石渡誠氏、松本亨氏の英語教育の手法にはこの全く異なる2つの指導法の混同が見られます。  「言語環境が全く違うところで、初級者、中級者にアメリカの真似をさせる」こんな手法は、教育者として、あまりにも考え方が短絡的です。  お二人が英語教育の基本的な手順、前提条件の確認を怠っているからでしょう。

私が最もそれを感じるのは、「学校内英語オンリー」の方針です。  この方針が学校教育に持ち込まれた場合は、「英語で授業」となります。  アメリカのESLのクラスは英語オンリーです。  でも、日本で、発音習得をきちんと終えていない人に「英語オンリー」をさせると発音はめちゃくちゃになります。  教育法は前提条件を間違えると、害にしかなりません。

こういう2つの全く異なる指導法の混同が石渡氏、松本氏の指導法にはあります。  英語教育はアメリカで行われていることをそのまま日本ですればよいというものではありません。 (それは、アメリカの子供がやっているチャンツフォニックスを日本で、「発音習得の方法として用いる」ことにも言えます。  日本語化した子音でいくらチャンツフォニックスをやっても日本人の発音は通じるようにはなりません。)

松本亨氏、石渡誠氏(FORWARD英語学校)の提唱する上記(1)(2)の方法は、どちらも日本人の英語力向上の妨げになりますので、石渡誠氏はご自分の指導法の提唱はおやめください。

また石渡誠氏が長い間提唱していらした「英語で考える指導法」は松本亨氏の勘違いでした。 松本亨氏は7年前日本語に訳して理解したReader の第一巻を7年後、英語のまま理解できたので、日本語に訳して理解するのは害があると提唱しました。松本亨氏は自分も日本語に訳して理解したことを忘れていました。   松本亨氏、 石渡氏、このお二人の提唱する「英語で考える指導法」で、中学生、高校生が発音や意味を正しく習得することはありません。 (もともと「考える」「思考する」という行為は、きのうや今日、習った言語で出来ることではありません。 両氏が「英語で考える」というのはただ単に英語と意味が直接結びついた状態を言っているだけでしょう。)  提唱はおやめください。

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ここで、「考える」「思考する」ということは習って間もない言語では出来ない、という話が出ましたので、2019年3月25日の朝日新聞の夕刊にあった、「英語をたどって8:2」「英語で授業」本当の意味は  に書かれていた松本茂氏の記事について、私の思うことを書いてみたいと思います。

松本茂氏が3月25日の朝日新聞の夕刊に「英語で授業」の例として小笠原諸島の問題を上げていました。  「生態系を守る」か「島民の暮らしか」生徒を新聞記者役と村長役に分けて英語で考えを発表させるという例があげられていました。

私の子供たちはアメリカ滞在一年を過ぎてもこういう課題を英語で「考える」ことは出来ませんでした。「思考する」ということは子供が学んで間もない言語ではできませんでした。  使い慣れた母国語でしか「考える」ということはできませんでした。  ですから宿題でこういう課題が出ると、資料を全部母国語に訳して頭に入れてそれをもとに日本語で考えて、考えたことを英語に訳して提出するという作業になりました。  

一日7時間学校で英語で授業を受けて、帰ってきてからも夜遅くまで英語で宿題をやって一年過ぎても、こういう授業の課題を英語で考えることはできませんでした。  体になじんでいない言語で「思考」はできませんでした。

松本氏の小笠原諸島を例にした授業の記事を読んだとき、私は、娘がサイエンスの授業で「海洋」について学んだあと出されたプロジェクトを思い出しました。  プロジェクトというのは理科や歴史、数学など各教科で、ある単元を学んだあと、そのまとめのような形で出される課題でした。  「海洋」についてのプロジェクトでは、生徒25人に25個のプロジェクトがそれぞれ与えられました。(リストをもとに先生との話し合いでどのプロジェクトを選ぶか決めます)。  プロジェクトの提出は一週間後です。  つまり生徒たちにはリサーチの期間が一週間与えられます。  娘のように言葉が出来ない子は粘土で海の底の模型を作って「trench(海溝)」とか「continental shelf(大陸棚)」とか名前を付けるプロジェクトが与えられました。

演説が好きな子供には「あなたは海洋に面した町の市長選に立候補しています。  これから立会演説会に行きます。  海洋の自然環境の保全について立会演説会でする演説の原稿を書きなさい」というプロジェクトが与えられていました。  (私は今でも子供たちの授業の資料は全部保存しています。「海洋」のプロジェクトにほかにリストされていた課題は、「あなたは月刊「海洋」という雑誌の編集者です。 来月は海洋の自然保護の特集号です。 その目次を作りなさい。 とか、「あなたはこれから、世界的な海洋学者にインタビューに行くジャーナリストです。 質問事項をリストしなさい」というような課題がありました。)  

松本茂氏は「立場を決める。 意見を持つ。。。。。を生徒たちが英語で行う。」と書いていますが、アメリカでは自分の意見を述べる際の主張の仕方(理由を挙げ、それをサポートする事例・事実の組み立て方)については、小学校高学年からエッセイライティングの指導によって訓練されています。(基本はEnglish(国語)の時間に習うようですが、そのあといろいろな教科でその形式で書いていくようです) また、クラス全体の前で話す練習(初歩のプレゼンテーションの練習)はキンダーガーテン(幼稚園)の時から始まっています。 (私の息子もキンダーガーテンの時、show-and-tell でみんなに見せながらお話しするものを探していました。  「あんまりみんなが持ってこないものがいい」といって探していたのを今でも覚えています。) 小さい時からそういう訓練をしていない日本で、こういう授業を高校の英語の時間にいきなりやらせて、生徒に何を学べというのですか。 各教科で基本的なやり方を教えてもらっていないスキルを組み合わせて教科横断的な「総合学習」をしても生徒は何も学びません。アメリカ人はキンダーガーテン、小学校でそれらについて初歩的なことから訓練を受けています。だから、そういう総合学習もできるのです。

まず、「調べる、立場を決める、意見を持つ、、、、、を生徒たちが英語で行う。」とおっしゃっていますけれど、英語圏で普通に読まれている文書を読むには日本の高校卒業程度の文法が分かっていないと、読めません。  娘の小学校5年生の教科書でも、日本の高校卒業程度の文法が分かっていないと読めません。  つまりこの課題は生徒が自分で英語の資料が読めませんので高校生にはできないと思います。 


私は、若いころよく英語の授業の教案(Teaching Plan)を書きました。  一行目は「この授業の目的」でした。  この授業で何を教えるのか。  生徒たちは何を理解し、何が出来るようになるのか、を書きます。  この松本氏が例として挙げた小笠原諸島を題材にした授業の目的は何か、私は考えてみました。

*「生態系を守る」か「島民の暮らしか」これを考えて聞く人々に納得ができるように自分の意見を提示することが目的なら、これは、思考の訓練ですから、学んで間もない英語ではできません。  母国語で思考させることになります。 ですから、これは英語の時間の学習活動にはなりません。(アメリカ人は英語が母国語ですから英語でしても問題はありません。)  

小笠原諸島の貴重な生態系について理解を深めることが目的なら、そのことはまず、理科の時間にきちんと学んでおくことが必要ですね。 もし、いろいろな科目で学ぶことを横断的に取り入れた「総合学習」という目標でやりたいのなら、そこに含まれる各教科の基本的なことをまず学んでから「総合学習」にもっていかないと、何の訓練にもなりません。 小笠原諸島の貴重な生態系については自分がよく理解できる母国語で(英文を翻訳してもいいです)学んで理解しないと「思考する」という事はできません。(先にも書きましたように、私の子供たちはアメリカの中学校、高校で学びましたが、最初の2年くらいは「英語で学習内容を思考する」ことはできませんでした。) また、意見を主張するときの基本的な組み立て方の基礎をきちんと国語の時間に母国語でしっかり学んでおかないと、子供たちは効果的な意見の主張の仕方を知らないまま、この課題をやることになります。 そうすると、何をやっても無意味になります。  個々の教科で教えるべきスキル、訓練すべきスキルを教えないで、こういう総合的な授業をやっても子供たちがそれから学ぶことは何もありません。

*「英語を」学ぶのでなく「英語で」学んで英語力の向上を図るのが目的なら、生徒たちの現在の英語力では資料も読めないのですから、資料が読めるような英語力をつけることがまず、必要でしょう。  英語圏で一般の人が読む英語の文書が読めるようにするには、高校卒業程度の英文法を知っていなければなりませんので、それを教えることになります。  (アメリカ人は英語が母国語ですからこういう問題はありません。)  知らない文法事項を教えるのですから、生徒がよくわかる母国語で教える必要があります。 

こうしてみてくると松本茂氏の提唱するこの授業は、英語の授業時間にする意味が全くない活動です。 生徒の学習段階に全く合わない極めて不適切な授業といえます。 英語の時間にやる意味もありませんし、なんの役にも立たない学習活動で、時間の無駄です。 何を目的として、このような無駄な授業を提唱されるのかわかりません。 「総合学習」をさせたいなら、それに使う個々の科目で習うスキルについてきちんと生徒に指導してから行わないと、何の意味もない授業になってしまいます。 他人の前で意見を言う練習など、日本では幼稚園の時から一度も訓練していないのではないですか? 自分の意見を主張する効果的な論理の組み立て方も子供たちは一度も指導を受けたことがないのではないですか? その状態で「総合学習」にもっていくのは無理があります。教えるべきことをきちんと教え、日常訓練したうえで、総合学習にもっていかないと、意味のある授業にならないでしょう。

松本茂氏は、「分詞構文がどうこう」と日本語で教えている英語の授業を批判していらっしゃいますが、高校卒業までは、こういう基本的な文法事項を生徒が理解できる母国語で教えなければ、生徒は英語の資料は読めるようにはなりません。  ですから私は渡米後2年間(息子は1年間)毎日彼らの教科書を全文和訳して日本語で、彼らに教えていました。  分詞構文を使った文も、関係代名詞を使った文も、全部日本語で解説して、彼らに教えました。  あの頃は、毎晩アメリカの中学、高校の教科書を使って、真夜中まで超高速で日本の訳読式授業をしていたようなものでした。 

日本人の英語力が伸びなかったのは訳読式授業のせいではありません。  日本語で理解した後、分かるようになった英語の大量のインプットを行わなかったからです。  その証拠に私の二人の子供達はこの洪水のような私の”訳読式授業”のあと、バイリンガルになっていきました。  訳読式授業は地味な勉強です。  でも、そういう地味な勉強で実力を蓄えて、その後の大量のインプットを経て、子供たちは自由に英語が使える世界へ羽ばたいていきました。

英語教育改革というと、私の子供たちがアメリカでやっていたような授業を日本の中学、高校でやらせればいいと考える英語教育の専門家がたくさんいらっしゃるようですが、アメリカの子供たちが英語でそういう授業を受けているのは英語が母国語だからです。  そしてアメリカの子供たちは幼稚園からプレゼンテーションの練習をし、小学校高学年からPersuasive essay (自分の主張を展開する説得的文章の構成を学ぶ)の指導を受け、日本の子供たちが指導を受けていないたくさんの事柄の指導を受けたうえで、こういうプロジェクトの課題をやっています。 ディベートもこういう基礎的な訓練を受けた上で行われています。 リサーチの仕方についてもその都度先生からご指導があります。  (例えば、Wikipediaは、リサーチの出典としては使えないとか。現在では、こんなことは常識でしょうが、娘がミドルスクールにいたころ、インターネットを使い始めた子供たちにはこういう指導も必要でした。  当時、何人かの学生がレポートに誤った事柄を記載し、その学生たちが全員Wikipedia から引用していた、というニュースを夫からも聞きました。)

そういう下地となる教育が全く行われていない日本に、アメリカの授業のような形式をいきなり持ってきて、英語の時間にやらせるのは、英語の先生方にとって、どれほどのご負担になるかわかりません。  それでもその活動で生徒の英語力が向上すればまだいいですが、それによって英語力の向上はほとんど望めません。  アメリカで普通に読まれている文書は、日本の高校卒業程度の文法が分かっていないと読めません。娘が使っていた小学校5年生の教科書でも読めません。 

生徒は、「高校で習う基本的文法事項を母国語で充分理解させるから」そのあと、英語圏で大人が読む英語の文書も読めるようになるのです。  生徒が知らない基本的文法事項を日本語で説明する高校の先生方の指導の仕方は正しいと思います。  分からない言葉で、新しいことを説明しても理解はできませんから。  こうして英語圏で普通に読まれている文書を読めるような実力をつけて、その英語力の上に、大学1,2年で大量のインプットを行えば、3年生くらいから、英語の世界で羽ばたいていくことはできると思います。

高校生にとって英語はこれから学ぶ言語です。 英語が堪能な方の場合、高校生の立場がよくお分かりにならなかったら、言語をロシア語やアラビア語に置き換えてみるとよくわかると思います。    アラビア語を理解するには日本語の解説が必要です。  日本語で英語の授業をする高校の先生方を非難しないでください。  先生方は生徒の英語力向上に必要な授業をなさっていらっしゃいます。  アメリカ人は英語が母国語ですから、「英語で」学ぶ。ができるのです。

(2019年4月15日加筆)

こういう形式の授業について普通のレベルの生徒がどう思っているかは2017年1月14日のブログ「文部科学省の方針(高校英語教育)CAN-DOリストは効果なし」に出てくる2年B組の生徒たちの意見を参考になさってください。  高校時代の私もこの2年B組の生徒と同じ英語力のレベルしかありませんでした。  予習で、英語の教科書の文章を読んでも、全部の文の意味は正確に理解することが出来ませんでした。  授業で先生に文の構造などを解説していただいてようやく文の意味が分かりました。  私のような生徒が、小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英文の資料を読んでも、おそらく全く正確に意味はとれないと思います。  松本茂氏は「読むイコール和訳ではない。 英語で読んだり聞いたりしたことに基づいて、考え、英語で意見を言ったり、やり取りしたりすること。」とお書きになっていますが、高校時代の私は和訳しないと英文の意味は分かりませんでした。  普通の高校生はそうだと思います。(英語を英語のまま理解するということがこの時期の生徒に出来ないことは私が石渡誠氏に対して、たくさんのブログを書いていますので、それをご参考になさってください。それらのブログリストはこちらのブログに載っています)  私の二人の子供たちも、全文和訳しないと、英文の教科書に書いてある文の意味は全く理解できませんでした。 松本茂氏は「読むイコール和訳ではない。」  といったうえで、「英語で読んだり聞いたりしたことに基づいて、考え、英語で意見を言ったり、やり取りしたりすること」とおっしゃっていますが、日本語に訳さないで(つまり意味が分からないで)、その資料に書かれていることについて「考え、英語で意見を言ったり、やり取りしたりすること」は高校生の私にはできませんでした。  教科書を読むことでさえやっとだった私の英語力で、小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英語の資料を和訳せずに理解することなど、全く無理でした。  私の子供たちもアメリカ滞在1年たっても英語を英語のまま理解することなど無理でした。

高校生のころ、新しいレッスンに入った最初の授業はその内容について、生徒が「英語で質問」をし、他の生徒が「英語で答える」という活動がありましたけれど、それさえ、生徒は教科書の中の文を使いながらたどたどしい英語でしゃべりました。  もし、あの時、「英語で自分の意見をまとめる」という作業があったら、一人一人の書いた英文を正しい英文に直すのに、おそらく先生は何時間もの授業時間を費やされたことと思います。  高校時代の私の英語のレベルはそういうレベルでした。  おそらく今、多くの高校の先生方が教えていらっしゃる生徒たちは高校生の頃の私と同じレベルだと思います。 

この松本茂氏の朝日新聞の記事の冒頭に「ある公立の有力進学高の授業を見に行った時のこと。  目の前で展開したのは、「分詞構文がどうこう」と教師が日本語で説明する、従来型そのもの。」という記述がありますが、分詞構文もわからない生徒が「小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英語の資料」を読むことが出来るのでしょうか。 

英語教育改革というとアメリカで英語教育を学んだ人の意見が闊歩していて、日常毎日生徒に接していらっしゃる現場の先生方の意見が非常に軽んじられていると私は感じています。  しかも、アメリカで学んだ方々は、生徒たちが幼稚園の時からプレゼンテーションの指導を受け(各教科でのプレゼンテーションが、行われるようになると、先生がどのような点を採点するのかチェックリストが事前に配られますので、生徒はその点に気を付けてプレゼンテーションの練習をします。)ていることや、Persuasive Essay の指導によって、小学校高学年から論理的な文章の構成の仕方や自分の意見をサポートする効果的な事例、事実の選び方を十分訓練されていることなどには一切触れずに、いきなり、アメリカ型の授業を日本でするように主張されています。  私はそのことに非常に違和感を感じています。  松本茂氏は、何を目的として、きちんと学校で指導されてもいないことをいきなり子供たちに英語でやらせようとするのでしょうか。  指導していないのですから、これでは何の成果も上がらないですよね。  英語を母国語とする人たちがやっている活動を、指導なしに英語歴4年目の高校生にやらせるということの目的は何でしょうか。 この授業内容は生徒の学習段階にも全く合っていませんね。  きわめて不適切です。(英語が母国語の人たちがやっていることを日本の学校でやらせても思考が伴わないことについては、2016年3月1日のブログ「大学教育を英語で行うこと(1)」をお読みになってください。) 日本で英語を学ぶ高校生には、母国語として英語を使う生徒とは違う英語習得の指導が必要だと思います。  しかも日本語は英語と同じグループに分類される言語(ヨーロッパの言語など)とは全く異質な言語です。(語順の違い、発音における音の体系の違い)  これについては2014年11月18日のブログ「英語の早期教育が有効だと錯覚させる2つの誤解(その2)ヨーロッパの英語教育に対する誤解」と2015年8月17日のブログ「なぜ日本人はヨーロッパの人々と同じ英語指導をしても効果がないのか」をお読みください。 

体になじんでいない言語で思考はできない、と私は思っています。  それは高校生の頃の私自身もそうでしたし、アメリカで自分の子供たちがバイリンガルになっていく過程を見ていた時にもわかったことでした。  でもおそらくそれが、今の日本の大多数の高校生の普通のレベルではないでしょうか。  分詞構文を授業で日本語で習っている生徒たちが、小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英語の資料を読んで、英語で思考ができるとは正直なところ思えません。  分詞構文がどういう意味を表すのかわからなかったら、分詞構文の使い方を高校生が理解できる日本語で教えることが、当然ではありませんか。  英語を読ませていれば分詞構文の使い方が自然に分かるようになる、ということは、ありません。  (少なくとも、私にも、私の子供たちにもありませんでした。)    

私は、高校生までは、日本語で英語を教えることが必要だと思います。  あの、連日、真夜中まで続く私の”訳読式授業”で全文和訳(日本語による分詞構文や関係代名詞で表された文の意味の説明)がなかったら、私の子供たちは、教科書を理解することはできませんでした。  バイリンガルにもならなかったでしょう。  この時期の生徒には日本語で教えたものしか理解できませんし、定着もしません。 彼らの体の中で、「言語として機能しているのは日本語だけ」だからです。  「言語として機能する」とはどういうことかというと「その言葉を聞くと頭の中にイメージが広がる」「その言葉を聞くと頭の中で、思考活動が始まる」「無意識でもその言葉が出てくる」そういう状態になっている言語を「言語として機能している」と言います。 日本語で英語の授業をする高校の先生方を非難しないでください。  

授業を見学に行って、分詞構文を先生が日本語で生徒に教えていらっしゃるところをご覧になったら、その高校の先生方を批判するのではなく、「生徒たちは日本語で説明されなければ分詞構文の使い方を理解できない」という事実をご覧になってください。  生徒の現在の状態を正しく把握できないで、教師を非難している人に英語教育改革はできません。  新聞社にメールを送って高校の先生方を批判している暇があったら、もう少し真剣に有識者会議の委員として、英語教育を考えてください。  小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英文資料を生徒が自分で読んで理解できるようだったら、高校の英語の先生方は何のご苦労もないでしょう。  高校の英語の先生方は生徒の英語力向上のために、本当に必要なことをなさっていらっしゃいます。  日本語で授業をする英語の先生方を批判しないでください。  

高校卒業程度の文法事項を身に着けるまでは母国語で説明することが必要です。  それは英語の世界で飛び立っていけるための助走期間のようなものです。




ここからは英語教育改革を見てきた私の感想が書いてあります。(2019年4月16日)

私は40年前、大学生のころ、アメリカから帰ってきた人によって提唱されている英語教育の方法はなんだか、疑わしいと思っていました。  失礼な言い方ですみません。  でも本当にそう思っていました。  そういう人達の方法で勉強してもちっとも英語力が上がらなかったからです。(その筆頭が松本亨氏の「英語で考える指導法」でした。  日本語に訳さない?こんなことやっていたら、今より上の英語力にはいけない、と思いました。  この方法が詐欺だということはすでに皆さんには納得していただけたと思います。)  結婚して、子供を連れてアメリカに行ってそこで子供たちの授業の勉強を手伝ったり、自分で図書館を回ったり、高校の先生にエッセイライティングを指導していただいたりしているうちに、なぜ私が「なんだか疑わしい」と思ったのかその理由が分かりました。  アメリカと日本では、一日の英語のインプット量が全然違います。  朝から晩まで英語が聞けます。  つまり、「社会全体で英語が話されている国」での英語の学び方と、英語が全く話されていない国での英語の学び方は違う、ということが分かりました。 アメリカでは、一日中生活の中で「身の回りの事象」と英語が結びつく体験ができますが、日本にいたら、「身の回りの事象」と英語が結びつく体験は全くありません。 英語が話されている国で学ぶ生徒と英語が全く話されていない国で英語を学ぶ生徒の指導の仕方は全然違って当然です。

昭和50年代、日本で大学時代を送った私は、英語で考えるなんてできませんでした。 (当時のインプットの量では仕方がなかったですね。 やさしく読める英語の本についても知らなかったし。 私が英語で考えられるようになったのは、大量の読書をした後でした。)  でも、英語の先生がそう言うことを言うのは、はばかられる。  だからアメリカに行って英語で考えられるようになった教育者が自分の指導法を主張すると日本の先生方は遠慮してしまう。  それでそういう人たちの英語教育論が幅を利かせるようになる。  今の英語教育改革がそうでしょう。 「日本語を使うな」「日本語に訳すな」「英語で授業だ」「プレゼンだ」「ディベートだ」と提唱される。  そういう言語活動が小さいときからのアメリカのどういう学校教育で出来上がってきているかも知らないで、日本の学校教育で提唱される。  アメリカにいたら、それは日本語は使わないでしょう。    

そして、日本語で一生懸命基本的な文法事項を教えている高校の先生方が非難される。 でも、日本語で説明してあげることが、英語が全く話されていない国では非常に重要だ、ということを私は子供たちの英語習得の過程を見て知っていました。  だから私は「日本語を使用してはいけない」と主張し、「日本語を使わせないことが高い英語力を作る」と主張する指導法に憤りを感じていました。  日本語で説明してやらなかったら、中学生、高校生は英語の習得はできないです。  日本語で説明しないで、日本語に訳さないで、子供たちが英語を理解することはないです。  彼らが英語学習の最初に唯一思考できる言語が日本語だからです。  

それから、日本で日本語を使って暮らしている、つまり、その国で生活する主要な言語が日本語だったら、常に「日本語で表されていることを英語で表現する」という必要性が出てきます。  (アメリカにいるとその必要性はありません。)  そういう英語以外の言語が生活の主要言語となっているところでは、英語と日本語の関係を知って教える必要があります。  その関係を知っているから、日常使っている日本語でこういうことを表現する場合は、英語では、どういう表現になるのか、もわかるのです。  初級者中級者には、特に必要です。  生活の基盤が日本語の場合、学習者がそれを知らないと、母国語で思ったことを英語にすることができません。  松本茂氏は、「英語教育改革はなかなか進まないですね。困ったものです。」とメールを新聞社にお送りになって、こういう記事が掲載されたようですね。  でも、高校の先生方の日本語による英語指導がなかったら子供たちは正確に英語を理解することはできないです。    

批判をされても高校の英語の先生方はじっと耐えて、子供たちに本当に必要な文法知識を日本語で教えてくださっています。 高校レベルの文法の知識がなくてわかるのはせいぜい旅行英語のレベルでしょう。  そんなに、「英語で授業」をして、アメリカでやっている討論やプレゼンを英語でやらせたかったら、自分が普通のレベルの公立高校の1年生を集めて指導してみたらいい。  「分詞構文も知らない普通の公立高校の1年生が、小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英文資料を読んで、どんな英語で意見を表明するか、聞いてみたらいい。」そう思いました。  やってみれば、とても授業にならないことが分かるでしょう。  思考できる言語がまだ、日本語だけの場合、英文を訳さず見ているだけでは、理解はできないです。

高校の先生方がなさっている基本文法を説明する授業は地味な授業です。  小笠原諸島の貴重な生態系について保存か、開発かを英語で意見を述べたり、やり取りをしたりする華やかさは何もない(これが本当に全国の高校で出来るのか疑問ですが)。  でも、そういう基本文法を知らなかったら、英語で何も言えないのです。  アメリカに行ったばかりのころ、来る日も来る日も、まるで砂浜の砂粒を一つ一つ数えるように、大量の英語を一つ一つ日本語に訳して、子供たちに教えていた日々を思うと、そういう地味な勉強がいかにしっかり英語を理解するために必要だったか、わかります。  日本語で英語の授業をする高校の先生方を非難しないでください。  この国で、初級者中級者が唯一思考できる言語は日本語なのです。  

「分詞構文も日本語で教えないで、生徒が「小笠原諸島の貴重な生態系について書かれた英文資料」を読んで英語で意見が言える」と思っている英語教育の専門家が日本の英語教育改革を率いているから、英語教育改革は失敗するのです。  松本茂氏はあまりにも現実の高校生の学習段階を知らなすぎる。  こんな現実から遊離した英語教育をどうやって実行するのですか。  プレゼンテーションの訓練がいること、Persuasive Essay の指導をどこで行うのか。  全く具体的なプランがないままこういうことを提唱されても高校の先生方は対応できません。  松本茂氏は、文部科学省の「英語教育の在り方に関する有識者会議」の仕事を本当に真剣に考えてなさっていらっしゃるのでしょうか。  分詞構文もわからない生徒が英文資料を読んで英語で意見が言えると本気で思っている大学の先生がいるなど、信じられないです。  「大学の先生が、高校生の英語学習段階をそこまで知らない」ということに私は衝撃を受けました。  英語の先生方がこんなに苦労しているのに、あまりにもおっしゃっていることが現実からかけ離れていて、私は驚いています。  新聞社にメールを送って、高校の先生方を批判する暇があったら、有識者会議の委員として、もっと真剣に英語教育を考えてください。  英語教育改革がなかなか進まないのなら「どうして進まないのか」その理由を考えなければいけないのではないですか。  「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と打ち出してから10年が過ぎた。  でも、公立の有力進学高の先生が分詞構文を日本語で教えているのはなぜか、どうして、その理由を考えないのですか。  理由は、「わからない言語で新しいことは教えられない」からです。  それでは「生徒が理解できない」からです。  それが現実だったら現実を直視して、プラン(A)に変わる英語教育改革プラン(B)を考えるべきではないですか。  松本茂さんの考え方には根本的な間違いがあります。 まず、「英語を」勉強しないと、「英語で」学ぶことはできないです。  わからない言葉で、初めて学習することを学ぶことはできないのです。  だから英語で分詞構文は教えられないのです。  松本茂氏だって、アラビア語の意味を知っていなければ、「アラビア語で」学ぶことはできないでしょう。  それと同じです。  松本茂氏が「英語で」学べるのは英語の意味が分かるからです。 私は高校生は、まだ「英語を」学ぶ段階だと思っています。  松本茂氏は高校の先生が出来ないような方針を出した自分たちが間違っているとは思わないんですか。  自分は正しいのに言う通りにしない英語の先生方が悪いというのですか。  高校の先生方は日本語で授業をして、「この方法は高校生にはできないのです」と赤信号を出しているのですよ。  その赤信号を松本茂さんは見ようとしないだけです。  現実を直視してうまくいかない原因を考えないから英語教育改革が進まないんです。  

プレゼンテーションの指導もしないで「発表させる」(しかも英語で)、
Persuasive Essay の指導もしないで「自分の意見をまとめる」(しかも英語で)、
分詞構文も日本語で説明しないで「英文資料を読ませる」、
松本茂氏のいうことは現実にはできないことばかりではないですか。  「英語教育改革はなかなか進まないですね。困ったものです」といわれたって、これじゃあ、やりようがないです。

 
私はこの新聞記事を読んだとき、怒りを感じました。  「そのことをするための実力をどうやって子供たちに着けさせるのか」その事には一切触れず、華やかな活動ばかり提唱する。  現場の先生が直面する問題には目もくれない。 

分詞構文一つ生徒に理解させるのだって先生方がどんなに苦労しているか、知っていますか。  授業には1を聞いて10を知るような生徒ばかりが参加しているわけではありません。  (英語でディベートするような生徒ばかり見ているとそういうことはお分かりにならないのかもしれないですね。)  松本茂さんは実際にそういう授業を見たって、「日本語で分詞構文がどうこう」と先生を批判するのですから、先生方の苦労はわからないのでしょうね。 そういう全部の生徒に先生方は、地道に一つ一つの文法事項を教えていらっしゃいます。  新しい文法事項を生徒が理解するには時間がかかります。  理解しても今度は自分が使えるようにするのに時間がかかります。 そういう地道な授業を積み重ねて生徒は英語が分かるようになります。    
  


私もアメリカの学校でどんな授業をやっているか知っています。  でも、それを日本の高校でやればいいとは思いません。  なぜならそういう授業内容が出来るようになるまでに、子供たちがどんな勉強をしていたか知っているからです。  教科書を全文和訳して、理解した意味と教科書の英語を一つ一つ結び付けて理解していく長い道のりがありました。  日本の高校生はあの時の子供たちと同じ段階にあると思うからです。  まず、「英語を」勉強しないと、「英語で」勉強することはできないです。  当然ですね。  わからない言葉で、勉強はできないです。  私は高校生は、まだ「英語を」学ぶ段階だと思っています。  それは、日本の高校卒業程度の文法を理解していないと、アメリカで普通に読まれている文書も読めないからです。  高校時代は英語で考えるとか余計なことをやらせないで、とにかく早く英語圏で普通に読まれている文書が読めるようにしてあげたほうが、次の大量のインプットの段階に進みやすいと思います。  彼らがこれから仕事や学業で使う英語は、大人の英語です。  だったら、社会で使われている大人の英語を大量にインプットして大人の英語で思考できるようにしてあげれば、十分だと思います。  そうすれば、いちいち中学高校で「英語で考える」などと授業時間を割いてやらなくても、その時、どちらもできるようになります。(日本で中学生、高校生がインプットできるくらいの量の英語では、とても英語で思考するようにはなりません。)
  

