川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

OL時代

(2025年4月11日 ファイルキャビネットを整理していたら、古い手紙が出てきました。 その中に、私が初めてアメリカに夫の赴任で渡った年にこちらのブログに書いた歴史の先生にお送りした手紙のお返事が入っていました。 先生が書いてくださったお返事は和紙の便せんに、細字の毛筆で書いてありました。

懐かしき便りを嬉しく拝読しました。 (という文で始まって、中ほどで、)
学生時代は硝子のように繊細な神経の持ち主であった君も、妻となり母となり、海外での新しい経験を積むことで、逞しくなったようですね。

と書いてありました。私は何を書いたのか思い出せないのですけれど、「ガラスのように繊細な神経の持ち主だった」と先生がおっしゃった私が(中学時代は本当に心身共に弱くてどうしようもない子でした)、今、こんな風に強くなったのは、「妻となり母となり、海外での新しい経験を積んだ」からではなく、たぶんこのブログに書いてあることをこの会社で経験したからだろうと思っています。 本当にこの時の自分の変化を思うと、それまでの私とは全く別人になってしまったような衝撃がありました。 まるで、小さな女の子だった私が、大きな大人に手を引かれて海辺まで来て、水平線を見ながら自分の立っている地面はどこまでも平らな地面だと思っていたのに、その大きな大人が、「海の向こうを見てごらん」と言って、私を肩車にのせてくれたら、海の向こうに高いビルが立ち並ぶ都市が見えて、小さな女の子は、初めて「地球は丸いのだ」と知ったような衝撃がありました。 それまで知らなかった世界をその時、見たような気がしました。 「これが仕事をするっていう事なの?」 まるで「仕事」は「生き物」のようでした。 こちらのやり方次第で、どのようにも成長する生き物のようでした。

でも、もしかしたら、ガラス細工のように弱虫だった私にはそういう風に「変身する素質??」が十分あったのかもしれません。  2002年にニュージャージーに夫が赴任した時、住むことに決まった家に入った週、前月の水道料金の請求書が来たので、家を斡旋してくれた不動産屋さんに相談したら、市の水道の担当者に電話をしてくれて、そこで私も交えて3者通話をしました。私は、来たばかりですから聞いているだけでしたけれど。 市の担当者は、「その家の請求書だから今住んでいる人が払うように」の一点張りでした。 不動産屋さんはオーナー宛に請求書を発行してくださいと頼んだのかどうかは覚えていません。でもとにかく市の担当者は不動産屋さんのいう事は何も聞いてくれませんでした。そうしたら、不動産屋さんは最後に激しい口調で、「You are very very bureaucratic(官僚的な) and make everybody miserable.」と言いました。 すると市の職員は怒って「フン!」と言って電話を切りました。 結局、家主さんが払ってくれましたので、それで問題はなかったのですけど、アメリカに来てまだ2,3日の私は激しいやり取りに驚いてしまいました。 夜、職場から帰ってきた夫にそのことを話して「こんなに自己主張が激しいところで、とても生活していけない」と私が言うと、夫はニッと笑って、「大丈夫、うちのママ、素質十分だから」って言いました。 やっぱり素質は十分だったのかもしれませんね。 


 

外資系の会社の小さな日本支社で見習いをしていたころ、この会社が新しい製品を日本で売ることになりました。それまでは主にイギリスで生産された製品を売っていたのですが、今回はアメリカで生産された製品を日本でも売ることになりました。

その仕事をするマネージャーが一人、採用されました。彼の最初の仕事は自分の秘書を採用することでした。新聞にバイリンガルクレタリーの募集広告が出され、アプリカントが何人か面接に来ました。

それから、数日して、お昼休みから戻ってくると、そのマネージャーが「川合さん、僕の秘書として仕事をする気がありますか?」と聞きました。もう、一年近く見習いをしてきましたので、できそうな気がしたので、「はい。」と答えました。

