私が「英語で授業」に命がけで反対してきたことは、このブログの青字の部分に書いてあります。(ブログ全体の中で3つのパートが青字で書いてあります。)
要点だけ抜粋しておきます。
(「英語で授業」の方針は)私のような一母親でさえ、「このまま死ねない」と思うほど、危うい方針なのです。 長期にわたって子供たちの思考力と学力(英語力)を国民が気付かぬ間に低下させる危うい方針なのです。 一見、国民には子供達が英語をしゃべっているように見せてはいるものの、実はその発音は通じないカタカナ発音で、国民が知らないうちに、何年もたって気づいた時には、子供たちの思考力や学力(英語力)の低下は容易に回復できないほど深刻になっている、そういう危うい方針なのです。 以上が抜粋です。
欧米コンプレックス(欧米の英語教育は絶対正しい、日本人英語教師のいう事は間違っているという思い込み)で「英語で授業」を提唱する、アメリカやイギリスに留学した大学教授や帰国子女の大学教授とは、それに反対する私の根拠は全く違います。 発音習得をはじめ、すべて自分の体でやってきて日本で英語を勉強する生徒たちには「英語で授業」は全く効果がないと主張しているものです。また、自分の子供たちが小学校、中学校、高校の各段階でゼロからバイリンガルになる過程をすべて観察した結果から、このように主張しています。 ①日本語はインドヨーロッパ語族の仲間ではないこと、つまり語順にも発音にも何ら共通点がないこと。 ②日本ではアメリカやイギリスのように一日中英語漬けになることができない。 などがその理由です。
大学教授も①②は知っているはずですが、生徒が「英語習得過程で何が一番難しいと感じているのか」それを自分の目で見ようとしないからわからないのです。自分の目で現実を見ないで自分がアメリカやイギリスで学んだ英語教育方法だけが絶対正しいと信じ込んでいる。それ以外のものは見る必要はないと勝手に思い込んでいる。だから「日本人だけが第二言語習得のメカニズムが違うはずない」などと平気で言うのです。(でも「母国語と似ているか」、「まったく共通点がないか」で外国語習得の困難さが違うのは当たり前でしょう) 自分はアメリカやイギリスに行って、本場の英語教育を学んできたのだから、アメリカやイギリスに行っていない日本の英語教師のいうことなんか、はなっから聞く気はない。日本の英語教師が「英語で授業はできない」と言うのは、彼らがアメリカやイギリスの本場の英語教育を知らないからだ。そう思っている。 欧米コンプレックスの大学教授は、「英語習得で苦労している日本の子供たちの負担を少しでも軽減したい」と思って自分の指導法を提唱しているわけではない。 「自分はアメリカ(あるいはイギリス)で英語教育を学んだのだ。自分は日本の英語教師とは違うのだ」と誇示したいだけです。 自分の目で子供達の苦労を見もしない。外国で学んだのがそんなに偉いの? アメリカやイギリスの受け売りを、何にも考えないで提唱するのがそんなに偉いの? もっと自分の目で日本の子供たちの英語習得の困難さをよく見てください。 子供たちは何が一番難しいと感じているのかよく見てください。 大学教授の自己顕示欲が動機では日本の英語教育はよくなりませんよ。 それどころか、「自分が言ったとおりに「英語で授業をしない」と先生方を非難する。 松本茂東京国際大学教授や吉田研作上智大学名誉教授は、間違った「英語で授業」の方針を有識者会議の委員として提示し、その通りやらないと新聞紙上で現場の先生方を非難する。でも間違っているのは自分の方だとわかっても、いまだに先生方に謝罪もしない。 自分の間違った方針のせいで、日本中の高校生、先生方、(学校教育の費用は税金ですから)国民に、10年以上莫大な時間とお金の損失を与えて、謝罪もしない。責任も取らない。 もしこれが民間のプロジェクトだったら、とっくに会社は倒産しています。現場の意見を聞かないプロジェクトリーダーでは、プロジェクトは失敗するに決まっています。 彼らは10年間も間違ったことを日本中の高校生にやらせてきたんですよ。 自分が間違っていたのに、先生方を非難して、謝罪もしない松本茂東京国際大学教授や吉田研作上智大学名誉教授に教育者を名乗る資格はありません。生徒の英語力向上を望むなら、なぜ先生方と協力してプロジェクトを成功させようと努力しないの? なぜ最初から先生方を馬鹿にして話さえ聞こうとしないの? そうやって正しい英語教育を受けられずに高校を卒業していった生徒たちにその3年間をどうやって償うんですか。 謝罪も、償いも終わっていないのに。。。。。。謹慎もしないの。 私は松本茂氏、吉田研作氏、お二人の「英語で授業」の方針に、頭を打っても、命がけで反対してきました。 