川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

帰国子女の英語 ー 帰国後の英語維持について。

(私が驚く藤田さんのコメント「子供を英語で育てることは虐待」は文中終わりの方に黄緑の文字で書いてあります。)
小学校低学年で、英語圏から、帰国した子供を対象に書いています。中学生、高校生で帰国した子供については「英語を維持する」「保持する」は違った対応になります。 (中学で帰国された方のご参考に、娘が中学3年で帰国して高校受験までどのような勉強をしていたかをこのブログの中ほどの * 参考 * というところに書きました。  「幼児英語教育」の弊害、デメリットについては一番最後の「言語と文化」の前に書いてあります。  日本では誰も生活の中で「言語」として使っていない英語を持って、人生最初の言語習得に介入することの是非について書いてあります。)

最初にアメリカに赴任をしてかえってきたとき、長男は小学校一年でした。友達とは英語で話していましたので、ほかの人から見たら、英語はぺらぺらでした。でも、かえってきてから、3ヶ月で、英語は抜けました。11月ごろ、「僕は今まで、青い色を見ると、blueって思ったけど、今は青って思うようになった。」という言葉を聞いてそれがわかりました。

けれども、あまり英語を知らないお母さんの中には「そのまま英語で育てちゃえば。」なんていう人もいて、私は驚いたことがありました。帰国子女の問題点は、自分が、英語圏にいた年齢で使っていた英語しか使えない、ということです。日本に帰ってきて、年齢が上がるにつれて、話す英語も年齢相応にあがってくるかといえばそういうことはありません。

歴史、科学、数学、文学など、それについての内容、時代背景や、思想の説明、ディスカッションなどを、年齢相応の思考に基づいて、年齢相応の言葉で、授業を受けていくことによって、大人の言葉が使えるようになってきます。 

子供は成長します。  その成長に合わせて、思考や言葉も変わります。  それに合わせて、アメリカで使っていた英語が変わっていくか、と言えば、日本に帰ってきた以上、そういうことはありません。  帰国子女の問題点は、英語圏にいた年齢で使っていた英語しか使えない、ということだと最初に書きました。  帰国後、子供が成長しても、何もしなければ、その子の使える英語はアメリカにいた時の年齢で使っていた英語のままです。  ですから帰国後の「英語力」については、アメリカで使っていた英語を「維持する」「保持する」という観点から考えるのではなく、帰国後も成長する子供の年齢に合わせて、新たに英語を学んで行く、という観点から考えなければなりません。  帰国子女の英語は自動的に大人の英語にはならないのです。  帰国しても、「英語力」を維持したかったら、成長に合わせて、年齢にふさわしい英語を自分で学んでいく必要があります。  (ただこれは、中学生や高校生で帰国した場合は、少しは、できますが、小学校低学年で帰国した場合は無理のようです。小学校低学年では大人の英語を身に付けていく土台となるものが英語でまだ頭の中に出来上がっていないようです。)

高校生まで、アメリカにいても、それで日本に帰国して、大学を卒業して、就職後、アメリカの大学院に行こうと教授の面接を受けたら、「英語が不十分だから、3ヶ月早くアメリカに来て、サマーコースで英語を勉強しなさい。」といわれた人が、知り合いの息子さんにいました。

本人は英語には自信があったので、ショックだったようですが、よく聞いてみると、話す英語が幼かったようでした。日本人はただぺらぺら話していれば、英語が堪能だと思いますが、英語にも大人の英語、子供の英語、いろいろなレベルがあります。

以前、夫が、大学生の娘に「由紀子はもう大学生なんだから、女子高生が仲間内でぺらぺらしゃべるような英語で話していてはだめだよ。大人の使う英語を勉強して身に付けなさい。」といった話は7月2日、「映画の教材」という題で、このブログに書きました。  アメリカで長く仕事をしてきた夫には娘の英語ではとても大人の英語として使えない、と思えたのでしょう。

帰国したとき、子供の英語を維持しようとほとんどの親が思います。私もそうでした。でも、結論から言うと小学校低学年の場合、それは、まったく無駄です。 先にも書きましたように、小学校低学年では大人の英語を身に付けていく土台になるものが英語でまだ頭の中に出来上がっていないようです。   息子が19歳になったとき、アメリカで幼いころ一緒に過ごした子供を持つお母さんたちが12,3人集まって、お昼ご飯を食べたことがありました。

帰国当時は、みんな英語のお教室に通っていたのに、今でも、バイリンガルな子など一人もいませんでした。みんな普通の日本の大学生になっていました。  小学校高学年で帰国した知り合いには、大学生になったときにアメリカの大学に進学した子もいましたが、その子は自分が、アメリカの大学に進学したくて、自分でそれを目標に勉強していた子でした。親が、英語を習わせなくても、興味のある子は自分で、そういう勉強をします。

「英語ができると、有利だ」と日本では思われているようです。でもそれは、「日本語が完璧に話せる。」「日本語の文章がきちんと書ける。」「漢字がほかの日本人と同じレベルで書ける。」「日本の社会での、対人関係のルールが身についている。(たとえば、目上の人には敬語、少なくとも、丁寧な言葉が使えるなど。)」という条件を満たして、英語ができれば、できない人よりは有利だということだと思います。もし、上に書いたことができなくてもいいから英語力だけが必要だ、というなら、ネイティブを採用するでしょう。  

徳川家康も知らない、きちんとした日本語の文章はかけない。となると、英語ができても就職などは非常に限られてくると思います。  母国語が書けなくて、母国で有利になることはないのです。  親は日本語が完璧ですから、日本に住んでいれば自分の子供は完璧な日本語を自然に身につけると思っていますが、完璧な日本語は日本の学校教育を通して身につきます。  日本語で、きちんと、文学や歴史や科学の話ができるのは学校に行って学んだからです。  学校では、各教科を学んでいるように見えますが、各教科を学びながら、各分野の日本語を身につけているのです。  日本で生まれても学校教育を受けないで、ずっとお母さんのそばにいて、20歳になった人がいたとしたら、どんな日本語を話すか想像できますよね。

それと同じで、日本で、20歳まで、英語のプライベートレッスンを受けても、大人がしゃべるきちんとした英語はしゃべれません。ましてやバイリンガルなど、なれるはずはありません。子供がバイリンガルになるには、母国語の維持を心配するほど、第2の言語を入れていかなければ、なれないのです。 


アメリカに行ったばかりのころ、小さいころからアメリカに住でいて、週末日本人学校に来ている子の親御さんに、「まだ、アメリカに来たばかりで、由紀子は英語がよく話せません。」と言ったら、「でも、由紀子ちゃんは日本語ができるからいいじゃないですか。」と言われて、私は冗談かと思って噴出しそうになりました。けれども、そういう方は本当に子供の日本語で苦労していました。

「由紀子ちゃんは作文を書きなさいといわれればすぐにかけるでしょう?うちの子なんかは作文が何か、から説明しないとわからないんです。湖なんて、何度説明してもわからなかったんです。」とおっしゃいました。

日本語ができるのは日本の学校に通って勉強しているからであって、日本人に生まれたから自然にできることではないのだと(当たり前のことなんですが)私はこのとき初めて知りました。

アメリカに子供を連れて行った親は、子供の年齢が高くなると、母国語と英語の両方をちゃんと子供に身につけさせようと、一生懸命いろんなことをするのですが、だんだん勉強も難しくなり、時間も足りなくなり、最後は英語50%、日本語50%でもいいや、、、、と思うようになります。

それほど、言葉を身につけるのは大変なことです。週日は現地校の宿題やテストで、がんばり、週末は日本人学校の国語や歴史で、がんばるのはもう限界になってきます。(補習校は、一回授業を休むと日本史が200年くらい進んでいた。。。と嘆いていた保護者もいました。)