私の上司とそのマネージャーの話し合いがあって私は、その人の秘書として働くことになりました。

当時は、1980年代に入ったばかりのころでした。男女雇用機会均等法も制定されていない時代でした。女性は、補助的な仕事しか与えられない時代で、自分の名前で対外的なレターさえ書くことはできない時代でした。

ところが、秘書になったとき、最初にこのマネージャーから次のように言われました。「僕は、これから、新しい製品を日本のマーケットで売るために、ディーラーを決め、大学の先生や、企業にプロモーションに行くことになる。僕はオフィスにはいられない。僕がいなくても仕事がきちんと回るようにしなければならない。それを君にやってもらいたい。」

あのころ秘書といえば、マネージャーの書いた英文のレターを仕上げ、スケジュール管理をし、書類を整理し、とにかくいわれたことだけやっていればいいのが、仕事でした。それが、なんだかぜんぜん違うことになってきました。

仕事では、誰がキーパースンかと言うことがとても大事です。それを決められる権限を持っている人に話を持っていかないと、その案は採用されないからです。ですから、仕事の応対にアシスタントの女性が出ることはありませんでした。先方も彼女に話しても何も決められないということがわかっていますので、マネージャーと話すわけです。

ところが、この方は、関係のある広告代理店や業者のすべての担当者のところへ行って、「自分がいないときは川合という女性が、代わりに対応いたします。彼女の言ったことはマネージャーである私の言ったことだと思っていただいて結構です。私は、彼女の言ったことに対して、全責任を負います。ですから、私の出張中に何かを決めなければならないときは彼女と話してください。」と
言ってくださったのでした。

ですから、普通は、20代の女性など、誰もまともに相手にしてくれない時代、私は、広告のことや日々起こるいろいろな問題に関して、私ひとりで、決めて、対処していくことになりました。(もちろん、マネージャーが出張から戻ったときにすべて報告します。)日本国内だけでなくときには、シンガポールウエアハウスから出てはいけない品物が出荷されてしまったり、いろいろなことが起こりましたので、そういうことに対しても一人で、対応していきました。

最初は何も知りませんでしたから、元いたセクションにあったその製品関係の書類を、読み漁りました。イギリスとアメリカとシンガポールのそれぞれの担当者もよくわからないので、オーガニゼーションについても、調べました。

マネージャーが出張から帰ってくると、いつもビジネスランチのように、昼食をとりながら、今回の出張で会ったディーラーの様子、マネージャーはどのようにこの業者と仕事を展開していきたいと思っているのか、今、気をつけていなければならないことは何かなど、説明してくれることは一心に聞き、記憶するよう努めました。

何か起こったとき、どう対処するかはマネージャーがそれについてどう考えているかを知っていなければできません。今後も大事にしたい業者なのか、それとも、思っていたより、専門性にかける業者だったので、これ以上の関係は、期待していないのか。

そういうことを知っているといないでは、日常何かあったときの対応も異なるので、私は特に注意して聞きました。

その製品の日本での販売が進められるにしたがって、私は、今までとは違う「仕事」を見るような気がました。言われたことをするのが今までの仕事でした。でも、そのマネージャーのしている仕事はそれとはまったく違いました。

自分の中に、ある構想を持ってそれを現実の日本のマーケットに作り上げる。誰をそれぞれのポジションに置くかは自分が実際に会って決めていく。社外の協力者を徐々に増やし、そういう人からの情報を元にさらに、ネットワークを広げていく。何もないところに、自分が思い描いたイメージどおりの販売網を実際に作っていく。それにかかわる人間は自分の目で確かめて選定して行く。見ていると、それは、とてもエキサイティングな仕事でした。