松本茂氏は「読むイコール和訳ではない。  英語で読んだり聞いたりしたことに基づいて考え、英語で意見を言ったりやり取りしたりする」と書いていますが、分詞構文も日本語で習わないで、生徒がこんなことを本当にできるとでも思っているのですか。  英語教育では、新しい文法事項は一つ一つ生徒に教えていきます。  いくつもの文法事項を一緒に教えたら、生徒が混乱して、どれも生徒に定着しないからです。  現在完了と仮定法を一緒に教えたら、生徒は混乱して、結局どちらも身につかないのです。  そうやって一つ一つ教えて、理解させて、定着させて、使えるようにしていきます。  それは時間がかかります。  でもそれをしないで、生徒の知らないたくさんの文法事項が入っている英文を読ませても、結局生徒は英語が分かるようにはならないのです。 (高校の先生方はみんなそのことを知っています。英語教育を専門的に学ばれているからです。) 渡米直後、そうやって、洪水のような英語を一つ一つ子供たちに教えていたころのことを思うと、松本茂氏のような安易な英語教育を提唱している人に私は怒りを感じます。  松本茂氏もやってみればわかります。  きちんと一つ一つ教えないで、生徒に知らない文法事項を使って書いてある英文をただ読ませていたって、生徒は何も理解できるようにはなりません。  石渡誠氏もそうでしたけれど、英語を英語のまま読ませていれば、生徒に意味が分かるようになる、ニュアンスが分かるようになる。ということはありません。  松本亨氏は、和訳しないで本を読みなさい、とも書いていましたね。(2017年2月4日のブログ「英語の思考活動」)そんなこと出来ないですよ。  英語が堪能になったひとは、「私はそれが出来た」「僕は最初から英語のまま理解できた」というかもしれませんけど、そういうことはありません。  ひとつひとつ知らない文法事項を学んでいたころを本人が覚えていないだけです。  どうもそれが人間の習性らしいです。  松本茂氏も覚えていらっしゃらないみたいですね。  文法事項や語彙を最初は日本語で一つ一つ理解して英語が出来るようになっていきます。  その証拠に、松本茂氏だって、フランス語を何回読んでも、ロシア語を何回読んでも、意味が分かるようにはなりませんでしょう。       


英語教育は、中学、高校で、生徒が理解できるように日本語で教えなければ、生徒は英語は身に着けられません。  高校レベルの英語で「英語のまま読ませていれば意味が分かる」、「英語のまま聞かせていれば意味が分かる」ということはありません。  彼らにとって、言語として機能しているのは日本語だけですから。   


ここから元の主題に戻ります。


松本亨氏の英語学校が経営危機に陥ったのはある意味当然だったのではないですか。
●初級者中級者は日本語訳を使ってはいけないといわれたら、自分の言いたいことを英語でしゃべれませんし、
●「校内英語だけ(英語で授業)」というやり方では生徒の発音はめちゃくちゃになりますし、
●英単語を訳さずそのままFreedom, Freedom と生徒に言わせても、生徒は単語の意味もニュアンスも分かるようにはなりませんし、
●英文和訳はいけないが、和文英訳は大いにしなさい、というやり方は原理的に不可能ですし。(日本語訳と結びついた英単語が頭にない)
松本亨氏は日本人の英語力が上がらない理由を「日本語訳を使うからだ」と間違って特定したために、そこから考え出された方法は上のように間違ったものばかりになってしまいました。 これでは、生徒が集まらなくて経営危機に陥ったのもある意味当然だったのではないですか。 松本亨氏は学校内英語オンリーにして、そこに自分が長く生活したアメリカを見ていたのかもしれませんが、それは、実質的には、アメリカとは全く違います。(2019年1月30日)

松本亨氏、石渡誠氏(FORWARD英語学校)の提唱する「英語で考える指導法」は終わらせなければなりません。 日本人の英語力向上の障害となります。 二度と学校教育に持ち込まれないように、終わらせなければなりません。

石渡誠氏は自分の学校のHPで「英語学校FORWARDのカリキュラムは故松本亨先生の学習理念に基づくもので、英語学習においては35年以上のゆるぎない実績を誇るものです。」と述べていますが、松本亨氏の学習理念は机上の空論だったのですよ。(こちらのブログ)  松本亨氏の学習理念は、松本亨氏が①「日本語訳を使ったこと」を忘れたのと②「日本語訳は害悪だと思い込んだこと」と③「アメリカのESLの指導法との混同」で提唱されたものだったのですよ。  石渡誠氏は、こういう①「忘却」と②「日本語訳に対する偏見」と③「日本とアメリカの混同」に基づいて提唱された詐欺指導法で、35年も消費者からお金を取って学校経営をしていていいとお考えですか。  何が35年のゆるぎない実績ですか。  35年も日本語訳が害になると生徒を騙(だま)してきただけでしょう。  35年も英語のまま言っていれば、ニュアンスが分かると生徒を騙していただけでしょう。  「35年以上のゆるぎない実績」どころか、35年も全く効果のない「英語で考える指導法」で生徒を騙してお金を取ってきただけでしょう。  「35年以上生徒を騙したゆるぎない”実績”」でしょう。  そして今度は、そのアメリカのESLと同じ「英語で授業」を日本の中学、高校の授業にまで持ち込んで子供たちの英語教育を、めちゃめちゃにしようとしただけでしょう。

石渡誠氏は自分の英語学校FORWARDのHPで、「松本亨高等英語専門学校で、人生はテクニックではないということを全身に教えられた」とおっしゃっていますけれど、英語学校は人生を教える前に「正しい英語教育」をしていただきたいと思います。  日本の中学、高校の英語教育を壊すような詐欺同然の英語教育の提唱は止めていただきたいと思います。

世の中がテクニックで渡れるほど甘くないということはみんな日々の生活の中で知っています。  石渡誠さんにとって、10代の時に出会った松本亨氏の教えはインパクトがあったのかもしれませんが、松本氏の「英語で考える指導法」にいつまでも盲目的にしがみついていないで、自分が大人になった今、松本亨氏の「英語で考える指導法」が本当に正しい指導法だったのかどうか、ご自分の頭で、きちんとお考えになった方がいいと思います。  なぜなら、教師が間違っていると、犠牲者が一人では済まないからです。  実際に、石渡誠氏のために日本の高校英語教育が被害を受けました。  10代の時の印象のまま、英語教育をしていたら間違っていた、ということもあるのですよ。  特に石渡誠氏は、日本で行う英語教育(日常生活で全く英語を聞くことがない国で、全く異質な言語(英語)を教えなければならない教育)について大学で学んでいませんね。  一日中英語を聞ける環境と聞けない環境の違い(インプットの量の違い)は英語教育においては重要な違いです。  日本で英語を教える教師なら、その点をきちんと日本の大学で学習されたほうがいいと思います。


2018年12月27日
はてなダイアリーからはてなブログに移行しましたが、文字の色や大きさを全く同じに移行することが出来ませんでした。  「赤い字の部分」「太字の部分」と指摘した箇所がその通りになっていないところがありますが、ご了承ください。


2018年12月6日

2016年11月6日のブログに、私が2015年5月、夜中に家で倒れたのは、「嘘の指導法を文部科学省に持ち込み、日本中の子供たちに嘘の指導法をさせようとしている人たちがいる」と知って、怒りで夜もよく眠れない時だった、と書きました。  それで、頭を打って、先生から「4日目が峠です。」と言われても、峠が越えられなさそうでも、私の頭の中には「そんな指導法を日本中の子供たちにさせてなるものか」という思いしかなかった、と書きました。  私が何を見て、それを知ったかというと2015年5月7日のFORWARD英語学校石渡誠氏のブログでした。
「英語で授業」など中学校でされたら、中学生の発音も英語力もボロボロになってしまうと思いました。  

それで、私は「英語で授業」をやめてもらおうと、必死で6月1日のブログの原稿を書きました。  (話は飛びますが、安河内氏の提唱する4技能についても同じで、そんなことを中学校でされたら、子供たちの発音がめちゃくちゃになるのは目に見えていました。  だからこれも、何としてもやめてもらいたいと思いました。詳しい理由は今日の本題のブログに書いてあります。  大学入試で、「学校でスピーキングの基本スキル(正しい発音で文章をしゃべる)を教えていないのに」スピーキングのテストをすることになったのも、この教師が4技能、4技能というからでしょう。  「中学、高校時代にどのように生徒に発音習得をさせるのか」ご自身の経験がないまま(つまり、ご自身は3技能しか習得していないのに)、4技能、4技能と提唱するから、生徒たちは学校で教えてもらってもいないスピーキングのテストを大学入試でされることになったのです。  高校生が気の毒です。  「英語で授業」の方針を持ち込んだのもこの教師です。(こちらのブログ)  高校生はこの教師のせいで、よくわからない「英語で授業」をされて、教えてもらってもいないスピーキングのテストをされることになって、本当にかわいそうです。  この教師は予備校の先生だそうですが、予備校の先生だったら、高校生が大学受験でどれほど必死になっているかご存じでしょう。  それにもかかわらず、大学受験で教えられてもいないスピーキングのテストを生徒が受けなければならないようにしたのは、この人が高校生のことを全然考えていないからです。  この教師はいたずらに高校英語教育をいじり、結局問題をまき散らしただけです。  高校生に申し訳ないことをしたと思われませんか。 この時期に高校生になった子供たちはこの教師のせいで、本当にかわいそうです)

頭を打ってからあまり体調は良くなかったですけれど、私は子供たちに間違った指導法をさせたくないという思いだけで、ブログを書いてきました。  本当に中学校で、「英語で授業」だの「4技能」だの、やめてもらいたかったです。

それなのに、2017年になってもFORWARD英語学校の石渡氏は、日本語を使わせない指導法の提唱をやめることはありませんでした。(2017年7月30日のブログには「英語を英語で教えるということが中高でも広まってきて、よいことです。」と書いていました。    

私が必死でやめさせようとしていることを、この人はまだ、子供たちにやらせようとしている。  それも自分の商売のために。  子供たちの発音や英語力をめちゃめちゃにする方法をこの人はまだ子供たちにやらせようとしている。  信じられないことでした。  「英語で授業」の結果子供たちがどうなるのか、アメリカで娘と息子の英語習得過程をゼロからバイリンガルになるまでぴったりついて見てきた私にはよくわかりました。  ビジネスは大事でしょうけれど、石渡誠氏は、子供たちの学校教育を犠牲にするようなビジネスのやり方はおやめになってください。  私が止めなかったら、石渡誠氏は、日本中の子供たちの発音と英語力をボロボロにするところだったのですよ。  もう「日本語訳が害になる」と嘘(うそ)を提唱するのはやめてください。  英和辞典が害になるなどと提唱するのはやめてください。 なんで26年間も嘘(うそ)を提唱してきて、いまだにやめないのですか。 石渡誠氏(FORWARD英語学校)は、自分の商売のために「日本語訳を使って英語を教えると英語力に害がある」と嘘をつき通して、日本の英語教育をボロボロにする気ですか。  



(2018年12月2日)
2017年2月4日のブログ「英語の思考活動」の終わりの方に赤い太字で文章を書き加えました。
「26年間と言ったら、石渡さんの教師生活のすべての期間、生徒を騙(だま)してきたということですね。」から、始まるパラグラフです。

 太字中ほどの、若かった松本亨氏は「英語のまま理解する練習」を始めた時、「なぜ、その時までに自分が英語を見て意味が分かるようになっていたのか」その理由を考えることはありませんでした、という部分から、読んでいただくとよくお分かりになると思います。 (「その理由」とは、もちろん「7年前から日本語訳で英語を学んでいたから」です。)

一人の若者の思い込みに、日本中が50年も惑わされてきた、ということでしょう。  


昨日(2018年11月8日)、とてもうれしいことがあったので、書かせていただきます。
私の提唱する発音習得の方法「川合メソッド」はお手本の発音と自分の発音を聞き比べて直していく方法です。  今まで、この方法は日本の発音の先生方には、「生徒が自分で発音を聞いて直すことなどできるわけがない」と全く理解されませんでした。  

けれども、昨日、私があるアメリカ人の先生に「自分の耳を使って発音を習得する川合メソッド」について説明したら、その先生は大きくうなづいて、「あなたのメソッドは発音をインターナライズするのですね」と理解してくださいました。  Internalize というのは「内面化する」「採り入れて自己のものとする」という意味です。  そのアメリカ人の先生は、川合メソッドがまさに耳を使って発音を自分の体に取り込み、自分の発音としてしゃべれるようにしていくメソッドだと理解してくださいました。  

発音の先生方は「生徒に発音は直せない」とおっしゃいますが、ポイントは、そういうことでは無いのです。  「自分で発音を聞き比べて直していくことを繰り返す過程で、発音が学習者の体の中でインターナライズされる」ということなのです。  このアメリカ人の先生は、私の説明を聞いてすぐ、この川合メソッドの神髄を理解してくださいました。(川合メソッドの原理については著書「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」の第一章、二章に解説してあります)  私はそれが、とてもうれしいと思いました。  

私のDVDは、撮影も編集もプロのカメラマンが行っています。(映像の編集の仕方を見ていただけばすぐわかると思います。)  けれどもDVDには発音記号も文字も一切入っていません。(本の巻末がDVD用のテキストブックになっていますので、発音記号や英文はそちらを見ていただくようになっています。)これは私の方針です。  最初はテキストブックを見て練習していただいて結構ですが、慣れてきたら音だけに集中して聞いていただきたいからです。  発音記号や「つづり字と発音の関係」に注意を分散して英文を聞いていると、「聞いた通りの音で発音する」というより、「自分がこうだと思っている音」で発音している場合がほとんどです。  

なぜなら、そういう聞き方では、耳が日本語にない音を「言語の発音とは関係ない音」としてはじいて(Tune Out)しまうのです。  その壁を乗り越えて、日本語の世界にない音を聞けるようにするためには、少なくとも一定期間、英語の「音」だけに没入して、聞くことが必要になります。  70年日本人が聞けなかった音(子音の長さなど)を聞けるようにするためですから、そのくらいの集中力が要ります。  それで、DVDには音以外のものは入っていません。  発音練習で最も大事なのは耳の「聞く力」を上げる練習だと私は思っています。  耳がTune Out する状態から抜け出すために、学習者の「聞く力」を育てることが最も大事なことだと、私は思っています。

こういう、「日本の発音の先生方には全く理解されなかった川合メソッドの神髄」を初めて理解してくれたのが、アメリカ人の先生だったということに、少し驚きました。  長く日本で英語を教えていらして、私でさえ時には聞き取れない日本人の英語を一生懸命聞いてご指導なさって来た先生だったからこそ、このことがお分かりになったのだろうと思いました。  アメリカ人の先生が、直しても直しても直らない日本人の発音を直すには、学習者が自分で発音をInternalize しなければ直らない、ということがお分かりになったのだろうと思いました。  とてもうれしかったです。  でも、やっぱり、川合メソッドの最初の理解者がアメリカ人の先生だった、ということに少し驚きました。

「発音をInternalizeする」ということがピンと来ない、という方は、下のブログをお読みになると感じがつかめると思います。

2013年9月4日のブログ 「手に取るようにわかる」


川合メソッドは私達がもともと体の中に持っている「聞いた音と同じ音を出そうとする仕組み」を訓練しながら発音を習得する方法です。

これについては、下のブログも参考になさってください。

2015年3月13日のブログ
「キーワードと耳の力」(一つのことが出来るように練習していくと、なぜ全体が出来るようになるのか。  耳がその音と同じ音を出すために必要なすべての力を動員してくるからです。)




(お知らせ)川合典子公式サイトの「通じない日本人の英語」のページに「英語本来の子音で話せるようになる練習(川合メソッド2)」を掲載いたしました。  まだ、日本語の子音で英語の子音を代用して話している方は、ぜひ練習なさってください。  英語がよく通じるようになります。(英語と日本語の子音の違いは日本人が戦後70年、聞けなかった違いです)  

私は先週、友人から「デニスが、典子の英語は聞いていてカムフォタブル(comfortable)だって言ってたよ。」と言われました。  たぶん、私の英語は子音に長さがあるので、緊張して聞いていなくてもわかる、ということだと思います。  皆さんもぜひ、長さを持った子音で話せるようになる練習をしてみてください。  日本人は「流ちょうに話していても、何を言っているのかわからない」と言われるのは、子音が短くて、聞き取りにくいからです。

2006年、アメリカから戻った私は、今、日本で英語を学ぶ人たちがどのような勉強をしているのか知りたくて、いろいろな勉強会に参加しました。  そういう時、休憩時間に休んでいると「どうやって発音を勉強したのですか」と聞いてくる方が時々いらっしゃいました。

今思うと、そういう方々は私の発音を聞いて、「子音に長さがある」ということは特定できなかったかもしれませんが、他の日本人の発音と「何か音が違う」ということは聞き取っていたのではないか、と思います。  だから、「発音に関しては、どういう勉強をしているのですか」と聞きにいらしたのだと思います。  そういう方々は、たぶん、聞く練習をたくさん行って耳の聞き取る能力が高くなっていた方々だと思います。  もちろん、聞く練習をほとんどしたことがない方々は私の発音を聞いても音の違いは判らないと思いますが、そういう方でも川合メソッド2のような、それに特化した練習をしていただけば、「英語本来の長さを持った子音」で話せるようになります。  ぜひ、練習なさってみてください。


今日のブログを始める前に一つ書かせていただきます。


私は今まで文部科学省の英語教育の方針に反対してきました。  中学時代、学校の勉強の一環として、自分で発音習得をしてきたおそらく日本でただ一人の英語教師として、また、18年にわたり、子供が小学校、中学校、高校、すべての段階で、ゼロからバイリンガルになる過程をそばで、つぶさに観察した、日本でただ一人の英語教師として、私は、文部科学省の英語教育改革に真正面から反対してきました。  「英語で授業」、「高校入試、大学入試のスピーキングテスト」、「CAN-DOリスト」等々。 

子供は、自分で自分を守れません。大人が決めたことに黙って従うしかありません。  ですから、誤った英語教育改革から子供たちを守りたいという気持ちが強いです。  

私の言う通り、中学校で英語教育をしてもらえば(やり方はこちらのブログ)、日本人は、ネイティブ発音になります。  世界中どこの国もやっていない学校教育のやり方で、皆さんのお子さんは、ネイティブ発音になります。  13歳の子供の耳の力を使って発音を習得させるからです。 耳の力についてはこちらのブログをご覧ください。   13歳の耳の力を使って発音を習得させるとこういう発音になります。(ホームページ「通じない日本人の発音」より転載)

会話学校に行かなくても、発音の先生に習わなくても、塾に行かなくても、学校の授業と宿題(家庭学習)を地道に行いさえすれば、皆さんのお子さんは、ネイティブ発音になります。  それが可能なのは、13歳の子供の耳の力を使うからです。  「“耳”を使って発音を習得させる」というのは、帰国子女が発音を身につけるのと同じ原理で子供たちに発音を習得させるということです。  親が払っている税金で行われている学校教育ですから、そのくらいの成果を上げなくてはいけませんよね。
こちらのやり方のほうが、大学入試でスピーキングテストを行うより、はるかに子供たちのスピーキング能力を上げます。  子供たちの耳の力を使うこのやり方に匹敵するスピーキングスキルの習得の仕方はありません。

私が、「中学時代まともに発音習得をしていない人が、どんな英語教育改革を提唱しようと、そんなものは日本人の英語を通じるようにするためには、全く役に立たない」と断言するのは、自分がこういう経験をしているからです。

(ここから先は以前と同じ文章です。)
 
中学3年間、私がこちらのブログで述べたように「耳」を使って学校で発音教育してもらえば、子供たちは、発音に関しては完璧な英語コミュニケーション能力を身につけます。  その教育の仕方が日本中に徹底されたとき、日本人はアジアの中でもよい英語発音で話す国民だ、と言われるようになるでしょう。 

最近では高校時代、夏休みにアメリカに短期留学する生徒もいます。  中学時代、(私が重要だと強調する)「耳」を使って発音を習得した生徒の中には、私が赤い本「英語発音、日本人でもここまでできます。」の17ページに書いた「突然身についたネイティブ発音」と同じ体験をそこでする生徒も出てくるでしょう。  「耳」の能力を鍛えて発音を習得させておくと大量に英語を聞く状況に入ったとき、そういうことは十分に起こり得ます。

スピーキングの能力には、スピーキングの能力の鍛え方があるのです。  中学時代、学校の勉強の一環として、発音習得をした経験のない人がどんな英語教育改革を提唱しようと、そんなものは全く役に立たないのです。  学校で英語をたくさんしゃべらせれば日本人の英語が通じるようになるわけではないのです。

私たちの母国語、日本語は子音を単独で発音することがありません。  だから私たちはヨーロッパの人々のように、簡単に英語がしゃべれません。  それは日本人の大きな弱点です。

でも、だったら、この弱点を逆手にとって、世界のどこの国もやっていない学校教育で、英語発音についてはアジアのトップレベルに躍り出ればいい。  

CDを使って、中学3年間、英語の発音そのものを文章のまま徹底的に子供たちの頭と口にコピーしてしまえばいいんです。「“耳”を使って発音を習得させる」というのは、帰国子女が発音を身につけるのと同じ原理で子供たちに発音を習得させるということです。  子供たちがネイティブ発音になったら誰も文句はないでしょう。  
CEFR だとか、CAN-DOリストだとかヨーロッパの真似ばかりしていないで、独特の母国語を話す私たちは日本独自の方法で子供たちをネイティブ発音にすればいいんです。
日本人の発音が通じるようになれば、目的は達成されるわけでしょう。  入試でスピーキングテストをするより、こちらの体制を組むほうがはるかに効果的です。
体制を組んで3年後、大人は子供たちの発音の良さに驚愕するでしょう。


文部科学省は早く、中学校で、この方法を実施してください。  そうしないと、英語教育でここまで遅れてしまった日本は、グローバル化の流れの中で取り残されます。  子供たちがネイティブ発音でスピーキングができるようになる英語教育のやり方はあるのです。  
日本人は英語習得については、不利な条件を持っています。  不利な条件を持っている国がトップに立とうと思ったら、他の国と同じことをしていては、だめです。  その不利な条件を跳ね返すような独自の方法で子供たちを教育していかなければだめです。

入学試験にスピーキングのテストをするというのは、子供たちに、「入学試験に合格したかったら、どこかへ行って発音を習ってこい」というのと同じです。  これでは、学校教育をしている意味がありません。

文部科学省が学校教育で子供たちをネイティブ発音にすればいいのです。  そうしたら、国民は文部科学省の方針を高く評価するでしょう。  70年間、通じなかった日本人の英語発音をアジアのトップレベルにまで引き上げたのは、今の文部科学省だと国民は、高く評価するでしょう。

子供たちがネイティブ発音でスピーキングをするようになれば、臨界期仮説を信奉している世界中から、日本はどうやって英語教育をしているのか、と驚かれるでしょう。  やり方は、日本が戦後「日本的経営」で目覚ましい経済成長を遂げた時と同じです。  母国語が英語とは全然異質な音で、他の国のような英語教育が出来なかったから「日本独自の方法をとった」ということです。  臨界期仮説のもとになった調査では、幼児期を過ぎて英語圏に来た人たちについては、発音のために何か特別なことをしていた人たちが調査の対象となったわけではありませんでした。  特に「耳の聞く力を上げる」という訓練を受けた人たちが調査の対象となったわけではありませんでした。  私達は日本独自の方法として13歳の子供の耳の力を使えばいいのです。  私も行った方法ですし、こちらの中学生も行った方法です。  一定の成果がありましたので、この方法を中学校の英語教育に導入するのに問題は何もないと思います。

発音習得における耳の役割については2011年7月8日のブログ「機械に発音の判定をさせること」をご覧ください。  そこには、「臨界期」をとっくに過ぎた30代50代の人まで、耳で聞いた音から、自分の鼻腔への通り道を開けて英語の音質で話せるようになった事例にも言及しています。  私は、「大人になってから発音を習いに来てニューヨークでアメリカ人からも「きれいな発音ね。」「女優さんみたいな英語ね。」と言われた生徒さん」も見ていますから(こちらのブログ)、何にもしなかったら、臨界期仮説は正しいかもしれないけれど、耳の聞く力を上げる努力など、様々なことをした場合は、年齢による制限は絶対的なものではない、と思っています。  13歳だったら、なんの問題もありません。





文部科学省は「英語で授業」という方法を、多くの高校の先生方の反対を押し切って、効果の検証もせずに「鶴の一声」で、高校に導入しました。

「英語で授業」の根拠になった「英語で考える指導法」は、提唱者の松本亨氏でさえも実際には行っていない指導法でした。

松本亨氏の提唱する勉強法は英語学習第2段階に入った人の勉強法です。 最初からする勉強法ではありません。(英語学習第2段階の説明はこちらのブログに書いてあります。  そこには、松本亨氏が、「最初に日本語訳を使ってよく理解した文章」を7年たって、英語のまま理解しただけだということが書いてあります。


日本には、日本語訳を使わず英語を習得した人など一人もいないのに、文部科学省は「英語で授業」という手法を効果の検証もせずに全国の高校に導入しました。
それに対して、耳を使って、中学校で学ぶ英文全部を発音そのまま生徒の頭と口にコピーする方法は少なくとも私とこちらの中学生の二人は、実際に行って成果を上げているわけです。  だったら、中学校の英語教育に導入する根拠は十分あると思います。  少なくとも日本人が誰も成功していない「英語を英語で理解する方法」(英語で授業)よりはずっと、効果を保証するものだと思います。


文部科学省は「今、方針を変えると批判される」と思っているかもしれませんが、文部科学省を批判する人に対しては「3年後を見てください」と言えばいいわけです。  子供たちがネイティブ発音でスピーキングを始めたら、文部科学省を批判した人たちは、「無知だったのは自分の方だった」と恥じるでしょう。  「自分は英語教育者として全く無能だと世間に宣言していたようなものだった」と恥じるでしょう。  その時、彼らの英語教育者としての生命は終わりますから、文部科学省は、何も恐れることはありません。  国民も子供たちをネイティブ発音でスピーキングできるようにした文部科学省を称賛こそすれ、批判する人など一人もいないでしょう。

今の状態で、入試でスピーキングのテストをするのは、子供たちに教室で親の収入による差別を実感させます。  これだけは、何としてもやめていただきたいのです。  方針を変えて、学校で、発音指導をしてください。  子供たちがネイティブ発音でスピーキングを始めた時、文部科学省を批判する人など、誰もいません。  文部科学省の方針を称賛こそすれ、非難する人など誰もいないと思います。 後世の人々からも高く評価されると思います。 

日本の子供たちをアジアのトップレベルの良い発音で、スラスラ英語が話せるようにしてやりたい、と思いませんか。  日本人でも、そこまでできます。  子音を単独で発音できないという母国語の弱点を跳ね返すような独自の英語教育を行えば、それは、実現可能です。 




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それでは今日の本題、「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」に入ります。

今日のブログをお読みになる前に下の2つのブログをまだお読みになっていない方は、先にそちらをご覧ください。  そのほうが今日のブログは分かりやすいと思います。

(1)  2017年10月12日のブログ文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない。  (本当に効果のある英語学習指導要領の見本が書いてあります)
(2)  2017年11月2日のブログ「中学時代に、きちんと発音習得を行った英語教育の専門家はいないのでしょうか?


大学入試に民間試験を導入しようという動きとともに高校入試にスピーキングテストを導入しようという動きが始まりました。 民間試験導入は自民党下村博文議員が強く推し進めています。 大学入試改革の理論的支柱は鈴木寛氏であると羽藤由美先生のツイッターで知りました。 鈴木寛氏は民間試験の見直しが決まった後でも、するべきだったとこちらの新聞記事で述べていました。

それではまず、高校入試の出題範囲から考えてみたいと思います。  高校入試の出題範囲は、中学校で学習した内容です。  中学校で学習していないことは公立高校の入試には出題されません。  もし、中学校で教えないような難解な文法問題が公立高校の入試で出題されたら、必ず、中学校の先生方から、「不適切だ」と指摘されて、その問題は採点の対象から外されるでしょう。  では、スピーキングの基本的なスキル、つまり正しい発音で文章を話すことを、中学校で教えているか、といえば、新学習指導要領でも、教えていません。
発音習得は上の(1)のブログに書かれているように行いますが、現在、生徒たちは発音練習に使う音声モデルさえ与えられていません。  授業中にCDを聞かせられるでしょうが、発音を習得するには、教室で1,2回CDを聞く程度ではとても、正しい発音で文をしゃべれるようにはなりません。  家庭学習で何回も音声モデルを聞きながら、同じように言う練習をしなければできません。

私は4,5年前、知り合いから、使用した後の中学一年生の教科書をもらって、中身を見ましたが、発音記号は全部ではなく、7割くらいが欄外に書いてありました。  日本人が注意を要するものを選んだのでしょう。  最後の単語リストのページには単語は発音記号付きで書いてありましたが、基本的な発音はどうやって発音するのか、その説明は書いてありませんでした。  先生がご説明されるのかもしれませんが、教科書を見る限り、発音記号ごとの発音の仕方の指導は、それほど重要性をもって行われていない、という印象を受けました。

50年前、私が中学一年生の時に親に買ってもらったテープの教材も、発音記号ごとの発音の仕方は書いてありませんでした。  指示書には、「テープをよく聞いて、聞こえた通りに発音しましょう」としか書いてありませんでした。  確かに音を聞いて聞こえた通りに言う練習は発音練習の9割以上を占める大事な練習なのですが、その前に一つだけしなければならないことがあります。  それは基本の発音はどうやって発音するのか知ることです。  当時、中学生の私には、自分の口をどうしたら、同じ音が出せるのか、わかりませんでした。  学校でいくつかの発音記号の発音は習った気がしますが、先生の説明だけではよくわからない点があったので、ラジオの英語番組を聞いたり、発音記号ごとの口の形の写真を見たりして、勉強しました。  そうやっていろいろな説明を見て、中学一年の自分でも、よく理解できる説明を選んで参考にしました。  (私のDVDの音の説明がとても簡単なのは、こういう理由です。  中学生の私は、ひとことで言えるような音の特徴でないと、文章の発音練習の時、思い出せませんでした。 こまかい音の解説など思い出していたら、とても文章の発音練習などできませんでした。)  

最初は、発音記号ごとの発音の仕方を教えてもらわないと、中学生は、どうやって発音したらよいのか、わからないと思います。  私が見た限り、もらった教科書には発音記号ごとの発音の仕方は、書いてありませんでした。  また、教科書には音声をきくCDもついていませんでした。  基本の発音の仕方を習ったら、それから先の練習は、すべて自分の耳を使って文章を聞こえた通りに発音していく練習を行う必要があります。  発音練習の9割以上はCDを使った文章の練習に費やされます。  ですからCDなしに、どうやって、生徒は、基本の発音や文章の発音を練習するのだろうと思いました。

日本人は音声モデルなしに、正しい発音を習得することは、出来ません。  日本人はヨーロッパの言語を話す人たちと同じ英語習得の方法は取れません。  ヨーロッパの人たちは発音練習をしないで、英語を話してもある程度、通じます。  母国語をしゃべっている段階で、子音を単独で、発音できます。  音の体系も英語と似ています。  でも日本人は日本語が子音と母音を常にセットにして一つの音を構成する、という性質を持つため、発音練習なしに、通じる英語を話すことはできません。  つまり、これでは、中学時代に学校でスピーキングの基本的なスキルは、身に着けられない、ということです。

従って、高校入試でスピーキングのテストをするということは「中学時代に教えられていない」「練習するすべも与えられていない」スキルをテストする、ということですので、不適切です。

では、「学校で教えてくれない」「練習できない」スピーキングを高校入試でテストされることになったら親はどうするか?  といえば、スピーキングの基本的なスキル、すなわち「正しい発音で文を話すこと」を教えてくれる塾や会話学校に子供を行かせることになります。

これはお金がかかりますので、経済的に余裕のある家庭の子供しか習いに行けません。  経済的に余裕のない家庭の子供はスピーキングの基本的なスキルを習いに行くことはできません。  つまり、15歳の時点で、親の経済力によって、子供の進路に差別が持ち込まれる、ということです。