私には「大学教授」のような肩書はありません。 でも英語教育については、よく知っています。 中学一年生から、学校の勉強の一環として、自分で英語発音を習得し、スピーキングスキル(正しい発音で文をしゃべる)を身に着けた、日本で唯一人の英語教育の専門家ですから。松本茂教授も吉田研作教授も間違いを認めず逃げ切りたいのでしょうけれど、少しは子供たちに対する責任を感じてください。私は高校時代に学ぶことをこちらのホームぺージに書いていますけれど、これは、英語で授業をやっていたら生徒は習得できないことです。 正しい英語教育をしていたら身に着けられるはずだったことを身に着けられず卒業していった生徒は全国にたくさんいたと思います。 松本茂氏、吉田研作氏が不勉強だったために、不利益を被った生徒はたくさんいたのです。 私が特に疑問を持つのは、松本茂氏がこちらの新聞記事で書いていたことを読むと、本当に、日本の英語教育を心配して先生方を批判していたのか、という事です。 できもしない小笠原諸島の開発か自然保護かで生徒に英語で意見を言わせるとか、自分はこんな授業が出来るのだ(実際は出来なかった)と、自慢したり、新聞に載った自分の写真が若く見えるとブログで喜んだり、本当に子供たちの英語力を心配しているようには私には見えませんでした。 頭を打って死にそうでも、子供たちの英語教育を心配していた私には松本茂氏のしていることはまったく理解できませんでした。私はその新聞記事を読んだとき、怒りで体が震えました。先生方が教室で「日本語とは似ても似つかない英語」を週5時間程度の授業で教える、「使えるようにする」のに、どれほど苦労しているか、この大学教授は知っているの? 「日本語で分詞構文がどうのこうのと教えている。これは日本語の授業か」と先生方を批判するのだったら、松本茂教授ご自身が高校の教室に行って英語で分詞構文を教えてみたらいかがですか? 高校生は何にも理解できないことがよくお分かりになるでしょうから。 (経営学やコミュニケーション教育学が専攻だった松本茂氏は「音声学」も「英語教育法」も大学で学んでいません。)
当時立教大学教授でグローバル教育センター長だった松本茂氏は英語民間試験で下村博文によく協力していた。多くの先生方が英語民間試験に反対して大問題になっていた時、松本茂氏の大学の英語の入学試験を「英語民間試験で行う」と私は読みました。 松本茂氏は下村によく協力しているんだ、と思いました。あの頃下村は、「東大に英語民間試験をやらせなければいけない」とすごんでいた。 有識者会議の座長だった吉田研作氏も下村博文によく協力していた。資料文中、座長は吉田研作氏。 下村博文は子供(教育)を食い物にして私腹を肥やす近年まれにみる悪徳政治家だった。しかも次から次に露骨にそれをやった。 「子供(教育)を食い尽くす」という事は「日本の未来を食い尽くす」という事。下村博文は二度と国会議員にしてはならない亡国の政治屋だ。(政治屋:(大辞泉)地位や立場を利用し、自らの利害に重きを置いて行動する政治家を軽蔑していう語)
(吉田研作教授は2019年11月18日朝日新聞デジタルの記事で「半数の高校ではまだ英語で授業が行われていない」と高校の先生方を非難していた。現在この記事は掲載されていません。)
それでは今日のブログ 「大学教育を英語で行うこと(5) 学問の世界で英語50%、日本語50% これで国際競争に勝てるか。」に入ります。(2か所、青字で書いてあります)
「学問の質を維持する」という問題以外に、もう一つ、大学教育を英語で行うことについては、「言語のレベルを維持する」という観点から、問題があると思います。
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大学教育を英語でするようになったら、日本人の子供たちは、学問の世界で、一番高い大学レベルの内容を日本語で、「読み、書き、話し、聞く」能力を鍛える場所がなくなるということです。
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また、3月15日のブログでもお話しした通り、英語も4年間では不十分にしか使えない、ということになります。
そうすると、私たちの子供たち(大学生)は、学問の世界で日本語も英語も不十分にしか使えないということです。
「英語も日本語も不十分にしか使えない」ということがどういうことかは、2011年10月17日のブログに書きました。 こちらに転載します。
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アメリカに子供を連れて行った親は、子供の年齢が高くなると、母国語と英語の両方をちゃんと子供に身につけさせようと、一生懸命いろんなことをするのですが、だんだん勉強も難しくなり、時間も足りなくなり、最後は英語50%、日本語50%でもいいや、、、、と思うようになります。