マネージャーをはじめ仕事でお会いする40代、50代の方々の仕事の仕方を間近で見るうちに、私は、仕事で重要なことをたくさん学びました。特に、何かを決めるとき、何を一番大事なこととして考えるかという基準をこのとき、学びました。 あの頃お会いした40代、50代の方々の仕事を見ていると、時に、感動的でさえありました。一見不可能に見えることでも、それが自分の仕事なら、覚悟を決めて取り組んでいく姿勢は、20代の私には、すごいことに見えました。(2000年からNHKで放送されたプロジェクトXという番組を見た時、私はとても「懐かしい」と思いました。そこに出てくる人々の仕事に向かう姿勢が、私がこのころお会いしたビジネスマンの方々とよく似ていました。 今でもこの曲を聞くと、あの頃が蘇ってきてとても懐かしい思いがします。)  

当時の私は、予想だにしないことが毎日起こってそれを自分一人で、解決していくわけですから、日々、新しいことに挑戦しているようなものでした。 そういう時、そういう人たちから学んだことはとても役に立ちましたけれども、やはり、まだ20代でしたから、自分ひとりで、問題を解決するのはとても勇気のいることでした。 毎日、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでした。

そういう仕事に挑戦するときは、私はいつも円錐形(cone)をイメージするようにしていました。円錐形というのはアイスクリームコーンの形です。道路工事のときにおいてある、赤い先のとがった、まあるい置物です。

自分には経験も知識もありません。あるのは気力、体力、少しの知識、そして、若さ(物を知らないという“馬鹿さ”でもありますが)。それを円錐形の中に全部積み込む。今起こっていることは私の前に立ちはだかる山のような岩。

でも山のような岩にも、どこか弱いスポットがあるはず。私はそのスポットに円錐形の先端のとがった部分を当てる。そして、自分の持っているすべての力を先端の一点に集中させて爆発させる。岩の弱い部分は壊れて私は岩の向こう側に出る。 私はいつもこのイメージをもって仕事に当たりました。「自分のすべての力を一点に集中させて爆発させたとき、越えられないものはない」そう思うことにしました。 そうでもしなければ、とても仕事なんかできなかった。 私に与えられる仕事は当時の私にとっては、大きすぎました。

新しい製品の販売促進のためにイギリスからドクターが来て、日本のある研究所で、分析のデモンストレーションが行われたことがありました。マネージャーから「前回のセミナーでは通訳を頼んだけれど、わが社の製品のよいところが十分伝わらなかった。今回は川合さん、君に通訳をやってもらいたい。」といわれました。

そのときは通訳をやっている友人に電話して、勉強の仕方を教わりました。「その分析実験に関連する英文の資料をすべてネイティブに読んでもらい、それを録音して毎日聞きなさい。」といわれたので、一ヶ月、そのとおりにしました。
でもこのときは、マネージャーから、こんな指示をもらいました。

「川合さん、彼らはバイオテクノロジーの最先端の研究をしている研究者だ。ジョン(イギリスから来るドクターの名前。)のデモンストレーションなど見ればわかる。でも、彼らには新しい製品を作るため、必死で解決したいと思っている問題があるはずだ。それが何かは企業秘密だから言わない。でも、それに関連する質問が必ず、ジョンにされる。そのときは、正確に訳してもらいたい。うまい日本語にすることは考えなくていい。ただ、事実関係を正確に訳してもらいたい。」といわれました。

言われたとおり、やりました。

翻訳もやりました。
総合カタログの翻訳をその道では有名な、ある先生にお願いしたら、出来上がった文章が、カタログとしてはとても使えない日本語でした。70ページくらいの英文でしたが、全部訳しなおしました。(ただ、カタログですから、中には、写真や、グラフやデータなども掲載されていますから、全部文字がびっしり並んでいるわけではありません。)時間的にも10日くらいしかなく、私はケミストではありませんので、3日間、大学の研究室に行かせてもらって、化学の基礎的な実験と知識を学び、わからないところは、アメリカから、機械の現物の一部を送ってもらって訳しました。

文法的にはどこも間違ってはいないという自信はありましたが私はケミストではありませんので内容的にはどうかはわかりませんでした。それで、この業界で、長くその仕事をしてきた人に最終チェックをお願いしました。本来ならそういうことは頼めない関係の会社の方でしたが、マネージャーとの個人的な信頼関係があったので、やってくださいました。