その原因は文部科学省にあります。  

英語教育において、「正しい発音」は、最も基本的なスキルです。  スピーキングの能力の基本です。  通じない発音で、どれほど高い英語力をつけても、相手に理解されなかったら、英語が出来ないのと同じになってしまうからです。

「正しい発音の習得」が、基本中の基本なら文部科学省が学校で、子供たちに正しい発音を習得させるのが、当然でしょう。  それをしないで、塾や会話学校に丸投げするから、入試において差別が発生するのです。  

文部科学省は、自分の職務をきちんと遂行してください。  正しい発音を生徒に習得させる責任を放棄しないでください。  英語の基本スキルの習得を塾や会話学校に丸投げしないで下さい。  文部科学省は税金で仕事をしているのですから、自分達がするべき「英語の基本的スキルの習得」はきちんと学校教育で行ってください。 

文部科学省が学校教育で子供たちに「正しい発音」を習得させていないのに、公立高校の入試にスピーキングのテストを導入するのは、生徒を親の収入で差別することであり、13歳から15歳の義務教育期間中の子供の教育に差別を持ち込むものです。

この原因は何かというと、中学時代に発音習得をしたことのない人(つまり3技能しか習得していない人)が、学習指導要領の作成にかかわって、「4技能」「4技能」と提唱するからです。  中学時代に発音習得をしたことのない人は、中学生のスピーキングスキルの習得の仕方を知らないのに、「中学生の英語教育は4技能」「4技能」と提唱するから、高校入試に、中学校で教えていないスピーキングのテストが入って来るような問題が発生するのです。


私がなぜ、2017年3月31日に公示された新学習指導要領を書いた人が中学時代にまともに発音習得をした経験がない、と分かるのか、その理由を説明します。

新学習指導要領には生徒に「自分の考えをまとめて英語で話させる」とか「即興で英語で話させる」とかいう学習活動がたくさん書かれています。  しかし、これを正しい発音で行うのは非常に難しいことです。  なぜかというと、自分の考えをまとめて英語でしゃべろうとするとき、頭の中はそれを表現する英語を考えることでいっぱいになります。  ほかのことは考えられません。  当然発音に注意など払っていられません。  「発音に注意しないでしゃべっても正しい発音で言える」という状態を身に着けるには、2年間くらい音声モデルを使って繰り返し英文を正しい発音、イントネーション、リズムで言う練習をしなければ、出来るようには成りません。  自分でやってみればわかります。

なのに、新学習指導要領では、音声モデルによる発音練習には一言も触れず(本当はこれが、初期の学習者にとって一番大事なことです。  耳で聞いていない音は発音できないからです。)、いきなり、「自分の考えを英語で話す」とか「即興で英語で話す」などの学習活動を行わせています。  ですから、この学習指導要領を作成した人は、中学時代にまともに、発音習得を行った経験がない、ということがわかるのです。

今は、発音習得については昔よりいろいろなことが研究されて、わかってきています。  「耳が聞いていない音は発音できない」ということもわかっています。 

50年前、中学1年生になった私は、4月に英語の授業が始まって、教室で、先生がかけてくれるテープの音声の後について、教科書を音読しました。  でも、家に帰って復習のために教科書を読もうとするとあのテープの発音の通りには読めませんでした。

I have a book. という文を「アイハヴァブック」と発音しても、私が発音する「アイハヴァブック」はテープの発音とは違う、とわかります。  もちろん私はHAVE の/ ヴ / の音は /b/  ではなく /v/ で発音していました。  でも、文全体の発音は私と教室で聞いたテープの発音とでは全然違う。  それは中学生の私にも、容易にわかりました。  では、「何がちがうのか」 というと、それは、もう一度テープの発音を聞いてみないとわかりません。  教室で一回聞いたくらいでは頭に残っていませんから、もう一度、実物を聞かないとわかりません。  でも、当時、教科書の英語が録音してあるテープなど、買うことはできませんでした。  市販されていませんでした。  困った私は、親に頼んでテープの教材を買ってもらいました。  中学生の私はまず、お手本の文を何回も聞かないと同じには言えませんでした。  お手本の文を何回も聞くということは中学生の発音習得には欠かせないことなのです。  学校で1,2回聞いただけでは家で、発音練習はできないのです。

今回の、中学校の学習指導要領の中に「音声モデルについて英文を言う」という練習が全く書かれていないで、いきなり自分の作った英文をしゃべらせる、という指導法が書かれているのを見た時、「これを書いた人は中学時代に発音習得をしていない」とすぐにわかりました。

自分がやっていないことについて、指導計画は立てられないのに、そういう人(中学時代に3技能しか習得していない人)が、中学校の学習指導要領を書いて、「4技能」「4技能」というから、高校入試に、学校で教えていないスピーキングのテストが入ってしまうような問題が発生するのです。




私が、一番最初に文部科学省の方針に反対したのは、2015年6月1日のブログでした。

題は、
文部科学省の方針(中学校、高校の英語の授業を英語で行う)を実施すると、中学生、高校生がカタカナ発音で話し始めます。
というものでした。
「英語で授業」を行うとカタカナ発音が定着する。  言い換えれば、「英語で授業」の方針では、「正しい発音の習得が出来ない」という問題点を指摘しました。

今回の4技能についても、「正しい発音」を教えないのに高校入試でスピーキングのテストをするのは、差別の問題が起こると指摘しました。

二つの問題に共通するのは、「学校教育で、正しい発音の習得が出来ない」ということです。

なぜ、文部科学省の方針に繰り返し、発音の問題が起こってくるか、というと、スピーキングの基本的な技術、つまり、正しい発音の習得を中学時代にしていない英語教育の専門家が文部科学省の学習指導要領の作成にいつもかかわっているからです。  4技能のうち、3技能しか中学時代に習得していない英語教育の専門家がいつも文部科学省の方針の作成にかかわっているから、繰り返し、「正しい発音が習得できない」という問題が起こってくるのです。

私はスピーキングのテストをするのが悪いといっているわけではありません。  テストをするなら、学校で、スピーキングの基礎(正しい発音)をきちんとすべての生徒に教えてください、練習するための音声モデルも与えてください、と言っているのです。  それをしないで、(つまり塾や会話学校にスピーキングの基本技術の習得を丸投げして)高校入試でスピーキングのテストをすることが問題だといっているのです。

英語教育において、「正しい発音の習得」は基本中の基本です。  と同時に、「日本人の英語が通じない」という問題を解決するのに、最も重要なことです。であれば、生徒に正しい発音を身に着けさせることは、文部科学省の最重要課題であるはずです。  正しい発音を習得させない英語教育などあり得ないのです。  文部科学省は、税金で仕事をしているのですから、基本スキルくらい学校教育で教えるよう体制を整えてください。  学校教育で教えるべきことを安易に塾や会話学校に丸投げしないでください。
文部科学省が仕事を丸投げすれば、13歳から15歳という義務教育期間中の子供が、親の収入のために教育内容で差別を受けることになります。  経済的に余裕のある家庭の子供は、13歳から15歳の間に発音を学ぶことが出来て、経済的に余裕のない家庭の子供は義務教育期間中に正しい発音を身に着けられなくなります。  これは、義務教育の理念に反するのではないですか。

以上の理由で、公立高校の入試にスピーキングのテストを導入するのはもう少し待っていただきたいと思います。  文部科学省が、中学校で、スピーキングの基本的な技術(正しい発音)を生徒に習得させる教育を行うまで待っていただきたいと思います。  練習するための音声モデルも生徒に与えないで入試でスピーキングのテストをするのは、子供に対する不当な差別を生み出します。  都道府県が、公立高校の入試にスピーキングテストを導入するのは、文部科学省の対応を待ってからにしていただきたいと思います。

こういう深刻な問題を引き起こしますので、中学時代に正しい発音を習得していない人(つまり中学時代に3技能しか習得していない人)は、今後英語教育に口を出さないでください。  今まで「英語で授業」だとか、今回の4技能だとか、問題ばかり起こしているからです。  こちらのブログを見ると、この4技能を提唱している英語教師が「英語で授業」も文部科学省に持ち込んだことが分かります。 (石渡誠氏はなぜこのブログだけ削除したのですか? 理由を教えてください。 URLはhttps://ameblo.jp/makoto-ishiwata/day-20150507.html と書いてありますから、石渡誠氏の2015年5月7日のブログですね。 私はこのブログを読んだ数日後に、夜自宅の洗面所で倒れて気を失いましたからよく覚えています。「英語教育に関する有識者会議の委員、安河内哲也氏が英語で授業のために尽力されている」と安河内氏の写真入りで述べていらっしゃいましたね。)

文部科学省も、いつまでも中学時代に3技能しか習得していない教師に頼らないで、自分達の仕事は自分達で勉強して、方針を決められたらどうですか。  学校教育は私たちの税金で行われているのですから、英語の基本的なスキル(正しい発音)の習得は、学校教育で行うのが正しいやり方です。  義務教育できちんと教えてください。  安易な丸投げはやめてください。  15歳で、親の収入によって、差別を受けるのでは、子供たちがあまりにもかわいそうです。 



高校入試でスピーキングのテストが導入されれば、全国規模で、15歳からの差別が始まり、格差社会がさらに加速します。
格差社会は、若者に閉塞感(へいそくかん)をもたらし、閉塞感は若者たちに負のエネルギーを蓄積させます。  行き場なく蓄積された若者の負のエネルギーは常にはけ口を求めて社会の不安定要素となり日本の将来に影を落とします。  

文部科学省はすべての中学一年生に音声のモデルを与えて、将来、国際社会で活躍できるチャンスをすべての生徒に与えてください。  子供たちが希望を持てる社会は必ず発展します。

それに対して、抑圧された若者の負のエネルギーは、社会に対する無差別な怒りに変わる場合もあります。  英語教育改革などと言いながら、差別を生むような英語教育は決して子供のためにも、国のためにもならないと思います。

同じ教室で学びながら隣の席の子は正しい発音が習いに行けて、自分は習いに行けない。  高校入試も不利になる。  このような状況は作り出してはならないと思います。  幼い心に、差別や格差がしみこみます。  13歳から子供たちは「自分は何かをあきらめなければならない人間なのだ」と知るようになります。  これでは英語を好きになれというほうが無理でしょう。  英語の時間はまさに幼い心が差別を実感する時間に変わります。  こんな状況は決して、日本の義務教育に作り出してはならないと思います。  私たちの税金で行われている義務教育は当然、平等であるべきです。  そこに差別を持ち込んで、納税者の理解が得られると思っているのでしょうか。  「自分のうちは、お金がないんだから、勉強できなくてもしょうがない。」 毎日、そんなことを子供に思わせるのですか。  お金がない家の子でも勉強できるのが義務教育でしょう。  教室で子供たちに差別を実感させるくらいなら、英語教育改革などやめたほうがいいです。  子供の心を傷つけ、希望を失わせて、日本の国力が上がるわけないです。  学校で差別をして、子供が生き生きと勉強できるわけがないでしょう。  子供が生き生きと勉強出来ない国に、明るい未来はありません。  文部科学省は教育行政をつかさどる役所なのに、義務教育に差別を持ち込むのですか。  塾や会話学校に自分の仕事を丸投げして、義務教育に差別を持ち込むのですか。

高校入試、大学入試を問わず、現状での、スピーキングテストの導入は、子供たちに対する、教育の差別を生み出します。

本来あってはならない「義務教育における子供の差別」は文部科学省の怠慢と責任放棄を如実に表しています。

大人の怠慢のために、子供が教室で差別されるような教育は絶対に許されません。
文部科学省はもっとまじめに仕事をしてください。

学校教育で教えていないこと(スピーキングの基本スキル 正しい発音)を入試でテストするなど、まったく無責任な英語教育改革です。
一体だれが、「英語教育改革をするんですか?」「塾や予備校や英会話学校ですか?」
文部科学省は日本人のスピーキングスキルの向上のために学校教育では何もしないのですか?  音声モデルも生徒に与えないで、英語教育改革などできるわけないです。

今日のブログについて、英語教育の専門家の中に不快感を感じる方がいらっしゃるということは承知しております。  けれども15歳で、親の収入によって、子供の進路を差別するような学校教育は、決して、大人はしてはならない、と私は思っております。  子供は、自分で自分を守ることはできません。  大人が守らなければならないと思っておりますので、書かせていただきました。



(2021年7月1日加筆  このブログ掲載の後、大学入試での英語民間試験導入が断念される過程を見てきましたら、英語民間試験がベネッセを儲けさせるために導入されようとしていたことがわかりました。  都立高校のスピーキングテストもやはりベネッセが行うことになっています。 ベネッセは東京都教育委員会と協定を結び、「東京都のスピーキングテストを自分たちのビジネスの販売促進に利用しない」と約束していたにも関わらず、全く守っていないことが都議会の質疑で明らかになりました。 藤田裕司教育長はベネッセが東京都教育委員会との実施協定を破っていたことを全く知りませんでした。 非常に無責任です。 指摘されなければベネッセが東京都のスピーキングテストを自分達のビジネスの販売促進に利用したい放題利用していたことになります。 ベネッセが協定を守っているかどうかを確認もしない藤田裕司教育長は非常に無責任です。)




発音教育の関連で申し上げますと、2017年3月31日に公示された中学校 新学習指導要領(英語)は、まったく効果がありません。  子供たちが、通じる発音で、正しい英語をスラスラ話せるようにする学習指導要領とはどういうものか。  その見本は下のブログに図解して書いてあります。  日付をクリックすると移動できます。

2017年10月12日のブログ
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)

お願い

「スピーキングのテストが子供たちを親の収入によって差別するもの」であることは多くの方々に知っていただきたいと思います。  けれども、私一個人では限界がありますので、皆さんのご協力をお願いいたします。

私のブログを読んでくださった方々は、どうぞ、「スピーキングテストは子供を親の収入で差別するものだ」ということを周りの方々にお話しください。  特に、教育の現場にいらっしゃる先生方は、ほかの先生方にもお話しください。  勉強会など、たくさんの先生方がお集まりになるときに、お伝えいただけるとありがたいと思います。

一生懸命訴えても、一個人では限界がありますので、どうぞ皆さんのご協力をお願い致します。  子供たちが学校で、13歳から、「自分は親の収入のために、ほかの子のように学べないものがある」と思うのはかわいそうです。  そのために、高校入試でも不利になる、と英語の時間のたびに思わなければならないのは、かわいそうです。  すべての子供がスピーキングの基本スキルを学校で学べるように文部科学省にしてほしいと思います。  全国の中学、高校の先生方にこの事実(スピーキングのテストは子供を親の収入で差別するものだということ)を知っていただけるよう、ご協力をお願いいたします。

* * * 3月9日以下の文を付け加えました。* * *
今まで使っていた六法全書が古くなったので、新しい六法全書を注文していて、今日届きました。
中を見ていたら、教育基本法が載っていました。

第4条(教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されない。

こういう文が書かれていました。  
国が中学校で、英語教育を行い、正しい発音の習得が、英語教育の基本的学習事項であれば、これをすべての中学生が学び、身に着けるよう体制を整えることは文部科学省の仕事だと思います。  高校受験、大学受験にスピーキングのテストを行うのであれば、生徒全員が、スピーキングの基礎、すなわち正しい発音の習得ができるようにするのは文部科学省の仕事であると思います。  それを学校で教えず、経済的に余裕のある家庭の子供しかみにつけられないのであれば、これは明らかに、教育基本法に違反するものだと思います。
私は法律の専門家ではありませんから詳しくはわかりませんが、経済的に余裕のある家庭の子供しか学べないことを公立高校、国公立大学の入学試験に出題することは、教育基本法に違反するものではないのでしょうか。  教育基本法に違反する入学試験の実施は止めていただきたいと思います。



* * *

私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *



私のDVDで発音練習をするときは、耳に注意を集中して音を聞いて下さい。
最初はテキストを見ながら練習していただいて結構ですが、文字に気を取られていると、実際の音よりも自分がこうだと思っている音のまま発音していることが多くあります。

私はDVDの単語の発音の練習のところで、Life や Leg のLの音をほんの一瞬ですが、日本語化しない「長さのあるL」で発音しています。  そういう音をできるだけよく聞いて、同じように言ってください。

Fight や Fin の Fの音も長さをもって発音しています。  Way や Wet の W の音も長さを保持して発音しています。  それを耳でよく聞いて同じように言ってください。
* * *


グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(最終回)

昨日、グローバルな世界でやっていくための学校教育について述べました。  グローバルな社会でやっていくにはもちろん英語も必要になります。  ただ、英語教育については、小学校からやらなくてもこちらのように勉強していただければ、十分な英語コミュニケーション能力が身につきます。  この中の最終段階に行う、大量のインプットについて、今日は大学教育の関係者の方々にお願いしたいことがありましたので、それを書かせていただくことにしました。
 
アメリカやイギリスの7歳から14歳くらいの生徒が読むレベルの英語の本を大学の図書館においていただけないでしょうか。  具体的に言うと、私が「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」の中に書いた、オリジナルセブンのレベルの本です。

それと、アメリカやイギリスの高校生が課題図書として読む英語の本を揃えて、大学の図書館においていただけないでしょうか。  そして、学生がそれらの本を自由に手に取って中を見て読みたい本を選んで読める環境を提供していただけないでしょうか。  大学には、「難しい、大人の読む英書」は揃えてあると思いますが、こういう初歩からの英書はおそらく置いていないと思います。  けれども、英語をスラスラ読めるようになるには、こういう初歩のレベルの本をたくさん読んで、目や頭を英語に慣らしていかなければ読めるようにはなりません。

いきなり大学の授業で使うような原書を読んでも、なかなか英語をスラスラ読めるようになりません。  (これは、私の経験から申し上げています。)

英書をスラスラ読めるようにすることは、自分の言いたいことが英語でスラスラ頭に浮かんでくるようになるために必要なことです。  大学3年生で、専門分野の英書を読んだり、英語で講義を聞く前に、こういうやさしい英書を1,2年生でたくさん読んで、頭の中で、英語がスラスラ処理できるようになっておくことが必要です。

英語のニュアンスもこういう大量の読書によってわかるようになります。

例えば、Freedom を日本語に訳さないでFreedom, Freedom と言ってもアメリカ人にとってのFreedom がどんなものかわかりませんけれど、学生が、アメリカの高校の課題図書であるジョージ・オーウェルの「Nineteen Eighty-Four」を大学の図書館で読んだとします。  

この作品を読むと全体主義の中で生きる人間の生活がどんなものかよくわかります。  個人の自由というのがどれほど人間にとって、大事なものかわかります。  自由がない生活というのは、とても「人間として生きている」とは言えないのではないか、ということを考えさせられます。  それほど、「自由」 − 身体的な自由ばかりでなく、心の中の自由、思想の自由も含めて − 「自由」は人間にとって、大事なものだということが、作品を通して、迫ってきます。

そうすると、こういう作品を高校生の段階で、読む国の人々の価値観や考え方がわかります。  高校の課題図書というのは、ある問題意識をもたせて何かを学ばせるために読ませるわけですから、その英書の世界に一定の期間、没入して大量に読んでいくと、英語を使う国の人々の価値観や社会の問題など、様々なことを知る手掛かりになります。 

大量の読書によって、英語のニュアンスも分かるようになりますし、言いたいことが英語で頭に浮かぶようにもなりますので、大学生の英語力を上げるには、大量の読書は不可欠です。  

それほど重要なのに、今までは、大量の英文読書を可能にする材料(やさしい英語の本)やそれを自分で選べる場所は、ありませんでした。  大人が読む難しい本なら、おいてありますが、日本の高校を卒業した段階でもスラスラ読めるやさしい本を学生がたくさん手に取って選べる環境はありませんでした。  ぜひ、大学の図書館で、そういう英書のコーナーを設けて学生が自由に英書を読めるようにしていただきたいと思います。  

大学生に「Magic Tree House」? などと思うかもしれませんが、いきなり難しい本で挫折して英書を読むことをあきらめてしまうより、やさしい本から読んで徐々に英語力を上げていく、という方法を取ったほうが、学生にとって無理なく英語力を高めて行けます。  その次に、英語を母国語とする国の高校生が課題図書として読む英書(例えば今例に挙げましたジョージ・オーウェルの「Nineteen Eighty-Four」や「カッコーの巣の上で」などは、アメリカの高校の先生からもらった課題図書のリストにありました。)を読んでいくと英語を母国語として使う人々の価値観や英語のニュアンスなども分かるようになります。

大量のインプットは自分の言いたいことが自然に英語で頭に浮かんでくるようになるのに不可欠です。  けれども今まで学生にそういう本を提供できる場はありませんでした。  ぜひ、大学の図書館でそういう場を学生に提供してくださるよう、お願い致します。




私は、最初の本を出版した時、一つの夢を持っていました。  

アメリカにいた時、私は娘のリーディングの課題を一年間、娘と一緒にやりました。一年間、授業で学ぶ図書を一緒に読んで、課題を一緒にやりました。 そのために現地の図書館の小、中学生が利用する本が置いてあるコーナーをよく利用しました。  そこで、自由に、本を手に取って中を見て、面白そうな本を見つけてはよく読みました。  やさしい本は、スラスラ読めました。  物語だけでなく、理科の本や社会の本もたくさん置いてありました。  理科で習う現象や、大統領選挙の仕組みなどが、小、中学生にもよくわかるやさしい英語で書いてありました。  

辞書を引きながらやっと読んだ、大学時代のゼミの本とは全然違う読み方ができました。  まるで、日本語の本を読むように本の世界に入れました。  私のその経験が、後の大量の読書につながりました。

日本には、こういうやさしい英書を手に取って、中身を見て、好きな本を選んで読める、という環境はありません。 でも、そういう経験は楽しいですよ。 書棚に並んだ本の題名を見て、「この本は面白いかな?」と思って手に取って中をちらちらと読んでみる。 挿絵があったら見てみる。 「やっぱり面白そう。 読んでみよう」と思って、借りて帰って読んでみたら、本当に面白い本だった。 そういう経験をすると、だんだん自分が面白いと思う本を選ぶ勘が働くようになってくる気がします。 でもそれは、そういう環境がないとできません。  だから今、日本で英書を読むことの重要性を言っても、難解な英書をやっと読んでいたら、その重要性もわからないのだろうと私は思いました。

それで、最初の本を出版した時、私は、もし本が売れて、お金がたまったら、英語学習者に、私がアメリカの図書館で経験したことと同じ経験ができる場を提供したい、と思いました。  小さい部屋を借りて、アメリカの図書館にあった本と同じ本を揃えて、その図書室を皆さんに開放したい、そう思いました。  本をたくさん売ることが大変なことは知っています。  でも、日本にそういう場が一つもないのですから、作って、皆さんに利用してもらいたい、と思いました。(「英語発音、日本人でもここまでできます。」の本と「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」の本の中には、英文読書に良い本のリストが書いてあります。 候補として私はたくさんの本をリストアップしたのですが、「日本で容易に入手出来ること」という条件に当てはまらなくてリストから落ちた本がたくさんありました。  図書室を作ったら、そういう本をたくさん置きたいと思いました。 小説だけでなく、アメリカの小学校や中学校で読まれる理科の本や社会の本もたくさん置きたいと思いました。 美術の本や博物館の中の売店で売っているような本も置きたいと思いました。 そういう本は、本当に読んでみると面白いです。 図書室を開くのに司書の資格がいるのなら、勉強して司書の資格を取らなければいけないと思いましたが、「○○文庫」という程度の蔵書数の図書室なら、司書の資格がなくても開けるとわかりました。  自分の住んでいる町にある市立図書館の分室で、子供用の部屋に置いてある本の数を係りの人に聞いて、部屋の広さと本の数の関係を感覚的につかんだりしていました。 美術の本などは、表紙が素敵なものが多いので、低い木の本箱の上に書見台のような台に立てて、「来る人に表紙が見えるようにしたいな」などと思うと、自分が作る図書室が目に見えるようでした。)

アメリカから200冊も英語の本を持って帰ってきたのも、日本に帰って英語を教えるようになったら、こういう本を読んだことのない生徒さんにぜひ読んでもらおうと思っていたからでした。  そして、予想したとおり、読んでくれた生徒さんは、「英語の本にこんなに面白い本があるなんて初めて知りました。」とおっしゃいました。  「やっぱり、夢中になって読める本があれば、大量のインプットも、そんなに大変ではなくなる」そう思いました。  それで、ますます、私は、図書室を作って、皆さんに開放したいという思いを強く持つようになりました。

アマゾンで私の本のランキングの妨害を続ける松澤喜好氏にあんなに怒ったのも、その夢を邪魔しないでもらいたかったからです。  でも、もうそれができなくなりました。

去年私は無理をして、股関節を傷めてしまいました。  最初は、痛くて、駅までも歩いていけなくなりました。    医者に炎症を抑える薬をもらい、脚の筋肉を鍛える体操を続けて、今は夕食を作る間ぐらいは、立っていられるようになりました。  外出も、電車がすいている昼間に、手に物を持たず、キャリーバッグを引いて、駅のエレベーターを利用すれば、出来るようになりました。

けれども、無理をするとまた痛くなりますので、長い時間歩かないように気を付けています。

こういう状態では、たくさんの本を書棚に置いたり、返却された本をあちこちに運んで戻すような作業はもう自分ではできないと思いました。  なかなか、長い間の夢は、あきらめられなかったのですが、去年の暮れ、窓拭きも障子の張替えもできないまま、新しい年を迎えなければならなかったとき、「自分で、図書の管理もできないなら、図書室は、開けない」と納得しました。  残念ですけれど、仕方ありません。

今までの英語教育では、やさしい英語の本を高校教育を終えた人にたくさん読んでもらうことは、まったく考えられてきませんでした。  やさしい本なんて、大学生の読むものではないと思われていたからでしょう。 それから、読むこととしゃべることは関係ない、と思われていたからでしょう。  だから日本人の英語力は上がらなかったのです。 訳読式授業でやめてしまい、意味が分かるようになった英語の大量のインプットをしなかったから日本人の英語力は上がらなかったのです。  「やさしい本を手に取って自由に選んで読める場所」が身近にあれば、日本人の英語力は今より格段に上がります。 大学生が好きな本を手に取って読める環境を提供すれば、大学生の英語力は必ず上がります。 これは私が実際に行ったことですので、効果は実証済みです。  身近に大量の読書が出来る環境を作れば、日本の大学生は言いたいことをスラスラ英語で話せるようになります。   いきなり難しい本から読むとほとんどの人が挫折してしまいますので、お金をかけないで、やさしい本を大量に読める環境をぜひ、大学で学生に提供していただきたいと思います。 今まで「読むことは、話すこととは関係ない」と思われてきた事もあって、読むことを支援する体制は「スピーキング能力を上げる」という目標の中で、全く取り上げられることはありませんでした。  私自身でさえ、アメリカの図書館で大量の読書をするまでは、本を大量に読むことが、言いたいことが英語で頭に浮かんでくる現象をもたらすとは知りませんでした。  けれども、自分の体験によって、私には、大量の英語のインプットは、英語で言いたいことがスラスラしゃべれるようになるためには絶対に必要なことだとわかりました。  これについては2013年6月3日のブログ 「なぜ、英語の本を読むことが英語で考えることに効果があるのか。「意味を成す英文を頭の中に構築する能力」を読んでいただければわかります。  

いわゆる英語脳も大量のインプットによって出来上がります。  少なくとも「英語脳」というくらいですから、英語の言語体系ができるくらい大量のインプットが必要なのです。  そして英語脳が聞くことと話すことだけでは出来ないのは、「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただければわかります。  (読まなくてもお分かりになる方もいらっしゃるでしょう。  夫に「言語体系というのは、話す聞く、だけではなくて、読む書くもしないと出来ないらしい」と言ったら、「当たり前だ」と言われましたから。) 

大学生の英語力を上げるために、やさしい英書と、アメリカやイギリスで高校生が課題図書として読む英書をぜひ、大学の図書館に揃えていただきたいと思います。  学生が好きな英書を自由に手に取って選んで読める環境をぜひ大学生に提供していただきたいと思います。   大量の読書によって、大学生は必ず、自分の言いたいことをスラスラ英語でしゃべれるようになります。  一定の期間、英書に没入して読むことによって 英語を母国語とする人々の考え方や社会の価値観を吸収してもらうこともできます。  多読をすれば、必ず、大学生の英語力は上がります。   

国を挙げて、子供たちの英語力向上に取り組んでいるのですから、そのための環境を整えることも、プランの中に入れていただきたいと思います。

(2018年5月下旬、娘に「お母さん、図書室を開く夢はどうしたの?」と聞かれました。 あの頃は、「やがて歩けなくなるのではないか」という不安もあって、かなり落ち込んでいた時でした。母親の様子が前と違うことに娘は気づいたのでしょうね。 娘は「大学生の時、友達がみんな、帰省するたびに親が弱くなっていくのが寂しい、と言っていたけれど、玄関でお母さんのキャリーバッグを見た時に、その気持ちが分かった」といっていました。    私は「お母さん、足が痛くなってしまったから、図書室の夢はあきらめたの。」と言ったら、「お母さん、足が痛くてもできる夢持った方がいいよ。」と言われました。 「そうだね。」と答えましたが、いまだにそういう夢は持てませんね。 (私が自分で実現出来る夢ではないのですけれど、)しいて言えば、中学生が正しい発音教育を受けて、日本人がみんなネイティブ並みの発音で英語を話すようになることでしょうか。 いつもアジアで下から数えたほうが早いような順位にいないで、日本人が、通じる英語で話せるようになることでしょうか。 出来ないことではないのに。  やり方さえ選べばすぐに出来ることなのに。 それがとても残念です。 文部科学省が、そういう方針を立ててくれたら今すぐに出来ることなのに。 本当に残念です。) 【2020年1月に加筆しました】




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)


この後は、いつも書いていることですが、今回は、
(1)次の石渡誠氏のパートに「私の子供たちが全文和訳をして宿題をやっていた理由」という文章が付け加えてあります。
  

(2)2番目の松澤氏のパートの最後にKADOKAWA/アスキーメディアワークスについて付け加えた文章があります。(2月に太字で書き加えた文章があります。)
(3)最後の「発音練習について」という項目の最後に付け加えた文章があります。

* * *

7月30日以降、私は、いつもブログに書いている3つのことの2番目、「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について」という項目の最初のほうに文章を付け加えました。 

それをお読みになると私がこの4年間、全く名前を出すことのなかった石渡誠氏の名前をなぜ書くようになったのか、その理由がお分かりになります。

英語で考える指導法の提唱者、石渡誠氏は、その方法が有効であるならば、日本語訳を使わず、アラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうかご自身でやってみて、その結果を公開してください。  「英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきて、良いことです」(2017年7月30日のブログ)などとおっしゃるのは、それを自分で証明してからにしてください。
  
自分で、その証明ができないなら、「英語で考える指導法」は、本当は実在しない「英語で考える詐欺指導法」であり、「英語を英語で理解する指導法」は、本当は実在しない「英語を英語で理解する詐欺指導法」ということです。この詐欺指導法を提唱する石渡誠氏は、自分が日本中の高校生、中学生(「英語で授業」は決定されましたが、まだ実施はされていません)にどれほどひどいことをしてきたか、真剣に自覚されたほうがいいと思います。 

教師としての良心があるなら、自分の商売を拡大する前に、今もなお石渡氏の「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になっている日本中の高校生、中学生にすることがあるでしょう。

石渡氏の2015年5月7日のブログを読むと、文部科学省にこの「英語で考える詐欺指導法」を持ち込んだのが石渡氏であることが分かります。  私たち国民は、この「英語で考える詐欺指導法」がどうやって文部科学省に持ち込まれたのか、知る権利(国民の知る権利)がありますので、このことを書き添えました。

