政府による妨害が激しいのでツイッターをお持ちの方は拡散をお願い致します。 私の後ろには政治家も潤沢な資金を持つ業者もいません。 とても太刀打ち出来ません。 新井紀子氏は「教科書を読む」その学習行為自体については何のデータも取っていません。 研究者が実際にデータを取っていないことを研究の結論として提示すること(教科書がすらすら読める、教科書がほとんど読めない こちらのビデオの14分36秒のところからの新井氏の発言)に問題はないのですか。 研究者の倫理としても問題はないのですか。データがない以上、新井紀子氏は結論を捏造(ねつぞう)しているといわれても仕方がないのではないですか。
2月26日文中水色の部分とそれに続く紫の部分に加筆しました。 新井紀子氏の作成したリーディングスキルテストは、下村博文氏、ベネッセ、新井紀子氏、3者による国民を騙す一大プロジェクトでした。 なぜ私にそのからくりがわかったのかは文中青字の部分(2月3日加筆部分)に書いてあります。eポートフォリオの時と同じだった。「おかしい」と思ったことを追っていったらそれがわかりました。 アマゾンのこのページにある彼女の書いた「AI vs. 教科書が読めない子供たち」の表紙にも「教科書が読めない」「読解力がない人間は仕事を奪われる」と大きく書いてありますが、これも、下村博文氏のたくらみ実現への布石ですか? アマゾンのこのページを見ると(2021年2月21日現在)「ベネッセは学校教育に導入できる可能性のあるテストを作るのに、お金に糸目をつけずにつぎ込んでいる」とわかります。(導入出来たら毎年回収できますから)これは下村博文氏、ベネッセ、新井紀子氏、3者による国民を騙すための大プロジェクトだったのですね。 ベネッセは研究費(?)として新井氏にもお金に糸目をつけずにつぎ込んできたのでしょう。 だから彼女はこれまでにツイッターで人々が読み間違えそうな文書をいろいろ例に出しては「読解力」「読解力」といって、自分の作成したテストに人々の関心を引こうとしたのですね。 それが彼女が下村氏、ベネッセから請け負った仕事だったのですね。 だから下村氏は数学者の新井紀子氏を読解力の権威にしたいのでしょうね。それを私によってつぶされそうになったから、あんなに激しく私のブログを妨害したのでしょう。 でも逆に政府から妨害されたことによって、本当のからくりが見えてしまいました。 新井紀子氏も相当な研究費(?)をもらってきたのだから、ここでやめるわけにはいかないのでしょう。 彼女はツイッターで「読解力」「読解力」といい続けて下村氏とベネッセから請け負った仕事をせっせと実現しています。
政府の妨害はきついです。 ツイッターをお持ちの方は拡散をお願いいたします。
* * *
アマゾンの話が出たのでついでに書きますけれど。
私の本「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」のアマゾンのレビューについて。
2月21日20時現在、この本には4つのレビューが書いてあります。(総数は5と書いてありますが私もこの4つのレビューしか読んだことはありません) 星1つを付けた方はたった一人ですが、棒グラフでは52%の人が星1つを付けたとあらわされています。 評価は単純平均ではなく信頼性を検証して書かれているということですが、星1つを付けた方はたった2行しかレビューを書いていません。 他の方は3人ともとても詳しく書いてくださっています。 星1つ=52%というのが、アマゾンが信頼性を検証した結果なのですか?(棒グラフは、星5つ:2人28% 星3つ:1人20% 星1つ:1人52% 総合評価2.5となっています。)
2月22日 中学高校時代 私にとっての教科書
中学高校時代、私にとっては、教科書の文章は読解力で理解するものではなく、それをもとに勉強するものでした。
中学高校時代、私は「教科書の文章というのは、不思議な文章だ」といつも思っていました。
勉強する前と勉強した後では同じ文を読んでいても頭の中に見えることが全然違うからでした。
教科書の文章は、大事なエッセンスだけが書いてあります。 細かいことは書いてありません。 そういうことは先生が説明してくださったり、自分で調べたたりしてわかってきます。 物理などは理解した後、実際に問題を計算したりしていくうちに、よりよく理解できるようになることもあります。 私の場合は、勉強していて疑問を持ったりすると、勉強部屋が同じだった姉によく聞きました。 姉は、絵にかいたり、私の知っている他の事にたとえたりして、よく教えてくれました。 そうすると、わからなかったことが「そういうことなのか」とわかってくることが多かったですね。
最初に教科書を読んだときには書いてある骨組みしかわからない。 まるで「樹木1本書いてある絵」にたとえれば、大きな幹(みき)しか書いていない絵のようなことしかわからない。 それが期末テストなどに向けて3週間くらい集中して勉強すると違ってきます。 歴史だったらおきた出来事どうしの関連や、そういう事件が引き起こされた社会状況、人々に浸透していた思想などを勉強して、そういういろいろな要素がつながってくると、同じ教科書を読んでも、今度は樹木の幹(みき)だけでなく、小さな枝や葉っぱも見えてきて完全な樹木の絵が自分の頭の中に浮かんでくるように、いろいろなことがわかるようになります。 読んでいる文章は勉強する前と同じ教科書の文章なのに、見えてくるものが勉強する前と勉強した後では全然違う。 教科書の文というのは不思議な文章だといつも思っていました。
私は教科書の文章は読解力で理解するものではなくて、それをもとに勉強する文章だと思っていました。 その例を自分の学校時代のことではもう思い出せないので、アメリカで子供の勉強を見た時のことでお話しようと思います。
下の絵は、娘が中学校で中世について学んだ時に授業で描いた中世の人々の着ていた洋服の塗り絵です。先生が、輪郭と洋服の説明を書いた言葉を配ってくださって、子供たちはそれがだれかを書き込み色を塗って、洋服の説明を貼り付けたようです。
一番上の絵は中世の貴族(Nobles)の着ている服です。男性と女性がいます。 横に描いてあるのは長いスカートをはいているMerchant(商人)の女性の服です。
2番目は、Vassal(家臣), Knight(騎士)、横にはKingの絵もあります。
一番下は茶色の簡単な服を着たSerfs農奴(Peasants農民)が書いてあります。 こうやって先生は、子供たちになじみのない時代を少しでも印象深くなるよう塗り絵をさせて、生徒の頭の中に中世のイメージを入れていこうとしたのでしょう。 こうして教科書に書いてあることをより鮮明に子供たちに印象付けたのだと思います。
植物の細胞を習ったときは、その週末、娘は大きな紙に絵をかいていました。 「何をかいているの?」と聞いたら、「細胞の中にあるいろいろなものを町の中にあるものにたとえて描く、という宿題をしているの」といいました。 細胞膜は町を外敵から守る城壁、光合成をしてでんぷんを作る葉緑体は食べ物を作る工場、絵の中に道路が書いてあって、フェデックスのトラックが走っていたので「それは何?」と聞いたら、食べ物工場で作られた食べ物をみんなに運ぶ役割をするものを宅急便のトラックにたとえて描いたといっていました。
細胞は顕微鏡を使わないと見えません。 普段目にしたことのないものがどういうメカニズムで働いているかを子供たちがよく知っている町の機能にたとえて理解させようとする先生の方針なのだと思いました。 教科書だけ読んでいるよりも、もっと身近に細胞の働きが理解できるようになるのでしょう。
変わったところでは、中学で初めて元素を学んだ時の宿題も面白かったです。 生徒は初めて化学の周期表(the periodic table)を学びました。 先生は周期表の元素一つ一つを子供たちに割り当てました。 そして、生徒はその元素になったつもりで詩を書いてくる、という宿題が出ました。 娘に割り当てられた元素は希ガスのキセノン(Xe)でした。 そのころはもう私が宿題を手伝うことはなかったので、娘は自分で詩を書きました。 出来た時ちょっと見せてもらいました。 もう20年近く前のことなので、忘れてしまいましたけれど、最後の行はこんな感じでした。
私を熱さないで。
私は消えてしまうから。
私は希ガス、キセノンの性質を知りませんので、これが正しいのかどうかわかりませんが、もし違っていたら、きっと先生が赤字で何かコメントをお書きになって直してくださったと思います。
高校で周期表を学んだ息子は学問的なことを徹底的に暗記していましたけれど、中学校で初めて元素について学ぶ生徒には、元素というのはどんなものなのか、それをまず、生徒になじませるのが、先生の目的だったのでしょう。 キセノンの性質を暗記するだけなら、少しの時間で済みますが、詩を書くとなると、キセノンの性質をずっと考えながら、詩の文を作るわけですから、何時間もキセノンの性質を頭の中で考えることになりますね。 その考える時間が化学の元素を生徒により身近に感じさせるようになると先生がお考えになったのだろうと思いました。 「元素と一緒にいる時間を持つ」というような意図があったのだろうと思いました。
私にとってこの宿題が印象的だったのは、キセノンのような化学の理解に「詩」という文学的な方法を先生がお使いになったことでした。
新しく習ったことを子供たちに理解させるために先生方はいろいろな手法をお使いになっていらっしゃるのだなあ、と思いました。 多分、教科書を読むだけでは子供たちになかなか理解、定着させられないとお分かりになっていたのだろうと思いました。 繰り返し考えたり、よく知っている概念と照らし合わせたり、絵をかいたりしながら、学んだ事項を深く子供たちに理解させていこうとなさっていたのだと思いました。 そうしないと、教科書を読むだけではなかなか子供たちに習ったことが理解、定着させられなかったからだと思います。
