川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

英語の勉強をあきらめた日

子供を出産すると、信じられないくらい忙しい日々が始まります。最初は3時間おきに母乳を与えますから、睡眠時間も確保できません。特に最初の子は何もかも初めてのことばかりで、母親は自分の体力の限界をもはや超えるような状態で、出産直後の落ち込む精神状態の中、とにかく必死で、世話をします。

あれは、出産から半年位して、この生活全体を巻き込む非常事態のような毎日が少し、落ち着いてきたころでした。秋でしたが、春のようにぽかぽか温かい日でした。風もなく、いいお天気だったので、午後、息子を窓際に寝かし、部屋の窓を少し開けて外の空気を入れました。

ずっと、ずっと、我慢していたことを、今だったら少しはできると思って、私は読みたくて買ってあった本を何冊か食卓に持ってきて、夢中で、読み始めました。子供の世話に追われていたこの数ヶ月、我慢していた感情が一気に解き放たれたように私はあっという間に本の世界に没頭してしまいました。

ハッと気づいて顔を上げると、あたりは暗くなっていて、もう夕暮れでした。
あわてて、息子を寝かした部屋に飛んでいって、窓を閉めました。でも、もう夕方の冷たい風に当たってしまい、息子はカゼをひいてしまったようでした。

子供は具合が悪いと、ぐずります。その日から一週間くらい、子供も大変でしたが、世話をする私も、夜も眠れず、大変でした。そのとき、「自分のしたいことはあきらめよう。」と思いました。こんな大変な思いをするのなら、もう、自分のしたいことはするのはやめようと思いました。読書も英語の勉強も全部、あきらめました。

今、思うと、一回失敗したくらいで、自分のしたいことをあきらめるなど、決してよい決断ではなかったと思います。したいことなら、何とか工夫して、続けられる努力をするべきだったと思います。でも、そのときははじめての子供で、不安で、また、結婚して知らない土地に来て、友達もいませんでしたし、毎日一人で、不安を抱えながら過ごしていましたので、こういう決心をしてしまったのだと思います。

翌年、シカゴに赴任しました。アメリカに来たのに、私は子育てに徹しました。
しかも、息子はシカゴに来てから、1年間は毎月39度の熱を出し、数日は看病でほとんど夜も寝られませんでした。 何日も看病が続くと、もう夜中は起きていられなくて、息子に体温計を当てるのも眠くてできないので、半分眠ったような状態で、明け方、息子の足に触って、「ああ、もう熱くない。 これなら大丈夫。」と思って、そのまま寝てしまったこともありました。

ちょうどそのころ、ベビーシッターに虐待された子供のことがニュースで取り上げられたこともあって、夫も心配していたので、ベビーシッターに預けることもしませんでした。

ですから、もうそろそろ赴任も終わりだな、と感じたころ、これで日本に帰るのは、英語を勉強してきた自分にはあまりにもだなあ、、、、、と思ったので、3日間の通訳の講座のお知らせを見たとき、最後にこれだけ参加させてもらいたいと思って、夫に子供を見てもらって、参加しました。

シカゴにいた間は夫が毎晩、ニュースや討論会をテレビで見ていましたので、英語の勉強といえば、その横を通ったときにちょっと、聞くことと、昼間少しテレビを見ることぐらいでした。

でも、美しい英語の音への憧れはずっと、持っていたようで、そういう英語を話す人にあうと、声や顔をよく観察していたのだと思います。だから病院の受付で、自分の発音が突然変わるようなことを経験したのだと思います。(このあたりのことは本の中に詳しく書きました。)

娘が3歳になって幼稚園に行き始めたころ、少しずつ英語の勉強を始めました。本格的に勉強を再開したのは2001年でした。(それから今日まで、11年間、音読の練習は続いています。)けれどもまだ、「家庭の仕事の合間に勉強をする」に徹していました。

ニュージャージーに赴任して、半年後、眼科に定期検査に行き、「来年は老眼鏡を作りましょうね。」と先生から言われたとき、私は、いつ人生が終わってもおかしくない年齢に自分がなったことに気がつきました。

息子にカゼをひかせてしまったあの秋の日から、16年たっていました。「ここでまた、我慢したら、私はお墓の中まで、やりたいことを我慢することになる。」と思いました。

自分のしたかったこと、思い切り本を読むこと、英語の勉強をすること。今やらなかったら、死ぬまで、できないかもしれないと思いました。せっかく今はアメリカにいるのだから、英語の本を読むことを生活の一番大事なこととして位置づけることにしました。行動様式を今日から変える、と決心しました。

その日から、猛烈な英語の読書が始まりました。300ページの本を2日で読めるようになりたいと思いました。夏期講習をとっていた息子の送り迎え、スーパーの買い物、ご飯を作ること、は省略できませんので、後のことは最低限にして、とにかく読めるだけ読もうと思いました。