私は、その数か月後、頭の打撲が治ったころ、インターネットで検索して、石渡氏のブログに書かれていたこの会合についていくつかのブログを読みました。  そこには、「この会合には英語界の重鎮中の重鎮の方々が集まっている」とか「英語教育界の大御所の方ばかり」とか書かれてありました。(「2015年5月5日 ついに変わる! 英語教育改革の全貌」で検索すると現在でもいくつか出てきます。)

石渡氏の5月7日のブログを読んだ私は、「どんなに立派な肩書をお持ちの英語教育の専門家の主張であっても、私の経験に照らし合わせてその主張が間違っていたら、私は一歩も引いてはならない」と決意しました。  そうしないと、日本中の子供たちが、「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になってしまう」と思いました。

それで、2015年6月1日のブログを書きました。  どれほど、中学の英語の授業を英語ですることを阻止したかったかといえば、頭を打って、容体が急変した時は、知人にこのブログのアップを頼むほど、私は、それを阻止したいと思いました。(その時のことはこちらのブログに書いてあります)

石渡誠氏は、日本中の子供たちに誤った指導法をさせて、教師として、良心が痛むことはないのでしょうか。  今日も一生懸命、学校で勉強しているたくさんの子供たちのことを考えたことはないのでしょうか。

* 私の子供たちが全文和訳をして宿題をやっていた理由 *

石渡誠氏の2017年1月23日のブログに書かれていた「無料学習法プログラム レッスン1 英語脳の構築法」のビデオを見せていただきました。(こちらで見せていただきました。)  

石渡誠氏は学習者にまず、インプットではなく、アウトプットをすることを勧めています。  つまり、英文を声に出して言うことを勧めています。  私はこれがよく理解できませんでした。

学習者が「英文を声に出して言える」ということは、すでにその英文のインプットが終わっているということです。  英語のinput という単語の意味は「入力する」とか、「投入する」という意味です。 つまり「入れる」ということです。  学習者が「その英文を声に出して言える」状態であれば、すでにその英文のインプットが終わっているという意味です。  石渡誠氏は英語のinputという単語の意味を間違って理解しています。  英語のinputという単語には、「苦行のように勉強する」という意味はありません。 石渡誠氏は「英語を日本語に訳してはいけない」と提唱していますが、ご自身が理解しているinputの意味は、日本で使われるときのinputの意味です。 ご自身も日本語の意味で理解されています。 「生徒にいけない」と指導していることをご自分も心の中でやっています。  
もし、アメリカの学校で、「外国語習得におけるinput と output の関係をのべなさい」 という宿題が出て、石渡氏のように、「アウトプットをするとインプットが出来る」と書いたら、先生は、この生徒はinput の意味を正しく理解していない、と思うでしょうし、input と output の関係を正しく理解していない、と判断するでしょう。  そうするとせっかく宿題をやって提出しても、宿題の評価がAでも、Bでも、Cでも、Dでもなく、F(Failure 落第点)になってしまうのです。  input という一つの単語の意味を正確に把握しなかったために、せっかくやった宿題の評価がF(Failure 落第点)になってしまうのです。  だから私の子供たちは、宿題をするときに、単語も文も自分が分かる日本語に訳して、細部まで正確に理解してやっていたのです。

宿題というのは、何かを読んで、理解すればおしまい。というものはほとんどなく、それを読んだ後、先生のプリントの質問に答えたり、図解して説明したり、何らかの作業をしなければなりません。  その時、最初の英文を間違って理解していると、せっかくやった宿題がみんな無駄になってしまうのです。  あるいは、やりながら、「この先の作業がよくわからない」という問題にぶつかります。  ですから、子供たちは宿題をするときは、英単語も英文も自分が分かる日本語に訳して、正確に理解してからやっていたのです。

学校でまったく新しい事柄を勉強していくときに、単語の意味が正確にわからなければ、説明されても理解できません。  語の意味が正確にわからなければ勉強はできないのです。

仕事や学問で英語を使おうと思ったら、英語の意味は正確に理解することが必要です。  初級、中級の段階で、正確に英語の意味を理解するから、上級になったとき、英語のまま理解しても何の問題も起こらないのです。  どんなに英語をペラペラしゃべっているように見えても、意味が間違っていたら、高い英語力は持てません。  だから初級、中級の間は母国語に訳して正確に理解するのです。

石渡誠氏がこのビデオ「無料学習法プログラム レッスン1 英語脳の構築法」の後半で、言いたいのは、「何回も声に出して英文を言えば覚える」ということでしょう。  そんなことは英語学習者はみんな知っています。  昔からみんなやっています。  それが「英語脳の構築法」だったら、今頃日本人はみんな英語脳を持っていたはずです。  そうではなくて英語脳は大量のインプットによって出来上がります。

石渡誠氏は松本亨氏の言うことをどうしても正当化したいのでしょうが、「アウトプットが先でインプットが後だ」とか、あまり強引な理屈は、どうかと思います。  松本亨氏の言うことを正当化するためなら、英語教育において事実として確立されている方法(インプットとアウトプットの関係)も違うというわけですから、無理があります。  松本亨氏の方法を正当化するためなら、事実もねじ曲げるということは、松本亨氏の方法は、事実を捻じ曲げなければ、正しいと証明もできない方法だということです。  つまり、もともと間違っているということです。

松本亨氏の方法は、「英語で考える指導法」というよりは、「英語でしゃべる指導法」とおっしゃったほうが良いのではないですか。  初級者や中級者は自分の言いたいことを和文英訳してしゃべるしかないのですから。(こちらのブログに説明してあります)

けれども「自分の言いたいことを英語でしゃべる指導法」も問題がないわけではありません。  松本亨氏の学校の理事長先生は「校内日本語禁止は松本先生が達成された素晴らしいことです」とおっしゃっていましたが、最初に2年くらいかけて、正しい発音を定着させてから行わないと、生徒は日本語発音のまま話すことになります。  自分の言いたい文章を正しい発音で言えるようになるには、2年間くらい音声モデルのある文で徹底して発音練習しないとできるようにならないのです。  「ワタービッグトゥリー」の発音のひどさは今でも忘れられません。 (こちらのブログに私の松本氏の学校での体験が書いてあります。)  これでは日本人の英語が通じないという問題は解決できません。  やはり松本亨氏の指導法は机上の空論でした。

英語で考えるようにもなりませんし、単語の意味は正しく習得できませんし、発音は日本語発音になりますし、松本亨氏の指導法は机上の空論でした。

そして、この「机上の空論 − 英語で考える詐欺指導法」を提唱する人々によって、持ち込まれたのが、文部科学省の方針「英語で授業」です。  高校では2013年からもう5年も行われています。  私は2013年からずっとこの方法は効果がない、と言い続けています。  効果がないだけでなく、「日本語発音になる」「生徒の理解が不十分になる」など様々な害悪があります。  なのに、2017年3月31日に公示された中学校の新学習指導要領でも、「英語の授業は英語で行う」と記されています。(こちらのブログに書いてあります)  英語習得について何も知らない文部科学省が「英語で考える詐欺指導法」に騙されて、日本の英語教育の方針を決めているのですから、日本人の英語力が上がるはずはないでしょう。  文部科学省にアドバイスしている「英語教育の専門家(?)」も「机上の空論 − 英語で考える詐欺指導法」に騙されて、高校の先生方の強い反対を押し切って、5年も「英語で授業」をやらせているのですから、生徒の英語力が上がるはずはないでしょう。

* * *

私は随分長い間、アマゾンの自分の本のランキングを妨害されていますが、おそらく、やっている人は、私が英語教育の分野からいなくなるまで、妨害を続けるのでしょう。

ただ、私は、英語教育の分野からいなくなるわけではないようです。

こちらのブログに書いた外国人の方が、1999年11月にこのことの後、どういう結末になるのか、私に教えてくれました。  少なくとも、私は妨害されて、英語教育の分野からいなくなる、とは言われませんでした。

18年前、その結末を聞かされていたので、私は、「英語耳」の松澤喜好氏に盗作されようと、妨害されようと、日本人が誰も聞けない音について本を書いていようと、今日まで、頑張って来ることが出来ました。  どんな立派な肩書を持つ英語教育の専門家の言うことも自分の経験から見て、間違っていたら、一歩も引かない、という決意ができたのも、文部科学省の方針に正面から反対したのも、50年間信じられていた松本亨さんの主張を否定したのも、この後、どういう結末が訪れるのか、あの時、その人から聞いていたからでした。  

なぜ、その人が、私にそんな先のことを教えてくれたのか、その時は分かりませんでしたけれど、今は、わかる気がします。

たぶん、その方は、2008年以降、私がどれほど苦しい思いをするかご存じだったのだと思います。 2008年以降、私が「英語耳」の松澤喜好氏と、KADOKAWA/アスキーメディアワークスのためにどれほど泣くことになるか、ご存じだったのだと思います。(詳細はこちらです。)  その時にくじけないように、その苦しさの先にある結末を教えてくれたのだと今は、思っています。

もう私の本のランキングを下げるなどという行為はおやめください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス社長塚田正晃氏は「著作権法に抵触するのは犯罪行為だ」と言っています。こちら) (現在このぺージは違う内容に変わりました。3/29/2022)   松澤さんは、「松澤は盗作!というのはすごーい!」とHPに書いていましたが、塚田さんの主張によれば、盗作は犯罪行為です。  

他人のランキングを妨害するのも、営業妨害ですから、犯罪行為です。   

もう妨害はやめてください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークスは、著者が自分のホームページで、盗作を豪語するような悪質な出版はやめてください。  いくら著作権法に「アイデアに対する規定」がなくても、他人のアイデアを盗って書いたのなら、盗作は盗作でしょう。 「著者自身がその実技が出来ない」ということ自体「盗作」の何よりの証拠です。  だから松澤氏も、「松澤は盗作!というのはすごーい!」と自分のホームページに書いたのでしょう。  
(詳細はこちらです。) 

2008年、読者から盗作だと批判を受けて、「英語耳ボイトレ」と本の題名を変えた時、KADOKAWA/アスキーメディアワークスは、「本当に声楽と英語の発声法の類似点を言ってきた一個人」を葬(ほうむ)ってしまえば、松澤氏の盗作の事実など、誰も知ることはなくなると思って、読者からの批判を徹底的に無視して、「英語耳ボイトレ」を売り続けたのでしょう。  本の題名も、表紙も松澤氏の前作と同じにすれば、読者に本当のことを知られることなく、一個人など簡単に葬れると判断したのでしょう。 

今、松澤喜好氏がアマゾンの私の本のランキングを下げ続けているのは、あの時のKADOKAWA/アスキーメディアワークスと同じ論理ですね。  川合典子を葬(ほうむ)ってしまえば、自分の盗作の事実はなくなって、前のようにベストセラーの著者として、人々からもてはやされる、そう思っているからでしょう。

だから2年近くも毎日のように、私の本のランキングを下げ続けるのでしょう。  (2月14日には、本のランキングを前日より、20個近くも下げられていましたので、あまりにもひどいと思い、このパートを書き加えました。)  そういう意味では、出版社でありながら、商業道徳も省みず個人を葬り去ろうとしてきたKADOKAWA/アスキーメディアワークスの責任は大きいと思います。

私は、2年近くも毎日のようにランキングを下げられて、非常に理不尽な思いがします。
KADOKAWA/アスキーメディアワークスは、それでも、社会で企業活動を行う会社なのですか。  個人を葬(ほうむ)り去ろうとするような企業があるなど、信じられないです。

「他人のアイデアを盗る」「隠ぺい工作をする」「個人をつぶす」「批判は徹底的に無視して一切対応はしない」  これがKADOKAWA/アスキーメディアワークスの社長の方針ですか?  企業倫理のない会社ですね。 株式会社KADOKAWAは、東証一部上場企業なのでしょう?  東京証券取引所で一部に上場されるには、企業として様々な基準をクリアーしているからでしょう。  でしたらなぜ、KADOKAWA/アスキーメディアワークスは、こんなに汚いビジネスのやり方をするのですか。


(2018年5月、私は下のようなニュースをこちらのサイトhttps://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180509/Cyzo_201805_post_161065.html?_p=2で読みました。


* * * * * * * * 
「組織名としてのアスキー・メディアワークスは消滅することになりました。さすがに伝統のある名前だけに組織名から外すのは社内でも様々な意見があったそうです。(出版業界関係者)」
* * * * * * * * 


私は、出版業界のことは何も知りませんので、真偽もわかりませんが、こういうニュースを読みました。
  
ただ、もし本当でしたら、組織変更にはそれなりの理由があるのでしょうが、10年間、アスキーメディアワークスの被害を受けてきた私にとっては、結果的には、隠ぺいと同じです。  誠意ある対応をする前に当事者がマネジメントによって、消滅させられたからです。  

問題の松澤喜好氏の著作「英語耳ボイトレ」も何事もなかったかのように消滅させるのですか。  これも松原眞樹社長の方針ですか。  相手が一個人なら、どんなにひどいことをしても世間に知られることはない、とお考えですか。

たとえ、世間に知られなくても、もしそのニュースが本当だとしたら、事実は事実として残ります。  

2008年、アスキーメディアワークスは、本の表紙を変え、題名を変えて、他人のアイデアを盗って本を出版したことの隠ぺいを図った。

2018年、株式会社KADOKAWAは、アスキーメディアワークスを消滅させて、かつて隠ぺい工作を行った当事者を消した。  

組織変更の理由を私は知りませんが、何が理由であっても、結果として残った事実は、そういうことです。

アスキーメディアワークスは隠ぺい工作を行い、株式会社KADOKAWAは隠ぺい工作を行ったアスキーメディアワークスを消滅させた。  そういうことです。

前出と同じ記事(よって私には真偽は分かりませんが)の最初の部分を引用します。

4月に大規模な組織再編を行ったKADOKAWA。その再編の理由をめぐりさまざまな憶測が流れている。 今回の組織再編のもっとも大きな動きは、アスキー・メディアワークス事業局の解体だ。




こちらに2018年2月27日に株式会社KADOKAWAから出された「KADOKAWAアスキー事業の移管について」というプレスリリースがありました。https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000004239.000007006.html

これを見ると「アスキー・メディアワークス事業局のアスキー事業を本年4月1日に株式会社角川アスキー総合研究所に事業移管いたします。」と書いてあるので、私はアスキーメディアワークスは、解体されたと思いました。

これに関連するニュースがいろいろ削除されているようですが、これは貴社が行ったプレスリリースですので、削除しないでください。  (4つ前の文にリンクを付けたBiglobe ニュースも削除されたので、リンクを付け替えました。)


最後に、私が、5月30日、知人に宛てたメールを転載いたします。( )の部分はそれまでのメールを全部書けませんので、解説を入れてあります。

。。。。(前略)。。。。。。(もし、隠ぺいのためにアスキーメディアワークスを解体したとしたら、)

ここまでくると隠ぺいのために本の表紙を変えたり、題名を変えたアスキーメディアワークスは、まだ、ましだったという気がします。  隠ぺいするために何か月もかけて準備をして、本当の理由は誰にも気づかれないように、組織そのものを解体するという株式会社KADOKAWA(松原眞樹社長)のやり方は、恐ろしいと思います。(だから組織がなくなったのに、アスキーメディアワークスのサイトは削除されず残っているのですね。  私は、ブログ「7年前の出来事」にリンクを入れた塚田正晃氏の「当社出版物等の不正コピーについて」というページが、塚田氏がやめて、半年もたつのになぜ削除されないのかあるいは社長名も変えないのかずっと不思議に思っていました。  今思えば、「アスキーメディアワークスに何か問題があった」と一切気づかれないように(サイトがなくなれば何かあったと気づかれてしまう)、綿密に計算された上でのことだったのですね。  そして、この計画は、もう半年以上も前から密かに進められていたのですね。)

もし、株式会社KADOKAWAが隠ぺいのために組織変更をして、アスキーメディアワークスを解体したとしたら、それは、お金を払って本を買う読者の信頼を裏切るものであると同時に、会社にお金を出してくれている株主の信頼も裏切るものだと思います。

。。。。(後略)。。。。




アスキーメディアワークス解体の理由が明らかにされれば、こういうことは誤解だと、読んだ方々は納得されると思います。

でも記事には「その再編の理由をめぐり様々な憶測が流れている」と書いてあったので、私は理由が明らかにされていないのだと思いました。

ただ、明らかにされたとしても、読者から盗作だと批判されて、表紙を変えたり、題名を変えるなどの工作をしたり、著者自身がその実技もできないで、「松澤は盗作!というのはすごーい!」と豪語するような本を読者の批判を無視して10年間も売り続けるのは、日本を代表する出版社のすることではないと思います。  読者の信頼も株主の信頼も裏切るものだと思います。









6月1日(金曜日)、私は夫に「社長の株主に対する責任について教えてほしい」と頼みました。  そうしたら、夫が「今、忙しいので、自分で取締役の善管注意義務について調べてみて」と言いました。

それで、インターネットで取締役の善管注意義務について調べて見ました。  

 会社法上、株式会社の取締役は会社から経営の委任を受けていると考えられており、その関係には、民法の委任に関する規定が適用されます(会社法330条)。民法は、委任を受けた者は「善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負う」(民法644条)と定めており、これを「善管注意義務」といいます。(こちらのサイトに詳しい解説が載っています。) 私が一番最初にリンクをつけた「取締役の善管注意義務」について解説したページは、何か月かしたら、洋服の通販のようなページに変えられていました。 (私のブログにはそういう操作がされることがよくあります) それで私はもう一度調べてリンクをつけなおしました。 内容は最初にリンクをつけたページから引用してあります。


会社に損害を与えた場合などが主に書かれてありましたけれど、「善良な管理者の注意をもって」ということは、もし隠ぺいのための組織変更なら、そういうことは取締役はやってはいけないのではないですか。

また、同じサイトに 「取締役が他の取締役の不適切な行為を監視・監督しなかったという、いわゆる「監視義務」の違反」についても書かれていました。  隠ぺいのための組織変更だとしたら、他の取締役も見逃してはいけないのではないですか。 取締役の不適切な行為は他の取締役がやめさせなければいけないのではないですか。

アスキーメディアワークスのサイトはそのまま残してありますから、世間の人々はその解体にも消滅にも気づきません。  その裏で、アスキーメディアワークスを解体して、組織として消滅させる、というのは、株式会社KADOKAWAは、ある意図をもって操作をしている、ということです。  操作をして、世間の人々に気づかれないように、かつて隠ぺい工作を行ったアスキーメディアワークスを消滅させたということです。  株式会社の取締役は、情報操作をしてはいけないのではないですか。 他の取締役もそれを見逃してはいけないのではないですか。

こちらhttp://ir.kadokawa.co.jp/company/outline.phpの表を見ると株式会社KADOKAWAには、取締役会長角川歴彦氏をはじめたくさん取締役の方々がいらっしゃいますね。  皆さんで、アスキーメディアワークスの解体をお決めになったのですか。  もし、隠ぺいのためでしたら、それはイリーガル(違法)です。

特に(この場合は関係ないかもしれませんが)株価などに影響を与える場合もありますから、取締役は世間をだます目的で組織変更などしてはいけないのではないですか。  私は会社経営のことは全く分かりませんが、東京証券取引所に上場されている企業は不祥事の当事者を消滅させるような組織変更はしてはいけないのではないですか。


もし、隠ぺいのための組織変更だったら、という仮定で書かせていただきました。


たとえ隠ぺい目的の組織変更でないとおっしゃっても、事実として、株式会社KADOKAWA(松原眞樹社長)は、アスキーメディアワークスの解体・消滅が終わったわけですから、後は何年か、時期を見てアスキーメディアワークスの消滅を世間に浸透させれば、私が何を抗議しようと「それは、昔あった会社がやったことですから」と言って、何の責任も取らなくて済むわけですね。

つまり、アスキーメディアワークスを実際に解体・消滅させた時期と世間がそれを認識する時期にタイムラグを作ることで「隠ぺい工作をした当事者を消滅させた」という非難を受けることなく当事者の消滅を図れるわけです。  

そしてもし私もこのニュースを読まなかったら、解体・消滅の事実を知らぬまま、ある日、「それは昔あった会社がやったことですから」といわれて、あんなにひどいことをされたのに、何もなかったかのように終わりにさせられたのでしょうね。

株式会社KADOKAWA松原眞樹社長は、一個人など、どんなにひどいことをしてもかまわないと思っているからこういうことができるのでしょう。  どんな情報操作をしてでも自分さえ逃げ切れればいい、と思っているからこういうことができるのでしょう。

こんなやり方は企業としてひどすぎます。
株式会社KADOKAWA松原眞樹社長は、
取締役の善管注意義務にも違反しています(法令遵守意識の欠如)。
公正な企業活動に対する意識もありません(企業倫理の軽視)。


* * *

私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *

ここから先は、毎回掲載している3つのことです。「なぜ毎回3つのことを掲載するのか」その理由については、こちらのブログをご覧ください。 

* * *

英語教育について

文部科学省の英語教育の方針は、効果がありません。

今年3月に発表された中学校の学習指導要領(英語)は全く効果がありません。  理由は、2017年10月12日のブログをご覧ください。


以下、効果のないものを列挙します。
1)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がありません。  (理由はこちら
2)「CAN-DOリスト形式」は効果がありません。 (理由はこちら
3)「4技能」は効果がありません。  (理由はこちらこちら
4)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではありません。 (理由はこちら
5)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受けます。 (理由はこちら
以上の理由により、文部科学省の方針は効果がありません。

「発音」、「語順」、「英語で考える」、それぞれを習得する方法は2015年10月19日のブログ「川合式英語学習法」をご覧ください。

これは全部私自身がやってきたことです。  こうすれば、生徒たちは必ず通じる英語で話すようになります。
英語で考える指導法を提唱する人たちのように、「自分は日本語訳を使ったけれど、生徒たちは使うな」というような、誰も実際にはやっていないような指導方法ではありません。  私は全部自分でやっています。


「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について

松本亨氏の「英語で考えるためには日本語訳を使ってはいけない」という主張は2006年、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになった事実によって否定されました。 

「英語で考える指導法」は詐欺である可能性が高いです。

松本亨さんの書いた「英語で考える本」「英語で考えるには そのヒケツと練習」という本に書いてある練習をしても英語で考えるようにはなりません。(2月4日のブログ「英語の思考活動」、3月1日のブログ「先生の宿題のプリント「英語で考える」ってどういうこと?」を参照してください)

英語で考える指導法を掲げる英語学校FORWARDの指導者、石渡誠さんは、松本亨さんの「英語で考える本」「英語で考えるには −そのヒケツと練習−」という本で勉強すれば英語で考えるようになると2017年1月19日のブログで言っていますが、この2つの本で勉強しても、英語で考えるようにはなりません。  「この方法を26年教えてきた」と書いていますが、26年間も効果のない方法を教えてきたというのは驚きですね。  

私は、この件について、松本亨さん(著作を含めて)以外の固有名詞を入れることをずっと避けてきました。  けれども、石渡誠さんの2017年7月30日ブログの冒頭の

日本の英語教育界もようやく変革の時が!英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきています。良いことですが、

という部分を読んで、明記することにしました。  日本中の高校生を犠牲にしておいて、まだこういうことを言っていることに怒りを覚えました。  文部科学省でさえ、もう、中学校の英語の授業を英語で行うとは、言わなくなったのに、と思いました。  

石渡誠さんは、26年間も授業料を取って、「効果のない方法」を「効果がある」と偽って教えてきて、謝罪も損害賠償もしないのですか?  そうやって、「何を言っても何の責任も取らなくていい」と思っているから、いまだに「英語を英語で教えるのが良い」などとおっしゃるのでしょう。  

でしたら、ご自身がアラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうか示してください。  それが出来ないのであれば、「英語を英語で理解する指導法」が間違っていたと認めてください。  そういうけじめをつけないからいつまでも「英語を英語で理解する」などという指導法を主張し続けるのでしょう。

日本中の高校生が迷惑していますので、自分もできない指導法を提唱するのはやめてください。

自分の商売のために子供たちを犠牲にするのは、もうやめてください。

Je suis Charlie. と母国語で言うフランス人が I am Charlie.という言語を学ぶとき、母国語の意味を参考にしていないはずはないでしょう。  日本人は誤った指導法を50年も信じて、大きく後れを取りました。


私は、英語で考える指導法の提唱者が、「Freedomを日本語に訳すとニュアンスが分からなくなるから英語のまま言わせる」とブログに書いているのを読みました。  でもそれでは何も教えていないのと同じです。

生徒から、アメリカ人にとって自由というのはそんなに大事なものなのですか?と質問されたら、アメリカ史がご専門の先生なら、「建国の歴史を勉強してみるとその理由が分かってきますよ」とお答えになるでしょうし、時事英語がご専門の先生なら、ニュースの中から、アメリカが個人の自由を制限する国に対して、非常に厳しい外交政策をとり、しかも大多数の国民がそれを支持しているというニュースを選んで、生徒と一緒に勉強していくでしょう。

Freedomを日本語に訳さずFreedom. Freedom と生徒に言わせる、などというのは何も教えていないのと同じことです。

それは、次のような例を想像してみるとよくわかります。

もし、アメリカで、日本語を学んでいる生徒が「日本の武士道とはなんですか?」と教師に質問した時、「日本人にとって武士道が、どういうものなのか知りたかったら、武士道を英語に訳さず、日本語のままブシドウ、ブシドウといいなさい」 などと指導する教師は一人もいないでしょう。   

仮に先生が「これが、日本語を日本語で理解する指導法だ」「日本語で考える指導法だ」などと言っても、生徒はばかばかしくてする気にもならないでしょう。  保護者からは「まじめに教えろ」と言われるでしょう。 

これが英語で考える指導法の正体です。

教える方は何も教えていない。
学ぶ方は何も学んでいない。
これが英語で考える指導法の正体です。

だから私はこの方法は詐欺だと言ったのです。(こちらのブログ

以前、この「英語のままFreedomと言わせる」と言っていた学校のブログで、車を売って受講料を払って学んでいるという生徒の例が紹介されていました。  それほどの高額の授業料をとって、「だますつもりはなかった」「知らなかった」では済まないです。  
詐欺は犯罪です。

詐欺は、刑法で刑罰が定められている犯罪です。

また、そのブログで、英語で考える指導法をする人々が、生徒の英和辞典を取り上げたり、生徒に英和辞典を窓から捨てさせたりする、ということも読みました。  中には最後まで生徒に英和辞典を返さなかったこともあったそうです。

「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただくとわかりますが、英語のわからない生徒にとって、英和辞典は命綱です。  英和辞典があるから、英語の意味が分かるようになります。  これを取り上げるなど、間違った指導法を盲信する指導者の誤りです。  英和辞典を取り上げれば生徒の英語力が上がるなどということは絶対にありません。

この詐欺商法を、中学や高校に持ち込んだのが文部科学省の「中学、高校の英語の授業を英語で行う方針」です。
だから、私は、「学校で詐欺を行わないでください」と申し上げたのです。
税金を詐欺に使わないでください、と申し上げたのです。
高校英語教育はいまだに詐欺ですね。
学校で詐欺教育をするために、車一台売るどころではない、莫大な税金が使われています。

早くやめてください。
高校時代は、高校時代にやらなければならない訓練があるのです。
複雑な英語を読み始めるときにどうしてもやらなければならない訓練があるのです。
この時を逸すると、取り返しがつかないのです。  高校生がかわいそうですから、「学校で詐欺」はやめてください。

発音練習について

学生時代、私はアメリカのセルフヘルプの本を読むのが好きでした。  当時、そういう本は翻訳しか入手できませんでした。  その中にこんな話が書いてありました。

チャーリーさんが自動車の調子が悪くなり、修理工場に持ち込みました。  修理が終わって取りに行ったとき、調子が悪かった原因を尋ねると「OOのネジが一つ壊れて、不具合が生じていたので、新しいネジに変えました」と説明を受けました。

請求書を見てみると、とても高い金額でしたので、チャーリーさんは、「ネジ一つ取り換えただけなのに、これでは金額が高すぎます」と文句を言いました。  そうしたら、修理をした人が、「最初は、何が原因となって不具合が生じているのかわかりませんでした。  それで、私は自動車の内部を全部調べました。  そしてOOのネジが壊れていることを発見したのです。  自動車内部をすべて調べるのに何時間もかかりました。  請求書はその労働の代金を含んでいるのです」と言いました。  チャーリーさんもその説明で納得しました。

この話は、どこを直せばよいかわかっているものを直すのは、簡単ですが、どこが悪いかわからないものを直すのは大変だ、ということを例えた話でした。

私は中学時代に英語のきれいな発音に魅了されて発音練習を始めました。  中学生でしたから一生懸命練習すればお手本のアメリカ人と同じ発音になると信じていました。  一年半くらいはちっともうまくなりませんでしたが、その日の練習が終わると、自分が今日練習した分だけお手本の発音に近づけたと思えて、とても、心が満たされていたのを覚えています。  一年半くらいは目に見えてうまくなってはいませんでしたが、毎日練習が終わって、テープレコーダーの手あかを白いハンカチできれいにふき取ってしまうときは、とても気持ちが充実していたのを今でも覚えています。

だから発音練習は大変だ、とかつらいとか思ったことはありませんでした。(決してうまくはなかったのに、です)

最初の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」(赤い本)の原稿を書いていた時、私は編集してくれた人に次のような心配をお話ししたことがありました。

「読者の皆さんに、私は何の苦労もなく、発音を習得した、と思われると困るのですが、、、」
そうしたら、編集をしてくださった方からこういわれました。

「川合先生の本を読んで、川合先生が何の苦労もなく発音を習得した、と思う人はいません。  そんなことを心配するより、むしろ、こんなサイボーグみたいな練習をしなければ発音はうまくならないのか、と思われることをご心配なさった方がよろしいんじゃありません?」

編集をしてくださった方は、スタンフォードでの留学経験もありますので、英語がとても上手な方でした。  こういうユーモアのセンスもお持ちでした。

私は苦笑しながら「はい。。。。」と言って、すぐひき下がりました。

確かに文全体をお手本と比べて違いを探すにはサイボーグみたいな能力がないとだめだ、と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。  (先日夫がチャンネルを回していたら、ターミネーター3でシュワルツネガーさんが人の着ている洋服を見て、一瞬で、それが自分に合うかどうかをピピピピ。。。と判断する場面がありました。  サイボーグと言うとそういうイメージが浮かんできますね。)  

けれども、発音を直すときは、最初は、気づいたところから直していけばいいので、本当はそういうことはないのですが、人によってはそんなことはとてもできないと思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、その2年後、私は、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑の本)を出版しました。  そしてその本に、どこを比べて何を直したらよいか書きました。  漠然と、文全体を比べたら違いは分からないかもしれませんが、「この音のこの違い(例えば、長さ)を聞いて下さい」とピンポイントで言われれば、誰でもそれは聞けます。

先ほどの自動車修理工場の例でいえば、どこに原因があるのか車の内部全体を調べるのはとても時間がかかって大変ですが、「ここのネジを変えてください」と言われれば誰でも出来るのと同じことです。  具体的に言われたことはやりやすいです。

「続・英語発音、日本人でもここまでできます」にはどこを聞いて何を直せばよいのか、書いてあります。  そのポイントは日本語のくせから来るものがほとんどです。  それは日本人に共通する発音の問題点ですから、そこを聞いて直していただけば通じやすい発音になっていきます。