私にとっても教科書は、読んで理解するというよりはそれをもとに勉強するものでした。 勉強すると、最初は、大きな幹しか見えない樹木の絵が、小枝や葉っぱもつけた青々とした大きな樹木の絵になってくる。 そんな感じがして、私は教科書の文章は不思議な文章だと中学、高校時代はいつも思っていました。
読解力だけでは学んだことは身に着けられません。 日本の先生方もアメリカの先生方もそのことは十分ご存じだと思います。
1/24 新井紀子氏のことを書いていてふっと思ったのは、ベネッセが全学校に導入できるテストを作ろうとしているのではないか、ということです。新井紀子氏の勧めるこのテストは「テスト問題の設問を理解する力のテスト」です。でもそれでは学校教育に入れてもらえない。だから新井紀子氏はこれを「教科書を理解する読解力」と強調するのではないかと思いました。(実態とは違いますが)「教科書を理解する読解力」なら学校に導入するのに抵抗がなくなりますから。(ちなみに読解力とか思考力というのは文2,3個を読むような、こま切れの練習をしていても上がりません。それについてはこちらのブログの最初に書いてあります。)教育の乗っ取りを企む下村博文氏が今度はどこに自分の手下を配置するかわかりませんが、今度著名な教育者があるテストについて「このテストは非常に良い」と国立研究機関の名前を使って発表し始めたら新井紀子氏と同じことを疑ってみる必要があると思います。 第2、第3の「新井紀子氏」が現れて、悪だくみを隠して国民を誘導する可能性は十分あると思います。 「国立の研究機関(大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立情報学研究所(NII、所長:喜連川 優)まで新井紀子氏と組んでやっている」という事実から、下村博文氏の教育の乗っ取りはかなり進行している、と思います。2016年から新井紀子氏のこの計画は始まったようです。私たちが全然気づかないうちにもう5年も経過している。 まさに国民の知らないところでひたひたと乗っ取りが進行する「This Present Darkness」です。 「憶測でものを言うことは厳に慎まねばならない」ということは十分承知しております。けれども、そういう可能性も含めて見ていかないと、後々大変なことになるのではないか、と危惧いたしましたので、書くことにしました。 杞憂(きゆう)であればいいと思っています。
1月19日 新井紀子氏の勧めるリーディングスキルテストの動画を見ました。その感想を書きます。 新井紀子氏はこのビデオの14分から15分の所で次のように述べています。
中学生の間で非常に幅広く分散している読める力、ほとんど教科書が読めない子からすらすら読める子まで、そのすらすら読める順に高い偏差値の高校に入学できているということがわかってしまったのです。 つまり教科書のような簡単な文が「読めるか読めないか」という基礎的な読解力が人生を左右するということがわかってしまったのです。 (この「研究」についての私の感想は下のピンクの文字の部分に書いてあります)
でも私は、新井紀子氏と真逆のことを思っています。私の考えは新井紀子氏とは正反対です。
私は、「習ったことを理解できるようになるまでたくさん勉強した生徒は偏差値も高くなるし、教科書もすらすら読めるようになる」と思っています。 新井紀子氏は「大変なことが分かってしまった」みたいな大げさな言い方をしていますが、それは人々をこのテストに誘導したいからでしょう。 「教科書がすらすら読める子が偏差値が高い」というのはただの相関関係です。
相関関係 = 因果関係 ではありません。
私は以前、こういうことをブログに書いたことがあります。 どこに書いたかは思い出せませんけど。(こちらのブログでした。)
生まれてから学校に行かず、ずっとお母さんのそばにいて20歳になった人がどんなことを話すのか想像してみてください。 多分身の回りの話が主で、科学や歴史などの話はあまりしないでしょう。 子供たちは学校に行って各教科を学んでいますが、それは見方を変えると、各教科で使われる言葉を学んでいる、ということになります。
学校に行って理科の時間に化学反応式を習ったとします。 ここで子供たちは「化学反応式とは何を表しているのか」を学びます。 水素と酸素が反応して水ができることを表している、と知るわけです。 それを学ぶと化学反応式という言葉が出てくる文章も理解できるし、自分で書くこともできます。 それによって化学の反応に関する言葉の運用能力を身に着けます。
歴史で封建制度について習えば、封建制度とは何か。 また封建制度に関する言葉の意味や使われ方がわかって封建制度に関して書いてある文章も理解できますし(読解力)、それについて話すこともできるし、書くこともできます。 封建制度に関する言葉の運用能力が身に付きます。
つまり、そのことについて学ぶとそのことに対する言葉の運用能力は上がります。 もちろん読解力も上がります。
私はアメリカにいた時、子供たちが毎日学校に行って各教科を学びながら、学んだことを英語で言えるようになって行くのを見てそう思いました。 私の考え方は新井紀子氏とは全く逆です。正反対です。
もちろん新井さんが例に出しているように、問題に書いてある4つの選択肢から正解を選べない子もいるでしょう。 でも、子供を育てていて思うのはなじみのない名前や、アルファベットで書かれたものを一回や二回言われたくらいですぐ理解できない子もいます。 そういう子も時間をかけて深く学んでいくと、つまりその事柄が自分のなじんだものになってくるとわかるようになります。 だからそういう例をもって、読解力がないと成績が上がらない、というのは当たらない、と私は思っています。
成績が上がるのはあくまでそのことを本人が勉強したからです。
私には、彼女はこのテストを売ろうとして非常に無理な理屈をこじつけている。 勉強の本質を無視していると思います。
このリーディングスキルテストは「テスト問題への答え方のテスト」です。 これを「基礎的な読解力の能力のテスト」という国語教育の専門家は一人もいないと思います。
私がここでいう国語教育の専門家とは、中学、高校で実際に国語教育を行っている先生方です。 読解力に関しては説明文、論説文、小説、随筆などの指導をきちんとできる先生方です。
この新井紀子氏お薦めの「リーディングスキルテスト」は「テストの設問に答える能力テスト」といったほうが適切だと思います。 いかにも学習塾が好きそうな教材だと思いました。 この下に出てくるプロの編集者の方は「そういうのは予備校で使えばいいのではないですか」と言っていました。 これを読解力のテストという人は、新井紀子氏同様、文学も国語教育も何も学んでいない人です。
それから、ビデオの中ではずっとテストの設問とその答えの正答率を解説してきて最後になったら、突然、これを「教科書をすらすら読める力」といい方に変えるんですね。 テストの設問を理解する力についてずっと述べてきたのに、(教科書の読み方など、全く触れていないのに)最後になると、「教科書を読む力」という言い方が突然出てくるんですね。 出題は教科書や新聞、辞書からということですが、「教科書の読み方」など全く触れないのに何で、突然最後にこれが「教科書をすらすら読める力」に変わるのだろうと思いました。
こちらのニュースを見て 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立情報学研究所(NII、所長:喜連川 優、東京都千代田区) さえこれが読解力だと思っていると知って、驚きました。 150字程度の事実について書かれた文を読む力を読解力というのはいかがなものでしょうか。 しかも、それがテストの設問。 こういうのを国語教育の専門家が読解力というでしょうか。 「国立」ということは税金で運営されているのですよね。 でしたら、もう少し、所長の喜連川 優氏は「読解力」についてきちんとした研究をなさっていただきたいと思います。 冒頭にも書きましたように、新井紀子氏はこのビデオの14分から15分の所で次のように述べています。
中学生の間で非常に幅広く分散している読める力、ほとんど教科書が読めない子からすらすら読める子まで、そのすらすら読める順に高い偏差値の高校に入学できているということがわかってしまったのです。 つまり教科書のような簡単な文が「読めるか読めないか」という基礎的な読解力が人生を左右するということがわかってしまったのです。
これが、国立の研究機関が読解力について共同研究した結果なのですか。 研究対象はテストの設問、結論が読解力(?)と入学する高校の偏差値との関係。 これは学習塾の視点から行われた研究ではありませんか? 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立情報学研究所 (所長:喜連川 優)まで、ベネッセに乗っ取られましたか。 「読解力の研究」と称して、テスト問題のパターンを種類別に分けたり、高校の偏差値との関係を見たりすることは国語教育の専門家はしません。テスト問題を分析して7つのパターンに分けて、これが読解力の各側面だといって正解率を見る。 東大新入生でも52%しか正解できなかった問題もあるとデータをとる。 これはもう受験産業のすることではないですか。 国語教育の専門家のする「読解力の研究」ではありません。 新井紀子氏は「読解力」「読解力」と教育問題を話題にしているようで、本当はテストの分析や偏差値の研究をする受験産業の仕事をしているのではないですか。 1月18日の彼女のツイッターのコメント「あら、イメージ同定ど真ん中の問題。 全般的に、共通テストの地歴はRSTのイメージ同定と推論ができない受験生は厳しかったかと思う。」 というのは、読解力の研究をしている人のコメントというよりは、テスト問題を研究している予備校の人のコメントみたいだと思いました。 「いつもやっていること」「いつも考えていること」は、自然に出てきてしまいます。 このコメントを読んでいたら、下に出てきたプロの編集者の言葉を思い出しました。「こういうテストは予備校で使えばいいのではないですか」 受験産業はどこまで行っても受験産業。 いくら新井紀子氏が「教科書を読む読解力」という言葉を使っても学校教育には入れません。
