川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

速読の練習

(文中、赤い子馬の授業の話は青字で書いてある部分です。その後ろに、少し社会科や理科の授業のことも書きました。)

初めて速読の練習をしたのは大学2年生のときでした。大きな書店の洋書売り場を見ていたら、2冊組みの速読のやり方を訓練する本がありました。買ってきて早速取り掛かりました。

最初は各単語の下に黒い丸印がついていて、その丸印を見ながら読む練習でした。
最後のほうは一ページにぎっしり書かれた英文のページに左から3分の1、右から3分の1のところにそれぞれ、上下に薄い線が引いてありました。

つまり、その線の間を一度で読むわけですね。一番最後は真ん中に上下に薄く線が引いてありました。

言われたとおり、練習を始めましたけれど、あまり英語の本を読んでいないで、いきなり速読の練習をするのは、薦められないと思いました。指示のとおり勉強しましたけれど、ものすごい緊張を強いられます。まるで、じぶんの髪の毛が全部逆立っているのではないかと思うほどの緊張でした。

私が速読をしたいという生徒さんに薦めている方法は、次のようなものです。

まず、じぶんの興味のあるやさしい英語の本からたくさん読んでもらいます。私の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」にリストされている初級用の本くらいのレベルですね。慣れてきたら、だんだん難しい本に変えて行きます。いわゆる「名作」といわれるような本を読めるくらいのレベルに持っていきます。

しばらくそのレベルの本で読書をして英語の活字に目も頭も慣れてもらいます。そして、日本の中学校で習うくらいの英単語なら、ぱっと見て、心の中で声を出して読まなくても、その意味が瞬時に感じられる。つまり、「have」という単語が目に入ってきたら、「ハヴ」と心の中で声を出して読まなくても何かを持っているという意味だと瞬時に感じるくらいまで慣れてきたら、速読の練習を始めても大丈夫だと思います。

いわゆる名作、アメリカで、高校生が読むくらいの本(たとえば、The Great Gatsby, Nineteen Eighty-Four など)をたくさん読んで慣れてきたら、初級用のやさしい本に戻って、速読の練習をしていきます。初級用の本を飛ぶように読む練習をしていきます。そうするとだんだん読むのが速くなっていきます。

速読は、無理をしても身につかないので、まず、楽しんで本を読む、ということから入るほうが確実だと思います。そうすると、目や頭が、英語の活字に慣れてきます。目が英語の活字に慣れないうちは速読の練習をしても続きません。急がば回れ、ということですね。

英語の本を読むこと自体が、自分にとって、「そんなに特別なことではない、」くらいの感覚になってきてから速読の練習に入るのが、やりやすいです。

本をたくさん読むことはよいことだと思いますが、速く読むことだけでなく、味わって読むことも時にはしてみるといいと思います。

ニュージャージーにいたとき、先ほど例に出した、The Great Gatsby と言う本を高校の先生に指導してもらって読んだことがあります。そのとき、本の中には話の展開とは関係なく、情景の描写(たとえば夕暮れの情景)などが、時折でてきました。結構頻繁に出てくる気がしました。

それを読んでいると、私にはなんだか、誰かが遠くから、この人間たちの織り成すドラマをじっと見ているような気がしました。情景描写など、ほかの本でも出てきますが、なぜだか、この作品の情景描写を読んでいると、そんな気がしました。

先生にそのように言ったら、先生の受け持っていたクラスの生徒のエッセイの話をしてくれました。第2章に書かれている、道路から見える眼科医の大きな看板の広告(すでに見捨てられて、雨風にさらされ、色が薄くなってしまった広告)に書かれているペンキがはげかけた大きな二つの目、この目を天から人間を見下ろす God の目のようだと書いてきた生徒がいたと話してくれました。(多分8章で、登場人物の一人が看板を見ながら、God sees everything.と言うところがあるので、そう感じたのだと思います。)

私はキリスト教徒ではありませんので、God という感覚を持っていませんが、何か人間を超えた存在がこの人間の織り成すドラマをじっと遠くから見ているような感覚は同じだと思いました。

速読をしていると、情景描写や、見捨てられた眼科医の看板のことなど、ほとんど心には残らないですが、じっくり読んで、こういうことを作品から感じるようになると、より深く、作者の気持ちに近づいていけるような気がします。

ときには、速度を気にせず、納得いくまで、作品を読んでみるのも、いいと思います。こうやって、じっくり読んでいくと、本を3冊読み終えたくらい、終わった後は、読解力がついたような気がします。

私も仕事でたくさんの資料の中から自分が必要な事柄を探すときには、1分間で1ページ読むくらいの速さで英文に目を通していくときもありますが、楽しみで読む本で、1分1ページで読むようなことはありません。  それでは、本を読む楽しさがないですから。

例えば、The Great Gatsby の7章の終わりに、こんな風に書いてあります。

They weren't happy and neither of them had touched the chicken or the ale - and yet they weren't unhappy either.