最初のうちはどんなに頑張ってもそんなにページ数は読めませんでした。 一日に読めるページ数を増やそうと必死で読みましたが、なかなかページ数は増えませんでした。 でもこれ以上読書の時間は増やせないので、単位時間当たりに読む速さを上げなければなりません。 それで横にタイマーを置いて、一時間後よりは2時間後、2時間後よりは3時間後、一分間に読める語数を上げようと必死でした。(このとき、自分の頭の中で、どんな変化がおきたかについては本の方に詳しく書きました。)

でも、私は、あまり、本を飛ばして読むのが好きではなかったので、(小説などは、細部の小さな言葉が、主人公や作家の本当の姿を垣間見せてくれるように感じることがあるので、全部、字を追って読みました。)一分間に200語が最高でした。

3時ごろ息子が「お母さん、焼き豚いっぱい入れてラーメン作って。おなかすいちゃったよ。」と言ってきても、「お母さんは今忙しいの。冷蔵庫の中にあるものを食べてちょうだい。」と返事をすると息子は驚いていましたね。子供が食べたいというものを作るのをイヤだといったのはその時が初めてでした。 息子は、そんな私の変化に「最近、お母さん、冷たいね。」と言いました。

夕食が終わると、「みんなは自分の部屋に行って頂戴。お母さんは本を読むから。」と食卓から、追い出しました。(時には、すぐに、自分の部屋へ本を持っていってしまいました。)新聞とお茶を持って、階段を上がりながら、夫が「まるで、家庭内別居のようだねえ。」と苦笑していました。(苦笑しながらも、協力してくれているのはありがたいことでした。)

そうやって夏休みの期間中がんばっても一日140ページがやっとでした。150ページの目標は達成できませんでしたが、言いたいことが英語と日本語で同時に頭に流れるような経験をしたことは、とてもうれしく、驚きでした。けれども、ある日、車がつかえなくて、歩いていつものスーパーに買い物に行ったら、(車で5分くらいのところですが、)毎日座って本ばかり読んでいたので、足がよろよろして、うまく歩けませんでした。

9月になると、子供たちの宿題を見るのに、忙しくなったので、私は、また細々としか読書ができなくなりました。

娘が学校に提出した、「私のお父さん、お母さん」というプロジェクトが返却されてきました。エプロン姿のままキッチンの小さなテーブルで本を読む私の写真が貼ってありました。私はいつ娘に写真を取られたのかも知りませんでした。
私が、速く読むことに必死だったときに撮ったのでしょう。

16年自分の中にしまいこんだ思いが、一気にこのとき爆発したようでした。「やりたいことをやらずに終わるのはいやだ。」という想いがこれほど、つよく自分の中にあったとは思いませんでした。

結婚した女性は結婚した男性に比べると生活の変化が大きいです。名前が変わりますし、どちらかというと、周りに合わせていかなければならない傾向にあります。けれども、やはり、したいことというのは心の奥底にしまってもずっと忘れずに存在し続けるものなのですね。

私はニュージャージーにいた頃も毎日音読をしていましたが、最初のころは子供から「僕たちは外で、いやというほど英語を聞いて来るんだ。家で、英語のテレビを見るのはやめてくれ。」といわれましたので、家族が家にいる日曜日は音読の練習はガレージに行って、車の中で、ウオークマンを聞きながら行いました。禁止されたら、隠れてでもやりたいのが、じぶんの好きなことなんですね。 家族旅行の時は、夫がお風呂に入っている間に音読練習をしました。 家族旅行の間も奥さんが「英語学習」では、夫の楽しさも半減してしまうでしょうから。

そしてとうとう、今はそれが仕事になりました。中学生のころ、姉とおやつを食べながら聞いていた「パフ」や、「悲しき天使」。勉強やお手伝いの合間の楽しみに歌った英語の歌が今は自分の仕事になるなんて、とても不思議な気がします。

私はあれから40年たった今も、同じことをしている。英語の発音を聞き、それと同じに自分も言ってみる、そして、録音して、自分で、モデルと比べてチェックする。同じにいえると、すごくうれしくて、何時間でも、しゃべったり、歌ったりする。使う教材の英語はナチュラルスピードの難しいものに変わりましたが、やっていることは13歳のときとまったく同じです。

英語は何年ブランクがあっても、昔と同じ姿で、私のところに戻ってくる。子供たちが小さい頃よく見ていたアニメ風に言えば、私にとっては、まるで時空を超えてそこにいる友達のようです。




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)






高校英語教育を文部科学省の誤解に基づいた方針から守るため、以下のご案内を書かせていただきます。

現在文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革」の目玉として掲げているCAN-DO方式は、ヨーロッパの人々にはできますが、日本語を母国語とする人にはできない方式です。

文部科学省は「CAN-DO方式が日本人には不可能な方式である」と気づいておりません。  導入されれば教育現場は大変迷惑します。  中止する必要があります。  なぜCAN-DO方式が不可能なのかはこちらのブログをお読みください。

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何度もお願いをしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。

「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。  他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。

私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。 

「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。  他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。  ベストセラーの著者という名声ですか。  それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。  この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか?  もう英語教育とは関係ないことですか。 私は、とても困っています。  

私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。  日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。  ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。  私の仕事の妨害をしないでください。 

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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。