(今、この曲 Bonnie Tyler - Holding Out For A Heroを聞きながら夕食の支度をしています。映像は見ません。銃を撃つ映像は嫌いですから。 いつもはもっと落ち着いた曲を聞いていますが。。。。自分の心の中に怒りがあるとき、強いビートに乗せて怒りをどこかに飛ばしてしまいたい。。。。。。怒りを感じていなかったら、こんなきつい文章は書かないです。 新井紀子氏は「読解力」「読解力」って、人を騙(だま)さないで。)
新井紀子氏は国語教育も文学も学んでいない(国語教育の素養がない、文学の素養もない)。 だから新井紀子氏が読解力に関していうことは薄っぺらです。 本物の国語の先生とは、蓄積されてきた教養や子供に与えようとするものが違います。 もし本当に子供たちに国語教育における「読解力」をつけさせたいのであれば、子供たちには「本物の国語の先生」の言葉に触れさせなければだめです。
受験産業と学校教育の違い。 学校教育では時間をかけて、文学の楽しさを知ったり、文章によってどういう表現ができるのか子供たちは学んでいきます。 「読解力」もそういう広くて深い教育の中で育てます。 受験産業はテストの点数に直結することが主眼です。新井氏のやっていることはまさに受験産業の仕事です。 学校教育というのは受験産業とは違いますから、国語教育の素養、文学の素養がなくては教えられません。 新井氏にはその素養、教養がありません。 だから新井紀子氏に国語教育は出来ません。
2021年2月3日加筆
私が中学3年生の時、こういうことがありました。 中学3年生は高校受験のため模擬試験を受けます。 あるとき受けた模試の国語のテストで芥川龍之介の「鼻」の文章の一部が出ました。 「彼がおかしくておかしくてたまらなかったのはなぜですか」という問いがありました。 私は自分の思ったことを書きました。 試験後、模範解答を見たら、私の答えは間違っていました。 間違った箇所は正しく答えられるようにしなければいけないと思っていたので、模範解答を見ながらもう一度考えました。 けれども、どう考えてもなぜ正解がそうなるのか理解できませんでした。 それで、私は国語の先生にお聞きすることにしました。
その時の国語の先生は、前の先生が産休の間だけ教えに来ていた先生でした。 授業を受けていて、その先生に聞いても私が納得できるような答えは出来ないだろうと思ったので、産休中の前の国語の先生にお手紙を書いてお聞きしました。 先生は出産後の大変お忙しい時期にも関わらず、下のようなお返事を下さいました。
あなたの手紙を読んで、私ももう一度芥川龍之介の「鼻」を読んでみました。 私もこの人がおかしくておかしくてたまらなかったのは、あなたと同じ理由だと思いました。 なぜ模範解答がそうなるのか私にもわかりません。
それに続けて先生は次のようにお書きになっていらっしゃいました。
あなたの手紙を読んで、今の国語教育が抱える問題を感じています。 文学作品の読み取りを画一化しようとすることなど決してしてはいけないことです。 あなたのような生徒までが、こんなことで悩まなければならないことに、この問題の深さを感じます。
私は、先生のお返事を読んで、非常に驚きました。 まず、模擬試験の模範解答が間違っているということ(50年前の模擬試験です) それから国語教育に問題があるということ。 中学生の私は学校で行われることに問題があるなどと思ったことはありませんでした。 「学校で行われることは正しい」そう信じ切っていました。 お手紙は短かったけれど、15歳の少女には相当な衝撃がありました。 でも衝撃と同時にこの時知ったこともありました。 それは、先生方は教科書の知識をただ教えて下さっているだけではないのだ、ということでした。 私たちをどう教育することが一番良いことなのか、いつもお考えになっているのだ、そう思いました。
50年たった今でも、先生のお手紙に書かれていた言葉が忘れられないくらいですから、あの時の衝撃は相当なものでした。
先生方にもいろいろな方がいらっしゃいますので、全員がこの先生のようではないでしょうけれど、(実は、この先生の産休中に教えに来ていた先生に私は「本の世界に逃避するな」といわれました。 私はその先生があまり好きではありませんでした。 もし今、そういわれたら、私はこちらのブログに書いてあるミヒャエル・エンデの言葉を使って答えたいと思います。 「私はファンタジエンに行って生きる力をもらっていただけよ」と答えたいと思います)授業ではただ生徒が学ぶべきことを教えて下さるだけですけれど、先生方はいろいろなことを考えながら私たちを教えて下さっているんだ、と思いました。
私が中学、高校と習った国語の先生方はみんな国語科の教員免許状をお持ちの先生方です。 国語教育で教えることはすべて勉強し、教育についても学んでいる先生方です。 私はそういう先生方を「国語の先生」だと思ってきました。
新井紀子氏が国語教育で知っているのはたった一つです。
「事実について書かれた150字くらいの文(テストの設問)が理解できるかどうかをテストした結果」
それだけです。(彼女が作ったこのテストの得点と生徒の読書量には全く相関関係はないそうです。(上記の本222ページより)彼女の作ったテストで高い点を取る生徒が必ずしも本を読んでいるわけではないし、本を読んでいない生徒の得点が必ずしも低いわけではないそうです。 彼女は「読解力は読書とは関係ない」と述べています。 この話を知人にしたら、「読書している生徒としていない生徒の差も表れないテストを読解力のテストというの?」と聞かれました。)
新井紀子氏が国語教育について知っているのはたったそれだけです。 国語教育で「読解力」といったときに含むものが後楽園球場の広さだとしたら、新井紀子氏が知っている「読解力」は、そこに落ちた1円玉くらいの広さのものです。
だから彼女の「読解指導」を読んで私が「薄っぺらだ」と感じるのは当然だと思います。 一円玉の範囲しか知らないのですから。 国語の先生方が勉強して持っているものを彼女は何も持っていない。 それは、「燃える太陽」という文学的な表現に、理科の読解指導と称して、「宇宙空間には酸素はありませんから太陽は燃えません」などと平気で言う「読解指導」に如実に表れています。 初めて聞いたとき、昔だったら、そんな言葉はコメディアンが言うジョークだったと思いました。 もし、国語の先生方ばかりの集まりで、こんな指導をしたら、とても顔を上げていられないくらい恥ずかしいことです。 国語教育に無知なこと丸出しです。 新井紀子氏はそれが恥ずかしいということもわからない。 150字といったら、ほぼツイッター(140文字)の文章と同じ分量でしょう。 それ一つ勉強したくらいで「読解力」「読解力」って、「読解力」の権威みたいな顔をしないでください。 1円玉くらいしか知らないのに読解力の権威みたいな顔をしないでください。 日本には地味だけれど、子供たちの読解力向上の為に努力している先生がたくさんいらっしゃいます。 始業前の10分間読書を習慣化させている中学校の先生方もいらっしゃるし、時間があると子供たちに本の読み聞かせをしてくださる小学校の先生方もいらっしゃいます。 先生方一人一人は特に新聞や雑誌で取り上げられるような方々ではなくても、そうやって、継続して地道に努力していらっしゃる先生方はたくさんいるんですよ。 そして最後は結局そういう先生方の地道な努力が子供たちの読解力を上げていくんです。 地道な努力をしている先生方を差し置いて、たかだか150語の文を一つ勉強したくらいで、1円玉くらいしか知らないで、「読解力」「読解力」って読解力の権威みたいな顔をしないでください。 しかもそれはテストの設問でしょう。「読解力」という言葉を人々を誘導するために使っているだけでしょう。 新井紀子氏は文学も学んだことはないのですよ。
国語の先生方が国語教育に関して持っているものが両手一杯にすくい上げられた色とりどりの花びらだとしたら、新井氏の持っているものは人差し指の先にのった、薄い梅の花びら一枚くらいのものです。 私が薄っぺらだと感じるのは当然です。
新井紀子氏はこれからも人々が正しく読めなかった文書を取り上げては、「読解力」「読解力」と騒いで自分の勧めるテストに人々を誘導するでしょう。 それが彼女が下村博文氏から請け負った仕事だからです。
