川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(2)

2022年4月15日 大学入試に記述式が導入されようとしたときに、盛んに、「書くことは思考力を高める」といわれました。 けれどもただ書かせるだけでは子供たちの思考力は上がらない、と私は考えています。 私は20代から30代にかけて、10年以上にわたって「自分が直面している問題をノートに書いて解決する」という手法を繰り返し使ってきました。 その経験から、書くことが思考力を上げるのは「書く前に自分の考えをまとめる作業」つまり、「重要な点を骨組みで考えていく作業をするからだ」と考えるようになりました。
このブログが終わったところに青字で書き足しましたので、お読みください。 題は「書くことがなぜ思考力を高めるのか」




私は2年位前からアメリカの高校の先生にお願いしてアメリカで生徒が書かされるエッセイ(小論文)の形式を一つずつ、実際に書いて教えていただいています。  (今は家の都合で、書く時間が取れずに中断していますが)

先生がくれた資料によると、エッセイ(小論文)には大きく分けて4つのタイプがあります。

1.Narrative essays
2.Descriptive essays
3.Expository essays
4.Argumentative (Persuasive) essays

私がこの4つのタイプの中で注目したのは、4.Argumentative (Persuasive) essays でした。  日本語で言うと、人を説得するタイプのエッセイです。    よく例に出されるのが、「日本は海外援助を増やすべきだ」などのテーマで、自分の意見を述べるエッセイです。  賛成でも反対でも、その選択自体はどちらでもよく、その自分の意見に他の人も納得できるような理由を提示して、その理由を裏付ける事実や例をあげて、自説を展開していくタイプのエッセイです。 

ただ、このタイプのエッセイは、必ずしも、賛成反対で進めるタイプだけではなく、例えば、息子が世界史の課題でやっていたように「ヒーローになるにはどのような特長を持っていることが必要だと思いますか」というような課題もありました。 もう、昔のことで、息子が何を書いていたかよく覚えていませんが、例えば「大衆からの支持があること」とか書いていたような記憶があります。 私は賛成反対より、こういう課題の方が、書く人の個性が出て面白いな、と思いました。 昨日の江戸幕府の課題はこちらのタイプになりますね。

賛成、反対について書くときには正解がどちらか、というようなことはなく、自分がそう思う理由と、その理由を裏付ける事実や例が、読み手に取って、十分納得のいくものであれば、高い評価を得られます。

ですから、どれだけ人が納得できる「理由」や「事実と事例」を選んでエッセイに入れるか、ということが生徒の能力として重要になってくるわけです。 


私は、アメリカで、先生からこのタイプのエッセイの書き方を習ったとき、日本の生徒たちがこういう訓練を小さいときから受けないのは、これからの時代、かなりのハンディキャップになる、と感じました。  なぜなら、このエッセイを書くときに考える、「理由」や「例や事実」の選び方によっては、他人の意見や判断に、強い影響力を行使できるからです。(私自身このタイプのエッセイを習っていて一番難しい、と思ったのが、自分の意見をサポートする「例や事実」を3つ提示することでした。 自分の意見は言える。 理由も言える。 でもその理由をサポートする「例や事実を3つ選ぶ」というのが、なかなか大変でした。 2つは言えるけれど、3つ目がなかなか見つからない、という場合が多かったですね。頭の中で考えるのではなく、現実の世界ですでに行われていることから選ぶわけですから、3つ選ぶのは難しかったですね。 私が今ここで書いているのは日本語(母国語)でこういう内容を書く場合についてお話しています。つまり、思考するトレーニングとしてこういうことを書くことを行う場合です。英語のトレーニングの為ではありません。 でも、これを英語で書く、という課題を時々見ることがあります。 けれども、高校卒業時の私は、こういうエッセイを英語で書く、ということはできませんでした。 高校卒業時の私の英語力では習った構文を使って文を書くことで精一杯でとても主張を展開するような英文は書けませんでした。 それをするには不十分な語彙や文の形しか知りませんでした。 たとえ自分の意見を英語で書いたとしてもその理由を短く言うことで精一杯で、とても、サポートする例や事実まで英語で書いて結論にもっていくようなエッセイは書けませんでした。そういうことが英語で書けるようになったのは大量の読書をして、いろいろな言い方を自分で使えるようになってからでした。もちろん英語力の高い高校生ならできると思いますが、普通の高校生の英語力は私と同じだと思いますから、自分の英語力で書ける簡単な内容の英文しか書けないと思います。しかも100字くらいでは簡単な内容しか表現できないでしょう。 私が英語のライティングの指導は、大学で大量の読書をした後に行ったほうが意味のある文章が書けるし、意味のある指導ができる、と思うのはこういう理由です。 このブログで私が述べているのはあくまでも自分が自由に使える母国語を使って考える訓練のために書く小論文について述べています。アメリカ人が自由に使える母国語(英語)でそういう練習をしているのですから、日本人は自由に使える日本語で「考える(書く)訓練」をしなければ意味のある「思考のトレーニング」は出来ない、と私は思いました。 英語でそれをするには高校卒業時の私の英語力ではとても無理でしたから。語彙も文章表現も不十分にしか使えない言語(英語)で思考の訓練は出来ません。 昨日例に挙げた色々なエッセイの内容(「江戸幕府長期存続の理由」「幕末から明治にかけて自分が共感する人物」など)を表現できるのは生徒が自由に使える母国語しかないと思います。)