けれどもそのとき、英語50%日本語50%では、まともな仕事に就くことはできないと警告してくれた人がいました。

彼女は、アメリカに永住を決めてすんでいました。3人のお子さんの真ん中のお子さんだけ、英語が母国語です。このお子さんが5年生のとき、英語が母国語だか、日本語が母国語だかわからなくなってしまったそうです。「そうするとね、辞書も引けなくなるのよ。」と彼女は言いました。「私は困って、英語、日本語、どちらでもいいからじぶんの母国語を決めなさい。といったら、英語がいい。というので、その日から、二人で、英語を勉強しました。

まず、ネイティブが、小さいころ読むお話を読んで、そのあと、二人で、新聞を毎日読んで、英語を勉強しました。アメリカで生きていくなら、英語は120%できなければ、ちゃんとした仕事には就けないんです。」と彼女は言いました。英語120%というのは、平均的なアメリカ人より、よい文章が書ける、きちんとした豊富な表現ができる、教養が感じられる、そういうことだと思います。

英語ができるから、アメリカに行って、仕事に就こうかと考えている人がいたら、この友人の言葉を読んでもらいたいと思います。当たり前ですが、アメリカで、英語ができても、それは、日本で、日本語ができます。ということと同じです。「単に英語ができるだけ」で、有利になる社会はどこにもないということでしょう。

もうひとつは、単に英語が堪能ならそれでネイティブと同じか?というとそうではないということです。息子の高校にロンドンから転校してきた女の子がいました。その子のお母さんと会ったとき、こんなお話を伺いました。

「もう、英語が上手なので、娘さんは、アメリカの高校生活は、特に大変なことはありませんでしょう?」と私が聞くと、「いいえ、イングリッシュ(国語)の時間に苦労しています。たとえば日本で、「あかずきんちゃん気をつけて」という本があったとしたら、それは、単に赤いずきんをかぶっている子は気をつけなさいという言う意味ではなく、「あかずきん」というお話を知っているから、わかることなんですよね。娘は、アメリカ人が小さいときに読むお話を知りませんから、イングリッシュの時間に学習する作品の背景がわからないんです。それでとても苦労しています。」といわれました。

単に英語がぺらぺらなら、ネイティブと同じというわけではないんですね。宗教から来る影響もあります。日本では宗教はそれほど、表舞台には出ませんが、アメリカでは、政治や司法までかかわる大きな問題も宗教から来る考え方が影響することは多いです。たとえばabortionの問題などがあります。

子供が英語を勉強したいというじぶんの希望があるのならいいですが、そうでないのでしたら、小学校低学年で、帰国した子供の英語を維持する努力は時間的にも経済的にも、大変なのに、ほとんど将来の役には立ちません。小学生の英語など、どこにも使えません。英語で複雑なことも言えて、少しはまとまった考えを表現できる小学校高学年で帰国した子供のばあいは、その子が英語を使うことに、日本にいても興味を持っているようであれば、サポートしてあげればいいと思います。

(私はその後、二人の子供たちの大学入試、就職試験、入社後の仕事などを見てきました。 自分の子供だけでなく、子供の友人の帰国子女たちの話、知り合いのお子さんたち(帰国子女)の様子などたくさん見てきました。  それでわかったのは、日本では「英語ができると有利だ」と思われていますが、「有利になるほどの英語力」というのは相当なレベルの英語力だ」ということです。とても「楽しみながら英語を学んだ」というレベルでは到達できない英語力です。次のように想像していただくとどのくらいのレベルの英語力かがわかると思います。彼らは日本の中学、高校の中間試験や期末試験を英語で受けて合格点が取れて単位をもらえるレベルの英語力がある、という事です。  それを身に着けるのがどれほど大変だったかについてはこちらのブログに具体的に書いてあります。 シカゴで一緒だったお子さん達は、国立、私立のかなり難しい大学に進学されていました。 皆さん帰国後は英語のお教室に通われていましたが、お教室は小学生の時にやめて、それ以降は英語は自分で勉強して、大学を受験されたようでした。)


私は、先ほどの友人の息子さんの話を聞いたとき、息子の英語教室かよいをやめました。小学校低学年で、どんなに長く英語教室に通っても、大人になったとき役に立つ英語は話せるようにはならないとわかったからでした。そのとき、心の中で、「お母さんもお父さんも自分で努力して英語を身につけたの。必要なときが来たら、太郎も自分で努力して英語を身につけなさいね。」と思いました。私自身もこのとき、すごく精神的に楽になりました。

それでも息子は、中学になって、英語の授業が始まったとき、学習塾の先生から、「Rの発音はちゃんとできているんですね」といわれたので、小さくてもRの発音の仕方は覚えていたみたいでした。

ほかの事はできなくても、英語だけはやらせよう、と親が一生懸命になって、子供の人生を台無しにした例も知っています。(例えば、日本にいて、漢字が書けない、難しい文章がよく理解できない状態で大人になると、その子は日本にいることがcomfortable だとは感じられないのです。)そのことを知ったときは、こういう子は、日本の学校にいって、大学生のとき、もし興味があれば自分で勉強して、一年でも留学し、その後も努力を続けていけば、きっと、すきな分野で、活躍できる人になったでしょうに、ととても残念に思いました。

あまり、目先の利益にこだわらないで、自然な子育てをしたほうがいいと思います。日本に帰ってきたら、そこで、学ばなければならないことを学ぶのが自然だと私は思います。

そうしていても、英語の好きな子は、自分で興味を持って親に聞いてきたりしますので、そういうときに、サポートしてあげればいいと思います。そうやって、大学生のときに海外の大学に進学した知り合いのお子さんは何人かいました。海外赴任から帰国したときに「自分はアメリカの大学に行きたい、」と明確な意思表示があったようでした。そういう子供はそういう方向でサポートしてあげたらいいと思います。

**ここから先は2014年9月に書き加えました。

私は中学生や高校生の場合は帰国後、英語力を年齢相応に維持することは少しならできます、とこのブログの最初の方に書きました。

なぜこのような言い方をしたかと言いますと、2014年5月10日のブログをご覧ください。

アメリカで娘の日本語を維持することについて、読者の方に聞かれてお答えしたブログです。  「アメリカにいた間、日本で学校生活を送っている子供たちと同じレベルでは日本語は維持できませんでした」と私は書きました。

アメリカにいて、日本語を母国語レベルで維持することは出来なかった」ということは裏返すと、「日本にいて、英語を母国語レベルで維持することは出来ない」ということだと私は思っています。

帰国後、娘は高校で、帰国生だけでネイティブの先生から英語の授業を受けていましたし、高校卒業間際には通訳の学校にも行ったりして、年齢相応の英語を使えるよう努力もしました。  ですから今でも、高校の友人とは英語で話している時もありますし、また、大学時代は夏休みにアメリカの大学で、授業を受けて修了して成績表も持って帰ってきました。  けれども、その英語は母国語として英語を使っている人とはやはり同じではないと思います。  外国語として英語を使う分には使えるということだと私は思います。

娘がアメリカで4年間、暮らして、帰国したばかりのころ日本語で文章が書けなかった、ということは「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」という私の本の95ページに書きました。  それは母国語レベルで、日本語を使っているとは言い難い状態ですね。  ですから、アメリカから帰国して、今度は日本で何年も暮らすようになったら、アメリカにいたころのように母国語レベルで、英語を使う、ということはもうできないと理解する必要があると思います。  なぜかというと、できないことを追い求めると、時間を浪費することになるからです。  子供の時間は貴重です。

