川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

特急電車のおばあちゃん

大学生のころ体育の授業で、「冬季スポーツ」というコースがありました。授業は軽井沢で、何泊かしてスケートを学ぶことと、長野県のスキー場で、何泊かしてスキーを学ぶことでした。どちらも大学の専門の先生がついて教えてくださいます。

学生にはとても人気のある授業で、登録はいつも体育館に希望者が集まって、抽選で行われました。

私はスキーやスケートにそんなに興味はなかったのですが、友人が、「これから冬季スポーツの抽選に行くんだけど、一緒に来ない?」と誘ってくれたので、お昼休みは暇だったので、ついていきました。

抽選の結果、私は当たって、そのコースを受講することになりました。

長野のスキー場でスキーの講習があったときは現地集合でした。そのころ私はある本を読みました。まだバブル期の日本にはほど遠い1970年代の後半で日本全体が、今よりずっとつつましい生活をしているころでした。その本にはこんなことが書いてありました。

「特急電車というのは特急料金がかかるので、普通の人はあまり利用しないけれど、そういうお金を払って、乗っている人は、やはりそれだけの仕事をして、いる人たちが多い。若いときは、お金がないから、何でも安いものを求めるのは、理解できるが、若いときに、そういう人たちの乗る、特急電車に乗ってみると、いつも自分が見慣れているものとは違うものに出会うことがあるかもしれない。」こんな記述でした。(これは、当時の日本には当てはまっても、バブルを経験した今の日本には当てはまらないかもしれないですね。)

若いころの私は、とにかく他人の意見には一度従ってやってみる。その上で、その人の意見のよしあしは自分で判断すればいいと思っていました。(英語学習についてもそうでしたから、そのころ本で読んだ方法はことごとくやっていました。)この意見は面白かったので、スキー教室で長野に行くときは特急に乗ることに決めました。

ちょうど、その一月から、国鉄(今のJRの前身です。)が、特急料金を大幅に値上げしたので利用者は激減していました。(多分、2倍ぐらいに値上げしたような記憶があります。)当日、電車に乗ると、なんとその車両の乗客は私と私の隣に座ったおばあさんの二人きりでした。

ひとつの車両に二人しか乗客がいないというのはあとにも先にもこのときしか経験したことがありませんでした。(後に国鉄は「からの車両を運んでもしょうがない」といって特急料金を値下げしました。)

列車が発車すると、車内販売のお姉さんが来ました。私の隣のおばあちゃんはみかんを一袋かいました。そして、網の袋を開けて、6つのみかんのうち3つを「どうぞ。」といって私に差し出しました。

普通、ひとつをどうぞ、といっていただくことはありますが、半分をどうぞといって、下さる人はいませんから、(変わっている方だわ。)と思いました。でも、「ありがとうございます。」といって、せっかく下さったのですから、いただきました。

おばあちゃんは善光寺に行く途中でした。私はおばあちゃんより、少し前で、降りることになっていました。電車が動き始めると、おばあちゃんは、いろんな話をしてくれました。

東北の貧しい家に生まれて、家計を助けようと、若いころ一人で東京に働きに出てきたこと。だんな様と出会われたときのこと。二人で、果物屋さんをしていたときのこと。そして、今では東京のとても有名な名所の近くに家があって、都内に10軒を超える家を持って、それを貸していることなども話してくれました。

おばあちゃんのお母さんは、2つの教えをおばあちゃんに言ったそうです。「生垣よりも人垣。」みんなが集まってくれるのは本当にうれしいこと。「他人様のくれるものは元日のお葬式でももらっておきなさい。」他人がくれるものは大事にしなさいということでしょうね。

そして、おばあちゃん自身も大変、徳のある方だと思いました。それは、じぶんの知り合いだった若いお嬢さんのお話をしてくれたときでした。そのお嬢さんはある人と婚約したのですけれど、その人が病気になり、気がすすまず、婚約を解消したいといったそうです。

おばあちゃんは、「相手が病気で大変なときに婚約を解消するのはよくないよ。」といって、そのお嬢さんの婚約者(おばあちゃんにとってはまったく知らない人です。)の病院の費用を自分で払い、元気になって退院したとき、「そんなに、気が進まないなら、婚約を解消しなさい。」といったそうです。それで、そのお嬢さんは婚約を解消したそうです。

「病院の費用を毎月払っていたとき、夫が何も文句を言わなかったことがありがたかった。」とおばあちゃんは言われました。謙虚な方だなあと思いました。

こうして、おばあちゃんと話しながら、あっというまに、私の降りる駅に来ました。私が降りるときおばあちゃんは、「私はOOというところ(東京の有名な名所)で、お店を貸しているの。私に会いたくなったら、そこのお店に行って、私のところに連れて行ってくださいと言えば、案内してくれるわよ。」といわれました。

私は、丁寧にお礼を言って、電車を降りました。

学校を卒業し、就職をし、おばあちゃんにあってから7年くらいたったころでしょうか。私は仕事でも、プライベートでも、行き詰ってしまったことがありました。どうしたらよいか自分でもわからなくなりました。そのときふっと、あのおばあちゃんに会いに行こうと思いました。