週末にその人のところに私の訳した原稿を送り、翌週月曜日私は、出張に向かうマネージャーに渡す書類を持って、羽田に行きました。ロビーで、マネージャーから「原稿は2箇所説明が付け加えられたが、前回の翻訳とは違うすばらしい内容だといわれた。すぐに印刷にかかってもらいたい。」といわれました。

私は20代で、まだまだ子供でしたから、ビジネススーツを着て、ヒールのある靴を履いていたのに、それを聞くと、「ワーイ!やったー。」といって、ロビーで飛び上がって喜んでしまいました。本当にまだまだ子供でした。

失敗したこともありました。出張から戻ったマネージャーが電話で、頭を下げながら「申し訳ございません。」と相手の方に謝っているのを見ながら、「私のミスでこういうことになってしまった。。。。。。」と悔やみました。マネージャーは、一言も私を怒りませんでしたが、だから余計に、「もう失敗はできない。」と思いました。  ただ、落ち込んでいると仕事の能率がとても落ちます。 それでなくても仕事はたくさんあるのですから、早く元気にならなければなりません。  そういう時は屁理屈でも、こじつけでもなんでもいいですから、自分を納得させていい気分に戻るようにしていました。  例えば、こんな感じです。「失敗するということは新しいことに挑戦している、ということ。自分の能力を広げているということ。やり慣れた仕事だけなら、失敗なんかしない。私は新しいことに挑戦しているんだ。  来年の今頃は、こんなことで失敗はしていないはず。 来年の今頃はもっともっといろいろなことが出来るようになっているはず」こんな具合に納得させて、元気に仕事が出来るようにしていました。自分が納得できて元気になる理屈なら何でもいいと思います。 人に迷惑がかかるわけではありませんから。

私は、一応秘書として雇われたので、英文レターの作成やファイリング、スケジュール管理はやりました。見習いのときに先輩の仕事を見てはいましたが、バイリンガルクレタリーとしての仕事は全部独学で学びました。学校に行こうと思っても残業で時間的に学校へはいけませんでした。

それで、バイリンガルクレタリーのコースがあるいくつかの学校のパンフレットを取り寄せて、カリキュラムを見ながら何を学ばなければならないかを調べました。そして、それらの学校でテキストとして使用する本が2冊、書いてあったので、洋書も売っている大きな書店に行って同じ物を購入しました。当時のことですから、英文の本のほうは、入手するまでにかなり時間がかかりました。それを会社の行き帰りに読んで勉強しました。

アメリカの本は、秘書の使う文房具の解説が豊富で面白かったです。たとえばティクラ―カードとか、当時は珍しくて、銀座の伊東屋に行って買ってきたりしました。

とにかく、がむしゃらに働き、がむしゃらに勉強しました。生活全体、頭の中全体が、仕事のことでいつもいっぱいでした。あるときなど、ビジネスの世界で、何か新しいことが注目されたことがあり、私もそれを少し知っておかなければなりませんでした。なんだったか、今は思い出せませんが、それについて、本を買って、一生懸命読んでいました。

通勤途中の地下鉄で、座れたので、その本を読んでいて、ふっと目をやったら、隣のビジネスマンも私と同じことについての本を読んでいました。ちょっと、お行儀が悪いですが、チラッとその本の内容を見たら、私の読んでいた本より、その人の読んでいた本のほうが、図や表が多くてわかりやすそうでした。

「あの本のほうが、わかりやすい。」と私は思ったのですが、書店のカバーがかかっていて、どういう題名の本なのかわかりませんでした。だんだん私の降りる駅が近くなってきて、もうしょうがないので、失礼だとは十分承知していましたが、隣の方に「すみませんが、今、読んでいらっしゃる本の題名を教えていただけませんでしょうか?」とお願いしました。