帰国の子供を見ていますと、アメリカの大学に進学したいとか、模擬国連に参加したいとか、自分で目標を持っている子は一生懸命英語を勉強しているようです。  帰国したら、漠然と、「アメリカにいた時のような英語を維持する」という勉強のしかたよりは本人に何か目標があって、そのために英語を勉強する、という方が現実的だと思います。  もはやアメリカにいた時のような、母国語としての英語を維持する環境にはないことを分かったうえで、対処して行かれる方が現実的だと思います。

* 参考 * 

娘が中学3年生の7月に帰国し、翌年1月の高校受験までどのような勉強をしていたか、皆さんの参考になるかもしれませんので、ここに書きます。

帰国後にアメリカの高校の先生からeメールでエッセイ・ライティングの指導を受けました。  アメリカの学校でエッセイというと、随筆というより、小論文に近い文章です。  エッセイ・ライティングと言っても、エッセイを書くために、まず英語の本を読みます。  その本は先生が指定し、エッセイのトピックについても先生から指示がありました。  

トピックというのは、その作品を通して、作者が言いたかったことです。  その作品のテーマです。  娘はそれを作品から読み取って、ファイブパラグラフエッセイの形式でエッセイを書きました。  

書くことは、とても大事だと思いますが、書くだけですと、今の自分の英語力から出て次の段階に行くことは難しいところがあります。  私は娘が、ライティングの指導と合わせて、この時、高校の先生から読書指導を受けたことが英語力の向上に大きく貢献したと思っています。  英語の本を読むことが、頭の中に英文を構築する能力(言いたいことが英語で自然に頭に浮かんでくる能力)を作り上げていることは、私の本「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」という本の中で詳しく解説いたしました。  いわゆる「英語脳」の形成に本を読むことが非常に深くかかわっていることは、それを読んでいただくと、お分かりになると思います。  

娘は、作品から読み取るポイントを先生に指示されて、それに沿って、本を読んで行きました。  その過程で、知らない単語や表現方法も学びました。  娘の英語力は、年齢相応の本を読むことによって、とても向上したと思います。  娘は高校時代も3年間、この先生から読書指導とライティング指導を受けました。

書いたエッセイをeメールで先生に送り、先生はプリントアウトしたエッセイに赤字で、添削をして郵便で送りかえしてくださいました。

しゃべることについてはアメリカにいる友人とスカイプをしたり、帰国生の友人と英語で話したりしていました。

聞くことについては、ケーブルテレビを見たりYouTube を見たりしていました。  高校生になったとき、お化粧の仕方を知っていたので、「どうして知っているの?」と聞いたら、「これ見たの」と言って、YouTubeアメリカ人がメイクアップの説明をしている動画を見せてくれました。  必要な情報を英語で聞いていたようです。  息子も帰国後はYouTube で政治家を風刺したジョークなどを放送したテレビ番組の抜粋をよく見ていました。

文法問題などの受験問題については塾に行って教えてもらいました。 自分で問題集もやりました。  昔、塾の先生が、「問題の正解を言うと、帰国子女は「そういう言い方はしないよ」というので、困ります」と言った話を聞いたことがありますが、娘もテストの正解を聞くと、「そんないい方しないよ」というので、「こういうことなのね。」と私も思いました。

娘の場合は、帰国してから受験まで半年くらいでしたので、今思うとやりやすかったと思います。  これが長く間が空いた場合は大変かもしれないと思いました。

この時、娘と一緒にいろいろな高校の帰国生入試の説明会に参加して、わかったことについては2014年4月24日のブログ「子供の年齢が上がってきた時に、海外赴任をする場合、子供を連れていくかどうかをどのように決めるか。」に書きましたので、興味のある方はお読みください。

**

先に、高校卒業間近の娘に「通訳の学校に行ってみたら?」と勧めたと書きました。  娘は英語力のためと思って通うことにしたようでしたが、私の意図はそうではありませんでした。  

通訳の方はいつも正式な場面で話しますので、日本語がとてもきちんとしています。  私は大人になる娘にそういうきちんとした日本語を話す経験をさせたいと思いました。

今はもう社会人になった娘に「通訳の学校はどうだった?」と聞きましたら、「英語を聞いてすぐに、ああいう日本語を言うのはとても難しいと思った」と言っていました。  自分できちんとした日本語を話すことは出来ても、長い英語を聞いた瞬間にきちんとした日本語にするのはとても難しかったようです。  あの時は「自分にはとてもできない」と思ったそうです。 やはり、私が予想した通り、きちんとした日本語を話す、ということについて、貴重な経験をしたようでした。。

私は英語力を伸ばすことは子供自身ですることだと思っていますが、親の都合で海外に連れて行ってしまったのですから、日本語をきちんとさせるのは親の責任だという気持ちがいつも心のどこかにあります。  20代から職場で帰国子女を見てきて、母国にいて母国語がよくできないほど目に見えない不利益を子供がこうむることはないと感じることが多かったからでした。  

みんなが知っている漢字が書けなくても、
目上の人に丁寧な言葉がつかえなくても

子供なら、まだ、かわいいものだ、ですみますが、社会人だったら、「教養がない」「常識がない」と言う印象は避けられないと、職場で感じました。  私が結婚で退職する少し前、職場にいた若い男性社員が「OOさん(帰国子女)て、漢字知らないんだね。」と、あこがれの女性に失望した話を聞かされて、漢字が書けない、というのは大人の日本人には「教養がない」という印象を与えるものなのだなと思いました。

親になってみて、あの時、帰国子女の人たちから聞いた体験談(例えば、町で何かの申込書を書いていた時、係の人から「東芝の芝という字です」と言われたのですが、漢字がわからなくて、「東芝の芝って?」 と考えていたら、そばにいた人に、「あなた大丈夫?」と言われたとか)や、職場での他の社員の反応などが、鮮明によみがえってきました。  漢字が書けない、その場にふさわしい言葉使いができない、というのはどうしても、社会人としてマイナスの印象を与えてしまいます。  「日本語は親の責任」私にはそう思えて、日本に帰ってきてからは、子供の日本語習得に私はいつも一生懸命でした。  

日本に帰ってきたら、日本でやることがあります。 冒頭に書いたように、息子は帰国して3か月で、空を見て、blue ではなく「青」と思うようになった、と言いました。  帰ってきたら思考するのは日本語です。  日本語が貧弱なら、思考する力も貧弱になります。  また、人とのつながりを感じるのも、日本語です。  日本ではみんな日本語を話していますから。  子供は日本語を話すことによって、日本の社会の一員だと、改めて言われなくても毎日、感じていきます。  これが子供のアイデンティティーを作って行きます。  ニュージャージーでお会いした、お子さんが3人いて何回か海外赴任をしていたお母さんが、「小学校を海外に連れ歩いてしまった子供はいつまでも、日本語がふらふらするのよね」とおっしゃっていました。  親の方針はそれぞれだと思いますが、小学校低学年で帰国した場合は、英語維持は無意味だと私は思いました。  私は息子の日本語を日本で学校に行っている子供と同じレベルに持っていけるよう、努力をしました。  私は子供を英語で育てることなど、一度も考えたことがありませんでした。  私が一番母親の愛情を表現できるのは日本語だからです。  小さい時に愛情表現を削っても覚えさせなければいけない英単語はないと思いました。  子供が中学生、高校生になったら、英語表現は何でも覚えます。  

小学一年生で帰国した息子の日本語が不十分だったので私がどのようなことをしたのかは以下のブログに書いてあります。
2011年7月1日 担任の先生に聞いてみましょう
2011年7月5日 まったく本を読まない息子に困りました。
2011年7月13日 まったく本を読まない息子に困りました。(第2回)
2011年7月20日 まったく本を読まない息子に困りました。(完結編)
また、私の本「帰国子女に見る世界に通用する英語力の育て方」の96ページ下段にも、息子に音読の練習をさせたことが書いてあります。

* * * 

幼児英語教育について

* * *

今は子育て中に幼児に英語を教えることが盛んに行われています。  言語というものを初めて習得する2,3歳のころに英語を教える、「幼児英語教育」が流行っているようです。

日本にいると実際に英語で生活している場面はありませんので、DVDやテレビのアニメなどを使って多量の英語をインプットするようです。  お母さんが子供に英語で話しかけるとも聞きました。 そういう英語を大量にインプットして、子供がバイリンガルのように英語を話し始めればそれで問題はないのでしょうか?