私が彼女の読解指導を批判したら、政府から激しい妨害が始まりました。 政府から妨害を受けるというのは政治家が妨害しているということです。 教育に関する政治家といえば今更言うまでもありません。 (自分の選挙区(東京)の中学生さえ、都道府県の中で一番最初に「高校入試のスピーキングテスト」という形でベネッセに売った下村博文氏です。) 新井紀子氏は下村博文氏のたくらみの実行部隊です。 たくらみを隠して、人々をそこに誘導する実行部隊です。 「新井紀子氏のいるところ下村博文氏あり」です。 こういうことを書きましたので、私はまた、激しく妨害されるでしょう。 人々にこの情報が伝わらないように、政府には、政治家の言う通り、妨害を行うスタッフがいるんですよね。 ツイッターをお持ちの方は、拡散をお願いいたします。 新井紀子氏の読解指導を批判して、政府(政治家)から妨害を受けたのは私一人です。 私を葬ってしまえば、彼らは自分達の教育乗っ取りは安泰だと思っています。
もう5年も新井紀子氏はこのテストの計画を進めています。 ベネッセへの利益誘導だという批判には、そういわれることを準備していたかのように自信たっぷりに「妄想」とか「定款に対しての読解力」などという変な言葉を面白がるように使って答えています。 このように後ろにあるたくらみには全く気付かせず、人々をそちらに誘導するのが新井紀子氏の仕事です。 彼女は下村博文氏のたくらみの実行部隊ですから。 下村博文氏の教育の乗っ取りが新井紀子氏のような実行部隊を使ってひたひたと進行する。 まさに日本の教育は 「This Present Darkness」です。 新井紀子氏が下村博文氏の実行部隊だからこそ、私が彼女の「読解指導」を批判したとき、政府(政治家)はあれほど激しく私を妨害したのでしょう。 「読解指導」の批判一つに政府(政治家)が妨害に乗り出してくるなどありえないことです。 「英語民間試験」でもない。 「大学入試の記述式」でもない。 ただの朝日小学生新聞に載った彼女の「理科の読解力の指導」があまりにもひどかったから私はそれを指摘しただけです。 「燃える太陽」という文学的な表現に対して「宇宙空間には酸素はありませんから太陽は燃えません。」これ以上ひどい”読解指導”はないでしょう。 だからそうコメントを書いただけです。なのにどうして政府が私のブログを妨害するんですか。 おかしいでしょう。 なぜ、そこまでして、政府が新井紀子氏の「読解力の指導」を守るのですか。 しかも彼女は国語の教員免許状さえ持っていないのに。 それは彼女が下村博文氏のたくらみの実行部隊だからでしょう。 そしてそのたくらみは彼女の言う「読解力」に関係している。 私はそう思いました。 「おかしい」と思ったときにはその裏に必ず何か、人々に知らせないで彼らがやっている悪いことがあります。 eポートフォリオの時もそうだった。 では、彼女の言うこの読解力ってなんなの? それは「テストの設問が理解できているかどうか」を調べるためにするテストのことだった。 まるで受験産業が作る「読解力?」のテストだった。 「受験産業」ってどこがするの? 学習塾、予備校? 彼女に関係している学習塾は? 彼女がツイッターで自信たっぷりにベネッセとは関係ありませんといっていた。 何か愉快そうにそう言っていた。。。。。しかも、テストの設問を理解するテストなのに、新井氏はそれをビデオの最後に「教科書の読解力」と言い換えていた。(私がなぜこれほど「教科書」という言葉に注意してみていたのかは下の(注1)をご覧ください。) 教科書といえば学校教育。 私はそうやって手元にある事実をつなげていきました。 そうしたら、下村博文氏(ベネッセ)が何をしようとしているのか、まるでぼやけていたカメラのピントがあってくるようにスーとわかってきました。(このテストを広めて学校教育にいれたいの? その時、ベネッセが出てくるの?あの愉快そうなツイッターの文。。。。) わかった時、ぞーっとした。 5年もかけてこんなことまでしようとしていたの?と思った。 新井紀子氏は全部知っている。 知っていて、小学生新聞で小学生までだましているの?と思った。こんな愚にもつかない「読解指導」して。 このうれしそうなツイッターの文。 国民を騙して下村博文氏の気に入るように誘導するのが、新井紀子氏はそんなにうれしいの?と思った。 私が出会った国語の先生は「生徒をどう教育することが一番良いことなのか」いつも考えている先生だった。 新井紀子氏が考えているのは、「下村博文氏(ベネッセ)のたくらみに人々を気づかせないで、どうやってたくさんの人にこのテストを受けさせるか」それだけですね。(それがうまくいったときは、新井紀子氏はとてもうれしいのでしょうね。 「ベネッセへの利益誘導だ」というみんなの批判にこたえるこのツイッターの文面からそれがわかります。 下村博文氏(ベネッセ)の気に入るように自分が事を運べた時、新井紀子氏はとてもうれしいのでしょうね。言い方がウキウキしている。 事実についての記述だけでなく、小説文の読解を学ぶこともとても大事なのですよ。 そうするとこのツイッターの文章から新井紀子氏が愉快そうなのがわかります。 (例えばこれが小説文の読解だったらこんな風に問われます。 「この文を書いた人はどんな気持ちだったと思いますか。」 答え「うれしくて得意な気持ち」 問い「どの言葉からそれがわかりますか」 答え「(その1)定款を正確に読める読解力を身に着けることをお勧めします。という言葉。 相手にあなた方は読解力を持っていないと指摘している。(私は定款が読める、つまり相手の能力の欠如を指摘することにより自分の方が能力が上だ、といっている。) (その2)妄想ともいう、という言葉。 「妄想とは根拠のない主観的な想像や信念、病的原因によっておこり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない 例誇大妄想、被害妄想(広辞苑)」相手に対して病的なまでにおかしいと指摘している。 1,2より、相手に対してかなり自分を優位に置いていることがわかるので、うれしくて得意な気持ちを表している。となるでしょうか。 前者に対しては「定款を読んでください」といえばいいし、後者に対しては「誤解です」といえば済むところです。。。。。 私はそう感じて、初めて読んだ時から「何か変だ」と思っていました。) この文章を読んだときの違和感が「新井紀子氏、ベネッセ、下村博文氏」この構造をたどっていく引き金になりました。 そういえば彼女のこのテストには、小説文についての読解力は含まれていませんね。 論説文も随筆も含まれていません。 150字の読解力など量るくらいなら、成長期の子供にはたくさん文章を読ませて根本的な読解の能力、すなわち「読み取る量」を増し、「読み取れる深さ」を増す訓練をする方がはるかに有益です。 (小説文の読解は絶対にこのテストに入れた方がいいです。 こういう計画にだまされないためにも。) 悪だくみの隠れ蓑(みの)に国語教育を利用するのは「国語教育を冒涜している」と思います。
新井氏は「大学生数学基本調査」の下の問題の誤答をみて、「読解力がない」と思ったと上記の本の175ページで述べていますが、この問題に誤答するのは読解力の問題ではなく数学の学力の問題ではないのですか。 本当にこの問題の誤答(理由の誤答)を見て「論理的な読解と推論の力(同183ページ)がない」と思われたのですか。
問題 偶数と奇数を足すと、答えはどうなるでしょうか。 次の選択肢のうち正しいものに〇を記入し、そうなる理由を説明してください。
(a) いつも必ず偶数になる。
(b) いつも必ず奇数になる。
(c) 奇数になることも偶数になることもある。
答えは (b) 理由
偶数と奇数は、整数m, nを用いて、それぞれ2m, 2n+1 と表すことができる。そして、この2つの整数の和は、 2m+(2n+1)=2(m+n)+1 となる。 m+nが整数なので、これは奇数である。
私がこの文章をブログの一番上に書かなかったのは、都合の悪い内容が更新されているとわかったとたん、政府から妨害が始まるからです。 できれば、政府からの妨害が始まる前に皆さんに読んでいただきたいと思いました。 青字の部分の主旨は、新井紀子氏は下村博文氏のたくらみの実行部隊だということ。もし何かを決める会議の委員の中に新井紀子氏がいたら、会議の結論はすでに決まっています。 新井紀子氏が下村博文氏の意向に沿って議論を誘導し、下村氏の気に入るような結論になる。と決まっています。それが新井紀子氏の役割です。 下村氏の気に入る結論が出れば、新井紀子氏はベネッセの利益誘導を否定した時のようにうれしいのでしょう。
以上2021年2月3日加筆
(注1)
なぜ私がこれほど「教科書」という言葉に注意して彼女のHPにあるビデオを見ていたのか、その理由をお話します。
私の息子は小学校1年生の9月に日本の小学校に転入しました。冬休み前の12月の個人面談で担任の先生から次のように言われました。
「太郎君は話している時の日本語には問題はないのですが、教科書を読ませるとどこで切ったらよいのかわからなくなってしまうようで、全然読めないんです。 あれ~、どうしちゃったの、太郎君って思いました。」
先生のお話の仕方から、他の子は読めるのに、太郎だけが読めないのだと私は思いました。 みんなが普通に読めるものが読めないというのは問題です。 その日から夕方5時に遊びから帰ってきた息子を夕食の支度をする私の横に立たせて毎日国語の教科書を音読させました。 それは中学3年生の9月に日本の中学校に転入した娘も同じでした。 志望高校の出題に作文がありました。 それで作文を書く練習をさせたのですが、作文がなんだかわからないから書けませんでした。 仕方ないので、全国作文コンクールの入賞作品集を買って、「これが作文よ。 毎日少しずつ読んでごらん」といったのですが、ちっとも読まないので、音読させたら、つっかえつっかえで全く読めませんでした。5文字ごとにつっかえるような感じでした。 「息子の時と同じ。 日本の子は読めるのに、うちの子は読めない」と思いました。 仕方ないので、私がその中の2,3個の作文を音読してテープに吹き込み、「毎日聞いてみて。 作文はどう書くのかわかってくるから」といいました。 (アメリカに行ったときは地理の用語集を英語と日本語でテープに吹き込んで聞かせ、日本に帰ってきたら作文を読んで聞かせ、使っていない言語の習得はどこに行っても大変なんだ、と思いました。)