「ここのネジを取り替えてください」というのと同じように、努力すればだれでもできることです。  サイボーグのような能力はいりません。

読者の方から、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」は、「英語発音、日本人でもここまでできます。」付属のDVDで発音練習するときの参考書のように使っています」というメールをいただいたことがありますが、この2冊は一緒に活用してください。  

「なぜそういう練習をするのか」その原理もわかりますし、理解が深まると、相乗効果となって皆さんの発音がとても上達します。  発音は、口の練習だけではうまくなりません。  上手な人の発音って何か違いますでしょう?  体になじんでその音がでてきていますでしょう?  耳はもちろん、たくさんの感覚を使って習得すると上手になります。

表面的な練習だけやっていると表に現れないことが、その原理や仕組みを深く掘り下げて理解していると、口の動きに現れてきます。 

お手本の発音を聞いたとき、「どうやって発音しているのか手に取るようにわかる」この状態になるわけです。  この深く掘り下げる役目ををするのが、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」に書いてあることです。  

「上手な人の発音が何か違う」と感じるのは、口の動きの後ろにある、さまざまな感覚の関連性を意識して、練習しているからです。  「自分の体をどうするとあの音が出てくるか、体が知っている」この状態になっているからです。  表に現れたものだけ練習する場合、長く練習しても、あまり変化はありませんが、深く掘り下げて、練習していると、だんだん、音を捕まえる能力も向上しますので、長い間には、口の動きだけ練習してきた人とは随分違う発音が出来上がります。  発音練習の基本姿勢のブログに出てくる生徒さんみたいにですね。  「英語発音」と「続・英語発音」の本は一緒に活用してください。

私のDVDで発音練習をするときは、耳に注意を集中して音を聞いて下さい。
最初はテキストを見ながら練習していただいて結構ですが、文字に気を取られていると、実際の音よりも自分がこうだと思っている音のまま発音していることが多くあります。

私はDVDの単語の発音の練習のところで、Life や Leg のLの音をほんの一瞬ですが、日本語化しない「長さのあるL」で発音しています。  そういう音をできるだけよく聞いて、同じように言ってください。

Fight や Fin の Fの音も長さをもって発音しています。  Way や Wet の W の音も長さを保持して発音しています。  それを耳でよく聞いて同じように言ってください。
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* * * 


ブタさんが持っている旗については、こちらの「きのこの山とたけのこの里」というブログの後半を読むと、私がどうやって、子音の長さが聞けるようになったのか、書いてあります。

グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(2)

2022年4月15日 大学入試に記述式が導入されようとしたときに、盛んに、「書くことは思考力を高める」といわれました。 けれどもただ書かせるだけでは子供たちの思考力は上がらない、と私は考えています。 私は20代から30代にかけて、10年以上にわたって「自分が直面している問題をノートに書いて解決する」という手法を繰り返し使ってきました。 その経験から、書くことが思考力を上げるのは「書く前に自分の考えをまとめる作業」つまり、「重要な点を骨組みで考えていく作業をするからだ」と考えるようになりました。
このブログが終わったところに青字で書き足しましたので、お読みください。 題は「書くことがなぜ思考力を高めるのか」




私は2年位前からアメリカの高校の先生にお願いしてアメリカで生徒が書かされるエッセイ(小論文)の形式を一つずつ、実際に書いて教えていただいています。  (今は家の都合で、書く時間が取れずに中断していますが)

先生がくれた資料によると、エッセイ(小論文)には大きく分けて4つのタイプがあります。

1.Narrative essays
2.Descriptive essays
3.Expository essays
4.Argumentative (Persuasive) essays

私がこの4つのタイプの中で注目したのは、4.Argumentative (Persuasive) essays でした。  日本語で言うと、人を説得するタイプのエッセイです。    よく例に出されるのが、「日本は海外援助を増やすべきだ」などのテーマで、自分の意見を述べるエッセイです。  賛成でも反対でも、その選択自体はどちらでもよく、その自分の意見に他の人も納得できるような理由を提示して、その理由を裏付ける事実や例をあげて、自説を展開していくタイプのエッセイです。 

ただ、このタイプのエッセイは、必ずしも、賛成反対で進めるタイプだけではなく、例えば、息子が世界史の課題でやっていたように「ヒーローになるにはどのような特長を持っていることが必要だと思いますか」というような課題もありました。 もう、昔のことで、息子が何を書いていたかよく覚えていませんが、例えば「大衆からの支持があること」とか書いていたような記憶があります。 私は賛成反対より、こういう課題の方が、書く人の個性が出て面白いな、と思いました。 昨日の江戸幕府の課題はこちらのタイプになりますね。

賛成、反対について書くときには正解がどちらか、というようなことはなく、自分がそう思う理由と、その理由を裏付ける事実や例が、読み手に取って、十分納得のいくものであれば、高い評価を得られます。

ですから、どれだけ人が納得できる「理由」や「事実と事例」を選んでエッセイに入れるか、ということが生徒の能力として重要になってくるわけです。 


私は、アメリカで、先生からこのタイプのエッセイの書き方を習ったとき、日本の生徒たちがこういう訓練を小さいときから受けないのは、これからの時代、かなりのハンディキャップになる、と感じました。  なぜなら、このエッセイを書くときに考える、「理由」や「例や事実」の選び方によっては、他人の意見や判断に、強い影響力を行使できるからです。(私自身このタイプのエッセイを習っていて一番難しい、と思ったのが、自分の意見をサポートする「例や事実」を3つ提示することでした。 自分の意見は言える。 理由も言える。 でもその理由をサポートする「例や事実を3つ選ぶ」というのが、なかなか大変でした。 2つは言えるけれど、3つ目がなかなか見つからない、という場合が多かったですね。頭の中で考えるのではなく、現実の世界ですでに行われていることから選ぶわけですから、3つ選ぶのは難しかったですね。 私が今ここで書いているのは日本語(母国語)でこういう内容を書く場合についてお話しています。つまり、思考するトレーニングとしてこういうことを書くことを行う場合です。英語のトレーニングの為ではありません。 でも、これを英語で書く、という課題を時々見ることがあります。 けれども、高校卒業時の私は、こういうエッセイを英語で書く、ということはできませんでした。 高校卒業時の私の英語力では習った構文を使って文を書くことで精一杯でとても主張を展開するような英文は書けませんでした。 それをするには不十分な語彙や文の形しか知りませんでした。 たとえ自分の意見を英語で書いたとしてもその理由を短く言うことで精一杯で、とても、サポートする例や事実まで英語で書いて結論にもっていくようなエッセイは書けませんでした。そういうことが英語で書けるようになったのは大量の読書をして、いろいろな言い方を自分で使えるようになってからでした。もちろん英語力の高い高校生ならできると思いますが、普通の高校生の英語力は私と同じだと思いますから、自分の英語力で書ける簡単な内容の英文しか書けないと思います。しかも100字くらいでは簡単な内容しか表現できないでしょう。 私が英語のライティングの指導は、大学で大量の読書をした後に行ったほうが意味のある文章が書けるし、意味のある指導ができる、と思うのはこういう理由です。 このブログで私が述べているのはあくまでも自分が自由に使える母国語を使って考える訓練のために書く小論文について述べています。アメリカ人が自由に使える母国語(英語)でそういう練習をしているのですから、日本人は自由に使える日本語で「考える(書く)訓練」をしなければ意味のある「思考のトレーニング」は出来ない、と私は思いました。 英語でそれをするには高校卒業時の私の英語力ではとても無理でしたから。語彙も文章表現も不十分にしか使えない言語(英語)で思考の訓練は出来ません。 昨日例に挙げた色々なエッセイの内容(「江戸幕府長期存続の理由」「幕末から明治にかけて自分が共感する人物」など)を表現できるのは生徒が自由に使える母国語しかないと思います。)

国際社会で、価値観の違う国々が集まって何かを決めていくとき、相手が何を重要と考え、どういうことに影響されるかを知って、それを納得させられる理由を前面に出して、話し合いに当たれば、自分の望む方向で、相手も納得してくれる可能性が高いです。

こういうスキルを小さいころから訓練している人々と、比べると、日本の子供たちは、全く何も訓練されていないのですから、非常に不利だと思いました。  

しかもそういう人たちは、小さいころから、人前で自分の意見を言う、という訓練も受けていますから、自信をもって言うことが出来ます。  こういうことも場数を踏んでいない日本の子供たちは、不利になると思いました。


人間は事実や出来事を全部、同じように認識しているつもりでも、その中から、どういう事実をピックアップするかで、相手に与えるインパクトが違ってきます。  そういうことを小学校高学年くらいから訓練を受けて知っている、というのは、他人の考えに影響を与える方法を知っているという点で、有利だと思いました。  具体的には、4年生くらいから、やさしい課題で、自分の意見を書いて、その理由と理由を裏付けする事実や例を挙げて、説明する練習をします。  課題は年齢が上がるに従い高度になりますが、大学生まで、この形式は変わりませんので、大人になれば、そういう論理の組み立て方、説得する力のある事実の選び方などは、上手になるでしょう。「どういう根拠を上げれば強力な説得力になるか」この訓練を徹底的にするようです。


日本では、今までは、知識を暗記することが主な教育でしたけれど、これだけコンピュータが普及し、インターネットも使えるようになったら、知識を覚える教育は、ある程度にして、知識をどう使うか、その先の能力を鍛える教育をしていかないと、子供たちのこれからの社会をいきる力が育てられないと思います。 

身に着けた知識を踏まえて、何を目的として、どう考え、どう表現して自分以外の人々の協力を結集していけるか、そういう力を育てる教育をしていかないと、これからのグローバルな社会でやっていけない、と思います。

知識を覚えるだけの教育は、子供たちの力の半分しか使っていない、私はそう思いました。  現在、国際社会で働いている方々は、個人の経験と努力で、一生懸命そういう状況に対処していらっしゃると思いますが、これからは、そういうことを教育の場で、訓練していくことは大事だと思います。

大学生になって、「論理的に考える」とかプレゼンテーションやディスカッションをしろと言っても、そういうことは、小さいときから学校教育の場で、訓練していかないとできるようには成りません。  よくディベートのことが言われますが、ディベートもいきなりするわけではなく、こうやって、自分の考えを論理的に組み立てて書くエッセイの練習をして、先生の指導のもとに基本的なスキルを体得しながら、並行してディベートもするようになっていくのだということを今回子供たちのやっている課題を見て分かりました。  いきなり、ディべートをするわけではありません。

ディベートを推進したがる方の中には、アメリカで子供たちがディベートを訓練する前にこういうエッセイを書いて自分の意見を組み立てていく指導を受けて練習している、ということを知らない方が多いです。  だから、やたらに、○○について賛成派と反対派に分けて議論をさせる、とおっしゃる方がいます。  こちらの新聞記事に出てくる立教大学教授松本茂氏もそうです。 でも、私がアメリカ人の先生から頂いた資料を読む限り、エッセイを書く場合には反対派の視点を取り上げてそれについてコメントすることは基本のエッセイの形式には入ってきません。  まず、自分の意見をサポートする強力な根拠をあげて、事実や事例をどう選ぶか。 その指導を徹底して行うようです。 先生から「根拠をstrongに!」とよく言われました。 その根拠をサポートする事実や例を選ぶのも回数を重ねてやっていかないとなかなか3つは選べませんでした。 やはり、練習が必要です。  アメリカの教育の全体像を知らないで、ディベートだけ知って、どこに行っても賛成派と反対派で議論させるような指導は、いったい生徒になんの役に立つのか、よく考えてから行ってください。 指導にはきちんと順番があります。 まず、子供たちが自分の意見をまとめていく練習から入るのが正しい手順でしょう。 アメリカに行って自分の知らないことを見て、うれしくて日本で同じことをしようとするのでしょうが、指導にはきちんと順番がありますので、それを子供たちにきちんと行ってからにしていただきたいと思います。 こちらの新聞記事に出てくる立教大学教授松本茂氏の提唱する授業など、授業の目的は何なのか、よくわからないです。(解説はこちら) アメリカの子供たちが小さいときからどういう教育を受けているかも知らないで、聞きかじったことだけで、日本の教育をかき回さないでいただきたいと思います。



グローバルな世界に対応する教育というと英語のことばかり言いますけれど、英語については中学校でこちらのような学習をしてもらえば身につきます。  中学3年間で身につくものを小学校、中学校合わせて7年間もかけなくていいと思います。

一方、発表(プレゼンテーション)をする練習や論理的に考える、他人にわかりやすく書く練習をするのは、小学校からやっていかなければ、出来るようになりません。  特に人前で意見を言う練習(プレゼンテーションの練習)は小学校一年生からやらなければ、子供たちは絶対に変わらないでしょう。(こちらのブログ

私はグローバルな社会でやっていける子供たちを育てるために、小学校で教えるのは、この2つだと思います。  今まで、子供たちは、そういう指導を学校で受けることはありませんでした。  それでは、何の訓練も受けずに、異文化の世界に出ていくようなものです。  小学校では、文化の違う国を理解する授業も始まっていますが、「理解する」だけでなくそこに発信するにはどういう点に注意して発信を行えば効果的な発信ができるか、その練習はまだ、本格的に行われていないでしょう。  理解しているだけではなく、効果的に発信する方法を教え、訓練する必要があります。

こんなにコンピュータが普及して子供たちでもインターネットも使える時代なのですから、「どうすれば必要なことについて調べられるか」を知っていれば、知識だけを増やすことを、そんなに高い目標にしなくてもいいと思います。

グローバルな時代を生きる彼らに役立つ能力を育てるには、学んだ知識をどう使って、自分が「こうしたい」と思う方向で、どうやって多くの人々の協力を得られるか、そういう方法を教えて訓練していくことだと思います。



そして、世界の国々の中には、すでにその能力を小学生の時から鍛えている国があるという現実があります。  日本の教育は新しい時代に合わせて変えるべきだ、と誰もが思っています。  私たち、親の世代がなき後の世界を生きていく子供たちに今、大人ができるのは、そういう社会で、生きていける能力を教育で子供たちに育てていくことだと思います。  今まで開発されることのなかった、子供たちの中にある、もう半分の能力を引き出して育てていくことだと思います。  知識を身につけるだけでなく、身につけた知識をどう使って、自分達の実現したいことを現実にしていくか、そういうすべを身につける教育が必要です。

堂々と意見を述べている人は、「自信があって正しい」という印象を与えます。(こちらのブログを参照してください)内容が論理的ならば、その印象はさらに強くなります。  世界の国々の中で、そういうことを小学校から訓練している国があることを考えると、日本は、グローバル化に対応した学校教育として、英語で「ゲーム」だとか「歌」だとか、チイチイパッパみたいな英語教育を小学校でやっている場合ではないと、私は、思います。  (小学校から英語を勉強しても、子供の英語は、自動的に大人の英語にはならないのです。(こちらのブログに書いてあります) 成長していく年齢に応じた英語を使えるようにするには、大人になるまで、それぞれの年齢で英語を勉強していかなければなりません。)

そういう国では、論理的な思考力をつけるために、上に書きました説得的な文章だけでなく、その基礎になる説明的な文章を書く練習も小学生から始めています。
例えば、2つの物事を「比較」して説明する文章や、「原因と結果」を説明する文章などの書き方の基礎を小学校4年生くらいから学びます。  「比較」や「原因と結果」を明確にとらえる練習をすることが、説得的な文章の論理性をさらに増すことができるからでしょう。  小学校で英語をするより、プレゼンテーションの練習や、論理的に説明する文章の基礎を学ぶほうがずっと、グローバル化に対応した教育ができると思います。  何度も言いますが、英語については、こちらのように中学校で勉強していただけば、15歳のレベルで、完璧な英語コミュニケーション能力が付きます。  中学3年間で身につくものを小学校から7年もやらなくていいと思います。 

(続く)

2022年4月15日 書くことがなぜ思考力を高めるのか。

記述式が大学入試で取り上げられるようになった時、「書くことは思考力を高める」と盛んに言われました。 でも、ただ、書いているだけでは思考力は育たない、と私は思っています。 どう書く指導をすれば思考力を向上させることが出来るか、それについて書きます。 (表現力の問題は今回は含みません。 今回は書くことと思考力の関係について書きます。 私は記述式のテストをすれば、思考力が向上するのではなく、書くことを授業で教えることによって、実際に子供達の思考力を向上させていくことができる、と考えています。)

結婚前、会社勤めをしていたころから途中少し中断しましたがアメリカで子育てをしたころを含めて10年以上にわたって、日常生活で「自分が直面する問題をノートに書いて解決する」ということをやってきました。 まずその経験から入りますので、少し長くなりますが、お読みください。


結婚する前に、この会社で仕事をしていたとき、私は、それまで秘書の見習いの仕事をしていましたので、問題解決にあたるのは初めてでした。 秘書の仕事以外、ビジネスの経験はありませんでしたので、どんなに頑張っても、なかなか仕事がうまくできるようにはなりませんでした。

何とかしなければならない、と思った私は、失敗したとき、それをノートに記録することにしました。二度と同じ失敗をしたくなかったからです。 平日は、家に帰るのは夜の12時ごろでしたので、週末にノートにまとめました。

ノートには下のように書きました。

「起こった問題。 ―――――――> 結果(つまり、どのように事が運んで失敗したか)」
その矢印の棒の下に私が問題解決のために取った行動を縦書きにして書き入れました。 

そして、自分なりに「なぜ失敗したか」を考え、箇条書きにしました。 例えば、「事前に誰誰に話をしておかなかったから。」とか。 最初のころはもっとも初歩的なミスの原因として、製品の知識が不足していた、ということもありました。

そして、その原因一つ一つに対して、それを取り除くために自分は何をしたらよいか考え実行しました。   「どうすれば失敗は避けられたのか」それを考え、解決法を書き出し実行しました。 

製品についての知識が不足しているとわかった時は、製品について勉強しました。
バイリンガルクレタリーとして基本的なことが身についていないとわかった時は、そのための学校に行こうと思いましたけれど、会社を出るのはいつも夜10時過ぎでいけませんでした。 それで、そういう学校のパンフレットを取り寄せカリキュラムをみて、同じ教本を取り寄せ、自分で勉強しました。 通勤電車の中しか勉強の時間は取れないので、百科事典のように大きな教科書は持って歩けないので、20ページくらいずつコピーしていつも持ち歩いて勉強しました。

予期しないことが起こったり、とんでもないテレックスが入ってきたりすると、頭が真っ白になり何も冷静に考えられなくなる。  この問題については予期しないことが起きても冷静に考えられるよう、仕事中努力しました。 けれども仕事中だけ努力しても出来ませんでした。 それで、仕事中もプライベートな時間も何が起きても冷静に考えられるよう努力しました。例えば、日曜日、高校のクラスメートの結婚披露宴でテーブルを囲んで久しぶりに会った友達と談笑していたら、突然ホテルの方が近づいてきて、新婦側のスピーチが足りないのでしてもらえますか? と言われました。 準備などしていませんでしたが、これも訓練。「はい、わかりました」と引き受けて、頭が真っ白にならずに、スピーチをまとめる練習をしました。 こちらの勉強会を立ち上げるときの説明会では、仕事を終えて、説明会開始直前に渋谷の会場に到着しました。 すでにもう、たくさんの人がいらしていましたが、発起人の方から「この勉強会に皆さんをお誘いするスピーチをしてくれませんか」と言われました。 そんなことを頼まれるとは考えてもいませんでしたが、これも訓練。「はい、わかりました」と言って引き受けました。 仕事中も仕事を離れてもとにかくできる機会を利用しては予期しないことがおこっても頭が真っ白にならないで冷静に考えられる訓練をしました。 この時は会社で顔をざぶざぶ洗って会場に到着。 だから顔は寝起きと同じ。昔お化粧をしないで出勤して先輩に怒られたことがありました。スピーチの組み立てが頭の中で終わった時、そのことに気づいて「どうしよう」と思いました。客観的に見てどうでもいいことでも、自分のどこかに不備がある、と思っていると力強いスピーチは出来ません。 「屁理屈でも何でもいいから、自分を納得させなくちゃ。」と思い、「ここにきている人は勉強会のことが聞きたいから来ている。 誰も私の顔なんか見ていない」そう自分を納得させて、スピーチを始めました。 でも、寝起きと同じ顔なのは事実。 努めて笑顔で、お話しました。 (もちろん考えたときに、来た人が期待しているもの。この勉強会が提供できること。 この勉強会しか提供できないことを中心に考えました)この時はたくさんの方が入会してくださったので、発起人の方からお礼を言われました。 

このころ父が交通事故にあいました。 家じゅうがパニックのようになりました。 母の顔を見たら、もう「母は自分が生きている心地もしないのだ」とはっきりわかりました。 この時は会社にいても、家にいても冷静に考えることに努めました。 特に母を安心させること。加害者との交渉はお役所の方が力になってくださいましたが、難しいことも多く、家じゅうが沈みこみ誰がパニックになってもおかしくないような日が続きました。そういう中でもとにかく母を安心させたくて、努めて冷静に対処する努力をしました。 いろんなことが落ち着いたとき、姉から「お母さんも私も、不安で不安で何も考えられなかった。 ただただ典子についていった」といわれました。 毎日毎日が仕事でも家でも冷静に考える訓練でした。

ノートは週末に読み返しました。 読み返したとき「表に見えることだけが本当の原因ではない」と気づいたこともありました。

仕事の失敗の原因に、田中さんに事前に話をもっていかなかったから。 という理由が2回ノートに書かれていました。  それは直接の失敗の原因ですけれど、なんで2回も田中さんに事前に話を持って行こうとしなかったのだろう、と考えてみました。 そうしたら、「私はあまり、田中さんの仕事に信頼を置いていない」ということに思い当たりました。 私は田中さんがあまり好きではなかったのですね。でも、田中さんの協力なしに私の仕事は出来なかった。 これは何とかしなければいけない、と思いました。 私は田中さんの長所をノートに書き出してみました。 その中に、「田中さんはとても正義感が強い」というのがありました。 これはあの頃の私には大変重みのある長所でした。 私は、田中さんへの評価を180度かえ、それからは田中さんと、うまく協力していくようになりました。

目に見える原因だけが本当の原因ではない、とわかったことは子育てをしていたとき、随分役に立ちました。

しばらくたつと、だいぶ仕事ができるようになったので、そのノートには仕事がうまくいったときの事、自分の仕事が評価された時のことも記録しました。 「なぜ仕事がうまくいったのか」その理由を記録しました。

今、覚えているのはこういうことです。 いつも周りの人に助けてもらうばかりだった私は、自分は自分のできることでみんなの役に立てばいい、と気づきました。 それで、とても気持ちが楽になりました。



上司のNさんのところにはいろいろな方がお見えになりました。  あるとき、白髪の業界でカリスマのような方がお見えになりました。  そしてある英文の資料をNさんにお渡しになりました。   私はお茶をお出ししたとき(昔の女性はお茶くみも仕事でした)にその資料を見ました。  「あら、この記事ではこの分析は遠心分離では出来ないと書いてありますけれど、私がこの前読んだ資料ではこれは遠心分離でできるとかいてありました。。。。。変ですね。」と思わず口にしてしまいました。

そうしたらその白髪の方の顔がさっと変わりました。「君が読んだ資料ではこれは遠心分離でできると書いてあったのかね?」とおっしゃるので、「はい、出来る、と書いてありました。」とお答えすると、「私は君のそういう感想が聞きたい。」とおっしゃいました。 その方は人ができない分離・分析をできるようにしてしまうような方でしたので(だからカリスマみたいな人でした)、特にそういう情報に関心がおありだったのだと思います。 そして、「君は遠心分離などという英語を知っているのか。」とおっしゃるので、「はい、本社からいろいろなデータや資料が送られてきます。  一応全部目は通しますので、知っています」とお答えしました。

当時パソコンはありませんでした。 コンピュータといえば、銀行にあるような部屋を一つ使ってしまうような大型コンピュータでした。 だから営業の方は自分が必要な分析データを探すのに少し手間がかかりました。 当時、アフラトキシンのようなよく問い合わせがあるデータはいつも持っていらしたでしょうけれど、あまりなじみのない物質のデータは探すのに少し時間がかかりました。 私は文書管理が専門ですから、アメリカから送られてくる、顧客に使ってもらうためのデータや学術誌に掲載された記事などの資料に関しては、問い合わせのものがオフィスにあればすぐにお渡しすることができました。  それからは、データや資料についても丁寧に読んで、記憶するよう努めました。 白髪の方が時々持って来られる資料も丁寧に読んで内容を頭に入れておきました。 それに関連あることが書いてある資料がアメリカから送られてくれば、見ていただいたりしました。

私はそれまで、仕事でわからないこと、出来ないことがあると、取引先のそういう方々に助けていただきました。 助けていただいても私は何もお返しができませんでした。 私も営業の人間でしたら、情報や人脈などで、役に立つこともできたでしょうけれど、私には何もできることはありませんでした。 それをいつも申し訳ない、と思っていました。 でも、この時のことをノートに書きながら、私は英語の資料を読んだり、データを頭に入れておくことはできる。自分のできることで皆さんの役に立てばいいのだ、と思いました。 それで、随分気持ちが明るくなりました。 半分冗談でしょうけれど、「川合さん、結婚して仕事を辞めても、データがどこにあるか、電話で教えてくれる仕事をすればいいよ。」と言われたこともありました。 パソコンを誰でも使う今の時代の方々にはピンとこない時代の話ですね。

このノートは結婚した後、使いませんでしたが、アメリカに行ったとき、またノートに書くことを始めました。 価値観の違う国で、いろいろな問題に直面したとき、どうやって解決するかを考えるとき、思考を整理するのに書くことはとても有効でした。  例えば、こういうことがありました。

子供が3歳の時、幼稚園で、掲示物を貼るピンで、友達を刺す子がいました。 痛いですし、(子供にはないでしょうが)肝炎などはそういうことでうつりますので、担任の先生に度々止めさせてください、とお願いしたのですけれど、その子はやめませんでした。

担任の先生にお話ししてもらちが明かないので、私はその学年の主任の先生にお話に行くことにしました。 幼稚園に話に行く前にアメリカにいた親友にどうすればいいか聞きました。 彼女は「法的手段に訴える気がなかったら、まず、学校を訴えるつもりはない。と最初に言いなさい。」と言いました。  「訴えられるかもしれない、と思うと向こうも構えるから、訴えるつもりがないなら、それを最初に言って、とにかくやめさせてほしいのだ、といいなさい」そういわれました。 この時、主任の先生がいろいろな努力をしてくださったのですけれど、結局、その子はピンで刺すことをやめませんでした。 最後に主任の先生との話し合いで、その方が、「私がミセスビットナー(担任の先生)のクラスに入って、その子が友達を刺しそうになったらとめます」とおっしゃったのですけれど、私はそれを聞いたとき、「これはだめだ」と思いました。 私が教師になったころ、よく、「教師は一国一城の主(あるじ)」と言われていました。 そこに主任の先生といえども、部外者が教室に入ってきたら、結局うまくはいきません。 だめだ、と思った私は幼稚園を変える決心をしました。 夫に言ったら反対されました。 「日本人の中であまり、目立つ行動をしてほしくない」というのが夫の方針でした。 その幼稚園にはたくさんの日本人のお子さんが通っていました。

私はノートに夫の意見。 私の取りたい行動。  そして、次の行に「今、一番大事なのは何か」と書きました。  私は普段は夫の意見を尊重していましたが、この場合は、一番大事なのは「子供の健康」でした。 「今のままでは子供の健康は守れない」「新しい幼稚園を探す」 私はそうノートに結論を書いて、新しい幼稚園を探すことにしました。 今の幼稚園にはたくさんの日本人のお子さんが通っていました。 だから私が具合が悪い時に自分のお子さんと一緒に私の子供を連れて行ってくださる方もいて、そういう環境から出ることは不安でしたけれど、「一番大事なことは何か」これを常に確認して、一人で新しい幼稚園を見つけて9月から息子を入園させました。

幼稚園の見つけ方についてはこれも親友に聞きました。 「幼稚園に実際に自分で行ってごらん。先生に会ってお話をし、教室を見て、子供を見れば、こんなところには絶対入れたくない、と思う幼稚園もわかるし、ここなら大丈夫、というのもわかる」といわれました。 それで、たくさんの幼稚園を見学しました。 新しい幼稚園には日本人の子供はうちの子ともう一人の女の子しかいませんでした。 でも先生がしっかりしていてよい幼稚園でした。 ですから、夫も何も言いませんでした。 日本人の子供が少なかったので、息子はアメリカ人の子供たちと遊んでいるうちに英語も身に着けました。 1年生になった時、普通、日本人の子は毎日1時間くらいESLのクラス(英語が母国語でない子供のためのクラス)で勉強するのですが、「太郎は必要ありません。」といわれました。 

他にもお母さん同士の問題がおこった時や、誤解を解くすべがなくてどうしたらよいかわからないときなど、私は、問題をいつもノートに書いて考えていきました。 心配や不安で気持ちが不安定になって、頭の中が混乱しているとなかなか、正しく考えられません。 そんな時、書いていくと少しは冷静に問題点を整理できました。

書くことが思考力を上げる、としたら「枝葉の部分を取り除いて、もっとも重要な要素だけを見ながら考えていけるからではないか」と思います。 つまり骨組みで考えていけるから、的確な思考が出来るのではないか、と思います。 その時、重要なことと枝葉の部分をより分けていく判断力も培われると思います。  私がアメリカでよく聞いていたトークラジオの人生相談のドクタージョイ・ブラウンは、やはり書くことが「的確に考えられるようにしてくれてよい結論やアイデアに導いてくれる」と思っていたようでした。 番組の中でよく「そういう時は紙と鉛筆を用意して問題を整理しましょう。」と言っていました。  

いろいろなことが頭の中で、ごちゃごちゃとしていると、何を軸にして考えていったらよいかわからなくなります。  幼稚園をやめるときも、いろいろな人から、いろいろなことを言われました。 例えば、幼稚園の先生に「その子がピンで刺すことをやめさせてほしい」と私がいうこと自体、「そんなことをしても、何にもならないからやめた方がいい」と私に言う日本人のお母さんもいました。

そういうことに惑わされていると大事なことを見失います。 つまり、自分は何のためにこういうことをしているのか、それを常に自覚していないと、問題の解決は図れなくなります。 書くことによって、自分が大事だ、と思うことに照準を合わせて骨組みで考えていける、というのが思考力を上げるために役に立つと私は感じました。  


だから、2度目の赴任で、アメリカの高校生のエッセイ(小論文)の書き方、つまり最初に骨組みで考え、それに基づいてエッセイを書く手法を見た時、これは「骨組みで考えるよい訓練になる」と思いました。 それで、息子にエッセイの書き方(ライティング)の指導をしてくれる先生にお願いして、私も教えてもらいました。

具体的な内容はグローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1) とこのブログ(グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(2)に書きました。

思考力、思考力といってただ書くだけでは子供たちの思考力は上がりません。 私は自分の受けた学校教育を思い出すと、作文の指導はありましたけれど、自分の言いたいことを骨組みで組み立てて、文章を書く、という練習はしたことがありませんでした。  書くことについては、中学3年生の時に、朝日新聞天声人語を毎日要約する、という勉強を行ったことはありますけれど、思考を組み立てて文を書く、という練習はしたことがありませんでした。  書くことによって思考力を上げるにはただ文章を書かせていてもだめで、子供たちにどういう思考ができるように訓練していくのか。 まず、指導者がその骨組みを示して、そのひな形に合わせて子供達に書く練習をさせて行かないと、思考力を育てる書き方はできないと思います。