これは幼児期の子供に人工的な過程を作って、言語を導入するということですね。

お母さんが英語で話しかけるとしても、お母さんにとって英語は、日本語のようにその国の文化が体に染みついていて話している言語ではありません。  どういうことかと言いますと、例えばアメリカ人が the Founding Fathers という言葉を聞けば、それについて、学校で学んで、知的に理解していることはもちろんですが、その言葉を聞いたときに体の中に湧き上がってくるイメージや感情があります。  

これは英語だけでなく、どの国の言語にもあります。  フランス人が「フランス革命」と聞けば、心の中に湧き上がる感情があるでしょうし、イギリス人がエリザベス女王と聞けば、胸に感じるものがあるでしょう。  日本人が武士道、と聞けばその言葉の後ろにイメージだけでなく歴史や伝統、生き方まで含めた感覚が瞬時に広がります。

ですから、母国語の言葉には、学校で学ぶ知的な情報だけでなく、時にはその空気や皮膚感覚まで含めた膨大な情報がその後ろに広がっています。 (この具体例については2015年4月13日のブログ「わが子の英語力を上げたかったら、文部科学省がどのような方針を打ち出そうと、中学、高校の英語は日本語で学習させる(1)」をご覧ください)

こういうものはその国に生まれて生活をするうちに、親から、社会から、学校教育から、あるときは明確な形で、またあるときは、暗黙の形で、体の中に入れられてきたものです。  私はそのことを今回の赴任で、子供達の宿題を手伝いながら改めて感じました。  日本でも、それは同じですね。  私は英語を話しますが、私も英語を母国語とする人たちが、「体に染みついて持っている文化や伝統」を体の中に持っていて英語をしゃべっているわけではありません。  仕事でコミュニケーションの手段として英語を使う場合はそれでも十分です。  

また、テレビやDVDのお話というのはどんなによく作ってあっても、結局作り物の世界です。  話の展開も結末も感動する点も、作った人が売れるように考えたものです。  英語に関して言えば、子供はすべて虚構の世界で学ぶことになります。 (大人もそれをしますが、大人はそこで、「言語」というものと最初の出会いをするわけではありません。  つまり、大人はもう、長い母国語の経験から、言語とは何か、を十分理解しています。  そして、DVDなどで、英語を勉強していても、それが虚構の世界での話だと十分承知して使っています。)

普通母親が小さい子に話しかける時の言語は、母国語ですから、後ろに文化を持った言葉になります。  けれども、お母さんが英語で話しかける時、言葉の後ろにこの文化はありません。  そういう意味では言葉というより、英語は記号と同じようなものになります。  子供は、言語生活の最初の時期にアニメやDVDの虚構の中で英語を聞き、母親の話す、後ろに文化や生活を持たない記号のような英語を多量に聞くことになります。  子供を英語で話させることに熱心なお母さんの場合、それが一日のうち何時間かを占める場合もあるでしょう。

お母さんの心から出てきた「おはよう」という挨拶の言葉は「英語ができる子は有利だ」という意識のフィルターを通って「Good morning」へと姿を変え、子供の心に入ります。  熱心なお母さんなら、子供と話すほとんどの言葉が、「英語ができる子は有利だ」という人為的なフィルターを通って英語に変わり、子供の心に入って行くことになります。

私は子供が最初に出会う言葉は、「虚構ではなく、現実の人間の心から出てきたそのままの言葉であること、後ろに文化を持っていること」がとても重要だと思っています。  「言葉が本当のものでなくても、文化や生活を持っていなくても子供に分かりはしない」と言う人もいるかもしれませんが、それはどうかはわからないと思います。  

虚構の中で言われる言語と、フィルターを通して変わった言語に長期間触れ続けた場合、子供はある種の不自然さを感じる瞬間があっても、さらにそういう状態を続けられると、それを不自然だとは感じないように無意識にして行きます。  本来、不自然であるはずのものを不自然だと感じないように無意識に処理することが始まります。 それが「当たり前なのだ」と思っていくようになります。  

ある時、「いつも行くパン屋さんのおばちゃんもクリーニング屋さんのおばちゃんも、誰も話していない(つまり、母国語のように生活も文化も持っていない)言葉を自分は話している。  (言語は本来なら、多くの人とつながれるものです。)  その言葉はDVDやテレビや本の中だけにある言葉」と違和感を感じても、違和感を感じたままでは落ち着きませんから、その違和感は感じないことにして、通そうとします。  それが普通のことなんだ、と思うようになって行きます。  違和感を感じ取るセンサーの方は何回鳴らしても、見向きもされなければ、やがて鳴ることもやめてしまいます。 機能しないのですから、センサーは壊れたのと同じです。

私はアメリカと日本を行き来して育つ子供達を見ながら「本来、当たり前にあるはずのものがない」ということの影響がどんなものかを知りました。  当たり前すぎるものほどそれがないまま育った影響は、要注意でした。  そういうものほど、どこに影響が出るかわからないのです。  (行き過ぎた外国語教育の影響が、大人になってからその子の人生を壊してしまった例は、次の**言語と文化**というところに書きました。)  

「子供が何を当たり前だと思うか」、それはこういう日々の生活の中から、決まって行きます。  今の例で言えば、英語をインプットされるときの世界では、人が子供用に売れるように作った話を使うわけですから、暗黙の内に全部ハッピーエンドなのが当たり前の世界となるでしょう。  日本語の世界でも、おとぎ話や昔話はハッピーエンドですけれど、子供は現実の世界も日本語で体験しています。 
 
私は、子供に「後ろに文化を持った、そこで生きている生の人間の気持ちを何のフィルターも通さないまま言われるのが本来、言語というものだ」と、日々の生活の中で、定着させたかったので、育児に英語は使いませんでした。  この時期の子供は母国語を習得しながら、同時に「言語とは何か」を習得していく、と私には思えたからです。    

言語生活の最初の段階で、虚構の中で「英語ができる子は有利だ」という人為的なフィルターを通した大量の言葉を入れられたことが、その後、子供にどういう影響を与えるかはわかりません。  目に見えるほどの影響はないかもしれません。  子供が成長し、社会人となり、家族を持ち、そういう人生の私的な小さな出来事の中で、時々、顔を出すだけかもしれません。  けれどもそれは、その場になってみないとわかりません。

シカゴに行ったばかりのころ公園で息子と遊んでいたら息子より少し大きい子が来て何か悪いことを息子にしました。(なんだったかもう覚えていませんが)  その時、私は英語で怒りましたが、結婚後、数年、英語とは全く無縁の生活でしたので、あまりよく言えませんでした。  そのことを夫に話したら、「そういう時は、日本語で怒ればいいんだ」と言われました。  日本語で怒ったら、私の激しい怒りはストレートに相手に伝わりますね。  言葉が真実であることは大事です。