40代くらいのビジネスマンの方は、一瞬大変びっくりしていましたが、にっこり笑って、わざわざ書店のカバーをはずして、本の表紙も後ろも見せてくださいました。

私は手帳に著者と題名と出版社名を書き取って、丁寧にお礼を言って、次の駅で降りました。とにかくなりふりかまわず、働いて、勉強しました。頭の中はいつも仕事のことでいっぱいでした。

何の経験もないので、仕事のクオリティはなかなか追いつきませんから、仕事の量でカバーしなければならないと思っていました。
大学の研究室に行かせてもらったときも会社に戻ってから、一日の業務を片付けて、かえりましたし、翻訳をしたときも全部家で訳しました。帰宅するのは毎日、12時ごろだったので、母が、お向かいの奥さんから、「お宅のお嬢さん、お帰りが、すごく遅いんですね。」といわれたといっていました。
夜中の12時頃に帰宅して3時まで仕事をして2時間寝て、みんなが出社してくる前に仕上げなければならないレターがあったので5時に起きて始発で出勤したこともありました。(こういう事は体を壊すのでやってはいけないですね。私もこの時は「もう限界だな」と思いました) 英語の勉強は家でしている暇はなかったので、通勤時間にやりました。 冬は寒いから、田舎の駅で夜30分位電車を待つときはレッグウォーマーやマフラーをして駅のベンチで音読練習しました。 田舎の駅の夜11時過ぎなんて人はあまりいませんでしたから。 こちらのブログにも書きましたけれど、通勤時間しか英語を勉強する時間がなかったので、具合があまりよくなくても無理して英語を聞いたりしていたので、3回ほど地下鉄の中で気を失いました。昔の地下鉄は、駅には冷房が入っていましたが、電車の中には冷房がありませんでした。 だから夏はとても暑く、空気が悪かったので「酸素ボンベをしょって通勤しようかな?」と思うほどでした。 姉に言ったら「ほかの乗客の人達がびっくりするからやめなさい」と言われたのでしませんでしたけど。。。。「なんだか気分が悪いな」と思っていたら、そこで気を失ったらしく、気が付いたら駅員さんがいる事務室のソファーに寝かされていました。 あの朝の地下鉄のものすごいラッシュ時にほかの乗客の方が倒れた私を運び出して駅員さんに渡して下さったのだと思うと、本当に申し訳ないと思いました。気が付いたときにはお礼も言えませんでした。 駅員さんにも迷惑をかけてしまって、反省しています。 電車内で倒れてほかの乗客の方に運び出してもらい、そのあと駅員さんのいる事務室まで運んでもらい、朝の忙しい地下鉄でこれほど迷惑な乗客はいなかったでしょうに、駅員さんはとても親切でした。「会社に電話しておいてあげましょう」と言って、私の会社に電話をしてくださいました。 その後はできるだけ、倒れないように気を付けていたのですが、英語ができないと仕事ができないので、やめるわけにもいかず、3回ほど英語を聞きながら気を失いました。 今でも、自分では打った覚えのない頭や顔の部分(例えば右の眼の上の骨のところとか)に打撲の跡のように押すと痛いところがあるので、たぶん気を失ったときに打ったのだろう、と思っています。

若かったので、何も大変だとは思いませんでしたが、残業して夢中で働いていると夕食をとるのを忘れてしまうことが、たびたびありました。それがあまり、健康にはよくなかったようで、体重が40キロをきってしまいました。そのときはマネージャーから残業を禁止されてしまいました。

自分の体に無理をさせたら、一日の終わりには「ありがとう。」ぐらいの気持ちを持っていたわってあげなければいけなかったのに、食事を忘れるなどというのはずいぶん体に対してひどいことをしたのだと思いました。私は5時に会社を出て、医者に寄って、家に帰る生活をそれからしばらくしました。どんなに若くても体力には限界があります。だから、労働時間も根拠があって、決まっているわけですね。  それを守るのは、重要なことだと思います。  それ以来、健康を維持する努力も大事な「仕事」だと思うようになりました。 