こういう経験がありましたので、新井氏のHPで「教科書がすらすら読める子」「ほとんど読めない子」という表現を見た時、日本で生れ育っても、教科書が読めない子がいる、ということに私は驚きました。 私は、新井氏が中学生に実際に教科書を読ませて、「教科書がすらすら読める子」と「ほとんど読めない子」がいることを調べたのだと思いました。 「すらすら読める」と書いてある、ということはきっと音読させたのだろうと思いました。 音読なら、すらすら読めても間違って読んでいないか後で必ずチェックする必要があるから、そのデータは保存されているはず。 「教科書がほとんど読めない子」の音読を聞きたいと思いました。 太郎と由紀子と同じくらい読めないのか聞きたいと思いました。 たとえ実際の音読がアップされていなくても一分間に何字くらいしか読めないのかくらいは話があるだろうと思っていました。 そうすれば、自分で再現してみればわかると思いました。 帰国後の私にはいつも「日本語が読めない」という問題が、重くのしかかっていましたからそれが私の一番の関心事でした。
でも、ビデオにはそのデータはありませんでした。 新井氏は自分のテストがよくできた生徒を「教科書がすらすら読める子」と言い換えていただけでした。 彼女の「AI vs 教科書が読めない子供たち」という本にも、実際に中学生に教科書を読ませたことに関する記述は全くありませんでした。 彼女は実際に生徒に教科書を読ませていたわけではありませんでした。 研究者が実際にやっていないことをキャッチフレーズにしていいのですか。 新井紀子氏は「教科書を読む」その学習行為自体については、何のデータも取っていません。研究者が実際にデータを取っていないことを研究の結論として提示することに問題はないのですか。 (その後、彼女が「教科書」という言葉を使うことが非常に大事だった理由に私は気づくことになります)
彼女は前出の本の222ページで「読解力は読書量とは関係ない」と述べています(彼女のテストの得点は生徒の読書量との相関がないそうです)が、私は関係ないとは思わないので、私が読解力についてどう思っているか、書きたいと思います。
先にも書きましたように、息子は小学校1年生で教科書が読めませんでした。 読ませる練習をさせましたけれど、2年生になったら接続詞の使い方がよくわからないようだ、といわれました。 それで、接続詞も教えました。 でも4年生になったら、教科書も読めるしテストの問題も理解できるのに、ちっとも日本語の本を読まないことに気づきました。 日本語の本を読む、ということが大変だったのだろうと思います。 それで1年半かけて本が読めるようにしました。 教科書の音読や接続詞と違いこれだけ時間がかかったということは「本を読む」ということはいろいろな力がいることなのだろうと思いました。
そういう経験をして私は、読解力について次のように考えています。
大きな船で海を渡ると海面にはたくさんの白い波が立っているのが見えます。 人間の持つ読解力というのは、この大きな海のようなものだと私は思います。海に立っているたくさんの白い波、その一つ一つがテスト問題を読む力であり、詩を理解する読解力であり、論説を理解する読解力なのだと思います。 そして本を読むことはこの海が持つ読解力そのものを作る力を持っているのだろう、と思います。 だから今までの日本の教育で読解力といえば本を読むことが言われてきたのだと思います。 そしてそれは間違っていないし、日本だけの考え方でもありません。
アメリカにいた時、娘のリーディングの授業の宿題を一緒にやりました。 一年間の授業で(今思い出せる範囲で)4さつの本を読みました。 最初は160ページの本、2冊目は260ページ、3冊目もそのくらいだったと思います。 最後は300ページの本でした。 ですから1年間の授業で1000ページくらい生徒は読むことになります。 そして授業では読んだ内容について勉強します。 新井氏のリーディングスキルは150字のテストの問題を読むことですが、リーディングクラスのメインの活動は本を読むことでした。 私の友人の子供は高校のEnglish (国語)のクラスの最初の授業でフィッツジェラルドのThe Great Gatsby を読んだといっていました。 つまり、日本だけでなくアメリカでも読解力の基礎をつけることに本を読むことは非常に重要だと考えられています。
私が最初に夫の赴任についてシカゴに住んでいたころ(今から30年前)、テレビ番組では「アメリカの子供たちの学力が低いのをどう解決すればよいか」という問題がよく取り上げられていました。 その問題を解決しようといろいろな取り組みを行っている先生方の活動が紹介されました。 やはり本を読むことを重点にした活動が多かったですね。 その根底には「本を読むことが学習の基礎を作る」という先生方の考え方があると強く感じました。
2度めの赴任の時はテレビでそういう話を聞くことはありませんでした。 けれども、私は「生徒にいかにして本を読む習慣を身に着けさせるか」を生徒と実践しながら研究した先生方のグループの活動をまとめた本を読みました。 読みながら、「本を読むことが学習の基礎を作る」という考え方が、すでに先生方の共通の認識になっていることを知りました。
私は日本の先生方が、子供たちに本を読めるように活動なさっていることは、学習の基礎を作るうえで非常に役に立っていると思っています。 新井氏は読解力に読書は関係ないと述べていますがそのようなことはないと思います。
そしてもう一つ、先生方の本を読む指導が重要だと思う理由があります。
国語教育は「読む」ことだけではありません。 「書く力」も育てなければなりません。 「書く力」は思考力を育てる、ということで今、非常に重要だといわれています。 「書く力」は、150字のテストの問題を読む力では決して育ちません。
「書く力」は「読む力」と密接に関係しています。 これは英語教育からわかったことです。 私自身高校卒業時には、英文エッセイ(小論文)は書けませんでした。 習った構文を使って文を書くことで精一杯でした。 私が英文でエッセイが書けるようになったのは大量の英文読書をした後でした。 つまり本を読んでいないと論旨を一貫させてまとまった文章を書くことはできませんでした。 150字のテストの問題を読む読解力では、「書く力」をはぐくむことはできません。
そういう意味で、先生方がなさっている読書指導は、「読む」ことによって育つ「書く力」もはぐくむという点でとても重要だと思います。 読むときに育った思考力が書くときの思考力に持ち込まれている、という気がします。
私の後ろには、学校を動かせる政治家もいませんし、潤沢な資金を持つ業者もいません。 だから私が何を言おうと鎧兜で武装した人に素手で戦うようなものでしょう。 それでもこのブログを書いたのは、地道に子供たちに本を読む指導をしてくださっている先生方を応援したかったからです。 新井紀子氏は読解力は読書の習慣とは無関係といっていますが、そんなことはありません。日本だけでなく、本を読むことの重要性はアメリカの先生たちの間でも広く認識されています。
また、本を読むことが国語教育のもう一つの基礎、「書く力」を育てることは紛れもない事実です。 先生方がなさっている読書指導は、国語教育、子供の学力の基礎を作る上でとても重要です。 地味で、時間がかかるご指導ですけれど、「読む力」「書く力」「思考する力」の大きな海を育てる大事な指導ですので、ぜひ、続けていただきたいと思います。
読解力の問題だけでなく、本を読むことによって子供たちはいろいろな世界を知るようになります。 「理想の社会はどんな社会か」コンピューターは考えないけれど、人間は考えます。 教育はその子(人間)が持っている能力を引き出すもの、伊勢田先生の教育原理の授業を受けて思ったことは今も変わらないです。
150字のテストの問題を読むことが読解力などと思っていたら、とてもアメリカには勝てないです。(アメリカだけでなく世界のいろいろな国に勝てないです。 子供たちに骨太の思考力は生まれませんから。) 彼らは読むことも書くことも日本とはけた違いに学校で教えています。 下村氏はとにかくテストを学校教育に導入する。 教育の中身よりテストのことばかり。 教育の中身は英語のスピーキングにしても「書く力」にしても具体的に学校でどう教えたらよいかについて先生方と話し合うこともしない。ほったらかしです。 こうやって教育をだめにして日本の国力はどんどん低下します。 下村氏は日本の国力をどんどん低下させています。 まるで日本は教育をはく奪された植民地のようです。 下村さんは、どうしてそこまでして日本の国力を低下させようとするのですか。
最後に一つ気になったことがありましたので書きます。
新井紀子氏の「AI vs 教科書が読めない子どもたち」という本の204ページに彼女の作ったテスト問題のサンプルが載っていました。 引用させていただきます。
* * *
次の文を読みなさい。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたでんぷんを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
この文脈において、 以下の文中の空欄に当てはまる最も適当なものを選択肢の内から一つ選びなさい。
セルロースは( )と形が違う。