私は幼児教育とは無縁の母親です。  息子は生まれて2、3日で、入院してしまいました。  その際、医師から、医療ミスで、足に障害が出る可能性を告げられました。 最初は泣いてばかりいましたが、しばらくして、泣いていても何にもならない、「将来、車いすに乗るようになっても、この子は明るく元気な男の子に育てよう」と決めました。  その日から毎日3時間息子と外で遊ぶことに決め、4年間続けました。  障害は出ませんでしたが、この間、私の子育ては、ご飯を作ることと、外で遊ぶことに明け暮れました。  子供が二人になってからも3時間、外で遊ぼうとしたのですが、それをやっていたら、自分の食事をきちんと食べている暇がなくなって、ある日、私は貧血を起こしてフラフラッとしました。  「母親が健康でないといけない」と思い、それからは2人の子供と、「なるべく外で遊ぶ」と目標を変更して、続けました。

私にとって子供を育てることと、外国語を身に付けることはまったく別のことでした。  なぜ、この二つが結びつくのか今でも、よくわかりません。  子供たちが小さかった頃、母親の私がその文化的背景を持っていない言語で子供を育てるなど、考えもしませんでした。  言葉の後ろに持つ文化や生活が何もない、いわばただの記号のような言語を多量にインプットした世界で、子供がその記号のような言語で考えていくと想像すると、私には、怖くもありました。  先にも述べたように、私には、幼児期、子供は、母国語を通して、まず、「言語とは何か」を知って行くように思えたからです。  その大事なプロセスに、文化も持たない言語(英語)で、私が介入することなど、とてもできないと思いました。

母国語はこんなにたくさん、時には皮膚感覚まで含めた情報を言葉の後ろに持っています。  彼らはまず、最初に母国語に出会って「言語とは何か」を知るのだと思います。  その時、子供は母国語と一緒にどんなにたくさんのことを知るかわからないと思います。  知的な面だけでなく、感情的な面も愛情の面も。  そして先ほど書いたように、言語でたくさんの人とつながれるということも。  これは社会生活にも関係していきますね。  母国語習得の過程で人間そのものに関するいろいろなことを知るのだろうと思います。  これから生きていく基底となるたくさんのことを母国語と一緒に体に入れているのだと思います。  

息子が入院していた間、私はしばらく授乳のために病院に通いました。  いつも数人のお母さんが授乳に来ていました。  赤ちゃんは一人ひとり、新生児の病室から看護婦さんが連れてきて、お母さんに渡してくれました。  大きな病院で、看護婦さんも忙しいらしく、たまに、お母さんより前に、赤ちゃんを連れてきてしまった時は、そこに寝かされている時もありました。

ある日、ほかの人の赤ちゃんはみんな連れてこられたのに、私の子供だけなかなか来ませんでした。  「川合さんの赤ちゃんは?」とみんなに聞かれて「うちの子はまだ、来ていないみたい」と私は答えました。  その声が終わった途端、「ワ〜ン」と弱々しく窓際の方から赤ちゃんの泣き声がしました。  息子でした。 (たぶん私より、先に連れてこられたのでしょう。)  この時、母親の声は分かるんだ、と思いました。

息子は痩せて、赤ちゃんらしいぷくぷくしたくびれは一つもない子でした。  新生児病室の外から私がガラス越しに見ると、いつも保育器の中で管につながれて、目をつぶっていました。  私は、心の中で、息子に話しかけました。  「お母さん、ここにいるからね。」  私が息子の力になれるとしたら、心の中で話しかけることぐらいでした。  子供が生きる力を必要としているときに、英語で話しかける日本人の母親はいないでしょう。  みんな、真実の言葉には力がある、と心のどこかで知っているからだと思います。  

私には、「2歳や3歳の子だから虚構の言葉でも、母親の「英語ができる子は有利だ」というフィルターを通した言葉でもわかりはしない」とは思えません。  でも、もしそういう状態を、長く続けられると、「それが普通なんだ」「当たり前なんだ」と思うようになることはあると思います。  結果として、虚構の言葉でも、「英語ができる子は有利だ」というフィルターを通した言葉でもわかりはしなくなるのかもしれません。  子供は環境によって変わって行きますから。  子供の言語習得の過程に、人工的に介入することによって、子供がどれほど大きなものを失うか、もし、失うものの大きさが目に見えていたら、誰もそんなことはしないと思います。

「英語ができる子は有利だ」というフィルターを通って出てきた言葉をずっと聞いて育つ、ということは、言葉を変えれば、いつも計算が後ろにある言葉を、「言語」として聞いて育つということですね。  お子さんは、計算とは無縁のお母さんの言葉を、小さい時にどれくらい聞くことが出来るのでしょうか?



「考える」ということは一見無関係に思えるものが、実はつながっていたと気づくことでもあります。  考えるときに、考える言語がその後ろに膨大な情報を持っていれば、考えは、豊かになり、深くもなります。  後ろに何も持たない言語で考えるということは、どういうことなのだろう、と思います。  

後ろに文化をしょわない言語を大量にインプットされて、それで、ペラペラしゃべるようになって、「子供は英語で考えている。英語脳を持っている」それでいいのでしょうか。  そこには、私の子供達が英語を習得して行った過程にあったものが、ほとんど全部、省かれています。

そんなことをしなくても、学業や仕事で使える英語を身に付ける方法はあります。 

「人間は社会的な動物である」と言われます。  人間以外に言葉を話す動物はいません。  そういう意味では言語を持つからこそ人間、と言える面もたくさんあります。

日本にいれば社会で言語としての機能を果たしているのは、日本語です。  日本中、誰とでも話せますし、コミュニケーションが成立します。 

幼児期に日本語より英語を優先して教えるということは、現実の世界では、ほとんど誰も理解できない言語の世界を人工的に作って、子供の心に入れていくということです。  

子供は非常に閉鎖的な言語観を何も知らないうちに心に入れられる、ということだと思います。  具体的な体験にすれば、パン屋さんのおばちゃんも、クリーニング屋さんのおばちゃんも誰も話していない言葉を人工的に入れられる、ということです。  この言葉では、日本で人とのつながりはできません。  子供は、 同じ言葉を使うことによって、「つながっている」「社会に受け入れられている」それを当たり前のこととして育っていくのだと、私は思っています。  (渡米直後、それがない状態で、しばらく、やって行かなければならなかった子供たちを、私はずっと見てきました。  「そんなことは子供の内面に何の影響も与えない」と思えるのは、自分が、日本で当たり前にあるものを当たり前に体験して育ったからではないでしょうか。)  英語で友情も培ったこともないのに、それをバイリンガルと言うのでしょうか?

この人工的に作り上げた言語習得の過程が、子供の心に何の影響も与えないとは言いきれないと思います。 私は先に、「子供が育つときに当たり前にあるはずのものがなかった場合、その影響はどこに出るかわからない」と言いました。  英語を母国語のように大量にインプットするような行き過ぎた幼児英語教育の弊害は、どこに出るかわからないと私は思っています。  言葉だけの問題ではなく、その子の認識、感情、など、大人の予想できる範囲をはるかに超えたところに出る可能性もあると思っています。  

子供は一生2,3歳の時のように、親との関係だけをメインに生きていくのではないのです。  自分で認識したことに基づいて、自分の力で生きていかなければならない日が来ます。  (実際に、行き過ぎた外国語教育がその子の認識の基盤を壊し、人生を壊してしまった例が次の **言語と文化** のところに書いてあります。)  また、外からわかる形では、現れないで、その子が内に持っている世界だけに影響してくる場合もあると思っています。

言語習得の過程を視覚化すると、私にはこんなイメージが浮かんできます。

普通の言語習得では、母親は赤ちゃんと一緒にボートに乗って、山あいの湖をこいで行きます。  子供は魚が泳いでいるのを見たり、周りの木々を見たり、時には陸に上がって、そこで暮らす人と母親が話すのを聞いたりします。

