7月13日の続きです。
学校から帰って来た息子に「モモ」を渡しました。 またいやいや、部屋で、読書を始めました。ところが今回は、水を飲みにも、トイレにもでてきませんでした。 その日から、「モモ」を読んでいる間中、20分間は部屋から出てきませんでした。 あんなにじっと本を読んでいられなかった息子がどうしてしまったのかと思ったくらいでした。
最後の日、全部読み終わって部屋を出てきた息子は私に言いました。 それは、ちょっと前まで、私に無理やり部屋に押し込まれて、いやいや本を読んでいた息子の言葉とは思えませんでした。
「この本は、いい本だね。最後、カシオペイア(不思議な亀です。)の甲羅に“終わり”って出てきたとき、僕、涙が出そうだった。ママも、この本、読んで。」
それで、私も「モモ」を読んでみました。 効率一辺倒で生きる人間の人生がどんなものかよくわかりましたね。 その先に、豊かな人生が待っているような気がしますが、突っ走る間にさまざまなものを失っているのを教えてくれているようでした。
「モモ」を読んでから、毎日の読書のあとに、どんな内容だったか息子に聞くことはやめました。 もう、いやいやでなく本を読んでいるのがわかりましたから。
それから3ヶ月たって、学校で、学期末の個人面談がありました。担任の先生から、「最近国語の時間に、みんなで、図書室に行って、本を読むんですけど、本を読んでいるときの太郎くん、いい顔してるんですよ。」とお話がありました。 ようやく、本の楽しさを知ってくれたのだなあと思いました。
「よい本に出会う」と言うのは本当に幸運なことです。もし、あの時、「モモ」が、お父さんの机の上になかったら、私はその後もずっと、息子に強制的に本を読ませていたでしょう。 ただ、難しいのは、ある子にとってよい本が、違う子にはよい本だとは限らないことです。 「モモ」を読んでつまらなかったと言う子もいます。
あのあと、私も数冊、ミヒャエル・エンデの本を読んでみました。 「はてしない物語」の最後に、こんな言葉をエンデは古本屋の主人の言葉を借りて言わせています。 「絶対にファンタジエンに行けない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうに行ったきりになってしまう人間もいる。 それから、ファンタジエンに行って、またもどってくるものもいくらかいるんだな、君のようにね。 そして、そういう人たちが、両方の世界をすこやかにするんだ。」
この言葉は、その後もずっと、私の心の中に残りました。
子供が小さいときに、ファンタジーの世界にたくさん旅をさせてあげたいと思いました。 そうやって、夢見る力をいっぱいつけてあげたいと思いました。
その後、NHKの衛星放送で、映画「モモ」が放送されたことがありました。家には衛星放送は入っていなかったので、友達に頼んで、録画してもらおうか、と思ったのですが、やめました。
毎晩、お布団の中で、暗闇を見つめながら、手元の小さな明かりで私が読む本をじっと聞いていたあのときの子供たちの顔が浮かんできました。 自分で思い描いた「モモ」の世界をほかの人が作った映像で、固定してしまいたくないと思いました。
息子が中学生になったあとも、5年生まで娘にも読み聞かせを続けました。 冒険小説一辺倒だった息子の読み聞かせと違い、娘とはかわいいお話で、一緒に笑うこともありました。「おしゃべり犬のぼうけん」、「ようせいティキのおくりもの」、などが娘のお気に入りでした。
ある晩、娘の枕元で本を読んでいたら、娘が、「ママ、今のOOってどういう意味?」とわからない言葉を聞いてきました。けれども、私は早くその先が知りたかったので、「あなたは、少し黙ってなさい。」と言って、どんどん先を読んでしまったときがありました。 娘は呆れてましたけれど、わくわくするお話に、思わずお母さんも童心に返ってしまいました。
今回、読書のことを書き始めてから、お使いの帰りに図書館によって、「ケネス・バードの書いたおしゃべり犬のぼうけんという本はありますか?」とカウンターの係りの方にお聞きしたら、調べてくださって、「もう、その本はないですね。32年前に出版された本ですね。」といわれました。娘と読んだのは12年くらい前ですから、ずいぶん時間がたったのだなあと思いました。
子供たちはもう、覚えていないでしょうけれど、私にとっては、楽しい思い出となりました。 あの頃、息子は「僕はママに本を読んでもらうこの時間がとっても楽しみなんだ。」と言いながら、お布団にもぐりこんだ日もありました。 息子は、友だちと外で遊ぶのが大好きな子でしたから、「とっても楽しいこと」はいっぱいあったと思いますが、これから眠りにつく、真っ暗な夜に聞く冒険小説はそれとは違った楽しさがあったのでしょう。
このエッセイを書いたクラスの先生から、「ノリコ、私の娘は小学校の先生をしているの。 あなたのエッセイを読ませたいんだけど、コピーをとってもいいですか?」と聞かれました。 日本でも、アメリカでも、どこでも、何か人の役に立てるなら、それはとてもうれしいことでしたので、「どうぞ、コピーをとって読んでください。」とお返事しました。
明日から、夏休みの学校も多いと思います。 今年の夏休みは、読みきかせをしてみるのはどうでしょうか。 あるいは、お子さんと図書館に行って、読みたい本を一緒に探してあげるのはどうでしょうか? きっと、お子さんは喜ぶと思います。
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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。
高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)
高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。 しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています) これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。 学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。
これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)
皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。 (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。
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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。 日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)
高校英語教育を文部科学省の誤解に基づいた方針から守るため、以下のご案内を書かせていただきます。
現在文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革」の目玉として掲げているCAN-DO方式は、ヨーロッパの人々にはできますが、日本語を母国語とする人にはできない方式です。
文部科学省は「CAN-DO方式が日本人には不可能な方式である」と気づいておりません。 導入されれば教育現場は大変迷惑します。 中止する必要があります。 なぜCAN-DO方式が不可能なのかはこちらのブログをお読みください。
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何度もお願いをしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。
「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。 他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。
私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。
「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。 他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。 ベストセラーの著者という名声ですか。 それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。 この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか? もう英語教育とは関係ないことですか。 私は、とても困っています。
私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。 日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。 ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。 私の仕事の妨害をしないでください。
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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。