* * *
もしこれを公立高校の入試で「教科書を読む読解力をはかるため」といって出題したら、教育委員会には保護者や中学校の先生方から抗議が殺到すると思います。 教科書を読む読解力をはかるなら、「問い」はアミラーゼに関するものであるべきだと保護者や先生方は当然考えると思います。 この問題が出来なかった生徒を「教科書を読む読解力がない」と断定するのは不当だと誰でも思うでしょう。
私はブログを書くととても体力を消耗します。 ブログの中には書くのに1か月かかったものもありますし、原稿を何度も書き直して、プリントアウトした紙が100枚を超えたものもあります。 書き上げるまで、起きてから3時過ぎまで何も食べられなかったこともありました。
昔話の「つるの恩返し」に出てくる鶴が化身した娘は布を織るたびに痩せていきました。 私は鶴のように若くて美しい娘ではないですけれど、ブログを書くたびに体力が消耗するところが「つるの恩返し」みたいだ、といつも思っていました。 それでも、何とかして子供たちを守ってやりたいと思っていました。
12月の終わりから体調が悪くて、何もできませんでした。 しばらく休もうと思ったのですけれど、読書指導をしてくださっている先生方を応援したかったので、今日はこの部分を書き足しました。 先生方がなさっていることは子供たちにとって、とても大事なことです。 本を読むことは決して読解力と関係ないことではありません。 地味で大変な指導ですけれど、子供たちのためにぜひ続けていただきたいと思います。
これを読解力のテストだといわれて購入した場合、購入した人は表示と違うと感じると思います。
こういうテストを「読解力のテスト」として販売するのは誇大広告であり、不当表示です。 法律に違反しませんか。 消費者による「合理的な選択」を阻害する恐れがあります。 きちんと「テストの設問に答える能力テスト」とするべきです。
この程度のことで「読解力」「読解力」と騒がないでください。 だから新井紀子氏は「燃える太陽」という表現に「宇宙空間には酸素はありませんから太陽は燃えません」などという飛んでもない「読解指導」をするんです。 文学も知らないのに読解読解と騒がないことです。 これは学習塾が得意とするテストのための教材だと思います。
私は文学を学んだこともない新井紀子氏に国語教育に口を出す資格はないと思っています。
新井紀子氏は国語教育を冒とくしていると思っています。
新井紀子氏に読解力の指導をする能力はありません。
新井紀子氏がこのテストを広めたいのは子供たちの為ではないと私は感じています。 なぜならこんなものは子供たちの読解力の向上にはほとんど訳に立たないと思うからです。 テストに答える能力の練習にはなるかもしれませんけど、教育はテストの前によく理解させることの方が大事だと考えますので。一体何のためにそんなに熱心にこんなテストを宣伝するのだろう、という疑問を私は持っています。 それは学習塾の仕事ではないですか。
もう15年も昔になりますが、「This Present Darkness」という本を読みました。 ずいぶん昔に読んだので細かいことは忘れましたが、本の中で、ある町が邪悪な勢力に乗っ取られていきます。 人々が気づかないうちに大学の学生や警察署の警官が一人、二人、と洗脳されて、やがて町全体が乗っ取られていきます。 乗っ取りは、ひたひたと進行します。 家族を洗脳された人が、それに気づき、命がけで真相を探っていきます。 そして最後は良き人々と邪悪な勢力との戦いになります。 この戦いは人間だけではなく、善悪双方の人間についている霊的存在、わかりやすく言えば天使と悪魔のような存在の間でもはじまります。 2つの戦いは連動していて、最後の場面で良き霊的存在のリーダーがやられてしまいそうになった時人々の祈りが彼に力を与えて勝利します。
私がこの小説を今も覚えているのは、最後の場面で町を救った天使たちが、「ここの町は救われた。 我々は次の土地に行って仕事をしなければならない」と旅立つ場面がとてもさわやかだったからです。
今の日本の教育を見ているとこの物語とよく似ていると思います。 邪悪な下村博文氏が新井紀子氏のような手下を使って、彼らをいろいろなところに配置し、計画をひた隠しにして悪だくみを浸透させ、ひたひたと乗っ取りを進めます。 新井紀子氏のような人は後ろに悪だくみがあることを知りながらそれをおくびにも出さず、人々をそちらに誘導する。 このビデオのように悪だくみに全く気付かれないように「これは子供に役立つものだ」と力説する。 そうやってひたひたと邪悪な勢力による乗っ取りが進行する。 まさに今の日本の教育は「This Present Darkness」だと思います。
新井紀子氏はツイッターのトップに「信頼が崩壊した社会は無駄にコストが高い。name callingはやめませう。」とかいています。name-callingというのは悪口です。
それは下世話な悪口もありますけれど、彼女がこう言うのはひたひた邪悪な勢力を人々の中に浸透させるときに、それに「おかしい」と気づいた人に声を挙げられるとみんなが気づいてしまうから困ると思っているのではないですか? 実際私は朝日小学生新聞に掲載された彼女の「読解力の指導」を「 何の薬にもならない文章」と批判している人のツイッターを読まなければ、新井紀子氏のことを知りませんでした。 何度か名前は聞いたけれど、数学者ですし私とは関係ない分野の人だと思っていました。 たまたま彼女の読解指導を見て、あまりのひどさに怒りが爆発しました。 国語教育を冒とくしていると思いました。 (冒とく: 神聖・尊厳なものをおかしけがすこと。(広辞苑) いろいろなことを発信して教えてくださる方は貴重だと思います。
私は彼女のひどい「読解指導」を見て、2,3日、あまりよく眠れなかったので、昨日はすごく疲れていました。 そのせいか、昨夜、お布団に入った時、急に「なんで教育には下村博文氏とか新井紀子氏とか悪い人ばかりいるんだろう」と思ったら、ぽろぽろ涙が出てきました。相当疲れていたのでしょうね。 やさしい曲が聞きたくなって、イヤホンでこの曲を聞いていたら、泣いたままねむってしまったみたいで、気が付いたらもう朝になっていました。 「This Present Darkness」の物語ではないですけれど、最後は邪悪な下村博文に先生方が打ち勝つことを祈って私もブログを書いています。
乗っ取りはひたひたと進行します。 特にベネッセのいるところは「利益誘導はない」と新井紀子氏のように言う人がいても、注意を向けていた方がいいと思います。 今も、どんな悪だくみがひたひたと進行しているかわからないと思います。 この先も、第2、第3の「新井紀子氏」が現れて、悪だくみを隠して、何かに国民を誘導する可能性は十分あると思います。
(1月18日)eポートフォリオのブログを書いたとき、「これは学習塾の市場データを国家に集めさせるものだ」と私は直感しました。新井紀子氏のこのサイトとこちらのニュースのページを読んだとき、私には根拠はないけれど、「もしかしたらこうなのではないか」と思ったことがあるので書くことにしました。 おそらく「違う」と当事者は否定すると思います。 否定されたら否定されたでいいです。 本当はそうでないことを望んでいます。 でも心配だから書きます。
このリーディングスキルテストは、多くの学校に参加させてやがて学校教育(公教育)の中に取り入れさせて、その時に営利団体が出てくることになっているのではないですか。 民間試験のGTECと同じことが水面下で計画されているのではないですか。最初は全く営利団体の利益とは関係ない形で行って、学校教育(公教育)に導入させた時に、営利団体が出てくる筋書きなのではないですか。ベネッセとの関係を言われることをあらかじめ想定して準備していたように自信たっぷりにこう言う(妄想とか読解力(定款に対して)とか面白がっているように変な言い方をする)新井紀子氏のコメントがずっと引っかかっていました。彼女はこの筋書きを全部知っている。 その上で、教育関係者に「営利団体は関係ない」と信じ込ませてリーディングスキルテストを広めるのが彼女の役割ではないですか。
でも一番、変だと思ったのは、私が「新井紀子氏が国語教育を冒とくしている」と書いたとき、「政治家とお金」のことを書いたときのようなきつい妨害が始まったこと。 何か「新井紀子氏の評判を落としてはならない」みたいな妨害する側(政府)の強い意図を感じました。確かに読解力を売り物にする彼女に私が「新井紀子氏は文学も学んでいない」「新井紀子氏の読解指導は国語教育を冒涜するものだ」などと言えば困るでしょう。 でも、それにしても「リーディングスキルテストを勧める彼女の評判をそこまでして政権が守る理由は何なの?と思いました。「彼女を守ることが政治家の利益につながるの?」って思いました。
私のブログは政府から激しく妨害されています。 出来れば、ツイッターをお持ちの方は拡散をお願いいたします。 文学さえ学んだことのない人がリーディングテストを分析するだけで、読解力の権威のようなつもりで発言されるのは社会にとって大変危険です。子供たちの国語力の向上の為に地道に時間をかけて努力していらっしゃる国語の先生方の存在は目立たないけれど、高く評価されるべきだと思います。そして結局、そういう努力が一番子供たちの国語力向上に役に立つと思います。
1/17 私のブログには、はてなブログタグ「#下村博文」(このブログの一番下にあります。その文字をクリックするとジャンプできます)というところからのアクセスが毎日「アクセス分析データ」にあったのに、3日くらい前から全然出てこなくなりました。 また政府がなにか操作したのですか?