虚構の世界での言語習得では、子供は家のお風呂に浮かんでいる、たらいの中に入れられます。  子供が飽きないように母親はたらいをゆすりながら、FISH や TREE の模型を与えます。  母親は「英語は出来る子は有利だ」と思っていますから、ずっと英語で話しかけます。

こういう2つのイメージが浮かびます。

後者を2年、3年と続けて、たらいの中の言語が十分定着、浸透し、それが当たり前になったころ、子供は英語で話し始めるのでしょう。   

* * 

虚構の世界で英語を教えるくらいなら、母国語で、いろんな世界に連れて行ってあげるのがいいと思います。  例えば、母国語でファンタジーの世界に連れて行ってあげてください。  

「どうやって連れて行くの?」と思われる方は、このサブタイトル「幼児英語教育について」の直前に書いてある3つ目のブログをお読みください。

こちらにもう一度転載しますね。

2011年7月13日「まったく本を読まない息子に困りました。(2)」

このブログの前半に書いてあります。(後半はあんまり、いいお母さんの例ではありませんね。)

私がなぜ、こう思うのかというと、あの時、暗闇を見つめながら、じっとお話を聞いていた子供たちの目が忘れられないからです。  まだ知らない世界を生き生きと受け止める、みずみずしい感性にあふれた目でした。

母国語の後ろにもう一つの世界を広げていたのでしょうね。  こういう体験は、他の子よりその子を有利にするかどうか私にはわかりませんが、その子が持って生まれたものを開花させてくれると思います。

最後に2014年5月15日に書きました「お子さんの英語についてのお問い合わせの時」というブログから抜粋したものを転載します。

アメリカから帰って来て何年か経ち、お子さんが英語への興味を失いつつあることを心配したお母さんからのお問い合わせにお答えしたブログです。
(転載した時に少し付け足した部分があります。)

。。。。。(前略)。。。。。

親は英語を維持すれば、「この先」子供の人生は有利になると思います。  けれども、子供は「今」自分のいる社会で、しなければならないことを全力でやって、その対価として社会から受け取るものがあるのです。  それは大人には目に見えないものかもしれませんけれど、子供にとっては自分を肯定的に確立するためにとても大事なものです。  「自分はこの社会の価値ある存在である」という無言の感覚がその子の中に生まれ、根付き、心の安定につながります。  それができない世界で、しばらくやって行かなければならなかった、渡米直後の自分の子供たちをずっと見てきたので、私は、そういうことが成長期の子供には、とても大事だと思うのです。

もし、子供が興味を持っているそういうことを犠牲にしても、英語をさせるのでしたら、私はそれは勧められないと思うのです。  アメリカから帰って来てここで英語を一生懸命やらせても、それで、子供が社会から対価として受け取るものは何もありません。  

子供は自分が「生き生きと出来る場所」、「生き生きと出来ること」、そういうものを本能的に感じとる能力を持っていると思います。  それが感じられないことを、長期間やらなければならないように仕向けると、自分が何をするのが好きなのか(面白い、興味がある、と感じることです)、自分でもわからなくなってしまうと思います。

数年前、ある大学で、英語学習の世界では有名なゲストの方々のお話を伺う機会がありました。  お話は興味深いものでしたが、私が一番印象に残ったのは司会をされた大学の先生の言葉でした。  「今の学生さんは、ほめられるから英語をする。  という方がとても多いです。  だから、「先生テストやって」という学生さんもいます。」ということでした。  自分の進路や職業は「ほめられるから」ではなく、「自分がそれが好きだから」選ぶ方が、本人にとって、幸せだと思いました。

また、そのほうが、本人が内に持っている力も発揮されます。  自分の好きなことだと、誰も考え付かないようなアイデアが浮かんできたり、普段の何倍も力を発揮する子もいます。一人一人の子がそうやって、自分の持っているものを外に表してくると、社会全体にとっても、大きな価値になります。

そして、自分が、何が好きかは、小さい頃から、自分のやりたいことを一生懸命やることによって、わかるようになる、と私は思います。  「興味ないけど、やっておいた方が将来、有利だから」そういう理由で、毎日やっていると、本人も何をしている時が楽しいのか、わからなくなってしまうのではないかと思います。  それは、人的資源、という観点からみても、社会にとって、大きな損失だと思います。    

「自己の発見」それはもう、子供の時から始まっている、と私は思います。 成績や損得に関係ない小さい頃、子供が「楽しい」と思えることに没頭することによって、それは育つと思います。  大人になっても「ほめられたいからそれをする」では、誰もほめてくれなければ、それをする気にもならないということですね。  それでは、ほめてくれる人に依存している人生と同じです。  

人にほめられる、ほめられないとは関係なく「自分がやりたいからそれをする」そういうほうが、本人にとっては幸せですし、能力も伸びます。  そして、そういう気持ちをもつ土台ができるのが、小さい頃の過ごし方だと思います。  その子が何をやっている時、楽しそうか、生き生きしているか、見てあげてください。  そしてそういうことをしている時間にその子の内側で育ってくるものがとても貴重なものだと私は思います。


* * * 

言語と文化 

* * *

私が前項の「* * * 幼児英語教育について * * *」の中で、言語の持つ「文化」をとても大切に考えているのは、若いころの次のような経験によるものです。

20代後半、アメリカ人スタッフと一緒に仕事をしていた頃、彼らと私の文化による行動の違いをたくさん経験しました。  戸惑うことも多かったので、私は、言語と文化について勉強しようと思い、関連する本をたくさん読みました。

その中に今でも忘れられない事例がありました。  英語ではなくフランス語の例でした。  細部まではもう覚えていませんが、次のような内容でした。 

お父さんが大学のフランス語の先生で、お母さんがフランス語の通訳だったご夫婦は、娘さんの母国語をフランス語にして、育てました。  家庭内でもフランス語で話していたのでしょう。

その娘さんは、高校か大学(どちらだったか忘れました)の時、フランスに留学しました。  そのとき彼女はアイデンティティの問題で、つまづいてしまいました。  アイデンティティの問題というのは「自分は何者なのか」という問題です。  私が20代で読んだ本ということは書かれている事例は50年前の日本人ということになります。  

50年前の日本人はインターネットもDVDもありませんから、外国の人がどのような暮らしをしているかもほとんど見ることはない時代の人々です。  海外旅行さえ、いける人は大変少ない時代でした。 1ドル360円の固定レートの時代でした。

そういう時代に日本に暮らしていた日本人が、たとえフランス語を何の不自由もなく話せたとしても、フランスに行って、フランス人の中で暮らしたら、かなりのショックを受けたと思います。

考え方、行動の仕方、フランス国民が共有している文化、歴史は、日本人の両親に、日本で育てられた若い女性には、初めて経験する衝撃だったと思います。  たぶん、彼女の考え方、行動の仕方は、今から見ると古風な日本女性そのものだったのではないかと思います。

私は若い頃入院した時、隣のベッドにいたのが、フランス人と結婚した日本人女性でした。  まだ、小さいお子さんがいる人でした。  容体が回復してくるとおしゃべりばっかりしていましたので、彼女からいろいろな話を聞きました。

「お夕食の時なんか、フランス人の友人とか親戚とか集まると、私にはそういうことはどちらでもいいんじゃないの?と思うようなことで、みんなああでもない、こうでもないって、議論して楽しむのよ。  私は疲れちゃうから、いつも聞いているだけになっちゃうんだけど。」と言っていました。 