それほど、言葉を身につけるのは大変なことです。週日は現地校の宿題やテストで、がんばり、週末は日本人学校の国語や歴史で、がんばるのはもう限界になってきます。(補習校は、一回授業を休むと日本史が200年くらい進んでいた。。。と嘆いていた保護者もいました。)
けれどもそのとき、英語50%日本語50%では、まともな仕事に就くことできないと警告してくれた人がいました。
彼女は、アメリカに永住を決めてすんでいました。3人のお子さんの真ん中のお子さんだけ、英語が母国語です。このお子さんが5年生のとき、英語が母国語だか、日本語が母国語だかわからなくなってしまったそうです。「そうするとね、辞書も引けなくなるのよ。」と彼女は言いました。「私は困って、英語、日本語、どちらでもいいからじぶんの母国語を決めなさい。といったら、英語がいい。というので、その日から、二人で、英語を勉強しました。
まず、ネイティブが、小さいころ読むお話を読んで、そのあと、二人で、新聞を毎日読んで、英語を勉強しました。アメリカで生きていくなら、英語は120%できなければ、ちゃんとした仕事には就けないんです。」と彼女は言いました。英語120%というのは、平均的なアメリカ人より、よい文章が書ける、きちんとした豊富な表現ができる、教養が感じられる、そういうことだと思います。
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言語は思考と深く結びついています。 人は考える時、言語を使って考えています。 私もそうです。 不十分な言語の使い方しかできなければ、思考の深さにも影響を与えます。
世界中の国々が今、自分の国の生き残りをかけて必死に学問や産業の分野で、努力をしています。 その中には、当然、母国語120%で考えている人たちもたくさんいます。
そういう状況の中で、日本語50%、英語50%の私たちの子供たちは、母国語120%で必死に考えている人達に太刀打ちできるのでしょうか。 その言語での思考の深さ、広さ、緻密性、柔軟性、独創性、創造性などを十分発揮できない言語のレベルで考えていて、太刀打ちできるのでしょうか。 この思考の不十分さが、日本の国際競争力の基盤を脆弱にすることはないのでしょうか。 ないとは言い切れないと私は、思います。
アメリカの大学生は大学卒業まで、22年間朝から晩まで英語で思考してきた人たちです。 日本の大学生は、4年間、大学の授業だけ英語で受けてきた人たちです。 母国語である日本語については、彼らは、大学教育レベルで訓練されることなく終わっています。
これをもっとリアルに実感するためには第2回に述べた「アメリカ人が大学4年間だけ、日本語で授業を受けて、日本語で思考した場合、16年間日本語で教育を受けてきた日本人大学生と、同じ思考の深さで考えられるか」ということです。
考えられませんね。(3月15日のブログに書いてありますA子ちゃんと私の息子の例をお読みください)。
そして日本語で4年間だけ大学教育を受けたアメリカ人大学生は英語で思考しても、学問のレベルでは、英語で大学教育を受けたアメリカ人大学生と同じにはなりません。 彼らは大学の学問を英語で学んでいないからです。
つまり日本語で4年間だけ大学教育を受けたアメリカ人の大学生は、日本語で思考しても、日本人大学生のレベルにはなれないし、英語で思考しても、学問の世界で、アメリカ人大学生と同じにはなれない。ということです。
学問の世界でどの言語も50%の教育しかやっていないということは、そういうことです。
私は3月15日のブログで、母国語を使えなくなった子供たちは、例えて言えば、「翼をもがれた鳥と同じだ」と言いました。 母国語が使えなかったら、自由に自分のいいたいことを表現できないからです。
私は、文部科学省は「子供の翼をもぐように」、「もぐように」、教育の方針を決めていると思います。 子供たちの思考力や学問の力を「弱体化させるように」、「弱体化させるように」、方針を決めていると思います。
日本は国際競争力でどこかの国に負けて弱体化するのではなく、こうやって自ら、「子供たちの翼をもぐように」、「もぐように」教育し、結果的に子供たちの思考力や学問の力を「弱体化させるように」、「弱体化させるように」、教育して、自らの手で国の将来を潰(つぶ)していると思います。
中学でも、高校でも、大学でも、多くの現場の先生方が反対しているのに、何で、「英語で授業をする」ことを、こんなに文部科学省一人が、突出して実施したがっているのでしょうか?