仕事がお休みだった土曜日、おばあちゃんの言っていたあの東京の名所にあるお店に行き、ご主人に「ここのお店を貸しているおばあちゃんにお会いしたいのですけれど。」というと、「こちらですよ。」といって連れて行ってくれました。

呼び鈴を押すと、私より、ずっと年齢が上に見える女性が応対に出ました。お嫁さんでした。私は突然お訪ねしたわけを話し、「おばあちゃんにお会いしたいのですが。」と言いました。

お嫁さんは驚いていらっしゃいましたが、「その特急電車のおばあちゃんはどんなおばあちゃんでしたか?」と聞かれました。私は、そのときおばあちゃんが、まゆずみで、きれいに眉毛を描いていらしたのを思い出しました。(こんなにきれいにお化粧しているのは、人前に出ることが多い方なのね。)とそのとき思ったので、「大変活動的なおばあちゃんでした。」と答えました。

そうしたら、お嫁さんは、「それなら、うちのおばあちゃんかもしれないわ。」と言いました。

アメリカにいたころこの話をエッセイに書いたことがあります。そうしたら、この部分を読んだ、先生が、「眉毛のお化粧から、その人の性格を判断するなんて、あなたはdetective(探偵)みたいね。」と笑っていました。

「いまおばあちゃんは出かけていますが、2時間位したら、戻ってきます。」とお嫁さんがおっしゃったので、私は2時間後にまた参ります。といって、一度、おいとましました。

そのあと、2時間して伺うと、おばあちゃんが、玄関で迎えてくれました。私のことを覚えていてくれました。大きな家の中に通されて、私はずっとおばあちゃんとお話をしました。おばあちゃんのお話を聞いて、迷っていても何も進まないので、自分で最初の一歩を踏み出す決心をしました。

お礼を言って私は、おばあちゃんの家から、おいとましました。その後も、おばちゃんとは一年に一度くらいずつお会いしました。それから結婚し、アメリカに赴任しても、一時帰国で2週間しか日本にいられなくても、子供を抱いて、おばあちゃんに会いに行きました。おばあちゃんのちょっとしたお話の中に、私には教えられることがたくさんありました。

アメリカに行ったばかりのころ、子供は毎月熱を出すし、夫は仕事で大変ですし、私自身もなかなかスムーズにアメリカの生活に適応できずにいました。そこで、おばあちゃんに手紙を書きました。そうしたら、おばあちゃんから返事が来ました。

自分の意見を声高に主張できない、明治生まれの女性が、そういう中でも、一生懸命、幸せを求めて生きてきた知恵にあふれた手紙でした。私はそれを読んで、「家族を大事にして、どんな状況でも、ここで、明るく楽しく生活していこう」と、心に決めました。

おばあちゃんに会いに行くと、「あなたが来ると、結婚した娘が会いに来るようで、とてもうれしい。」といってくださいました。(おばあちゃんには息子さんがいました。)最後にお会いしたときおばあちゃんが、「私は、財産わけも形見分けも、もう全部済んでいるの。」といって、じぶんのしていた結婚指輪を私に差し出されたことがありました。「私は身内ではありませんので、こういうものはいただけません。」というと、「あなたにもっていてほしいのよ。」とおっしゃるので、お礼を言っていただきました。

もうずいぶん長いことおばあちゃんの指にはめられた金の結婚指輪で、年季が感じられました。私には、大きくて、身につけられないので、きれいな布の入れ物に入れて、いつももっています。それからしばらくして、お亡くなりになりました。

むすこさんから、喪中の葉書が来て、「長い間、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。」と手書きで書いてありました。

私は今でも何かあると、おばあちゃんのすんでいた、東京のあの名所に行って、しばらく、木のベンチに座って、おばあちゃんと心の中で話をします。子供がこんなに大きくなりました。とか、そんなことですが、年に一度ぐらいは足を運んでおばあちゃんとお話をします。明治生まれのお友達がいたなんて、ちょっとうれしかったですね。

おばあちゃんはなくなりましたけれど、私は今でも、おばあちゃんが私を守ってくれているように感じることがあります。その出来事については、また機会があったら書きたいと思います。 (2012年10月7日のブログ「DVD制作(2)」に書きました。)

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瀬谷出版のサイトで、私のDVDの一部が見られるようになりました。
こちらから移動できます。→瀬谷出版




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)





高校英語教育を文部科学省の誤解に基づいた方針から守るため、以下のご案内を書かせていただきます。

現在文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革」の目玉として掲げているCAN-DO方式は、ヨーロッパの人々にはできますが、日本語を母国語とする人にはできない方式です。

文部科学省は「CAN-DO方式が日本人には不可能な方式である」と気づいておりません。  導入されれば教育現場は大変迷惑します。  中止する必要があります。  なぜCAN-DO方式が不可能なのかはこちらのブログをお読みください。

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何度もお願いをしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。

「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。  他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。

私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。 

「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。  他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。  ベストセラーの著者という名声ですか。  それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。  この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか?  もう英語教育とは関係ないことですか。 私は、とても困っています。  

私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。  日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。  ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。  私の仕事の妨害をしないでください。 

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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。