(1/16) 私は今日このブログの最後に国語教育を全く専門的に学んでいない新井紀子氏が「文学的文章を理科の事実であげつらう」のは国語教育に対する冒とくだと書きました。 国語教育の専門家は間違ってもそういう指導はしないからです。 ブログアクセスは一桁はこえましたけれど、かなりきつい政府からの妨害を受けています。 新井紀子氏が国語教育について全く専門的に学んでいないと言われると何か困ることがあるのでしょうか。 新井紀子氏の理科の読解力の付け方が、国語教育を冒とくするものだといわれると何か困ることがあるのでしょうか? あるいは困るのはベネッセなのでしょうか? 「テストの分析」=「国語教育」ではありませんよ。
私は中学一年生の時、先生がしてくれた、スタインベックの「赤い小馬」の朝食の描写の説明に驚いて、自分もそういう文章が書けるようになりたいと思って文章を書くことに興味を持ちました。誰に言われたわけでもないけれど、良い文章が書けるようになる努力をしました。 国語教育の道を歩いてきた「本物の国語の先生」のしてくれた授業にはそれだけ子供の心を動かす力がありました。 テストで生徒がどの問題を何割間違えてその原因は何か、とかそんなことばかり調べているのが国語教育ではないですよ。この先生の授業に比べたら、新井紀子氏の国語教育は底の浅い無免許運転の国語教育です。 文学的文章を理科の事実であげつらうなどレベルが低くて目も当てられない。 新井氏ご自身が文学もまともに学んでいないのだから子供を突き動かす力なんかない。 新井紀子氏は国語教育を専門的に学んでいないから、国語指導の材料も空っぽです。何も自分の中に持っていない。 だからこんなレベルの低いことしか言えない。 お粗末な国語指導です。(私はとても国語教育などと言える代物ではないと思っています) 国語の先生方は何もおっしゃらないけれど、内心あきれていらっしゃるのではないですか。 あるいはばかばかしくて反論する気にもならないのかもしれません。 「燃える太陽」という表現に「宇宙空間には酸素はなく、太陽は燃えません」では、この人とまともに文学の話など出来ないと思うのが普通ですね。 しかもご本人は国語教育さえまったく学んでいないのに「読解力の権威」気取りで臆面もなくそれを朝日小学生新聞に書いているのですから、国語教育の専門家からしたら「もう救いようがない」と思うのが当然ですね。 「読解力」「読解力」と騒がなくたってその子の興味に合った良い本に出合えば読書の楽しさを知って本を読むようになります。読解力も上がります。 その子が好きな本を探すのはテストの点を分析するより、ずっとずっと手間がかかって時間がかかって失敗もしますけど。 読む楽しさを知れば、子供はテストの分析で指導されるよりずっとずっと長く本を読むことで読解力もつけていきます。 新井紀子氏のやっていることは国語教育なんかじゃありません。 文学もまともに学んでいない人が生徒の心を動かす国語教育なんかできるわけないじゃないですか。 無資格者の底の浅い無免許運転の国語教育です。 点数上げたい子はよく聞くでしょうけど。 子供の心を突き動かす国語教育に文学さえ学んでいない偽物はいらない。
* * *
ここからが今日のブログの本題です。
私がアメリカにいたころ、私の周りのニュージャージーの高校生は本当によく勉強していました。 学校の勉強はもちろん、論理的に思考を組み立てて書く練習もよく指導を受けて訓練していました。 下村博文の金儲けに都合のいいように学校教育を変えていたら、日本の子供たちはとてもそういう教育を受けた人たちに勝てないです。 この歴史の先生が授業中おっしゃった言葉で今でも忘れられない言葉があります。 それは、中学2年生の時、植民地について習った授業でした。 「その国にとって最もおそろしいことは、教育をはく奪することだ」先生はそうおっしゃいました。 中学生だった私は強制労働より主権がないことより「教育をはく奪することが一番恐ろしい」という意味をはっきりと感じることができませんでした。 言葉として理解できても実感としてわかりませんでした。 だから理解があいまいになると思いました。 それで、私は教育をはく奪されたら、どういうことが起こって恐ろしいことになるのか。 それを具体的に考えることにしました。 中学生の幼い頭で例を挙げて一つ一つ考えてみました。 その後、教育をはく奪されることについて、折に触れて考えました。 高校生になった時、ある国で政府への抗議が広まった時、それを見てきた人が、「彼らは教育を受けていないから、抗議行動の時、スクラムを組むことも知らない。 それぞれの人がばらばらに立って抗議の声を上げるだけなんです。」といっているのを聞いて、教育がないと抗議行動も強力に出来ないんだ、と思いました。 そうやって折に触れて、「教育をはく奪される恐ろしさ」を、自分で考えていました。 日本ではそういうことがないから、自分にはピンとこないのだろうな、と思っていました。 ところが今、下村博文のやっていることを見ながら、私は、下村博文のしていることは自分の金儲けのために日本の子供たちから「まともな教育」をはく奪することだと思いました。 また、大学入試で民間試験を必須とすることは経済的に恵まれない子供から教育をはく奪することだと思いました。(各大学が個別でスピーキングテストを実施できないと知ったうえで、スピーキングテストを実施しろ、というのは民間試験を必須とすることと同じです。 下村博文が「自分は言っていない、各大学が民間試験を選択しただけだ」と言い逃れできるなおさらあくどいやり方です。) 英語教育の専門家である私から見たら、下村博文のやっていることは、「正しい発音でスピーキングできるようにする教育」を子供たちからはく奪するものです。 テストをするだけでは子供たちは何のスピーキングスキルも習得しません。 記述式を見たって、下村博文のやっていることは、自分の金儲けのために子供たちから「真に思考力や判断力を養う教育」をはく奪して、ただテストをさせるだけです。 日本は植民地でもないのに、自国の国会議員によって「まともな教育」が子供たちからはく奪されようとしている。経済的に恵まれない子供達から教育がはく奪されようとしている。 私はそう思いました。 授業で教えもせずに、業者のテストをさせてスピーキングや記述式をやらせればいいなどと言っていたら、子供たちはグローバルな世界でとてもやっていけません。 大学入試を業者が儲かるように決めている国なんか世界にありませんよ。国会議員が業者とつるんで入試で儲けようとしている国などありません。少なくとも私は先進国の中でそういう国は知りません。 そんな教育では、とても子供たちに国際社会の中でやっていく実力はつけられません。 下村博文は日本の外をよく見るべきです。 下村博文もアメリカやフランスなど海外の学校に行ってその教育をみてきたらいいです。 業者を儲けさせるような教育をしていたら、日本の子供たちはとても彼らに太刀打ちできないことがわかるでしょう。 ことは日本の中だけでやっていれば済むことではないんですよ。 子供たちはこれからそういう教育を受けた人たちがいるグローバルな社会でやっていかなければならないんですよ。 いつまでも通じない英語で話させているわけにはいかないんです。 いつまでも「自分の意見も説得力を持って言えない」ようでは困るのです。 そういう教育は日本人が本気で取り組んでも大変なことなのに、ましてや国会議員と業者がつるんで儲かる仕組みを作ることばかり考えていたら、とても出来ないことなのです。 日本は植民地でもないのに、自分の国の国会議員によって子供たちの「まともな教育」がはく奪されようとしている。
* * * * *
大人になってから私はこの「教育をはく奪することが最も恐ろしい」とおっしゃった先生(こちらのブログに出てきた先生)に「家永教科書裁判」についてお聞きしたことがありました。 (私は検閲の問題は重大だと思っています) そうしたら先生は次のようにお答えになりました。 「先生はどんな教科書を使おうと君たちに教えるべきことは教える」 きっと「教育をはく奪することが国にとって最も恐ろしい」ということもこの先生が私たちに教えておかなければいけないと思われたことなのだろうと思いました。 この先生の授業はいつも先生の信念で貫かれているような授業でした。 言葉の一つ一つが心に突き刺さるような授業でした。 大事なことをおっしゃるときは全身の力を込めて私たちに言葉を語っているようでした。 けれどもやさしく諭すような言い方をされることもありました。 あるとき「六法」とはどの法律を言うのかを習ったとき、少し早めに授業が終わってみんなが教科書とノートをしまったら、先生は「六法」とは何か言ってごらん」とおっしゃいました。 私たち生徒はみんなで次々法律の名前を言いました。 今日習ったばかりの難しい法律の名前も言えました。 でも、5つしか法律の名前を言えませんでした。 「あとはなんだっけ?」とみんなが考えていたら、先生が笑いながら「憲法だよ」とおっしゃったので、みんな笑ってしまいました。 ふいに言われたとは言え一番大事な法律が抜けていました。 すると先生は「まだまだみんな先生に頼っているぞ。 勉強は自分でするんだよ」とやさしくおっしゃいました。 「先生は、先生の授業を受けた君たちが大人になって社会に出ていく時を楽しみに教えている」そうおっしゃっていました。 これからの社会を生きる生徒に、先に生まれた人間として、どうしても伝えたいことがあり、それを伝えながら先生は私たちを教育してくださったのだと思います。