もう、ずいぶん前になりますが、私は早朝のニュースで「中学の英語の授業が英語で行われることになった」と聞いて、飛び起きました。 即座に「それは失敗する」と分かりました。 理由は2015年6月1日のブログ「文部科学省の方針を実施したので、中学生、高校生がカタカナ発音で話しています」で説明した通りです。
あのブログの原稿を書き終えたのは去年(2015年)の5月の中旬でした。 書き終えて2,3日したころ、私は体調不良で、夜遅く、家族が寝たあとに、自宅で倒れました。 気がついたら、洗面所の床に倒れていました。 倒れた頭の下に金属の扉のレールがあり、「倒れたのだから、どこか打っているかな?」と思って、頭を触ったら、左の後ろが、膨らんでいました。
気持ちが悪かったので、すぐに休みましたが、2日目は、さらに気持ちが悪くなりました。 3日目の夕方は、具合が悪くて立っていられませんでした。 先生から、「4日目が峠です」と言われていたので、私は「峠は越せない」と思いました。
峠が越せなかったら、「書き上げたばかりの6月1日のブログはアップできない。」と思いました。 私は何としても、子供たちをカタカナ発音にしたくありませんでした。 それで、出版社の瀬谷社長に原稿を送って「私に何かあったら、この原稿を6月1日にアップしてください」と頼みました。
瀬谷さんは「川合先生、縁起でもないことを言わないでください」とおっしゃいましたが、快く引き受けてくださいました。 いつもサイトの管理をしてくださる方に瀬谷さんから連絡してもらえば、すぐにアップしてもらえますので、私は安心して、眠りました。
4日目も気持ちが悪かったので、私は、ずっと、お布団の中で寝ていました。 「このまま意識がなくなるのかな」と思いました。 五月だというのに、寝ていても汗ばむような暑い日でした。 私は小学校高学年の時にも頭を打って気を失ったことがありました。 その時は、先生から「ものを考えないようにしてください。(頭を使わないようにしていてくださいという事です) 学校も三日間くらいお休みしてください」と言われました。 ですから、この時も、なにも考えないようにして、寝ていました。 (治ってきても、ものを考えると頭でどくどく血液が流れるのを感じましたので、ものを考えると血流が増すんだな、と思いました。) けれども、5日目の朝、私は目が覚めました。 具合は相変わらずよくありませんでしたが、峠は越せました。 けれども、それから一か月ほど、脈拍が正常に戻りませんでした。 顔色ももとにもどらず、目の周りが青いままだったので、先生は心配されていましたが、3か月を過ぎた時、「もう、命にかかわるような容体の急変はありませんから大丈夫ですよ」と言われました。 ただ、現在でも、打った頭の部分が時々痛くなることがあります。 そういう時は、無理せず、横になって休むことにしています。
文部科学省のやっていることは、私のような一母親でさえ、「このまま死ねない」と思うほど、危うい方針なのです。 長期にわたって子供たちの思考力と学力(英語力)を国民が気付かぬ間に低下させる危うい方針なのです。 一見、国民には子供達が英語をしゃべっているように見せてはいるものの、実はその発音は通じないカタカナ発音で、国民が知らないうちに、何年もたって気づいた時には、子供たちの思考力や学力(英語力)の低下は容易に回復できないほど深刻になっている、そういう危うい方針なのです。
まるで、いつの間にか進行する岩の浸食のように、国民が気付かぬうちに、子供達の能力を長期にわたって壊していく方針をなぜ、文部科学省は、現場の先生方の反対を押し切って、一人で、強引に進めたがっているのでしょうか?