高校や大学でしたら、そういう学習活動もたくさんあったでしょう。  自分の意見を言う、ということさえ、あまりない日本の日常生活とはかなり違ったことと思います。

アイデンティティの問題でつまづいた彼女は、その後、最後まで、立ち直れなかったそうです。  それはそうだろうと私は思いました。  フランス人と同じ言葉を話しているのに、自分は彼らとは中身はまったく違う。  では日本人かというと、自分の母国語は日本語ではない。  こういう状況は当時の若い女性には非常に厳しかったと思います。  どこに自分の生きていく礎(いしずえ)、よりどころとなる価値観の土台を求めればよいかわからなくなってしまったのでしょう。  自分が今まで立っていた基盤が、崩れるような、ある種の精神的な崩壊が起こったのでしょう。

普通の社会では、「フランス語を母国語として話しながらメンタリティーは日本人」ということは起こりえないことです。  このご夫婦は、その起こりえない環境を人工的に作ってその世界で娘さんを育てたわけです。

フランスに行って、この娘さんは、自分がよって立っていた基盤が虚構だったと知ったわけです。  フランス語を母国語として、日本人の価値観と行動様式で生活する世界など、世の中のどこにも存在しないことを知ったわけです。 それは、親が、娘のフランス語を堪能にするために人工的に作った世界だったのです。  つまり彼女は、自分は、どこにも存在しない国の人間なのだと知ったわけです。  

そして、彼女がよって立つ基盤は、今から作り直すことは出来なかったということです。  それは、本人が意識もしない幼い頃、母国語と一緒に自分の中に出来上がるものだったからです。  「当たり前にあるはずのものがない」ということの影響はこういうものです。

母国語が持つ文化(自分の行動の仕方や人間関係の結び方もこれに基づいてきまります)というのは自分が持っているのが、当たり前で気が付くこともありませんが、それが、自分が生きていくうえで、礎、よりどころとなっているという意味では非常に大事だと私は思いました。  私の子供たちも日本人としてそれを持っていたから、アメリカの社会で戸惑うことがあっても、自分のよりどころを持って、違う文化を受け入れてやっていけたのだと思います。  

この娘さんは、当たり前すぎるほど当たり前のものがないという現実に直面した時、やっていけなくなったのでしょう。  親はそれを日本で当たり前に持っていますから、気づきませんけれど、子供はそうではないんです。  子供は文化を持って生まれてくるわけではないんです。  文化は生まれた後、言語と同じように、日々の生活で、体に入ります。

子供の行動の基準はこうやって文化の中でできていきます。  私の子供たちを見て思ったのは、自分のことを「I(アイ)」という社会で人々はどういう価値観に基づいて行動しているのか、ということと、自分のことを「わたし」という社会で、人々がどういう価値観に基づいて行動しているか、ということが、言葉と一緒に子供たちの体の中に入っている、ということでした。

娘が大学生の時(夏休み)に、アンコールワットの遺跡を見たいというので、お父さんと二人で東南アジアの数か国を旅行したことがありました。  あるホテルで請求書の金額が間違っていたそうです。  使っていないサービスが含まれていたそうです。  夫と娘でそれをホテルのフロントで伝えたのですが、なかなか受け入れてくれなかったそうです。  最後はこちらの申し出の通り処理してくれたそうですが、帰国してから夫がこんなことを言いました。

「由紀子はああいう場合に英語になるととても強い言い方になる。  東南アジアで女性がああいう言い方をするのは止めた方がいい。」

私は意外な感じがしました。  私は娘と買い物などに行きますが、娘は日本の普通の若い女性のように、時に遠慮して、自分の言いたいこともなかなか言えないことがありました。  娘が言えないので、私が代わりに店員さんに言ってあげることもたびたびありました。

その事をシカゴで一緒だったお母さんに言ったら、「それは、アメリカにいた時、身についたことじゃないの?」と言われました。  これが、言葉が一緒に持っている文化でしょうね。




幼児期に日本で、英語の文化を持っていない親が、大量に英語を子供にインプットして、英語と日本語で話すようになったとしても、それは従来のバイリンガルとは違うと私は思います。  つまり、前者を「バイリンガル例1」とし、従来のバイリンガルを「バイリンガル例2」とすると、バイリンガル例2は2つの文化を経験して、それぞれの文化で話される2つの言語を話すということです。

これに対して「バイリンガル例1」は文化は一つ、文化を持つ言語も一つ。文化を持たない言語が一つ。ということですね。  この点で、従来のバイリンガルとは違うとおもいます。  英語量としてもアメリカの学校で学んだ子供たちに比べると相当限られた英語になります。  英語での社会の人とのかかわりという点では皆無です。  先にも述べましたが、英語で人と友情もはぐくんだ経験も持たないのに、これをバイリンガルというのだろうか?と私は個人的には思っています。  (また、余談ですが、私は、発音の教師ですので、発音にどうしても注意が行ってしまいます。  私は、母親が2,3歳の子供に大量に英語をインプットして、母国語のようにしゃべるようになったお子さんの発音を聞きましたが、しゃべるときの音質は、やはり、英語の音質ではなく、日本語の音質で話していました。  鼻腔に共鳴のあるネイティブのような音ではなく、日本語を話す時と同じ音質で、英語を話していました。  ですから、流暢に英語を話されていても、私には、ネイティブと同じ英語には、聞こえませんでした。)

私が知る限り、人類にとって、子供が最初に出会う言語(母国語)を文化なしで入れる、ということはいまだかつてなかったのではないかと思います。  こういうことを親だからと言って、子供にして良いのか、と思います。  子供と言えども、一人の人格を持った人間です。  最初の言葉は、文化と共に入れてもらう権利があると思います。

私は20代のころ、仕事で、バイオテクノロジーに関することを少し勉強しました。  バイオテクノロジーというのは人間のDNAをいじるわけですから、当時は「神様の仕事に手を出すことになるのではないか」という不安を、一般の人はみんな持っていました。  ですから、研究の分野では、そういう不安を解決するために、「倫理」や「どこまでが社会一般の人々に受け入れられる範囲か」ということについて、委員会などを作って議論したり、チェックする仕組みを整えることに相当な注意が払われていました。

子供の母国語習得に介入するのはDNAをいじるわけではありませんが、言葉は人間だけが話すものですし、生まれて最初の言語習得過程で、子供はその後の人生の基底となることを母国語と一緒に学ぶのですから、これは、子供が人間になって行く非常に重要な過程の一つと言えると思います。  この過程で、実際には存在しないものをあたかも存在しているように見せて、介入するようなことを親だからと言ってして良いのか、ということです。

インターネットを見ていたら、「子供を英語で育てるのに失敗した」というお母さんのコメントもありましたけれど、そんなに悲観することはないと思います。お子さんは「Fake」(にせ物、いんちき)を感じ取り拒否する、と言う、きわめて健全な感覚を持っていた、ということではないでしょうか?   私の友人の中には、子供が初めて言葉を習得するときに英語で育てようとすることを「虐待だ」と言った人もいました。(こちらのブログに出てきた藤田さんです。  藤田さんは、8月13日のブログの「託児所」のところでも、私がびっくりする発言をしています)  彼女の言うことには、時々、驚かされるのですが、上に書いたフランス語の娘さんの場合は、最後まで立ち直れなかったわけですから、虐待と同じだった、と言えるかもしれませんね。 身体的に子供を虐待したというのではなく、言語に関して「嘘の世界」に閉じ込めて育ててしまった、という事でしょう。