中学2年生の時から私は、「なぜ教育をはく奪されることが国にとって一番恐ろしいのか」考えてきました。 その答えの一つが国民がまともな教育を受けられなかった影響は社会のあらゆる分野におよぶということです。 思考力や判断力を育てるとか言いながらベネッセのアルバイトが採点するようなテストを導入していたら、社会のあらゆる面に影響を及ぼす国民の思考力や判断力は失われていきます。 もう一つ教育がはく奪されるのが恐ろしい理由は、教育をはく奪した結果はすぐには表れないということです。 その影響は人々が気づかないうちに徐々に進行し、時間がたってその結果が表れて国がガタガタになってきたときにはもう立て直すすべさえ知らない人が圧倒的に多くなってしまっている、ということです。 ある研究者の方が、(虐殺などで)多くの人材を失ったら100年やそこらでは社会は立て直せない、とおっしゃっていました。 今、一人の国会議員(下村博文)の金儲けのために、まともな教育をはく奪されたら、やがて日本は国際社会の中でやっていく力を失います。
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こちらは数日前、羽藤由美先生がリツイートしていらした新井紀子氏の文章です。 これを読んで私が感じたことを書きます。 誰がどういう文章を書いても私がとやかく言うことではありませんが、新井紀子氏が「読解力の指導を子供たちにしている」と聞きましたので、私は書くことにしました。 結論から言うとこういう方に国語教育をされるのは困ります。文学的文章に科学的事実で突込みを入れるような国語教育(?)は本来ありません。 そんな文章は生徒に読ませるだけで害があります。 国語教育をきちんと学ばれた国語の先生方は決してそういうご指導はなさいません。 経歴を拝見すると、 新井紀子氏は国語教育を専門的に学ばれていません。 そういう素養のなさがこういう時に露呈します。 国語教育の専門家なら絶対に犯さないような基本的な間違いを犯します。 間違った国語教育をすると、国語教育の大事な目的の一つ、生徒の文学的文章を理解・鑑賞する力が失われます。「文学的文章を文学的文章として尊重する」という姿勢を生徒に育てるのも大事な国語教育です。 そういうことが自然にわかるのが国語教育者の素養です。 新井紀子氏はきちんと国語教育を学んでください。 「国語教育をきちんと学んでいない」というのは致命的な欠陥です。 指導の根幹に素養が欠如しているからです。
読書をしてたくさん文章を読んでくると文章には科学的な事実が書いてある科学的文章と、著者の感性や主観から書かれた文学的文章があるということを自然に体得します。 国語教育では指導する文章にいくつかジャンルがあります。 同じジャンルであっても、文学的文章と科学的文章は異なる種類の文章ですので、文学的文章と科学的文章には、それぞれ異なる文章の書き方があり、ことなる評価の仕方があります。 それが混ざりあうことはありません。 ですから、文学的文章に対して科学的事実での批判から始まるこの新井紀子氏の文章には、読み始めた時、私は大変違和感を感じました。 新井氏は読解力の指導をなさっているということですが、もう少し、ご自身が良い文章をたくさん読んでから、子供たちの読解力のご指導をされた方がよいのではないかと思いました。 なぜなら、科学的な文章も文学的な文章もごちゃ混ぜにしたような新井紀子氏の文を読んだ時の違和感が、帰国子女の私の娘に文章を書かせる練習をさせた時に感じた違和感と似ていたからです。 (経歴を見せていただくと、新井紀子氏は海外での学問のご経験も数年おありのようですけれど、成人されてからですから、娘のようにその影響があるわけではないと思います。 けれども「太陽がのぼる」という表現に対して「そもそも太陽は上りません」とか「まっすぐに続く水平線」という表現に対して「水平線はまっすぐではありません」とか「オレンジ色に燃える太陽」という表現に対して「宇宙空間に酸素はありませんから太陽は燃えません」とか「いまどき、文学的文章に対してこんな突込み入れないで。」と思うような、非常に稚拙な文章なのも娘の文によく似ていました。新井氏が子供たちに「この文章は理科として間違っているけれど気づいたかな?」といわれても、文学的文章というのはそんなことに気づきながら読むべき文章ではありません。 「書かれたイメージが浮かんでくるか」とか、文学的文章を読む場合の心構えは、科学的文章を読む場合とはまったく違います。 そういう読み方を訓練するのが文学的文章を読むときの国語教育です。 文学的文章を読んで理科の観点から間違いを探す、などというのは、間違った国語教育です。 いい加減な教え方をしないでください。生徒の国語力に害をもたらします。 こういう教え方は国語教育でせっかく培った子供たちの感性を壊します。 理科教育、国語教育、それぞれにあった教育の仕方があります。 こういう基本的なことも知らない方に国語教育(読解)をされるのは困ります。 子供の中には先生がこういうことをおっしゃると、本当に「科学的事実でないことは書いてはいけないんだ」と思ってしまう子もいるんですよ。 リツイートされた方が「何の薬にもならない文章」と書いていらしたのもそういう理由だと思います。 やはり子供たちに文章の指導(読解力の指導)をなさるのであれば、ご自身がもう少し、書物をお読みになって、良い文章にたくさん触れてからの方がよいと思います。 私は一応、プロの編集者の方にも新井紀子氏の文章を読んでもらいました。 彼女の返事は「川合先生の指摘に全く同感です。 この方は数学者なのに、なんで、読解力の権威みたいになっているのでしょうか。こんな人に何か言わせる前にすることがあるでしょう」とおっしゃっていました。 文学的文章と科学的文章の指導の違いもわからない方に国語指導(読解)を受けるのでは子供たちがかわいそうです。 読解力の指導と称して、文学的文章にこのような突込みを入れるような文章を読まされるのでは子供たちの国語教育としてはマイナス面の方が大きいです。 間違った国語教育はおやめください。 ご自身がもう少し文章の素養を身に着けてから、国語教育のご指導をなさってください。 子供たちのためにその方がよいと思います。 国語教育の基本(文学的文章と科学的文章の指導の仕方が違うこと)を知らない新井紀子氏の間違った国語教育では子供たちは文学を味わう能力を失います。 「国語教育の勉強が足りない」という点で、教育者として無責任です。 経歴を拝見いたしましたが、国語教育に関しては全く学んでいらっしゃいません。
(私自身は英語教育の専門家であり、国語教育の専門家ではありませんが、子供たちが帰国子女で国語力に問題がありましたので、国語教育についてはかなりの時間を割いて学びながら16年間行ってまいりました。 接続詞の説明(こちらのブログ)から読書(こちらのブログ)まで行いました。 ブログには書いてありませんが、娘が高校3年生の夏休みには毎日娘の書いた日本語の文章を二人で見ながら直しました。 文法的な間違いを直し、読み手にとって理解しにくい部分を読みやすいように書き直しながら、文章の書き方を教えました。 最初はひどい文章でしたけれど、40日間毎日書いては直していきましたら、9月には文法的に正しく、相手に理解されやすい文章を書くすべをだいぶ身に着けました。 私は中学生のころ「翻訳家になりたい」という作文を書いたこともあるくらい一時期興味がありました。 ですから、日本語の文章表現を特に注意して学んできました。(私が「文章を書く」ということに興味を持ったのは、こちらのブログに出てくる国語の先生がしてくださった「赤い仔馬」の解説を聞いた時の驚きからかもしれません。 「さりげない描写でこんなことまで表せるんだ」という驚きが、自分もそういう文章を書いてみたい、と思わせ、書くことに興味を持って行ったのかもしれません。) 良い文章を自分の中に蓄積させることについては私は中学時代から「本の世界に逃避するな」と教師に注意されるくらいたくさんの本を読んで良い文章に触れてきました。 高校時代以降は、この先生の影響もあって、いろんな本を読みました。国語の先生方のような専門性の高いご指導は出来ませんが、少しは文章の指導についても学んでいます。それで、国語教育の専門家ではありませんが、私の知っている範囲の国語教育の知識に基づいて書かせていただきました。 そうせざるを得ないほど、新井紀子氏の文章を読んだとき、強烈な違和感を感じました。新井紀子氏の文章(特に前半)はほとんどナンセンスです。 とてもまともな文章とは思えません。 国語教育においてこういう文章はありえません。 稚拙でまるで、お笑い番組の掛け合いのようです。 文学的表現を科学的事実で批判するような文章は、読むだけで子供たちの国語力に良くない影響を与えます。(文学的文章を文学的文章として尊重する姿勢を育てることは大事な国語教育です そういうことが自然にわかるのが国語教育者の素養です。) そんなことも知らない人が国語教育をするということが、大変な衝撃でした。 新井紀子氏は国語教育についてきちんと学んでください。国語教育をする人間が国語教育を学んでおくのは当然のことです。 文学的文章を理科の事実であげつらう文章など読んでいるだけで不快です。(私はTOEFLと英検の対照表を見た時、「自分が生きているうちにこんなものを見るとは思わなかった」と思いましたけれど、今回は、自分が生きているうちに、国語教育で文学的文章を理科の事実であげつらう文章など読むとは思いませんでした。 これを「数学者・新井紀子先生が、教科ごと(理科)に読解力の付け方を教えます。」(前出「朝日小学生新聞」)などと書いてあると「もう、やめて下さい」という感じです。) 上に書いたプロの編集者の方が「新井紀子さんが国語教育を学んでいないのに堂々と読解力について語ってしまう度胸は無知と想像力の欠如からくるのではないでしょうか。」とおっしゃっていました。 国語教育と称して新井紀子氏は本気でこんなものを書いているのでしょうか。こんなもの、国語教育を冒とくするものです。 考えれば考えるほど怒りがこみあげてきて昨夜は眠れませんでした。