私が2015年6月1日のブログの原稿を書いた5月中旬、なぜ体調不良になったかというと、私は、5月のはじめに 2015年5月7日の石渡誠氏のブログを読んだからです。 このブログの内容は私が一番最初に読んだときとは、今は文章が書き換えられています。「英語で授業」の方針になって良いことだ、という石渡氏の意見はもう書いてありませんし、その事に尽力してきた安河内哲也氏おひとりの写真も、もう削除されています。 (石渡氏は私に間違いを指摘されると、気づかれないようにブログを書き換えます。 舞台の上で、両手を広げて堂々と英語のスピーチをする石渡氏は、裏で自分の間違いをいつもこそこそ書き換えます。) 私はこの石渡氏の5月7日のブログを読んだとき、間違った英語教育方法を全国で実施しようとしている人たちがいることに非常に怒りを感じました。 ほかの方がこの「ついに変わる! 英語教育改革の全貌」という会合について書いたブログを読みましたら、この会合には英語教育界の重鎮たちが参加している」と書いてありました。 いくら重鎮でも、「英語で授業」など日本では百害あって一利なし。 まったく害にしかならない授業です。 私は、こんなひどい英語教育を全国の子供たちにさせようとする人々がいることに激しい怒りを感じました。 その石渡氏のブログを読んでから、怒りで、夜、よく眠れなくなりました。 あの倒れた日も、それであまり寝ていなくて体調がよくありませんでした。 あとからそのことを知った親友が笑いながらでしたけど「つまり、典子は、憤死するところだったのねえ」と言いました。 確かにあのまま頭を打って死んでいたら、私は憤死でしたね。 気を失って倒れた時、右足を洗面台の引っ込んだ部分と床の間のくぼみにねじったまま挟まれて倒れたので、捻挫の状態のまま20分位気を失っていました。 気が付いたときには右足首が痛くて床に着けず、引きずるようにして、部屋に戻りました。 なんで右足首が痛いのかその時はわかりませんでした。 その捻挫はなかなか治らなくて、一年くらい、正座はできませんでした。 その時は捻挫より、頭の方が気になって足首を冷やしもしませんでした。 4日後に死んでしまえば、足首を捻挫していようがいまいが関係ありませんからね。 元気になってしばらくたったころ、瀬谷さんがこう言って下さいました。 「よかったですね。 元気になって。 まだやることがある人の命を神様は奪いません。」
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もう一つ私が危惧するのは、大学教育を英語で行うと、ある分野に能力や才能を持っていても英語ができないために学校をやめていく大学生が、大量に出るということです。 子供たちの持つ能力を育てる機会を失うということです。
私は、大学時代に、教育原理の授業でこういうことを聞きました。
私が大学時代に聞いたということは、実施されたのは今から半世紀くらい前のことでしょう。 ある県で、高校入試を行う際、偏差値によって、受験する科を県が決めたそうです。
偏差値いくつからいくつまでは普通科、
偏差値いくつからいくつまでは商業科
偏差値いくつからいくつまでは工業科
というように県が決めた通り、中学3年生は受験させられたそうです。 けれどもその結果は、生徒が授業で船に乗ったら(海に面した県でしたから水産関係の科もあったのでしょう)、船酔いしたりして、この方式は、まったく子供たちの適性や個性に合わなくて、取り止めになったそうです。
15歳でも、子供の適性や個性はもう、はっきりしているわけです。 子供の個性や適性に合わない教育をしたら、本来持っている能力や才能もダメにしてしまう、ということです。 英語が嫌いな子供は、授業を英語で実施されたら、耐え難いのです。 日本語で授業を受ければその分野で、能力や才能を発揮できるかもしれないのに、授業が英語であるがためにやめていく学生は、相当少なく見積もっても全体の3割は出るでしょう。 これは大きな社会問題になると思います。
先ほどの3人を例にすると、鈴木君は経済学で優秀な分析手法を考え出す能力があったとしても、佐藤君は分子生物学で、重要な発見をする能力があったとしても、田中君が教育の分野で、新しい指導法で、成果を上げる能力があったとしても、この3人が、英語の授業について行けず、学校をやめてしまったら、この3人の大学生の能力は花開くことなく終わってしまいます。
学校に残った学生たちを見ても、その中で英語で授業を理解できない学生は半分以上いるでしょう。 そしてその半分以上の子供たちの中に、特定の分野での才能や能力を持った子供はたくさんいると思います。 能力と英語は別問題です。 ノーベル賞を取った方々が全員英語が堪能なわけでもありません。
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最後の私の危惧は、集団訴訟の可能性があるということです。(あくまで20XX年、仮定の世界の話です)
20XX年、鈴木君や佐藤君、田中君が大学をやめて、「英語ができないために大学教育が受けられなかった」と悩んでいるうちに、彼らは、日本で大学教育を英語で行うことは「自分たちの持っている教育を受ける権利」に抵触しないのか?と疑問を持つようになりました。
「日本では、家庭生活でも、社会生活でも、一度も使ったことのない外国語。さらに学校でその「言語で」一度も授業を受けた経験のない外国語で、大学に入った途端、授業をする」これでは学生が大学で学問を続けられないのは当たり前ではないか。 「この方針自体、日本の大学生が学問をすることを阻(はば)んでいるのではないか」彼らはそう考えたのです。