Gatsbyは、Daisyが心配で見守ろうとしているのに、当のDaisy は夫といて、
They weren't happy。。。。。。。and yet they weren't unhappy either.
と書いてありますね。  全編を通してこの関係は変わらないのですけれど(最後はもっとひどいのですけど)、でも、こういう言い方は、さりげないから、よけい読んでいると切なくなりますね。 Daisy と夫は「happy でもないけど、unhappy でもない、なんて。。。。」私はそういうことを感じながら読むのが好きなので、1ページ1分の速さで小説を読もうとは思わないです。  そんなに関係ない文章を飛ばして重点だけ拾って速く読みたかったら、あらすじを読んでいればいいのではないですか。

中学1年生の時、国語の時間にスタインベックの赤い子馬を勉強しました。  朝食を食べる様子が次のように書かれていました。(引用させていただきます。 訳は、西川正身さんです。)

ほかほかと湯気の立っているホットケーキを、大きな浅ざらから一つ取り、その上にフライにした卵を二つ並べ、さらにその上にいま一つホットケーキを乗せ、その全体をフォークでぐっと押しつぶした。

当時、昭和40年代、洋風の食事などほとんど食卓に上がることはなく、ご飯とお味噌汁のある食事をしていたころの日本で、この描写を読んだ先生は、「その全体をフォークでぐっと押しつぶした」というところでその真似をしながら「すごい食べ方ですね。」とおっしゃって、舞台となった土地がアメリカの西部にある州で、時代は、開拓の時代から少し経った頃でしょう。と説明されました。 朝食の食べ方の描写だけで、これだけのことを表せるんだなあ、時代やその土地の人々の生活まで、、、、と強い印象を受けたのを今でも覚えています。  小説家の書く文章に無駄な言葉なんてないんだなあ、と思いました。  それからでしょうか、あんまり小説を「大事ではないところだから」と飛ばして読むことが出来なくなりました。  今もそうですね。   (本当に余談ですけど。。。。中学時代の社会科の授業ではこんなこともありました。 あるとき、市内の中学生で何かを話し合わなければならないことがあり、私は5時間目の授業には出席せず、遠くの中学校まで行かなければならないことがありました。  (こんなことは初めてでした。) 5時間目は社会科(日本史)でした。 この先生の授業でした。  私は仲良しだったひろみちゃんに「社会の授業のノートを取っておいてくれる? 先生のおっしゃったことはどんな小さなことでも書いておいてほしいんだけど。」と頼みました。そうしたら、ひろみちゃんは、「うん、いいよ」といって先生のおっしゃったことを全部ノートにとっておいてくれました。  家に帰ってそのノートを開いてみたら、江戸時代の出来事の説明が書いてありました。 その合間に、「江戸時代のわいろの渡し方」が絵でかいてありました。 菓子折りの底に束ねた小判がきれいに並べられて入っている絵でした。  お役人に商人はこうやって、わいろのお金を渡していた。と書いてありました。「どんな小さなことでも先生のおっしゃったことは全部ノートに書いておいてね」と私に頼まれたので、ひろみちゃんは社会科の時間に先生がおっしゃったことは全部書いておいてくれました。 「ふ~ん、本当にこうやって渡したのね。」とそのあと時代劇を見るたびにひろみちゃんの取ってくれたノートを思い出しました。  今、文科省GIGAスクール構想で子供たちはコンピュータで勉強する時間もあるようですけど、日本史の学習プログラムには、「わいろの渡し方」なんていう項目はないでしょうね。 そんなのが入っていたら、学校の先生にそのプログラムは選んでもらえませんから。 まさしく「教育上よろしくない」ですね。 でも、授業を聞いていると結構そういうお話は面白くて覚えていましたね。 こちらの理科の先生は種無しブドウを作るジベレリン処理のお話をしてくださったとき、「みんな、テーブルに出されたブドウを誰にもあげずに独り占めして食べる方法を知っているかい?」といってお話してくださったのですけれど、(答えはあまりにも下品でここには書けません。「教育上よろしくない」です。)みんな大笑いでした。 先生方は50分授業の間、ずっと生徒の注意を引き付けておくことは難しいと知っていて、合間にいろんな工夫をされていたのでしょうね。 生徒の状態や反応を見ながらいろいろな判断をして教えてくださったのでしょうね。 これは機械には出来ないことです。それぞれの先生の個性もそういう時に現れます。  文科省の言うように(GIGAスクール構想)、子供たちは一人一人コンピュータの前に座らせて個人にあったプログラムを学習させれば本当に個別最適化された学習ができるでしょうか。 竹中平蔵氏の言うように、一人の優秀な教師が大勢の生徒を遠隔で教えるオンライン授業を主流にしていけば、究極的には通常の知識を教える教師は各教科に全国で一人いればよいのでしょうか。 竹中平蔵氏は公立の学校(小学校でもいいですし、中学校でもいいですし、高校でもいいですから)に一か月くらい常駐して、教室の授業を一緒に体験された方がいいでしょう。あまりにも学校教育について無知すぎる。 この竹中平蔵氏の発言はこちらのブログより、堤未果さんの本から引用させていただきました。)