こちらのブログには娘が6年生の時に「割合」を習ったときに受けた数学の授業で、先生が生徒たちに出した課題が書いてあります。

― 好きな野球チームを2つ選ぶ
― それぞれのチームの各選手の打率を調べる
― それぞれのチームの平均打率を求める
― 2つのチームの平均打率を比べる
― どちらが攻撃力のあるチームだと思うか
― その理由は何か。
― 数学は物事を調べる時にどのように役に立つか。


内容はプレゼンテーションの練習ですが「思考の組み立て方」「その材料の集め方」を先生が最初から最後まで、全部、指導して示しています。やはり的確に思考して結論に導くには最初は、先生が「こういう風に考える(骨組み)」「こういう作業をする」ということを具体的に生徒に教えていくのが一番効果的だと思います。 

よい書き方を子供たちに試行錯誤しながら見つけさせるのではなく、最初は先生が「良い書き方」「良い思考の仕方(骨組み)」をそのまま子供たちに真似させて、その形式でたくさん書く練習をさせていく方が、単位時間当たりの成果が高いと思います。

それでは、生徒の興味や個性を育てられないと心配される方もいらっしゃると思いますが、「江戸幕府が250年という長期にわたり存続した理由を書く課題」を見ていただけば、その心配は解消されるでしょう。  生徒たちは自分なりの意見を提示して根拠を示すことができます。

6年生の娘の数学の例はまず最初の訓練だったのだと思います。 こうして、思考の組み立て方を学んで身に着け、その後、自由な意見で、同じように思考を組み立てて書くことができるようになるのだと思います。

誰でも文章を書く前に自分の考えをまとめる作業をしています。 私がアメリカで見たエッセイ(小論文)の書き方はその考えをまとめて書くときの組み立て方を一定の形で表したものでしょう。

先生方は毎日子供達と接していらっしゃいます。 子供たちが、何ができて何ができないか、これを一番よく知っているのは先生方です。  まず、その子たちにできる、簡単な思考の組み立て方から教えて、だんだん高度なものにしていかれたらいいと思います。 何も全部アメリカの真似をする必要はありません。 参考になるものは参考にすればいいです。 

例えば、小学校高学年で最初に比較について書く、という例題を見ていたら、Aというピザ屋さんとBというピザ屋さんの比較について書く、という課題もありました。 これなら小学校高学年でも書けるのでしょう。

私は参考までにアメリカで先生に習った文章の組み立て方をブログ「グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1)(2)」で書きましたが、日本の子供たちには今までそういう練習はなかったのですから、先生方が、まず、子供たちにも無理なくできる、という課題から始められたらいいと思います。  これは大学入試のためにいきなりやっても身につきません。 小学校高学年くらいから少しずつ訓練していくと年齢に応じて、高度な問題も上手に書けるようになるのでしょう。 もっともこういう思考を本格的に鍛える時期は高校生のようですけれど、大学入試のために始めるのではちょっと遅いと私は思います。もう少し小さい時から少しずつ書く練習を取り入れていった方がいいと思います。 小学生や中学生のころは自分の意見を主張することより、観察したことをわかりやすく説明する文章を書いたり、2つのものの比較をする文章を書いたり、起こったことを時間の経過に沿って書く練習の方が子供たちにやりやすい、と先生が判断されれば、そういう練習を中心にするのがよいと思います。  (論理的に書く練習は重要ですが、書きたいことを形式にこだわらずに自由に書ける、日本の作文のような書き方もぜひ残しておいていただきたいと思います。  私は、娘が中学3年で帰国して、受験科目に作文がある高校を志望校に選んだ時に、娘に作文を書かせてみましたら、全く書けませんでした。 その時、全国作文コンクールの入賞作品が収められている本を買って娘に読ませました。  ところが5文字ごとにつっかえるような読み方で、困りました。 それで私が代わりにいくつか読んで、録音し「作文はこういう風に書くの。聞いてみてね。」といって娘に渡しました。  私はその時読んだ入賞作品にとても感動しました。  社会の問題にこれほど真剣に向き合っている生徒がいる、家族の絆をこんなに大事にしている生徒がいる、などなど。。。本当に感動しました。 アメリカで、高校の先生にエッセイの書き方を習っていた時に、「こんなに論理的に考えて、意見やそれを裏付ける事実や例をたくさん用意しなくても、思ったことをそのまま書けるような文章をたまには書きたいなあ、と何度か思いました。 そういう文は、読んだ人に、書いた人の感情や状態を追体験させるような文章でもありますね。 そういう形式もまた、大事だと思います。作文の指導もぜひ続けていただきたいと思います。論理的な文章ばかりだと、私などは息が詰まってしまいそうなこともありました。) 生徒に書かせる内容は、先生方が今生徒たちにどういう事柄について考えてほしいか、それを題材にされたらよいと思います。 例は、こちらのブロググローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1)」にもいくつか載せてあります。

アメリカ人の先生にエッセイを教えてもらっていたとき、原因と結果について書く、という課題の例を見ていたら、「妊娠中絶が女性に及ぼす心身の影響」というものもありましたので、かなり専門的な分野でも「比較」や「原因と結果」「自分の意見を述べる」などの形式は、そのままつかえるのだと思いました。

先ほどのプレゼンテーションの練習でも見ていただきましたが、国語以外でも書くことはよく行われていました。 息子の宿題を見ていましたら、数学でも週3回宿題が出るとしたら、そのうち2回は記述式で答える問題が5問のうち1問入っていました。 物理の宿題でも記述式のものがありました。  化学のレポートもありましたし、書くことは文系、理系の科目どちらでも宿題はありました。(文学的文章は除きます)

ですから、どの科目の先生でも、論理的に思考を組み立てて書く指導を「自分の教科で使われる形」で生徒に教えていかれたら良いと思います。

漠然と「思考力を上げるから記述式」と言っていても子供達の思考力は上がらないと思います。 学校で、先生方が各教科、こういう思考の仕方ができるようになってほしい、と思う形をまず、骨組みとして子供たちに教えて、それに沿って書かせる練習をさせていかれたらいいと思います。 大学入試に記述式を出題すれば思考力が上がるわけではありません。 やはり授業で先生方がこういう思考の仕方(骨組み)をしていくと筋道を立てて考えられる、という形を教えて、子供たちに練習させていかれるのがいいと思います。 その時、どういう事例が重要で、どういうことが、それほど重要な意味を持たないか、取捨選択をする判断力も培われていくでしょう。

私は書くことそれ自体が思考力を上げるのではなく、

書くためにする次のこと
(1)結論にもっていくまでの思考の組み立て。(骨組みで考える)
(2)事柄の整理(たくさんある事柄の中から自分が書こうとするテーマにおいて重要な事柄とそうでない事柄を見分ける判断力。)

これらが思考力や判断力を向上させていくと思っています。


文部科学省も思考力を育てる書く練習が必要だと認めていますので、これは文部科学省の方針にも沿うものだと思います。 各教科、良い指導例は多くの先生方に共有してもらったらよいと思います。





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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)




* * *

この後は、いつも書いていることです。

* * *

7月30日以降、私は、いつもブログに書いている3つのことの2番目、「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について」という項目の最初のほうに文章を付け加えました。 

それをお読みになると私がこの4年間、全く名前を出すことのなかった石渡誠氏の名前をなぜ書くようになったのか、その理由がお分かりになります。

英語で考える指導法の提唱者、石渡誠氏は、その方法が有効であるならば、日本語訳を使わず、アラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうかご自身でやってみて、その結果を公開してください。  「英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきて、良いことです」(2017年7月30日のブログ)などとおっしゃるのは、それを自分で証明してからにしてください。
  
自分で、その証明ができないなら、「英語で考える指導法」は、本当は実在しない「英語で考える詐欺指導法」であり、「英語を英語で理解する指導法」は、本当は実在しない「英語を英語で理解する詐欺指導法」ということです。この詐欺指導法を提唱する石渡誠氏は、自分が日本中の高校生、中学生(「英語で授業」は決定されましたが、まだ実施はされていません)にどれほどひどいことをしてきたか、真剣に自覚されたほうがいいと思います。 

教師としての良心があるなら、自分の商売を拡大する前に、今もなお石渡氏の「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になっている日本中の高校生、中学生にすることがあるでしょう。

石渡氏の2015年5月7日のブログを読むと、文部科学省にこの「英語で考える詐欺指導法」を持ち込んだのが石渡氏であることが分かります。  私たち国民は、この「英語で考える詐欺指導法」がどうやって文部科学省に持ち込まれたのか、知る権利(国民の知る権利)がありますので、このことを書き添えました。

私は、その数か月後、頭の打撲が治ったころ、インターネットで検索して、石渡氏のブログに書かれていたこの会合についていくつかのブログを読みました。  そこには、「この会合には英語界の重鎮中の重鎮の方々が集まっている」とか「英語教育界の大御所の方ばかり」とか書かれてありました。(「2015年5月5日 ついに変わる! 英語教育改革の全貌」で検索すると現在でもいくつか出てきます。)

石渡氏の5月7日のブログを読んだ私は、「どんなに立派な肩書をお持ちの英語教育の専門家の主張であっても、私の経験に照らし合わせてその主張が間違っていたら、私は一歩も引いてはならない」と決意しました。  そうしないと、日本中の子供たちが、「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になってしまう」と思いました。

それで、2015年6月1日のブログを書きました。  どれほど、中学の英語の授業を英語ですることを阻止したかったかといえば、頭を打って、容体が急変した時は、知人にこのブログのアップを頼むほど、私は、それを阻止したいと思いました。(その時のことはこちらのブログに書いてあります)

石渡誠氏は、日本中の子供たちに誤った指導法をさせて、教師として、良心が痛むことはないのでしょうか。  今日も一生懸命、学校で勉強しているたくさんの子供たちのことを考えたことはないのでしょうか。

* * *

私は随分長い間、自分の本のランキングを妨害されていますが、おそらく、やっている人は、私が英語教育の分野からいなくなるまで、妨害を続けるのでしょう。

ただ、私は、英語教育の分野からいなくなるわけではないようです。

こちらのブログに書いた外国人の方が、1999年11月にこのことの後、どういう結末になるのか、私に教えてくれました。  少なくとも、私は妨害されて、英語教育の分野からいなくなる、とは言われませんでした。

18年前、その結末を聞かされていたので、私は、「英語耳」の松澤喜好氏に盗作されようと、妨害されようと、日本人が誰も聞けない音について本を書いていようと、今日まで、頑張って来ることが出来ました。  どんな立派な肩書を持つ英語教育の専門家の言うことも自分の経験から見て、間違っていたら、一歩も引かない、という決意ができたのも、文部科学省の方針に正面から反対したのも、50年間信じられていた松本亨さんの主張を否定したのも、この後、どういう結末が訪れるのか、あの時、その人から聞いていたからでした。  

なぜ、その人が、私にそんな先のことを教えてくれたのか、その時は分かりませんでしたけれど、今は、わかる気がします。

たぶん、その方は、2008年以降、私がどれほど苦しい思いをするかご存じだったのだと思います。 2008年以降、私が「英語耳」の松澤喜好氏と、KADOKAWA/アスキーメディアワークスのためにどれほど泣くことになるか、ご存じだったのだと思います。(詳細はこちらです。)  その時にくじけないように、その苦しさの先にある結末を教えてくれたのだと今は、思っています。

もう私の本のランキングを下げるなどという行為はおやめください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス社長塚田正晃氏は「著作権法に抵触するのは犯罪行為だ」と言っています。(こちら) 松澤さんは、「松澤は盗作!というのはすごーい!」とHPに書いていましたが、塚田さんの主張によれば、盗作は犯罪行為です。  

他人のランキングを妨害するのも、営業妨害ですから、犯罪行為です。    

もう妨害はやめてください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス(塚田正晃社長)は、隠ぺい工作までして、著者が自分のホームページで盗作を豪語するような悪質な出版はやめてください。(詳細はこちらです。)

* * *
私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *

ここから先は、毎回掲載している3つのことです。「なぜ毎回3つのことを掲載するのか」その理由については、こちらのブログをご覧ください。 

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英語教育について

文部科学省の英語教育の方針は、効果がありません。

今年3月に発表された中学校の学習指導要領(英語)は全く効果がありません。  理由は、2017年10月12日のブログをご覧ください。


以下、効果のないものを列挙します。
1)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がありません。  (理由はこちら
2)「CAN-DOリスト形式」は効果がありません。 (理由はこちら
3)「4技能」は効果がありません。  (理由はこちらこちら
4)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではありません。 (理由はこちら
5)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受けます。 (理由はこちら
以上の理由により、文部科学省の方針は効果がありません。

「発音」、「語順」、「英語で考える」、それぞれを習得する方法は2015年10月19日のブログ「川合式英語学習法」をご覧ください。

これは全部私自身がやってきたことです。  こうすれば、生徒たちは必ず通じる英語で話すようになります。
英語で考える指導法を提唱する人たちのように、「自分は日本語訳を使ったけれど、生徒たちは使うな」というような、誰も実際にはやっていないような指導方法ではありません。  私は全部自分でやっています。


「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について

松本亨氏の「英語で考えるためには日本語訳を使ってはいけない」という主張は2006年、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになった事実によって否定されました。 

「英語で考える指導法」は詐欺である可能性が高いです。

松本亨さんの書いた「英語で考える本」「英語で考えるには そのヒケツと練習」という本に書いてある練習をしても英語で考えるようにはなりません。(2月4日のブログ「英語の思考活動」、3月1日のブログ「先生の宿題のプリント「英語で考える」ってどういうこと?」を参照してください)

英語で考える指導法を掲げる英語学校FORWARDの指導者、石渡誠さんは、松本亨さんの「英語で考える本」「英語で考えるには −そのヒケツと練習−」という本で勉強すれば英語で考えるようになると2017年1月19日のブログで言っていますが、この2つの本で勉強しても、英語で考えるようにはなりません。  「この方法を26年教えてきた」と書いていますが、26年間も効果のない方法を教えてきたというのは驚きですね。  

私は、この件について、松本亨さん(著作を含めて)以外の固有名詞を入れることをずっと避けてきました。  けれども、石渡誠さんの2017年7月30日ブログの冒頭の

日本の英語教育界もようやく変革の時が!英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきています。良いことですが、

という部分を読んで、明記することにしました。  日本中の高校生を犠牲にしておいて、まだこういうことを言っていることに怒りを覚えました。  文部科学省でさえ、もう、中学校の英語の授業を英語で行うとは、言わなくなったのに、と思いました。  

石渡誠さんは、26年間も授業料を取って、「効果のない方法」を「効果がある」と偽って教えてきて、謝罪も損害賠償もしないのですか?  そうやって、「何を言っても何の責任も取らなくていい」と思っているから、いまだに「英語を英語で教えるのが良い」などとおっしゃるのでしょう。  

でしたら、ご自身がアラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうか示してください。  それが出来ないのであれば、「英語を英語で理解する指導法」が間違っていたと認めてください。  そういうけじめをつけないからいつまでも「英語を英語で理解する」などという指導法を主張し続けるのでしょう。

日本中の高校生が迷惑していますので、自分もできない指導法を提唱するのはやめてください。

自分の商売のために子供たちを犠牲にするのは、もうやめてください。

Je suis Charlie. と母国語で言うフランス人が I am Charlie.という言語を学ぶとき、母国語の意味を参考にしていないはずはないでしょう。  日本人は誤った指導法を50年も信じて、大きく後れを取りました。


私は、英語で考える指導法の提唱者が、「Freedomを日本語に訳すとニュアンスが分からなくなるから英語のまま言わせる」とブログに書いているのを読みました。  でもそれでは何も教えていないのと同じです。

生徒から、アメリカ人にとって自由というのはそんなに大事なものなのですか?と質問されたら、アメリカ史がご専門の先生なら、「建国の歴史を勉強してみるとその理由が分かってきますよ」とお答えになるでしょうし、時事英語がご専門の先生なら、ニュースの中から、アメリカが個人の自由を制限する国に対して、非常に厳しい外交政策をとり、しかも大多数の国民がそれを支持しているというニュースを選んで、生徒と一緒に勉強していくでしょう。

Freedomを日本語に訳さずFreedom. Freedom と生徒に言わせる、などというのは何も教えていないのと同じことです。

それは、次のような例を想像してみるとよくわかります。

もし、アメリカで、日本語を学んでいる生徒が「日本の武士道とはなんですか?」と教師に質問した時、「日本人にとって武士道が、どういうものなのか知りたかったら、武士道を英語に訳さず、日本語のままブシドウ、ブシドウといいなさい」 などと指導する教師は一人もいないでしょう。   

仮に先生が「これが、日本語を日本語で理解する指導法だ」「日本語で考える指導法だ」などと言っても、生徒はばかばかしくてする気にもならないでしょう。  保護者からは「まじめに教えろ」と言われるでしょう。 

これが英語で考える指導法の正体です。

教える方は何も教えていない。
学ぶ方は何も学んでいない。
これが英語で考える指導法の正体です。

だから私はこの方法は詐欺だと言ったのです。(こちらのブログ

以前、この「英語のままFreedomと言わせる」と言っていた学校のブログで、車を売って受講料を払って学んでいるという生徒の例が紹介されていました。  それほどの高額の授業料をとって、「だますつもりはなかった」「知らなかった」では済まないです。  
詐欺は犯罪です。

詐欺は、刑法で刑罰が定められている犯罪です。

また、そのブログで、英語で考える指導法をする人々が、生徒の英和辞典を取り上げたり、生徒に英和辞典を窓から捨てさせたりする、ということも読みました。  中には最後まで生徒に英和辞典を返さなかったこともあったそうです。

「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただくとわかりますが、英語のわからない生徒にとって、英和辞典は命綱です。  英和辞典があるから、英語の意味が分かるようになります。  これを取り上げるなど、間違った指導法を盲信する指導者の誤りです。  英和辞典を取り上げれば生徒の英語力が上がるなどということは絶対にありません。

この詐欺商法を、中学や高校に持ち込んだのが文部科学省の「中学、高校の英語の授業を英語で行う方針」です。
だから、私は、「学校で詐欺を行わないでください」と申し上げたのです。
税金を詐欺に使わないでください、と申し上げたのです。
高校英語教育はいまだに詐欺ですね。
学校で詐欺教育をするために、車一台売るどころではない、莫大な税金が使われています。

早くやめてください。
高校時代は、高校時代にやらなければならない訓練があるのです。
複雑な英語を読み始めるときにどうしてもやらなければならない訓練があるのです。
この時を逸すると、取り返しがつかないのです。  高校生がかわいそうですから、「学校で詐欺」はやめてください。

発音練習について

学生時代、私はアメリカのセルフヘルプの本を読むのが好きでした。  当時、そういう本は翻訳しか入手できませんでした。  その中にこんな話が書いてありました。

チャーリーさんが自動車の調子が悪くなり、修理工場に持ち込みました。  修理が終わって取りに行ったとき、調子が悪かった原因を尋ねると「OOのネジが一つ壊れて、不具合が生じていたので、新しいネジに変えました」と説明を受けました。

請求書を見てみると、とても高い金額でしたので、チャーリーさんは、「ネジ一つ取り換えただけなのに、これでは金額が高すぎます」と文句を言いました。  そうしたら、修理をした人が、「最初は、何が原因となって不具合が生じているのかわかりませんでした。  それで、私は自動車の内部を全部調べました。  そしてOOのネジが壊れていることを発見したのです。  自動車内部をすべて調べるのに何時間もかかりました。  請求書はその労働の代金を含んでいるのです」と言いました。  チャーリーさんもその説明で納得しました。

この話は、どこを直せばよいかわかっているものを直すのは、簡単ですが、どこが悪いかわからないものを直すのは大変だ、ということを例えた話でした。

私は中学時代に英語のきれいな発音に魅了されて発音練習を始めました。  中学生でしたから一生懸命練習すればお手本のアメリカ人と同じ発音になると信じていました。  一年半くらいはちっともうまくなりませんでしたが、その日の練習が終わると、自分が今日練習した分だけお手本の発音に近づけたと思えて、とても、心が満たされていたのを覚えています。  一年半くらいは目に見えてうまくなってはいませんでしたが、毎日練習が終わって、テープレコーダーの手あかを白いハンカチできれいにふき取ってしまうときは、とても気持ちが充実していたのを今でも覚えています。

だから発音練習は大変だ、とかつらいとか思ったことはありませんでした。(決してうまくはなかったのに、です)

最初の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」(赤い本)の原稿を書いていた時、私は編集してくれた人に次のような心配をお話ししたことがありました。

「読者の皆さんに、私は何の苦労もなく、発音を習得した、と思われると困るのですが、、、」
そうしたら、編集をしてくださった方からこういわれました。

「川合先生の本を読んで、川合先生が何の苦労もなく発音を習得した、と思う人はいません。  そんなことを心配するより、むしろ、こんなサイボーグみたいな練習をしなければ発音はうまくならないのか、と思われることをご心配なさった方がよろしいんじゃありません?」

編集をしてくださった方は、スタンフォードでの留学経験もありますので、英語がとても上手な方でした。  こういうユーモアのセンスもお持ちでした。

私は苦笑しながら「はい。。。。」と言って、すぐひき下がりました。

確かに文全体をお手本と比べて違いを探すにはサイボーグみたいな能力がないとだめだ、と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。  (先日夫がチャンネルを回していたら、ターミネーター3でシュワルツネガーさんが人の着ている洋服を見て、一瞬で、それが自分に合うかどうかをピピピピ。。。と判断する場面がありました。  サイボーグと言うとそういうイメージが浮かんできますね。)  

けれども、発音を直すときは、最初は、気づいたところから直していけばいいので、本当はそういうことはないのですが、人によってはそんなことはとてもできないと思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、その2年後、私は、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑の本)を出版しました。  そしてその本に、どこを比べて何を直したらよいか書きました。  漠然と、文全体を比べたら違いは分からないかもしれませんが、「この音のこの違い(例えば、長さ)を聞いて下さい」とピンポイントで言われれば、誰でもそれは聞けます。

先ほどの自動車修理工場の例でいえば、どこに原因があるのか車の内部全体を調べるのはとても時間がかかって大変ですが、「ここのネジを変えてください」と言われれば誰でも出来るのと同じことです。  具体的に言われたことはやりやすいです。

「続・英語発音、日本人でもここまでできます」にはどこを聞いて何を直せばよいのか、書いてあります。  そのポイントは日本語のくせから来るものがほとんどです。  それは日本人に共通する発音の問題点ですから、そこを聞いて直していただけば通じやすい発音になっていきます。

「ここのネジを取り替えてください」というのと同じように、努力すればだれでもできることです。  サイボーグのような能力はいりません。

読者の方から、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」は、「英語発音、日本人でもここまでできます。」付属のDVDで発音練習するときの参考書のように使っています」というメールをいただいたことがありますが、この2冊は一緒に活用してください。  

「なぜそういう練習をするのか」その原理もわかりますし、理解が深まると、相乗効果となって皆さんの発音がとても上達します。  発音は、口の練習だけではうまくなりません。  上手な人の発音って何か違いますでしょう?  体になじんでその音がでてきていますでしょう?  耳はもちろん、たくさんの感覚を使って習得すると上手になります。

表面的な練習だけやっていると表に現れないことが、その原理や仕組みを深く掘り下げて理解していると、口の動きに現れてきます。 

お手本の発音を聞いたとき、「どうやって発音しているのか手に取るようにわかる」この状態になるわけです。  この深く掘り下げる役目ををするのが、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」に書いてあることです。  

「上手な人の発音が何か違う」と感じるのは、口の動きの後ろにある、さまざまな感覚の関連性を意識して、練習しているからです。  「自分の体をどうするとあの音が出てくるか、体が知っている」この状態になっているからです。  表に現れたものだけ練習する場合、長く練習しても、あまり変化はありませんが、深く掘り下げて、練習していると、だんだん、音を捕まえる能力も向上しますので、長い間には、口の動きだけ練習してきた人とは随分違う発音が出来上がります。  発音練習の基本姿勢のブログに出てくる生徒さんみたいにですね。  「英語発音」と「続・英語発音」の本は一緒に活用してください。



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ブタさんが持っている旗については、こちらの「きのこの山とたけのこの里」というブログの後半を読むと、私がどうやって、子音の長さが聞けるようになったのか、書いてあります。
ウサギさんの持っている旗については、こちらのブログ「松本亨氏が提案した「英語で考える指導法」はインプットをさせないでアウトプットだけをさせる方法 英語学習者が実際にはできない机上の空論でした」をお読みください。

グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1)

私のブログには為政者から激しく妨害されているものがいくつかあります。このブログと併せてお読みください。日付をクリックすると移動できます。
2020年3月17日 各大学はスピーキング試験(民間試験)をする必要はありません。大学の先生方は受験生を騙す詐欺(犯罪)に加担するよう強制されることはありません。いかなる団体においても犯罪を強要する方針は無効です。(民間試験は50年やっても4技能向上に効果はなかった。)

2020年2月29日 ポートフォリオはベネッセの見込み顧客(高校生)のデータを国家に集めさせる極めて危険で悪質な手段です。 下村博文議員と安倍総理大臣がすべての国民のIDと個人情報をベネッセに与えてよいのですか。

2017年11月2日 中学時代に、きちんと発音習得を行った英語教育の専門家はいないのでしょうか?

大学入試改革を担った鈴木寛教授が実際には英語教育に全く無知であった(カタカナ発音と英語発音の区別も出来ない)ことについては2020年4月23日のブログに書いてあります。 鈴木寛教授のことを書いたとたん為政者から激しい妨害が始まりました。




私はこちらのブログで、グローバルな世界でやっていける子供たちを育てるには答えが一つしかない教育では出来ないと述べました。  答えが一つだけの教育というのは知識を教えること、暗記することが最終的な目標になる教育です。

では、答えが一つではない教育というのはどういうものかというと学んだ知識を基に考え、自分なりの結論を出し、その考え方や結論を相手に分かりやすく提示していく能力をつけていく教育です。

例えば日本史の授業で、江戸時代について学んだとします。  従来の教育では江戸時代の出来事について学んで暗記をします。  そこで勉強は終わります。  そうではなくて学んだことを踏まえたうえで、自分で考える課題を与えていきます。  例えば、

徳川幕府が265年という長期にわたって安定して存続できたのはなぜだと思いますか。  その理由を考え、具体的な出来事や例を挙げて説明しなさい。」

こういう課題があったとします。

生徒Aは、この課題を考えて、「徳川幕府が265年も続いたのは財政が窮迫するたびに幕府が改革を行ったからだ」と考え、江戸の3大改革を具体例として挙げて説明します。

生徒Bは、「徳川幕府が265年も続いた理由は幕府の制度の中にあった。  他の大名が強大になることを防ぐ仕組みがあったからだ」と考え、その例として、参勤交代の制度を上げて、説明します。  外様大名が参勤交代によって、莫大な費用を使わされたことが、幕府の反対勢力が強大になることを防いでいた、と説明します。

生徒Cは、「鎖国をしていたから徳川幕府は長期にわたって安定した統治を維持できた」と考えるかもしれませんし、生徒Dは、「武士道という忠誠心を育てる教育によって、「主は主足らずとも臣は臣たるべし」と教え込み、いかなる理由があっても現在の秩序を維持することが最も大事だと、武士に教え込んでいたから」と述べるかもしれません。

先生は日本史を踏まえて、生徒の意見とそれを裏付ける事実や例が適切であれば、高い評価を与えます。

この過程で生徒は、次の5つの作業をします。

(1).江戸時代の出来事を復習する
(2).なぜ徳川幕府が長期にわたって存続したか考え、自分の結論を出す。
(3).自分が考えた理由の根拠となった事実や例(江戸時代の出来事)から、読む人も納得できるものを選ぶ。
(4).読む人にわかりやすく、理由とその根拠となった例や事実を組み合わせて文章の構成を考える。 
(5).エッセイ(小論文)を書く。


従来の勉強ですと、(1).で勉強は終わりますけれど、ここでは(2).(3).(4).(5)と新たに「自分が考える」という作業が入ってきます。  また自分自身の中で考えをまとめる作業と、自分の意見を読む人に分かりやすく表現する、という他人の視点から考える訓練も入ってきます。

これが国際化、グローバルな社会でやっていける能力を育てる訓練になります。

この課題の答えは一つではありません。  教師は生徒の意見が史実に基づき、論理的に矛盾がなく、納得できるものであれば、高い評価をします。

つまり、生徒がどれだけ説得力のある理由を考えるか、自分の考えを裏付ける力のある事実や例を選ぶことができるかによって、評価が変わって来るということです。  それが、考えたり、必要な具体例や事実を選ぶ能力を訓練することになります。

これは日本史の例ですが、国語ならこういう問題もできるでしょう。

夏目漱石の「こころ」を勉強した後に、「もし、先生が自殺をせずに、生きていくとしたら、自分が犯したと思っている罪とどう向き合って生きて行ったらよいですか?  先生が自殺をしなかったと仮定して、「こころ」の続編を書きなさい」

自分が人を死に追いやってしまったと思っている場合、生きていくのは、相当つらいと思いますが、それでも、生きていくにはどうしたらよいか、生徒は考えて、続編を書くことになります。

漱石ファンからは、「それでは漱石ではなくなってしまう」と不満が出るかもしれません。(例えば残りの人生を博愛に生きたとしたらそれは近代人の「エゴ」をとらえた漱石の作品とは全く違った小説になってしまいますから)でも若い人には悩みにぶつかったときに「生きる」という観点から考えてほしいと思いましたので、こういう課題を考えてみました。 漱石ファンにはお許しいただきたいと思います。

この課題も答えは一つではありません。  本当に生きていく支えとなるものを生徒がそれぞれ考えて主人公に持たせなければなりません。  そして、実際に、書くときには、先生の性格を読み取っていないと、後半のストーリーは書けません。  

理科のテストについては、何年か前に、こういう話を聞きました。

娘の高校の帰国生の保護者の方々と昼食をとったときのことでした。  イギリスの学校から来たお子さんのお母さんから聞いた話です。

「理科の問題で見たんだけれど、”発芽の条件は、水と空気と適切な温度です。  それを調べるためには、どのような実験をしたらよいか、書きなさい”というのがあったの。  きっと日本だったら、”発芽に必要な条件を3つ書きなさい”という問題で終わりだろうな、と思った」と言っていました。  

これは、答えは、みんな似たような形になると思いますが、そこに「考える」という過程があるので、意味があると思います。  「水がある場合とない場合を比べればいいけれど、そのためには、他の条件が同じでなければいけないんだな」とか、いろいろと考えることが必要になります。  これが、意味があると思います。  この課題については、Youtubeに映像で答えが載っていましたので、すでに、こういう教育はされているのかもしれませんね。  一度こういうことを自分で考えたことがあると、他に何かを調べていくときにも、応用できます。



「知識を暗記する」だけだと、生徒は、自分の能力の半分しか使っていないと思います。  知識を勉強したら、それで終わり、というのでは頭の半分しか使っていません。  学んだ知識をもとに「課題を考える」「相手にわかりやすく説明する」こういうことを訓練していくと、今まで使われていなかった、子供たちの能力を開発していくことになります。

そして、「自分で筋道を立てて考える」「相手にわかりやすく説明する」こういう能力は異文化の中で日本人が活躍していくために必要です。  なぜ、論理的に筋道を立てて考えるか、というとそのほうが、誤った道に入り込んでしまう可能性が少ない、ということのほかに、そういう説明の仕方のほうが、違うバックグラウンドを持っている人にも理解しやすいという点があるからでしょう。  今までこういう指導が日本の学校教育で行われることはほとんどありませんでしたが、これからは、学校でこの能力を鍛えることは、グローバルな世界でやっていける子供たちを育てるために必要だと思います。