そして、この3人は、「学校をやめて自分たちと同じ思いをしている学生たち」に呼びかけて、「教育を受ける権利」を掲げて「集団訴訟」を起こすことにしました。
英語が出来なくて大学を辞めた大学生は全国にいますので、その人達にも原告団に加わってもらうよう働きかけたのです。 大学生の少なくとも3分の1は英語が出来なくて、大学を中退しているでしょうから、大規模な原告団が構成される可能性があります。
こういう訴訟は個人が被告になるわけではありませんが、薬害訴訟などを見ていますと、それを担当していた部署の人たちが受けて立つようですね。
裁判の過程で、この方針が誰の勧めで、文部科学省に持ち込まれ、どなたの決定で実施に移されたのか、責任の所在もはっきりするでしょう。(あくまで20XX年、仮定の世界の話です)
「初心者が英語を英語で理解する」などということはまったく不可能なことだと、裁判の過程で、日本中の人にわかるでしょう。
指導する上級者だけが「効果がある」と誤って信じこんでいる「英語を英語で理解する」という指導法を、学校教育に持ち込んだ時、私たちの子供達(大学生を含む)の学力(思考力)と英語力が、どれほど失われてしまうか、この時、明らかになるでしょう。
「皆さんのお子さんを、その実験台にさせてはならない」と私は思います。
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「言語と思考」の関係についてはいろいろな説がありますが、私はこちらのブログに書きましたような考え方に基づいて、「大学教育を英語で行うこと」のブログを書きました。 「思考が先で、言語はその思考にまとわされるだけ」という考え方では、「言語で思考の伝達」はできません。 言葉を聞いて、思考を構築できるからこそ、「伝える」「伝えられる」という双方向の伝達が可能になります。
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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。
高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)
高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。 しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています) これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。 学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。
これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)
皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。 (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。
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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。 日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)
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何度もお願いしているのですが、アマゾンのページで私の本のランキングを下げて妨害をしている人がやめてくれないので、(詳細はこちらです)しばらく以下の文章を掲載させていただくことにしました。
「本を出版する人は、他の著者の妨害をしない。 他の著者を妨害する人は自分の本も出版できない。」
出版社におかれましては、このことを出版の際、著者に理解していただいてください。
私のランキングを妨害している人は、たぶん、現実を受け入れられないのでしょう。
アマゾンの順位を1ペ―ジ目から2ページ目に下げられ、数日でまた2ページ目から3ページ目に下げられて、私は、この方の激しい妨害に驚いています。
「学習者に正しい発音を習得してほしい」というのが自分の目標でしたら、他人を妨害する必要はありませんね。 他人を妨害してまで、何を手に入れたいのでしょうか。 ベストセラーの著者という名声ですか。 それなら、もうアマゾンで、ご自身の本はベストセラーに認定されているのですから、それで十分でしょう。 この上何が欲しくて私を妨害するのでしょうか? もう英語教育とは関係ないことですか。
私は、こちらに書いてある3つのことをするのが、目的です。 日本人が子音の日本語化を知っているか、いないかで、通じる英語で話せるか話せないかが、決まります。 ですから、このことを読者の皆さんに理解していただくのは、とても大事なことなのです。 私の仕事の妨害をしないでください。
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クマさん、ウサギさん、ブタさん、それぞれが持っている旗に書かれたことの理由は、2017年7月30日のブログをご覧になるとわかります。