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ちょっと古い話になりますが、大学2年生のこの速読の訓練は「やっぱり、こういう無理したやり方ではだめだ」と知っただけでしたが、ひとつだけ役に立ったことがありました。

大学2年生のゼミでは、当時「人種のルツボ」といわれたアメリカ社会について、原書で読んでいました。学生はゼミの数日前までに一章(12,3ページの分量だったと思います。)を読んで、その内容を日本語で、400字にまとめて先生に提出します。それから、ゼミに出席することになっていました。

この本はとても面白い本で、私の興味を引きました。それで、自分でどんどん読み進んで、課題もずいぶん先まで、やってしまいました。でも時間がたつと細かい内容は忘れてしまうので一応、授業の前の日は、明日やる章をもう一度読み直してから出席することにしていました。

ところが、ある日、授業に出席したら、先生が、「今日は11章ですね。OOページを開けてください。」といわれました。その瞬間、「あっ、間違えちゃった。12章を読んできてしまった。」と気づきました。そういうときに限って、私は一番先に先生に当てられてしまいました。

「川合さん、この章の概要を言ってください。」「はい。」と言って立ち上がりました。もう、しょうがありませんから、あの速読の本でやったように左右、左右とジグザグに視野を動かして、一ページずつサーっとよんで、大事そうなことだけ、まとめて述べました。

でも、自分では大事なことではないと、落とした部分が、2,3ページ先を読んだら、あのことを言っておかないと、この記述の説明がうまくできない、と思い出して、あわてて、「この原因は、〜〜だからです。」などと、また、2,3ページ前を見て、付け足したりもしました。努めて平静を装いながら、ページをあっち、こっちめくりながら、内心は必死でまとめました。

最後のページが終わって「以上です。」というと「はい、結構です。」と先生が言われたので、ほっとして座りました。リラックスしている状態であれば、一度、読んだ英文は誰でも、2度目は斜め読みでまとめられます。ただ、教室で、いきなり先生に当てられて、立ったまま、まとめるのは、やはり、あの速読の練習のおかげだったと思いました。

授業が終わったとき、同じクラスにいた友達(あの、バーバラ・ストライサンドの「追憶」の映画に誘ってくれた友人です。http://d.hatena.ne.jp/creato-k/20110614)が、近づいてきて、「あなた、どういう勉強してるの?」と聞かれました。

しょうがないから、全部本当のことを言いました。「そうだったの。英語の本をぺらぺらめくりながら、先生の質問に答えていたから、びっくりしちゃった。」と言いました。真相を聞いてみれば、私が予習する場所を間違えただけのことでした。

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私の3冊目の本「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」の114ページには、「オリジナルセブン」という英文読書能力養成プログラムが載っています。  アメリカの小学校低学年が読むレベルの本から始めて、最後はスタインベックの小説を読めるレベルの読書能力をつけていくように組み立てられています。  興味のある方はご活用ください。




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)






高校英語教育を文部科学省の誤解に基づいた方針から守るため、以下のご案内を書かせていただきます。

現在文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革」の目玉として掲げているCAN-DO方式は、ヨーロッパの人々にはできますが、日本語を母国語とする人にはできない方式です。

文部科学省は「CAN-DO方式が日本人には不可能な方式である」と気づいておりません。  導入されれば教育現場は大変迷惑します。  中止する必要があります。  なぜCAN-DO方式が不可能なのかはこちらのブログをお読みください。

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何度もお願いをしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。

「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。  他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。

私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。 

「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。  他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。  ベストセラーの著者という名声ですか。  それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。  この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか?  もう英語教育とは関係ないことですか。 私は、とても困っています。  

私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。  日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。  ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。  私の仕事の妨害をしないでください。 

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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。