課題は、先生方が「今、生徒に何を考えてほしいか」、この視点からお選びになったものであれば、なんでもよいと思います。  例えば、現在の日本の置かれた状況を考えると、今までと同じやり方では、乗り越えられないことがたくさんあります。  日本の歴史の中で、こういう時代はなかったか、といえば、ありました。  幕末から明治時代にかけてがそうでした。  もし、こういう時代に自分がどう生きて行ったらよいか考えるきっかけを生徒に与えたいと思えば、明治時代を学んだあとに、「幕末から明治時代にかけて生きた人々の中で、自分が最も共感する人物は誰ですか。  その人が行った具体的な行動や思想を上げて、説明しなさい。」というような課題も考えられます。  

こういう課題が出されたら、生徒は、まず幕末から明治時代にかけて学んだことを復習し、自分が最も共感できる人物を選びます。  そして、その理由を相手にわかりやすく、具体的な例や事実を入れて説明していきます。  この過程で先ほどの(1)から(5)の手順をすることになります。

こういう課題は、先にこちらのブログで述べましたプレゼンテーションの練習と合わせて行うと、自分が知らない人物を選んだクラスメートの発表を聞いて、新たに他の生徒がその人物に興味を持つこともあります。  クラスの発表を聞きながら、自分が知らなかった人物の業績を学ぶこともできます。

日本は、アメリカとは、グローバル化に向けた、社会の発展の段階が違いますので、どういう課題を選ぶかは、日本人が独自に持つ問題を考えて先生方がお選びになるのが、いいと思います。  先生方が、今、子供たちに何を考えてほしいのか、そういう視点からお選びになるのが、一番いいと思います。

次回に続く 




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)



この後は、いつも書いていることです。
 
* * *

7月30日以降、私は、いつもブログに書いている3つのことの2番目、「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について」という項目の最初のほうに文章を付け加えました。 

それをお読みになると私がこの4年間、全く名前を出すことのなかった石渡誠氏の名前をなぜ書くようになったのか、その理由がお分かりになります。

英語で考える指導法の提唱者、石渡誠氏は、その方法が有効であるならば、日本語訳を使わず、アラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうかご自身でやってみて、その結果を公開してください。  「英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきて、良いことです」(2017年7月30日のブログ)などとおっしゃるのは、それを自分で証明してからにしてください。
  
自分で、その証明ができないなら、「英語で考える指導法」は、本当は実在しない「英語で考える詐欺指導法」であり、「英語を英語で理解する指導法」は、本当は実在しない「英語を英語で理解する詐欺指導法」ということです。この詐欺指導法を提唱する石渡誠氏は、自分が日本中の高校生、中学生(「英語で授業」は決定されましたが、まだ実施はされていません)にどれほどひどいことをしてきたか、真剣に自覚されたほうがいいと思います。 

教師としての良心があるなら、自分の商売を拡大する前に、今もなお石渡氏の「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になっている日本中の高校生、中学生にすることがあるでしょう。

石渡氏の2015年5月7日のブログを読むと、文部科学省にこの「英語で考える詐欺指導法」を持ち込んだのが石渡氏であることが分かります。  私たち国民は、この「英語で考える詐欺指導法」がどうやって文部科学省に持ち込まれたのか、知る権利(国民の知る権利)がありますので、このことを書き添えました。

私は、その数か月後、頭の打撲が治ったころ、インターネットで検索して、石渡氏のブログに書かれていたこの会合についていくつかのブログを読みました。  そこには、「この会合には英語界の重鎮中の重鎮の方々が集まっている」とか「英語教育界の大御所の方ばかり」とか書かれてありました。(「2015年5月5日 ついに変わる! 英語教育改革の全貌」で検索すると現在でもいくつか出てきます。)

石渡氏の5月7日のブログを読んだ私は、「どんなに立派な肩書をお持ちの英語教育の専門家の主張であっても、私の経験に照らし合わせてその主張が間違っていたら、私は一歩も引いてはならない」と決意しました。  そうしないと、日本中の子供たちが、「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になってしまう」と思いました。

それで、2015年6月1日のブログを書きました。  どれほど、中学の英語の授業を英語ですることを阻止したかったかといえば、頭を打って、容体が急変した時は、知人にこのブログのアップを頼むほど、私は、それを阻止したいと思いました。(その時のことはこちらのブログに書いてあります)

石渡誠氏は、日本中の子供たちに誤った指導法をさせて、教師として、良心が痛むことはないのでしょうか。  今日も一生懸命、学校で勉強しているたくさんの子供たちのことを考えたことはないのでしょうか。


* * *

私は随分長い間、自分の本のランキングを妨害されていますが、おそらく、やっている人は、私が英語教育の分野からいなくなるまで、妨害を続けるのでしょう。

ただ、私は、英語教育の分野からいなくなるわけではないようです。

こちらのブログに書いた外国人の方が、1999年11月にこのことの後、どういう結末になるのか、私に教えてくれました。  少なくとも、私は妨害されて、英語教育の分野からいなくなる、とは言われませんでした。

18年前、その結末を聞かされていたので、私は、「英語耳」の松澤喜好氏に盗作されようと、妨害されようと、日本人が誰も聞けない音について本を書いていようと、今日まで、頑張って来ることが出来ました。  どんな立派な肩書を持つ英語教育の専門家の言うことも自分の経験から見て、間違っていたら、一歩も引かない、という決意ができたのも、文部科学省の方針に正面から反対したのも、50年間信じられていた松本亨さんの主張を否定したのも、この後、どういう結末が訪れるのか、あの時、その人から聞いていたからでした。  

なぜ、その人が、私にそんな先のことを教えてくれたのか、その時は分かりませんでしたけれど、今は、わかる気がします。

たぶん、その方は、2008年以降、私がどれほど苦しい思いをするかご存じだったのだと思います。 2008年以降、私が「英語耳」の松澤喜好氏と、KADOKAWA/アスキーメディアワークスのためにどれほど泣くことになるか、ご存じだったのだと思います。(詳細はこちらです。)  その時にくじけないように、その苦しさの先にある結末を教えてくれたのだと今は、思っています。

もう私の本のランキングを下げるなどという行為はおやめください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス社長塚田正晃氏は「著作権法に抵触するのは犯罪行為だ」と言っています。(こちら) 松澤さんは、「松澤は盗作!というのはすごーい!」とHPに書いていましたが、塚田さんの主張によれば、盗作は犯罪行為です。  

他人のランキングを妨害するのも、営業妨害ですから、犯罪行為です。    

もう妨害はやめてください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス(塚田正晃社長)は、隠ぺい工作までして、著者が自分のホームページで盗作を豪語するような悪質な出版はやめてください。(詳細はこちらです。) 

* * *

私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *

ここから先は、毎回掲載している3つのことです。「なぜ毎回3つのことを掲載するのか」その理由については、こちらのブログをご覧ください。 

* * *

英語教育について

文部科学省の英語教育の方針は、効果がありません。

今年3月に発表された中学校の学習指導要領(英語)は全く効果がありません。  理由は、2017年10月12日のブログをご覧ください。


以下、効果のないものを列挙します。
1)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がありません。  (理由はこちら
2)「CAN-DOリスト形式」は効果がありません。 (理由はこちら
3)「4技能」は効果がありません。  (理由はこちらこちら
4)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではありません。 (理由はこちら
5)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受けます。 (理由はこちら
以上の理由により、文部科学省の方針は効果がありません。

「発音」、「語順」、「英語で考える」、それぞれを習得する方法は2015年10月19日のブログ「川合式英語学習法」をご覧ください。

これは全部私自身がやってきたことです。  こうすれば、生徒たちは必ず通じる英語で話すようになります。
英語で考える指導法を提唱する人たちのように、「自分は日本語訳を使ったけれど、生徒たちは使うな」というような、誰も実際にはやっていないような指導方法ではありません。  私は全部自分でやっています。


「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について

松本亨氏の「英語で考えるためには日本語訳を使ってはいけない」という主張は2006年、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになった事実によって否定されました。 

「英語で考える指導法」は詐欺である可能性が高いです。

松本亨さんの書いた「英語で考える本」「英語で考えるには そのヒケツと練習」という本に書いてある練習をしても英語で考えるようにはなりません。(2月4日のブログ「英語の思考活動」、3月1日のブログ「先生の宿題のプリント「英語で考える」ってどういうこと?」を参照してください)

英語で考える指導法を掲げる英語学校FORWARDの指導者、石渡誠さんは、松本亨さんの「英語で考える本」「英語で考えるには −そのヒケツと練習−」という本で勉強すれば英語で考えるようになると2017年1月19日のブログで言っていますが、この2つの本で勉強しても、英語で考えるようにはなりません。  「この方法を26年教えてきた」と書いていますが、26年間も効果のない方法を教えてきたというのは驚きですね。  

私は、この件について、松本亨さん(著作を含めて)以外の固有名詞を入れることをずっと避けてきました。  けれども、石渡誠さんの2017年7月30日ブログの冒頭の

日本の英語教育界もようやく変革の時が!英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきています。良いことですが、

という部分を読んで、明記することにしました。  日本中の高校生を犠牲にしておいて、まだこういうことを言っていることに怒りを覚えました。  文部科学省でさえ、もう、中学校の英語の授業を英語で行うとは、言わなくなったのに、と思いました。  

石渡誠さんは、26年間も授業料を取って、「効果のない方法」を「効果がある」と偽って教えてきて、謝罪も損害賠償もしないのですか?  そうやって、「何を言っても何の責任も取らなくていい」と思っているから、いまだに「英語を英語で教えるのが良い」などとおっしゃるのでしょう。  

でしたら、ご自身がアラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうか示してください。  それが出来ないのであれば、「英語を英語で理解する指導法」が間違っていたと認めてください。  そういうけじめをつけないからいつまでも「英語を英語で理解する」などという指導法を主張し続けるのでしょう。

日本中の高校生が迷惑していますので、自分もできない指導法を提唱するのはやめてください。

自分の商売のために子供たちを犠牲にするのは、もうやめてください。

Je suis Charlie. と母国語で言うフランス人が I am Charlie.という言語を学ぶとき、母国語の意味を参考にしていないはずはないでしょう。  日本人は誤った指導法を50年も信じて、大きく後れを取りました。


私は、英語で考える指導法の提唱者が、「Freedomを日本語に訳すとニュアンスが分からなくなるから英語のまま言わせる」とブログに書いているのを読みました。  でもそれでは何も教えていないのと同じです。

生徒から、アメリカ人にとって自由というのはそんなに大事なものなのですか?と質問されたら、アメリカ史がご専門の先生なら、「建国の歴史を勉強してみるとその理由が分かってきますよ」とお答えになるでしょうし、時事英語がご専門の先生なら、ニュースの中から、アメリカが個人の自由を制限する国に対して、非常に厳しい外交政策をとり、しかも大多数の国民がそれを支持しているというニュースを選んで、生徒と一緒に勉強していくでしょう。

Freedomを日本語に訳さずFreedom. Freedom と生徒に言わせる、などというのは何も教えていないのと同じことです。

それは、次のような例を想像してみるとよくわかります。

もし、アメリカで、日本語を学んでいる生徒が「日本の武士道とはなんですか?」と教師に質問した時、「日本人にとって武士道が、どういうものなのか知りたかったら、武士道を英語に訳さず、日本語のままブシドウ、ブシドウといいなさい」 などと指導する教師は一人もいないでしょう。   

仮に先生が「これが、日本語を日本語で理解する指導法だ」「日本語で考える指導法だ」などと言っても、生徒はばかばかしくてする気にもならないでしょう。  保護者からは「まじめに教えろ」と言われるでしょう。 

これが英語で考える指導法の正体です。

教える方は何も教えていない。
学ぶ方は何も学んでいない。
これが英語で考える指導法の正体です。

だから私はこの方法は詐欺だと言ったのです。(こちらのブログ

以前、この「英語のままFreedomと言わせる」と言っていた学校のブログで、車を売って受講料を払って学んでいるという生徒の例が紹介されていました。  それほどの高額の授業料をとって、「だますつもりはなかった」「知らなかった」では済まないです。  
詐欺は犯罪です。

詐欺は、刑法で刑罰が定められている犯罪です。

また、そのブログで、英語で考える指導法をする人々が、生徒の英和辞典を取り上げたり、生徒に英和辞典を窓から捨てさせたりする、ということも読みました。  中には最後まで生徒に英和辞典を返さなかったこともあったそうです。

「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただくとわかりますが、英語のわからない生徒にとって、英和辞典は命綱です。  英和辞典があるから、英語の意味が分かるようになります。  これを取り上げるなど、間違った指導法を盲信する指導者の誤りです。  英和辞典を取り上げれば生徒の英語力が上がるなどということは絶対にありません。

この詐欺商法を、中学や高校に持ち込んだのが文部科学省の「中学、高校の英語の授業を英語で行う方針」です。
だから、私は、「学校で詐欺を行わないでください」と申し上げたのです。
税金を詐欺に使わないでください、と申し上げたのです。
高校英語教育はいまだに詐欺ですね。
学校で詐欺教育をするために、車一台売るどころではない、莫大な税金が使われています。

早くやめてください。
高校時代は、高校時代にやらなければならない訓練があるのです。
複雑な英語を読み始めるときにどうしてもやらなければならない訓練があるのです。
この時を逸すると、取り返しがつかないのです。  高校生がかわいそうですから、「学校で詐欺」はやめてください。

発音練習について

学生時代、私はアメリカのセルフヘルプの本を読むのが好きでした。  当時、そういう本は翻訳しか入手できませんでした。  その中にこんな話が書いてありました。

チャーリーさんが自動車の調子が悪くなり、修理工場に持ち込みました。  修理が終わって取りに行ったとき、調子が悪かった原因を尋ねると「OOのネジが一つ壊れて、不具合が生じていたので、新しいネジに変えました」と説明を受けました。

請求書を見てみると、とても高い金額でしたので、チャーリーさんは、「ネジ一つ取り換えただけなのに、これでは金額が高すぎます」と文句を言いました。  そうしたら、修理をした人が、「最初は、何が原因となって不具合が生じているのかわかりませんでした。  それで、私は自動車の内部を全部調べました。  そしてOOのネジが壊れていることを発見したのです。  自動車内部をすべて調べるのに何時間もかかりました。  請求書はその労働の代金を含んでいるのです」と言いました。  チャーリーさんもその説明で納得しました。

この話は、どこを直せばよいかわかっているものを直すのは、簡単ですが、どこが悪いかわからないものを直すのは大変だ、ということを例えた話でした。

私は中学時代に英語のきれいな発音に魅了されて発音練習を始めました。  中学生でしたから一生懸命練習すればお手本のアメリカ人と同じ発音になると信じていました。  一年半くらいはちっともうまくなりませんでしたが、その日の練習が終わると、自分が今日練習した分だけお手本の発音に近づけたと思えて、とても、心が満たされていたのを覚えています。  一年半くらいは目に見えてうまくなってはいませんでしたが、毎日練習が終わって、テープレコーダーの手あかを白いハンカチできれいにふき取ってしまうときは、とても気持ちが充実していたのを今でも覚えています。

だから発音練習は大変だ、とかつらいとか思ったことはありませんでした。(決してうまくはなかったのに、です)

最初の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」(赤い本)の原稿を書いていた時、私は編集してくれた人に次のような心配をお話ししたことがありました。

「読者の皆さんに、私は何の苦労もなく、発音を習得した、と思われると困るのですが、、、」
そうしたら、編集をしてくださった方からこういわれました。

「川合先生の本を読んで、川合先生が何の苦労もなく発音を習得した、と思う人はいません。  そんなことを心配するより、むしろ、こんなサイボーグみたいな練習をしなければ発音はうまくならないのか、と思われることをご心配なさった方がよろしいんじゃありません?」

編集をしてくださった方は、スタンフォードでの留学経験もありますので、英語がとても上手な方でした。  こういうユーモアのセンスもお持ちでした。

私は苦笑しながら「はい。。。。」と言って、すぐひき下がりました。

確かに文全体をお手本と比べて違いを探すにはサイボーグみたいな能力がないとだめだ、と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。  (先日夫がチャンネルを回していたら、ターミネーター3でシュワルツネガーさんが人の着ている洋服を見て、一瞬で、それが自分に合うかどうかをピピピピ。。。と判断する場面がありました。  サイボーグと言うとそういうイメージが浮かんできますね。)  

けれども、発音を直すときは、最初は、気づいたところから直していけばいいので、本当はそういうことはないのですが、人によってはそんなことはとてもできないと思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、その2年後、私は、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑の本)を出版しました。  そしてその本に、どこを比べて何を直したらよいか書きました。  漠然と、文全体を比べたら違いは分からないかもしれませんが、「この音のこの違い(例えば、長さ)を聞いて下さい」とピンポイントで言われれば、誰でもそれは聞けます。

先ほどの自動車修理工場の例でいえば、どこに原因があるのか車の内部全体を調べるのはとても時間がかかって大変ですが、「ここのネジを変えてください」と言われれば誰でも出来るのと同じことです。  具体的に言われたことはやりやすいです。

「続・英語発音、日本人でもここまでできます」にはどこを聞いて何を直せばよいのか、書いてあります。  そのポイントは日本語のくせから来るものがほとんどです。  それは日本人に共通する発音の問題点ですから、そこを聞いて直していただけば通じやすい発音になっていきます。

「ここのネジを取り替えてください」というのと同じように、努力すればだれでもできることです。  サイボーグのような能力はいりません。

読者の方から、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」は、「英語発音、日本人でもここまでできます。」付属のDVDで発音練習するときの参考書のように使っています」というメールをいただいたことがありますが、この2冊は一緒に活用してください。  

「なぜそういう練習をするのか」その原理もわかりますし、理解が深まると、相乗効果となって皆さんの発音がとても上達します。  発音は、口の練習だけではうまくなりません。  上手な人の発音って何か違いますでしょう?  体になじんでその音がでてきていますでしょう?  耳はもちろん、たくさんの感覚を使って習得すると上手になります。

表面的な練習だけやっていると表に現れないことが、その原理や仕組みを深く掘り下げて理解していると、口の動きに現れてきます。 

お手本の発音を聞いたとき、「どうやって発音しているのか手に取るようにわかる」この状態になるわけです。  この深く掘り下げる役目ををするのが、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」に書いてあることです。  

「上手な人の発音が何か違う」と感じるのは、口の動きの後ろにある、さまざまな感覚の関連性を意識して、練習しているからです。  「自分の体をどうするとあの音が出てくるか、体が知っている」この状態になっているからです。  表に現れたものだけ練習する場合、長く練習しても、あまり変化はありませんが、深く掘り下げて、練習していると、だんだん、音を捕まえる能力も向上しますので、長い間には、口の動きだけ練習してきた人とは随分違う発音が出来上がります。  発音練習の基本姿勢のブログに出てくる生徒さんみたいにですね。  「英語発音」と「続・英語発音」の本は一緒に活用してください。



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ブタさんが持っている旗については、こちらの「きのこの山とたけのこの里」というブログの後半を読むと、私がどうやって、子音の長さが聞けるようになったのか、書いてあります。

 

和文英訳(最終回) 松本亨氏が提唱した「英語で考える指導法」はインプットをさせないでアウトプットだけをさせる方法  英語学習者が実際にはできない机上の空論でした。

2006年にアメリカから帰国して娘の受験が終わった後、私はもう一度、石渡誠氏が紹介していた松本亨氏の「英語で考えるには そのヒケツと練習」という赤い本を読んでみました。読んでみて私が最も違和感を感じたのは173ページの次の文章でした。

「私は英語は日本語に訳すなというが、日本語は大いに英語に訳せという。」松本亨氏の言っていることを表にするとこうなります。
(1)    日本語 <−−−−  英語   (X) やってはいけない 
(2)    日本語  −−−−> 英語   (O) 大いにやってよい 

英語学習に矢印が一方向だけ、日本語を英語にすることだけ。それでは生徒は、日本語に対応する英語を頭のどこから持って来るのでしょうか。日本語訳と結びついた英語は生徒の頭のどこにも入っていません。  

英語教育においては、常にインプットがあって、アウトプットが成り立つものです。 インプットを禁止して、アウトプットだけやらせる方法は、英語教育には存在しません。 入れていないものは出せません。  この文を読んだ瞬間に、この方法は成立しない、と思いました。  

(それから忘れてならないのは、「松本亨氏も石渡誠氏も始めに日本語訳を使って英語を学んでいた」という事実です。それも6年から7年。また11月16日のブログで説明したように初級者・中級者は日本語訳を知らないと自分のいいたいことを英語で言えません) 
いくら「英語の神様のような先生」(松本亨氏)が書いた、と石渡誠氏が言っても、間違っているものは間違っています。

おりしも私は2年間、子供たちの教科書を全文和訳して教え、3年目から、子供たちが英語を自由に使うのを見た直後でしたから、英語から日本語に訳すプロセスを否定する(つまり、子供たちが英語学習の中で最も苦しい思いをして2年間やってきたことを否定する)この指導法には到底賛成できませんでした。  

あの、「英語を日本語に訳した苦しい2年間」があったからこそ3年目から彼らは日本語を英語にすることもできるようになったのです。  英語を日本語に訳させないで、日本語から英語に訳すことだけ奨励するなどという教え方は、英語教育には存在しません。  インプットはさせないで、アウトプットだけさせる方法など、生徒たちにできるはずはありません。  

この方法は英語教育の原理を知らない松本亨氏が頭の中で考えた架空の方法です。  論理的にも成り立ちません。  松本亨氏はご自身は非常に英語が堪能でいらしたようですが、インプットがなければアウトプットはできないという英語教育の原理はご存じなかったようです。 (これについて、石渡誠氏は「まず、インプットではなく、アウトプットをすること」を勧めていますが、これは石渡氏自身が英語の単語の意味を正しく理解していない証拠です。 こちらのブログの青字の部分に、石渡氏がinputの意味を日本語式に解釈していることを解説しました)




なぜ松本亨氏がこういう架空の方法を提唱するようになったかというと、問題の原因を間違って特定したからです。

日本人の英語が上手にならないのはなぜか?  彼はその原因を考えました。  そして彼の出した答えは、「日本人が英語を学ぶときに日本語訳を使うからだ」でした。

これが間違っていたのです。  日本語訳を使うことが日本人の英語力向上を妨げていたのなら、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになるはずはありません。

しかし、当時、私のようにそのことを彼に言う人はいなかったのでしょう。  彼は日本語訳が元凶だと決めつけ、日本語訳の使用禁止を提唱したのです。  本来、日本語訳は禁止してはいけないものだったのです。  英語の意味を日本語に訳して頭に入れておかなければ初級者、中級者は、自分の言いたいこと(日本語)を英語に訳してしゃべることもできません。  英語を日本語訳で理解して、頭に入れることは大事なインプットの過程だったのです。  松本亨氏は、日本語訳を禁止して、インプットを空白にし、アウトプットだけを行わせるという英語教育の原理として成り立たない練習を提唱したのでした。

その練習方法は、「日本語を使わないで単語の意味を言う」、 「日本語に訳さないで英書を読む」など、初級者、中級者にはできないものばかりでした。 

私の娘もアメリカの学校で英単語の意味を英語で言う課題をやっていました。  夜遅くまで、ベッドの上に座って、ブツブツ暗記していました。  けれども娘はそこに書いてある英単語とそれを説明する英文を全部日本語に訳して意味がわかってから暗記していました。  これが、正しい英語学習のやりかたです。  

日本人は最初は日本語と結びついて覚えた英語しか、インプットとして使えないのです。  最初に、子供たちの頭の中にあった言語体系は日本語だけでした。  彼らは、膨大な量の英文を日本語に訳すことによって、自分の頭の中にある日本語の言語体系に対応する英語を一つ一つ覚えていきました。   そして、日本語の言語体系を模して英語の言語体系を構築していきました。 


日本語訳を使わせない松本亨氏の方法では、日本語訳と結び付いた英語のインプットは、やってはいけないことになっているので、インプットの過程は常に空白です。  日本語の言語体系にどの英語が対応するのかもわかりません。  頭の貯蔵庫には、日本語訳と結びついた英語の在庫はゼロです。  貯蔵庫は常に空っぽです。  ここからアウトプットに使う英語を出して来いと言われても、在庫ゼロですから何も出せません。 


日本語訳は元凶でもありませんし、初級者、中級者は自分の言いたいことを和文英訳して話すために必要ですし、上級者は、英語で理解したことは、みんな日本語で言えるのですから、英語学習すべての段階で、日本語訳を排除する必要はどこにもありません。

日本語訳は、英語と日本語を結ぶ唯一の接点です。  これがなければ、初級者、中級者は英語を理解できません。  言いたいことを英語にすることもできません。  日本語訳は、日本人が英語の世界に入る入り口なのです。

確かに英語のFreedom  と日本語の自由は全く同じではありません。  しかし、「束縛されない状態」という意味では、両方とも同じです。  初期の学習者が英語と日本語の同じ概念を手掛かりに学習するのは、導入の仕方として適切です。

「そのあと、たくさん英語を読んだり、映画を見たり、歴史を学んだりして、アメリカ人にとってのFreedom が日本人にとっての自由とは少し違う、ということを理解する。」  それは正しい学習のプロセスです。  私の子供たちもそういう過程を通りました。  ですから、日本語訳は、学習者が、最初に英語の世界に入るために必要なものです。



皆さんは、小さいころ冒険小説やおとぎ話でこういうパターンのお話を聞いたことがあると思います。

ある村に一人の若者がいました。  自分の生まれた村が危機に陥り、 それを救うために彼は、魔法の翡翠の玉を求めて旅に出ます。  数々の危険な目にあいながらやっと魔法の玉がある城にたどり着いたのですが、扉が硬く閉ざされて開けることが出来ません。  その時、扉の横に小さなくぼみがあるのに彼は気づきます。  そのくぼみの形は、自分が旅立つときに母親がくれた、一族の紋章が彫り込まれたペンダントと同じ形でした。  若者はペンダントを取り、そのくぼみにはめ込むと、紋章はまばゆいばかりにひかり、城の扉が開きました。  彼は城に入り魔法の翡翠の玉を手に入れ、村を救いました。

こういうお話は冒険小説にはよくありますね。  私は、子供たちが小さいころ、息子の日本語のために毎晩冒険小説を読んで聞かせましたので(こちらのブログ)こういうパターンはよく読みました。

日本語訳というのはこのペンダントと同じです。  英語に合体させると、英語が何もわからない初心者でも英語の世界の扉が開いて、その入り口に立てるのです。  ですから日本語訳は英語学習者が、どうしても使わなければならないものなのです。  これを使わないと英語の世界の入り口にも立てません。

そういう意味では、松本亨氏は、「日本語訳を使ってはいけない」と提唱して、初級者中級者が、英語の世界の入り口にも立てない架空の方法を提唱していたことになります。

「英語で考える指導法」と言われれば、だれでも、それをすれば英語で考えられるようになると思います。  「英語を英語で理解する指導法」と言われれば、だれでもそれをすれば、英語を英語で理解できるようになると錯覚します。  けれども実際には、松本亨氏の「日本語訳を使わせない方法」は、インプットの過程を空白にしますので、英語の教育法として成立しえないものだったのです。


「英語で授業」などやっていたら、高校生は、英作文に使う単語の日本語訳も知らなくなって、大学受験も突破できなくなります。  先回、Smile と Laugh の例を出しましたけれど、生徒はSmile Smile Smile。。。。。 Laugh Laugh Laugh。。。。。。と言っていれば、この2つの単語の意味や違いが判るわけではありません。   意味や違いを生徒が分かる日本語で、きちんと教えていくのが英語教育です。  

どうぞ高校の先生方は日本語で授業をしてください。  生徒が分かる言葉で大事なことを教えてください。  日本語訳もきちんと教えて、生徒が言いたいことを英文に訳して話せるようにしてください。

もともと先生方は「英語で授業」に反対していらっしゃいましたから、日本語で授業をすることは当然だと思っていらっしゃると思います。  

英語で授業は中学や高校でするものではありません。  中学校で発音をマスターし、高校で語順の通り理解できるようになり、大学1,2年で大量のインプットを行った後、3年生くらいが無理のない適切な時期でしょう。  中学高校で「英語で授業」などやっている暇があったら、意味が分かるようになった英単語をたくさん覚えさせる方がはるかに英語力は上がります。  日本語訳を知らなかったら、中学生高校生は言いたいことを英語で言うこともできません。



2006年にアメリカから帰国した私は、日本で英語学習に日本語訳を使ってはいけないと思っている人が多いことに驚きました。  

私はアメリカで子供たちの英語習得過程を見て、日本語できちんと理解することこそが英語力の強固な基礎を作ることを知りましたので、日本中に広まっているこの誤解を解かなければいけないと思いました。 

そして経験に基づいて、論理的に日本語訳の重要性を指摘しながら、私は心情的に日本語訳がかわいそうだという気がしました。  こちらのブログを読んでいただくとお分かりになりますが、日本語訳は学習者が初期に英語を理解するとき、とても役に立ってくれますが、学習者が英語が堪能になったときは、自ら学習者の頭の中から消えていきます。  だから、英語学習にとても貢献してくれたのに、英語が堪能になった人の中には日本語訳が悪いと決めつけて日本語訳を非難する人もいるのですね。  

私も自分の息子が「僕は最初から全部自分で出来たんだよね」といったことがあるので、英語ができるようになった人がそう感じることは知っていました。  でも、指導者までもが日本語訳が悪いというのは、インプットがあって初めてアウトプットができるという英語教育の原理を知らなすぎます。

初級中級の時は自分だって、助けてもらった日本語訳に感謝するどころか、非難するというのは、恩を忘れているもいいところです。  それでも日本語訳は何も言わず、また新しい初級者中級者が日本語訳を使って勉強すると、ちゃんと意味が理解できるように助けてくれます。

日本語は私たちの母国語です。  文字通り母のような言語だと思います。  母親は自分がどんなに悪く言われても自分の子供が幸せだったら、そんなことはなんとも思いません。

私たちの母国語、日本語もそうですね。  学習者が初級中級の時は一生懸命英語の理解を助けてくれて、学習者が英語が堪能になると、自分の役目が終わったことを自覚し、自ら消えていきます。  そして、自分が学習を助けた人が、「日本語訳が悪い」と非難しても、黙って、また、新しい初級者中級者を助けてくれるのです。

たとえそれが松本亨氏の生徒でも、石渡誠氏の生徒でも「あなたの先生は私を非難するから助けてあげない」とは言いません。  日本語訳は、どちらの生徒さんであっても和文英訳の助けとなって、言いたいことを英語で言えるようにサポートしてくれます。  それを知らないのは、「英語で考える指導法」を提唱者する松本亨氏と石渡誠氏だけです。

この日本語訳が日本人の英語力が上がらない原因だと非難する指導者は、関係ないことに責任をなすり付けている人と同じです。  例えていうなら、「自分の英語力が上がらないのは母親のせいだ」とごねている息子みたいなものです。  

日本語訳に初期のころ助けてもらったことを感謝こそしても、非難するなど、とんでもないことです。  初級者のころ英語力を上げる手伝いをしてくれたものに対して感謝の気持ちもない人が提唱する指導法など、効果があるわけないでしょう。



「英語ができない人は日本語訳を使って、できるようになった人は使わない」  そういう表面的なことだけ見ていると、「英語学習のレベルによって日本語訳の役割が違う」という本質を見抜けません。

日本に帰ってきて、日本のほどんどの人たちが英語学習に日本語訳を使うのは悪いことだ、と思っているのを見て、「かえって英語力の向上を阻害している」と私は思いました。  英語の練習として、