「子供を英語で育てるのに失敗した」のではなく、お子さんは欲得(よくとく)づくで大人が考えたFake(いんちき)なんかにやすやすと騙されなかっただけです。お母さんは極めて健全にお子さんを育てていらっしゃると私は思います。自分が「どこにも存在しない国の住人」(前出の日本でフランス語で育てられた女性)になるのなんかごめんだ、とお子さんは感じ取ったのではないですか?  子供が転んだ時、「大丈夫?」と言って駆け寄ってくれるお母さんが、「Are you OK?」っていうのを聞いたら、本当に子供の事心配したの?と思ってしまいます。本当に心配してたら英語に翻訳するひと手間なんかかけずにとっさに「大丈夫?」と子供に駆け寄るでしょう。


「自分の子が有利になる」という、いつも計算づくで英語に変わった言葉より、お子さんは、お母さんの心の中から出てきたそのままの言葉を聞きたかったのではないですか。 英語で育てるのに失敗したからと言って、そんなに悲観なさらなくていいと思います。 お母さんにとっても生活経験も文化も歴史も人とのかかわりも持ったことのないそこの浅い言葉で小さいころの大事な時期に子供と話さなくてもいいのではないですか。

私は言語と文化を勉強した後は、決して子供の母国語習得をいじるまい、と思いました。

文化がなくても英語ができて受験に有利ならそれでも良いと親が思うのでしたら、それは考え方の違いで何も言えませんが、本当にそういうことをして、大丈夫なのかどうか、もう少し真剣に考えた方がいいのではないかと思います。

私は今でも年に2回、シカゴで息子の友達だったお母さんたちと会います。  この前会った時、「今は子供が初めて言語を身に付ける時に英語を教えて英語で子供が話し始めるようにするお母さんもいる」という話をしましたら、みんな一斉に「えっ!?」と言いました。  

アメリカの文化と日本の文化が違うということを生活で実感してきたお母さんたちだからです。  留学した人は、留学先の学校では「どの文化を持った人も尊重する」という建前があります。  駐在員でアメリカ人と働くお父さんの会社には、「収益、コスト」という共通の判断の基準があります。

子供を育てるという場合はそういうものはなく、そのコミュニティーの価値観にしたがって行動する必要が出てきます。  自分の子供が周りのアメリカ人の子供と関わりを持つようになるからです。  もし、何か問題が起こったときなどは、その解決の過程で、嫌でも文化の違いを思い知らされます。  みんな程度の差はありますけれど、そういう思いを経験しています。

そういうお母さんたちですから、アメリカの文化を知らない状態で、中身やメンタリティはまったく日本人のままで、言葉だけ母国語のように英語をしゃべるというのが奇異に感じられて違和感があったのでしょう。  「そう言うことをして子供は大丈夫なの?」「変な子になっちゃうよ」と心配そうに聞かれました。  それくらい言語と文化は密接に結びついています。

文化の違い(考え方や行動の違い、メンタリティの違い)を経験したことのない人には「中身はまったく日本人のメンタリティで、英語を母国語のように話して何が悪いのか」と思えるかもしれませんが、文化の違いを体験した人には、「そんなことをして子供はだいじょうぶなの?」「変な子になっちゃうよ」と本気で心配するくらい、その言語の話される社会の文化を当人が持っているかどうかは大事なことなのです。  (「今や英語は国際語だ」という人もいるかも知れませんが、私がここで取り上げているのは、「言語とは何か」をまだ知らない、母国語習得の段階にいる子供の話です。  大人が英語を勉強するのとは性質が異なります。)

今の時代、外国のことは、皆さんよく知っていますから、私が若いころ読んだフランス語の娘さんのようなことは起きないでしょうけれど、「当たり前にあるはずの文化がない」という状態で、最初の言葉を入れられたことによる影響は、どこに出るかわからないと思います。

もう少し大きくなって、お子さんが喜ぶのでしたら、メリーさんの羊やキラキラ星をお母さんと一緒に英語で歌ったり、物の名前を英語で言ったりするのは、いいと思いますが、何にもわからない、言葉というものを初めて身に付ける幼児にその言語の文化を持たない大人が、虚構の中で、大量にインプットするようなことは、差し控えるべきだと、私は考えます。

自分のことを「わたし」と表現する社会には「わたし」と表現する社会の価値観、行動の仕方があり、自分のことを「I(アイ)」と表現する社会には「I(アイ)」と表現する社会の価値観、行動の仕方があります。  それがその社会の「文化」です。

「文化」を後ろに持たない“言語”、これは人間の社会では、本来存在しないものです。  つまり、子供は本来人間の社会に存在するはずのないものを、人生の一番最初の段階で、原型(母国語)として入れられる、ということです。

このことが、これからの人生において、その子の心の中にどういう影響を与えるかは、外からはわからないと思います。

私の息子が、中学3年でアメリカに連れて行かれ、毎日学校で7時間英語で授業を受けて、ぐったりして帰って来ていたころ、彼が、夜通しドラえもんのビデオを流し続けていた、ということは2015年6月1日のブログ文部科学省の方針(中学校、高校の英語の授業を英語で行う)を実施すると、中学生、高校生が、カタカナ発音で話し始めます。」に書きました。

学校にいても友達もいないし、英語で何を言われてもわからなかったあの頃、(言ってみれば、自我が危機的状況にあったあの頃)、あの子を支えていたのは、ドラえもんを見ていた頃、友達とつながっていた頃、母国語と一緒にあの子の体に蓄積されたものではなかったか、と私は思っています。

もう一人、6年生で、お父さんの仕事のためにアメリカに連れていかれたA子ちゃんのお母さんが話してくれたことです。  英語で何を言われても何もわからなくて、教室の移動も間違えたり、カフェテリアでランチも買えなかったころA子ちゃんは、「A子はバカじゃない。  A子はバカじゃない。」と、日本語で自分に言い聞かせていたそうです。  日本語には、みんなとつながっていたころの経験がたくさん詰まっていて、自分が立派に社会(学校生活)の一員だったころの基盤があるのでしょうね。  

現実には存在しない「文化を持たない言語」をあたかも存在するかのように見せて子供の心に入れるということ、それが日本語の音質で話される外国語であるということ、その言語はその子のいる社会では全く話されていない言語で、学校へ行くようになってもその言語で友情をはぐくむ経験もしないということ。  こういうことを考えると、それを母国語として、大量に幼児期に入れられるお子さんのことを大人はもう少し真剣に考えてあげた方がいいのではないかと私は感じています。 

参考までに申し上げますと、英語については、学校教育をきちんと行えば、(こちらのブログに書いてあります)子供たちは大学卒業時には、正しい発音で、自分の言いたいことを英語で言えるようになります。 

* * * * * * * *
* * * * * * * * 



====================================


高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

====================================

英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)





何度もお願いしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。

「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。  他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。

私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ(2017年7月16日)、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて(2017年7月19日)、私は、この方の激しい妨害に驚いています。 特に赤い本、「英語発音、日本人でもここまでできます。」DVD付き。に対する妨害がひどいです。

「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。  他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。  ベストセラーの著者という名声ですか。  それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。  この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか?  もう英語教育とは関係ないことですか。  

私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。  日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。  ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。  私の仕事の妨害をしないでください。 

* * * * * *


私のDVDで発音練習をするときは、耳に注意を集中して音を聞いて下さい。
最初はテキストを見ながら練習していただいて結構ですが、文字に気を取られていると、実際の音よりも自分がこうだと思っている音のまま発音していることが多くあります。

私はDVDの単語の発音の練習のところで、Life や Leg のLの音をほんの一瞬ですが、日本語化しない「長さのあるL」で発音しています。  そういう音をできるだけよく聞いて、同じように言ってください。

Fight や Fin の Fの音も長さをもって発音しています。  Way や Wet の W の音も長さを保持して発音しています。  それを耳でよく聞いて同じように言ってください。
* * * * * * 


クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。