その後、私はある多国籍企業の日本法人でアメリカ人の中で働くことになりましたので、この職場から離れましたが、ここで体験したことはその後の人生で、とても役に立ちました。(それに、毎日「清水の舞台から飛び降りている」うちに「清水の舞台の高さ」も快感になってきました。  最後は、そのくらいの覚悟でする仕事でないと、仕事をしている、という気にならなくなりました)


あのコーンのイメージを持って、毎日、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、仕事に挑戦していたことによって、私はそれまでの私とはすっかり違う人間になってしまったような気がしました。

それまでは、問題を抱えるとどうしたらいいかわからなくて、ただ落ち込んだり、問題が重大なときは、泣いてばかりいたようなこともありましたが、この仕事をしてからは、どこから手をつけてよいかわからないような状況でも、必ず、どこかに自分が突破できるスポット(自分の前に立ちはだかる大きな岩の弱い部分)があるはずだ、と考えて、進んでいけるようになりました。

もし、本当にどうしたらよいかわからなくても、自分がこうしたらいいのではないかと思うことをまず、やってみる。そうすると、以前には見えなかったことが見えてきて、また違う有効な手段を講じることができる、ということもわかってきました。

これは、発音学習にも言えることです。「自分の発音とモデルの発音を比べて直してください」というと、みんな最初は「そんなことは自分にはできない。」というのです。でも、まずやってみる。そうすると、どんな小さなことでもひとつは見つかるのです。「声が大きい。」とか「滑らかだ。」とかそんな違いでいいのです。

それを言葉に出して、「声の大きさが違う。」と言ったときから、以前の聞く力とはもう違うのです。自分が、それを「違い」として認識したからです。漠然と「どっか違う。」と言っていたときとは違うのです。「違いとして、認識する」訓練がなされたからです。その後はすべて、「違いとして認識する。」訓練の延長線上の活動になるわけです。だから、「違いを認識する能力」が鍛えられていくのです。



ずいぶん長く自分が若かったころのことを書きましたが、ここまで、読んでくださって、ありがとうございます。

アメリカにいたとき、友人(イギリス人ですが、仕事でアメリカに来ていました。)に、この円錐形の話をしたことがありました。そうしたら、「娘にあなたのコーンの話をしたら、とてもよい刺激になったようだった。」といわれました。

彼女の娘さんは、水泳のジュニアの大会ではとても注目されている選手だったようですが、学業との両立で悩んでいたようでした。自分の若いころの経験が誰かの役に立つなら、こんなにうれしいことはないと思いました。

仕事にしろ、英語にしろ、声楽にしろ、自分の体で、本当にやってきたことというのはみんなじぶんの力になるんだなあとこの年になって思います。ですから、自分がやろうと決めたことは一生懸命やってみるといいと思います。(ただし、自分の健康も気遣ってくださいね。)そういう体験は必ず、自分を育ててくれます。そして、もしかしたら人生観が変わるようなエキサイティングな出来事に出会うことになるかもしれません。




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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)





高校英語教育を文部科学省の誤解に基づいた方針から守るため、以下のご案内を書かせていただきます。

現在文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革」の目玉として掲げているCAN-DO方式は、ヨーロッパの人々にはできますが、日本語を母国語とする人にはできない方式です。

文部科学省は「CAN-DO方式が日本人には不可能な方式である」と気づいておりません。  導入されれば教育現場は大変迷惑します。  中止する必要があります。  なぜCAN-DO方式が不可能なのかはこちらのブログをお読みください。

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何度もお願いをしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。

「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。  他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。

私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。 

「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。  他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。  ベストセラーの著者という名声ですか。  それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。  この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか?  もう英語教育とは関係ないことですか。 私は、とても困っています。  

私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。  日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。  ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。  私の仕事の妨害をしないでください。 

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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。