(1)「自分の言いたいことを全部英語で言う練習(日→英)」は、日本でも奨励されているのに、
(2)「学習した英語を全部日本語訳で理解する練習(英→日)」に抵抗があるのはおかしいと思いませんか。  

(2)をたくさんするからこそ(1)ができるのですよ。  英文を日本語で理解して、「日本語でこういうことを表現したいときにはこういう英文の形を使うのだ」と知らなければ、自分もそういう英文は作れません。  英文のひな形を日本語の意味に対応させてインプットしていくのが(2)(英→日)です。  その結果、日本語で何か言いたいときにはこういう英文の形にすればいいのだ、ということが分かります。  これを知らなかったら言いたい日本語の表現に対応する英文は作れないのです。 

単語の場合も同じです。  英単語の意味を日本語にするのを禁止されたら、初級者、中級者はどうやって自分の言いたいことを英語にするのですか。  頭の中には日本語訳と結びついた英単語は全くインプットされていないのです。  言いたいことを表す日本語に対応する英単語は頭のどこにもインプットされていないのです。  空っぽの貯蔵庫からどうやって、自分の言いたいことを表現する英単語を探すのですか。

日本語訳と対応させて英語を覚えていなかったら、初級者中級者は自分の言いたいことを英語にするすべを失います。  これで、英語力が向上しますか。  かえって英語力の向上を阻害するだけでしょう。



もし、今、松本亨氏がいらしたら、「私の子供たちは全文和訳でバイリンガルになりました。  日本語訳が英語力向上の害になるなら、この事実をどう説明するのですか?」と問われれば、その事実を正面から受け止めてお答えになったと思います。  少なくとも提唱者としての責任から逃げ回るようなことはしなかったと思います。  松本亨氏は、今石渡誠氏のしていることをどうご覧になっているかな、と思います。  責任から逃げ回るのは、決して良いことだとはおっしゃらないでしょう。

20代半ばの私が、「もう少し英語力を上げたい」といったときにその時の上司が、松本亨氏の学校へ私を連れて行ってくれました。  その人は、松本亨氏から直接英語を学んだ人でした。  松本亨氏との思い出も私は、その人から聞かされていました。  立派な先生だったと思います。  ただ、英語教育に関しては、「戦後まもなく」という時代の制約を免れなかった、と思います。  私は、松本氏の学校の玄関を入ったところで、3人の生徒が話している英語を聞きました。(3人とも英語の発音には思えませんでした。その中の一人の女性が言った「ワタービッグトゥリー」の発音のひどさはいまだに忘れられません。)上司がタイトなスケジュールの合間を縫って、せっかく連れてきてくれたのに、「こういう発音の中で英語を学ぶのはどうしても嫌だ」と思いました。  (その時のことはこちらのブログに書いてあります。 その学校の理事長先生は、「この学校では生徒は自分の言いたいことを全部英語で話します。  校内日本語禁止は松本亨先生が達成された素晴らしいことです。」とおっしゃいました。  でも、私は、 正しい発音を定着させないで、言いたいことを英語でしゃべらせていると、こんなにひどい発音になるのかと思いました。  この学校の先生方には、これが英語の発音に聞こえるのだろうか、と思いました。 まるで、この学校の中の日本人の間だけで、隔絶して発達した全く異質な英語のような感じを私は受けました。  一時期はやった言葉で言えば、「ガラパゴス英語」のようでした。  発音は学習の最初に2年間くらい音声モデルを使って定着させないと習得できません。  自分の言いたいことを英文にした場合、音声モデルはありませんから、初めからそれを生徒にさせると自己流の発音になります。  最初から言いたいことを英語で話させてしまった場合、後から部分的な発音矯正をいくらしても発音は直りません。  生徒の耳の中に文章の音声が入っていないからです。  「生徒に形ばかりアメリカの真似をさせて喜んでいる、単なる教師の自己満足じゃないの?」と思いました。  ここは日常生活では全く英語を聞かない日本だから、アメリカのまねをしても正しい発音は身につきません。  「先生はなぜもっとよく生徒の発音を聞かないの?」と思いました。 うわべだけアメリカの真似をさせても、中身は全然違う。  まるで、明治時代の鹿鳴館(ろくめいかん)のような学校だと思いました。  「これが、あの有名な松本亨先生の考えている英語なの?」「こんな発音でしゃべらせているなら、英語教育はしてもしなくても同じじゃない。これで何を教育しているというの」と私は思いました。  全く違うものを見せられて、それを「英語だ、英語だ」と言われているような気がしました。  ガラス玉を見せられて、「ダイヤモンドだ、ダイヤモンドだ」といわれているようないら立ちを私は感じました。  「いくら若くても、いくら私の英語力が不十分でもこれが英語の発音でないことぐらい、私にだってわかる。 生徒が何も知らないと思って、こんなものでごまかさないで」私は、なぜだかとても腹立たしかったのを今でもよく覚えています。  「こんなの英語教育じゃない」私はそう思いました。  このようなことを書くのは松本先生に失礼かもしれませんけれど、あの時、私は本当にそう思ったのですから、仕方ありません。  「こんなことして何になるの?」「カタカナ発音が定着するだけじゃない」そう思いました。  これを「素晴らしい」と言っている教師にとても同調できませんでした。  松本亨氏の学校が経営危機に陥ったのは、当然ではなかったのですか。  ①英語のままFreedom Freedom と言わせても、その単語の意味もニュアンスもわかるようにはなりません。  ②発音は自己流になります。  ③「英文和訳はいけないけれど、和文英訳は大いにやりなさい」という指導など、原理的に成り立ちません。まったく英語力が上がらないことばかり、やっていたのでは生徒が集まらなくなるのも当然でしょう。)  中学時代から発音だけに興味があって、英語を学んできた私には、その学校で生徒同士が話している発音はどうしてもいやでした。 「学校にいる間中、こんな発音を聞いていたら、自分も、ワタービッグトゥリーみたいな発音になってしまう」そう思いました。  発音というのは、自分がいつも聞いている英語のように変わっていきます。  石渡氏は自分の英語学校FORWARDのHPのFAQで「校内英語オンリーだから、日本にいながら留学しているような理想的な環境を可能にしています。」と書いていますが、あの発音で「留学と同じ」というのは誇大広告ではないですか。 アメリカの学校で、一日ネイティブが話す英語を聞いているのとは、学習者にもたらす効果が全然違います。  (留学の場合は周りの学生の「発音」も「英文」も「語のニュアンス」も完璧ですから、一日その中にいれば学習者はいろいろなことを学ぶでしょう。  発音にも良い影響があるでしょう。 でも、松本亨氏の学校で生徒同士が話している英語はそれとは全然違いました。  みんな日本語化した子音でしゃべって、使っている英語表現も本当にそう表現するのかどうかは分からない文章(これについては下の***【注1】をご覧ください)、ニュアンスに至ってはその言語が使われる社会で身につくのですから、初級者中級者にはまだ、わからない。  そういう人たちどうしで英語で話させて、それを「留学しているような理想的な環境」というのは無理があります。  石渡氏の言うワンデープログラムに至っては、「これから入学を考えている人」を集めて、つまり、「発音」も「文章表現」も「ニュアンス」もこれから学ぶ人たちを集めて、そういう人たちだけで一日英語で話させるわけですから、「英語環境」というよりは、「英語もどきの環境」ということでしょう。  「一日英語漬け」と言っても、「一日漬かる英語」は、英語学校の入学希望者の英語でしょう?  それでは、一日聞く英文や発音やニュアンスはネイティブの英語とは全く違うわけでしょう?  入学希望者は18,000円も払って、ネイティブは一人もいない、「入学希望者だけで英語で話す」こんな安上がりな「英語?」環境に漬かるのですか? ネイティブ5,6人の中に生徒一人で入れられるのが英語環境ではないんですか。 )  私はそう言う発音を聞くのがどうしてもいやだったので、その学校に入学しませんでした。  でも、失礼になるので、上司にも理事長先生にも本当の理由は言えませんでした。  「仕事が忙しいので通えません」と言って、入学しませんでした。  その時は、自分が将来、松本亨氏の教育法に対してこういうことを言うことになろうとは夢にも思いませんでした。  当時、松本亨氏は亡くなられたとはいえ、英語の世界の頂点にいる人々の一人でした。  彼の言うことを否定するなど、ありえないことでした。  ですから、石渡誠氏が私の言うことを受け入れられない、と思う気持ちもわかります。  松本亨氏の指導法を否定する人間が日本に現れるなど、当時は想像もできないことでした。  ただ、アメリカで子供たちの英語習得の事実を目の当たりにした私は、松本亨氏の主張が誤りだったとわかりました。  しかも、その誤った指導法が学校教育に持ち込まれてしまったら、自分の見てきたことを皆さんに伝えないわけにはいかない、と思いました。  こうして私は、あの時、仕事で最も私を育ててくれた上司が勧めてくれた松本亨氏の指導法を35年たって否定することになりました。  めぐりあわせで、こうなってしまったので仕方がありません。  誤った指導法が学校教育に持ち込まれることは、なんとしても阻止したいと思いました。


私たちが現在持っている言語体系は日本語だけです。  第2の言語体系を英語で作りたかったら、日本語の言語体系に対応させて英語をインプットしていくしかないでしょう、私の子供たちがアメリカでやっていたように。  

松本亨氏の書いた「英語で考える本 Think In English」の67ページには、松本亨氏は「英語学習開始から7年目までは日本語訳を使って、英語を理解していた」と書いています。  しかも、英語を英語のまま理解する練習を始めた時に使ったのは、最初に日本語で十分理解したReader の第一巻に戻って、英語のまま理解する練習を始めたと書いています。

つまり、松本亨氏の行ったやり方は、私の子供たちがアメリカで行ったやり方と同じです。  第一段階「まず、日本語訳で英語を理解する」、そのあと、「日本語訳を除いて英語のまま理解する」。  これは私の子供たちが行ったやり方と全く同じです。  英語で考える指導法の提唱者も私の子供たちと同じ「和訳で理解 → 英語のまま理解」という順番で英語を習得したのです。

最初から英語のままなんて、言葉はただ漂うだけで、自分が帰属する言語体系をどう作ったらよいかもわかりません。  それでは英語脳はできません。  英語の言語体系ができた時、初めて英語脳も出来上がります。  英語で考えられるようになります。  そのためには、すでに持っている日本語の言語体系に対応させて英語をインプットしていくことです。  単語も文も日本語訳を活用して覚えることです。

***【注1】「校内英語オンリーの学内で生徒が正しい英語で話しているかどうかはわからない」について、蛇足ですけど、下の文章を付け加えておきます。単数、複数がとても気になる方もいらっしゃると思いますので。

松本亨氏の学校の玄関を入ったところで、生徒が「ワタービッグトゥリー」(What a big tree!)と言ったとき、その生徒の前には人間の背丈の1.5倍くらいの木が3本植わっていました。(室内に植えられている木ですから、そんなに大きくもないし、幹も太くもないし、まずこれをbig treeというのが違和感がありました。)  一本ではありませんでした。  私は、アメリカ人の知り合いに、「大きな木が一本目の前にあったら、What a big tree! というでしょうが、3本、大きな木があったらなんていうの? と聞いてみました。  その人は、「目の前に3本、大きな木があったら、They're big. というだろうね。  tree という言葉はつかわないかもしれないね。」といいました。  
私がその人にそう聞いたのは、木が3本だからといって、What big trees! という文は、ほとんど聞いたこともないし、本で読んだこともないので、そういう言い方をするのかな?と思ったからでした。  やはり、そういう言い方はしないのだな、と思いました。

英語を母国語とする人が普通にどういう表現を使うのか?  アメリカの学校で、毎日過ごしていれば、自然に耳に入ってくるでしょうが、石渡氏の学校で、それが身につくことはないでしょう。  生徒は正しい英文でしゃべっているかどうか、わかりません。  英語圏で4,5年生活した生徒さんはほとんどいないでしょう。  そういう英語で、生徒同士しゃべらせておいて、「留学しているような理想的な環境」というのは、誇大広告ですね。  「広告に偽りあり」です。

校内で生徒同士が日本語発音で話していても、「留学しているような理想的な環境」
校内で生徒同士が正しい英文で話していなくても「留学しているような理想的な環境」
こういう宣伝の仕方は、「広告に偽りあり」です。  私は、「生徒は間違った英語で話してはならない」と言っているのではありません。  ネイティブでないのですから最初から全部正確には言えません。  問題はそういう英語を「留学しているような理想的な環境」と宣伝することです。  発音は全然違うのに「留学しているような理想的な環境」と宣伝することです。  そういう宣伝は、虚偽ですから。  石渡さんの宣伝の仕方は、ちっとも英語で考えるようには成らないのに、「英語で考える指導法」とか、初心者は英語を英語で理解することなどできないのに、「英語を英語で理解する指導法」とか、まやかしが多いです。


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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)




ここから先は、いつも書いていることです。
今回は、一番最後のウサギさんが持っているプラカードの言葉を変えました。

このブログを掲載した後、こちらの動画で石渡誠氏が「英語の神様のような先生」松本亨先生が書いた本と紹介していた「英語で考えるには そのヒケツと練習」 という赤い本は絶版になったようです。  アマゾンの価格の表示の仕方からそう見えました。  絶版にしても、「これが、松本亨氏の教え方の基盤であった」という事実に変わりはありません。  つまり、もともと成立しない指導法だったということです。

* * *

7月30日以降、私は、いつもブログに書いている3つのことの2番目、「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について」という項目の最初のほうに文章を付け加えました。 

それをお読みになると私がこの4年間、全く名前を出すことのなかった石渡誠氏の名前をなぜ書くようになったのか、その理由がお分かりになります。

英語で考える指導法の提唱者、石渡誠氏は、その方法が有効であるならば、日本語訳を使わず、アラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうかご自身でやってみて、その結果を公開してください。  「英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきて、良いことです」(2017年7月30日のブログ)などとおっしゃるのは、それを自分で証明してからにしてください。
  
自分で、その証明ができないなら、「英語で考える指導法」は、本当は実在しない「英語で考える詐欺指導法」であり、「英語を英語で理解する指導法」は、本当は実在しない「英語を英語で理解する詐欺指導法」ということです。この詐欺指導法を提唱する石渡誠氏は、自分が日本中の高校生、中学生(「英語で授業」は決定されましたが、まだ実施はされていません)にどれほどひどいことをしてきたか、真剣に自覚されたほうがいいと思います。 

教師としての良心があるなら、自分の商売を拡大する前に、今もなお石渡氏の「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になっている日本中の高校生、中学生にすることがあるでしょう。

石渡氏の2015年5月7日のブログを読むと、文部科学省にこの「英語で考える詐欺指導法」を持ち込んだのが石渡氏であることが分かります。  私たち国民は、この「英語で考える詐欺指導法」がどうやって文部科学省に持ち込まれたのか、知る権利(国民の知る権利)がありますので、このことを書き添えました。

私は、その数か月後、頭の打撲が治ったころ、インターネットで検索して、石渡氏のブログに書かれていたこの会合についていくつかのブログを読みました。  そこには、「この会合には英語界の重鎮中の重鎮の方々が集まっている」とか「英語教育界の大御所の方ばかり」とか書かれてありました。(「2015年5月5日 ついに変わる! 英語教育改革の全貌」で検索すると現在でもいくつか出てきます。)

石渡氏の5月7日のブログを読んだ私は、「どんなに立派な肩書をお持ちの英語教育の専門家の主張であっても、私の経験に照らし合わせてその主張が間違っていたら、私は一歩も引いてはならない」と決意しました。  そうしないと、日本中の子供たちが、「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になってしまう」と思いました。

それで、2015年6月1日のブログを書きました。  どれほど、中学の英語の授業を英語ですることを阻止したかったかといえば、頭を打って、容体が急変した時は、知人にこのブログのアップを頼むほど、私は、それを阻止したいと思いました。(その時のことはこちらのブログに書いてあります)

石渡誠氏は、日本中の子供たちに誤った指導法をさせて、教師として、良心が痛むことはないのでしょうか。  今日も一生懸命、学校で勉強しているたくさんの子供たちのことを考えたことはないのでしょうか。

* * *

私は随分長い間、自分の本のランキングを妨害されていますが、おそらく、やっている人は、私が英語教育の分野からいなくなるまで、妨害を続けるのでしょう。

ただ、私は、英語教育の分野からいなくなるわけではないようです。

こちらのブログに書いた外国人の方が、1999年11月にこのことの後、どういう結末になるのか、私に教えてくれました。  少なくとも、私は妨害されて、英語教育の分野からいなくなる、とは言われませんでした。

どういう結末になるかは、これからわかると思いますが、18年前、その結末を聞かされていたので、私は、「英語耳」の松澤喜好氏に盗作されようと、妨害されようと、日本人が誰も聞けない音について本を書いていようと、今日まで、頑張って来ることが出来ました。  どんな立派な肩書を持つ英語教育の専門家の言うことも自分の経験から見て、間違っていたら、一歩も引かない、という決意ができたのも、文部科学省の方針に正面から反対したのも、50年間信じられていた松本亨さんの主張を否定したのも、この後、どういう結末が訪れるのか、あの時、その人から聞いていたからでした。  

なぜ、その人が、私にそんな先のことを教えてくれたのか、その時は分かりませんでしたけれど、今は、わかる気がします。

たぶん、その方は、2008年以降、私がどれほど苦しい思いをするかご存じだったのだと思います。 2008年以降、私が「英語耳」の松澤喜好氏と、KADOKAWA/アスキーメディアワークスのためにどれほど泣くことになるか、ご存じだったのだと思います。(詳細はこちらです。)  その時にくじけないように、その苦しさの先にある結末を教えてくれたのだと今は、思っています。

もう私の本のランキングを下げるなどという行為はおやめください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス社長塚田正晃氏は「著作権法に抵触するのは犯罪行為だ」と言っています。(こちら) 松澤さんは、「松澤は盗作!というのはすごーい!」とHPに書いていましたが、塚田さんの主張によれば、盗作は犯罪行為です。  

他人のランキングを妨害するのも、私の英語教師としての仕事の妨害ですから、業務妨害、つまり犯罪行為です。    

もう妨害はやめてください。


KADOKAWA/アスキーメディアワークス(塚田正晃社長)は、隠ぺい工作までして、著者が自分のホームページで盗作を豪語するような悪質な出版はやめてください。(詳細はこちらです。)

(2018年、KADOKAWA松原眞樹社長は、組織変更を行って、アスキーメディアワークスを解体・消滅させました。 盗作を行った当事者の消滅は、社長にしかできない究極の隠ぺい工作です。もう私が何を言おうと「昔あった会社がしたことですから」で片づけられてしまうと思いました。  松澤氏によるランキングの妨害もやめさせてくれるよう、再三、KADOKAWA松原眞樹社長にお願いしましたが、逆に2019年11月、KADOKAWA松原眞樹社長による私のブログの妨害が始まりました。  「無名の犯罪被害者などは葬(ほうむ)ってしまえばいい」というのが、KADOKAWA松原眞樹社長の方針のようです。 社会通念として、社長が盗作、妨害などの犯罪行為をかばうことが許されるのでしょうか。 法律上は、株式会社の取締役(社長)は会社から委任された事務を「善良な管理者の注意を持って行う」と規定されています。)



* * *
私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *

ここから先は、毎回掲載している3つのことです。「なぜ毎回3つのことを掲載するのか」その理由については、こちらのブログをご覧ください。 

* * *

英語教育について

文部科学省の英語教育の方針は、効果がありません。

今年3月に発表された中学校の学習指導要領(英語)は全く効果がありません。  理由は、2017年10月12日のブログをご覧ください。


以下、効果のないものを列挙します。
1)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がありません。  (理由はこちら
2)「CAN-DOリスト形式」は効果がありません。 (理由はこちら
3)「4技能」は効果がありません。  (理由はこちらこちら
4)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではありません。 (理由はこちら
5)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受けます。 (理由はこちら
以上の理由により、文部科学省の方針は効果がありません。

「発音」、「語順」、「英語で考える」、それぞれを習得する方法は2015年10月19日のブログ「川合式英語学習法」をご覧ください。

これは全部私自身がやってきたことです。  こうすれば、生徒たちは必ず通じる英語で話すようになります。
英語で考える指導法を提唱する人たちのように、「自分は日本語訳を使ったけれど、生徒たちは使うな」というような、誰も実際にはやっていないような指導方法ではありません。  私は全部自分でやっています。


「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について

松本亨氏の「英語で考えるためには日本語訳を使ってはいけない」という主張は2006年、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになった事実によって否定されました。 

「英語で考える指導法」は詐欺である可能性が高いです。

松本亨さんの書いた「英語で考える本」「英語で考えるには そのヒケツと練習」という本に書いてある練習をしても英語で考えるようにはなりません。(2月4日のブログ「英語の思考活動」、3月1日のブログ「先生の宿題のプリント「英語で考える」ってどういうこと?」を参照してください)

英語で考える指導法を掲げる英語学校FORWARDの指導者、石渡誠さんは、松本亨さんの「英語で考える本」「英語で考えるには −そのヒケツと練習−」という本で勉強すれば英語で考えるようになると2017年1月19日のブログで言っていますが、この2つの本で勉強しても、英語で考えるようにはなりません。  「この方法を26年教えてきた」と書いていますが、26年間も効果のない方法を教えてきたというのは驚きですね。  

私は、この件について、松本亨さん(著作を含めて)以外の固有名詞を入れることをずっと避けてきました。  けれども、石渡誠さんの2017年7月30日ブログの冒頭の

日本の英語教育界もようやく変革の時が!英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきています。良いことですが、

という部分を読んで、明記することにしました。  日本中の高校生を犠牲にしておいて、まだこういうことを言っていることに怒りを覚えました。  文部科学省でさえ、もう、中学校の英語の授業を英語で行うとは、言わなくなったのに、と思いました。  

石渡誠さんは、26年間も授業料を取って、「効果のない方法」を「効果がある」と偽って教えてきて、謝罪も損害賠償もしないのですか?  そうやって、「何を言っても何の責任も取らなくていい」と思っているから、いまだに「英語を英語で教えるのが良い」などとおっしゃるのでしょう。  

でしたら、ご自身がアラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうか示してください。  それが出来ないのであれば、「英語を英語で理解する指導法」が間違っていたと認めてください。  そういうけじめをつけないからいつまでも「英語を英語で理解する」などという指導法を主張し続けるのでしょう。

日本中の高校生が迷惑していますので、自分もできない指導法を提唱するのはやめてください。

自分の商売のために子供たちを犠牲にするのは、もうやめてください。

Je suis Charlie. と母国語で言うフランス人が I am Charlie.という言語を学ぶとき、母国語の意味を参考にしていないはずはないでしょう。  日本人は誤った指導法を50年も信じて、大きく後れを取りました。


私は、英語で考える指導法の提唱者が、「Freedomを日本語に訳すとニュアンスが分からなくなるから英語のまま言わせる」とブログに書いているのを読みました。  でもそれでは何も教えていないのと同じです。

生徒から、アメリカ人にとって自由というのはそんなに大事なものなのですか?と質問されたら、アメリカ史がご専門の先生なら、「建国の歴史を勉強してみるとその理由が分かってきますよ」とお答えになるでしょうし、時事英語がご専門の先生なら、ニュースの中から、アメリカが個人の自由を制限する国に対して、非常に厳しい外交政策をとり、しかも大多数の国民がそれを支持しているというニュースを選んで、生徒と一緒に勉強していくでしょう。

Freedomを日本語に訳さずFreedom. Freedom と生徒に言わせる、などというのは何も教えていないのと同じことです。

それは、次のような例を想像してみるとよくわかります。

もし、アメリカで、日本語を学んでいる生徒が「日本の武士道とはなんですか?」と教師に質問した時、「日本人にとって武士道が、どういうものなのか知りたかったら、武士道を英語に訳さず、日本語のままブシドウ、ブシドウといいなさい」 などと指導する教師は一人もいないでしょう。   

仮に先生が「これが、日本語を日本語で理解する指導法だ」「日本語で考える指導法だ」などと言っても、生徒はばかばかしくてする気にもならないでしょう。  保護者からは「まじめに教えろ」と言われるでしょう。 

これが英語で考える指導法の正体です。

教える方は何も教えていない。
学ぶ方は何も学んでいない。
これが英語で考える指導法の正体です。

だから私はこの方法は詐欺だと言ったのです。(こちらのブログ

以前、この「英語のままFreedomと言わせる」と言っていた学校のブログで、車を売って受講料を払って学んでいるという生徒の例が紹介されていました。  それほどの高額の授業料をとって、「だますつもりはなかった」「知らなかった」では済まないです。  
詐欺は犯罪です。

詐欺は、刑法で刑罰が定められている犯罪です。

また、そのブログで、英語で考える指導法をする人々が、生徒の英和辞典を取り上げたり、生徒に英和辞典を窓から捨てさせたりする、ということも読みました。  中には最後まで生徒に英和辞典を返さなかったこともあったそうです。

「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただくとわかりますが、英語のわからない生徒にとって、英和辞典は命綱です。  英和辞典があるから、英語の意味が分かるようになります。  これを取り上げるなど、間違った指導法を盲信する指導者の誤りです。  英和辞典を取り上げれば生徒の英語力が上がるなどということは絶対にありません。

この詐欺商法を、中学や高校に持ち込んだのが文部科学省の「中学、高校の英語の授業を英語で行う方針」です。
だから、私は、「学校で詐欺を行わないでください」と申し上げたのです。
税金を詐欺に使わないでください、と申し上げたのです。
高校英語教育はいまだに詐欺ですね。
学校で詐欺教育をするために、車一台売るどころではない、莫大な税金が使われています。

早くやめてください。
高校時代は、高校時代にやらなければならない訓練があるのです。
複雑な英語を読み始めるときにどうしてもやらなければならない訓練があるのです。
この時を逸すると、取り返しがつかないのです。  高校生がかわいそうですから、「学校で詐欺」はやめてください。

発音練習について

学生時代、私はアメリカのセルフヘルプの本を読むのが好きでした。  当時、そういう本は翻訳しか入手できませんでした。  その中にこんな話が書いてありました。

チャーリーさんが自動車の調子が悪くなり、修理工場に持ち込みました。  修理が終わって取りに行ったとき、調子が悪かった原因を尋ねると「OOのネジが一つ壊れて、不具合が生じていたので、新しいネジに変えました」と説明を受けました。

請求書を見てみると、とても高い金額でしたので、チャーリーさんは、「ネジ一つ取り換えただけなのに、これでは金額が高すぎます」と文句を言いました。  そうしたら、修理をした人が、「最初は、何が原因となって不具合が生じているのかわかりませんでした。  それで、私は自動車の内部を全部調べました。  そしてOOのネジが壊れていることを発見したのです。  自動車内部をすべて調べるのに何時間もかかりました。  請求書はその労働の代金を含んでいるのです」と言いました。  チャーリーさんもその説明で納得しました。

この話は、どこを直せばよいかわかっているものを直すのは、簡単ですが、どこが悪いかわからないものを直すのは大変だ、ということを例えた話でした。

私は中学時代に英語のきれいな発音に魅了されて発音練習を始めました。  中学生でしたから一生懸命練習すればお手本のアメリカ人と同じ発音になると信じていました。  一年半くらいはちっともうまくなりませんでしたが、その日の練習が終わると、自分が今日練習した分だけお手本の発音に近づけたと思えて、とても、心が満たされていたのを覚えています。  一年半くらいは目に見えてうまくなってはいませんでしたが、毎日練習が終わって、テープレコーダーの手あかを白いハンカチできれいにふき取ってしまうときは、とても気持ちが充実していたのを今でも覚えています。

だから発音練習は大変だ、とかつらいとか思ったことはありませんでした。(決してうまくはなかったのに、です)

最初の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」(赤い本)の原稿を書いていた時、私は編集してくれた人に次のような心配をお話ししたことがありました。

「読者の皆さんに、私は何の苦労もなく、発音を習得した、と思われると困るのですが、、、」
そうしたら、編集をしてくださった方からこういわれました。

「川合先生の本を読んで、川合先生が何の苦労もなく発音を習得した、と思う人はいません。  そんなことを心配するより、むしろ、こんなサイボーグみたいな練習をしなければ発音はうまくならないのか、と思われることをご心配なさった方がよろしいんじゃありません?」

編集をしてくださった方は、スタンフォードでの留学経験もありますので、英語がとても上手な方でした。  こういうユーモアのセンスもお持ちでした。

私は苦笑しながら「はい。。。。」と言って、すぐひき下がりました。

確かに文全体をお手本と比べて違いを探すにはサイボーグみたいな能力がないとだめだ、と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。  (先日夫がチャンネルを回していたら、ターミネーター3でシュワルツネガーさんが人の着ている洋服を見て、一瞬で、それが自分に合うかどうかをピピピピ。。。と判断する場面がありました。  サイボーグと言うとそういうイメージが浮かんできますね。)  

けれども、発音を直すときは、最初は、気づいたところから直していけばいいので、本当はそういうことはないのですが、人によってはそんなことはとてもできないと思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、その2年後、私は、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑の本)を出版しました。  そしてその本に、どこを比べて何を直したらよいか書きました。  漠然と、文全体を比べたら違いは分からないかもしれませんが、「この音のこの違い(例えば、長さ)を聞いて下さい」とピンポイントで言われれば、誰でもそれは聞けます。

先ほどの自動車修理工場の例でいえば、どこに原因があるのか車の内部全体を調べるのはとても時間がかかって大変ですが、「ここのネジを変えてください」と言われれば誰でも出来るのと同じことです。  具体的に言われたことはやりやすいです。

「続・英語発音、日本人でもここまでできます」にはどこを聞いて何を直せばよいのか、書いてあります。  そのポイントは日本語のくせから来るものがほとんどです。  それは日本人に共通する発音の問題点ですから、そこを聞いて直していただけば通じやすい発音になっていきます。

「ここのネジを取り替えてください」というのと同じように、努力すればだれでもできることです。  サイボーグのような能力はいりません。

読者の方から、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」は、「英語発音、日本人でもここまでできます。」付属のDVDで発音練習するときの参考書のように使っています」というメールをいただいたことがありますが、この2冊は一緒に活用してください。  

「なぜそういう練習をするのか」その原理もわかりますし、理解が深まると、相乗効果となって皆さんの発音がとても上達します。  発音は、口の練習だけではうまくなりません。  上手な人の発音って何か違いますでしょう?  体になじんでその音がでてきていますでしょう?  耳はもちろん、たくさんの感覚を使って習得すると上手になります。  (これについては2018年3月8日のブログの冒頭の部分も参考になさってください)

表面的な練習だけやっていると表に現れないことが、その原理や仕組みを深く掘り下げて理解していると、口の動きに現れてきます。 

お手本の発音を聞いたとき、「どうやって発音しているのか手に取るようにわかる」この状態になるわけです。  この深く掘り下げる役目ををするのが、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」に書いてあることです。  

「上手な人の発音が何か違う」と感じるのは、口の動きの後ろにある、さまざまな感覚の関連性を意識して、練習しているからです。  「自分の体をどうするとあの音が出てくるか、体が知っている」この状態になっているからです。  表に現れたものだけ練習する場合、長く練習しても、あまり変化はありませんが、深く掘り下げて、練習していると、だんだん、音を捕まえる能力も向上しますので、長い間には、口の動きだけ練習してきた人とは随分違う発音が出来上がります。  発音練習の基本姿勢のブログに出てくる生徒さんみたいにですね。  「英語発音」と「続・英語発音」の本は一緒に活用してください。



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変更

今週掲載する予定でした「和文英訳 (最終回)」は、11月30日に掲載いたします。



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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。




英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)