国際社会で、価値観の違う国々が集まって何かを決めていくとき、相手が何を重要と考え、どういうことに影響されるかを知って、それを納得させられる理由を前面に出して、話し合いに当たれば、自分の望む方向で、相手も納得してくれる可能性が高いです。

こういうスキルを小さいころから訓練している人々と、比べると、日本の子供たちは、全く何も訓練されていないのですから、非常に不利だと思いました。  

しかもそういう人たちは、小さいころから、人前で自分の意見を言う、という訓練も受けていますから、自信をもって言うことが出来ます。  こういうことも場数を踏んでいない日本の子供たちは、不利になると思いました。


人間は事実や出来事を全部、同じように認識しているつもりでも、その中から、どういう事実をピックアップするかで、相手に与えるインパクトが違ってきます。  そういうことを小学校高学年くらいから訓練を受けて知っている、というのは、他人の考えに影響を与える方法を知っているという点で、有利だと思いました。  具体的には、4年生くらいから、やさしい課題で、自分の意見を書いて、その理由と理由を裏付けする事実や例を挙げて、説明する練習をします。  課題は年齢が上がるに従い高度になりますが、大学生まで、この形式は変わりませんので、大人になれば、そういう論理の組み立て方、説得する力のある事実の選び方などは、上手になるでしょう。「どういう根拠を上げれば強力な説得力になるか」この訓練を徹底的にするようです。


日本では、今までは、知識を暗記することが主な教育でしたけれど、これだけコンピュータが普及し、インターネットも使えるようになったら、知識を覚える教育は、ある程度にして、知識をどう使うか、その先の能力を鍛える教育をしていかないと、子供たちのこれからの社会をいきる力が育てられないと思います。 

身に着けた知識を踏まえて、何を目的として、どう考え、どう表現して自分以外の人々の協力を結集していけるか、そういう力を育てる教育をしていかないと、これからのグローバルな社会でやっていけない、と思います。

知識を覚えるだけの教育は、子供たちの力の半分しか使っていない、私はそう思いました。  現在、国際社会で働いている方々は、個人の経験と努力で、一生懸命そういう状況に対処していらっしゃると思いますが、これからは、そういうことを教育の場で、訓練していくことは大事だと思います。

大学生になって、「論理的に考える」とかプレゼンテーションやディスカッションをしろと言っても、そういうことは、小さいときから学校教育の場で、訓練していかないとできるようには成りません。  よくディベートのことが言われますが、ディベートもいきなりするわけではなく、こうやって、自分の考えを論理的に組み立てて書くエッセイの練習をして、先生の指導のもとに基本的なスキルを体得しながら、並行してディベートもするようになっていくのだということを今回子供たちのやっている課題を見て分かりました。  いきなり、ディべートをするわけではありません。

ディベートを推進したがる方の中には、アメリカで子供たちがディベートを訓練する前にこういうエッセイを書いて自分の意見を組み立てていく指導を受けて練習している、ということを知らない方が多いです。  だから、やたらに、○○について賛成派と反対派に分けて議論をさせる、とおっしゃる方がいます。  こちらの新聞記事に出てくる立教大学教授松本茂氏もそうです。 でも、私がアメリカ人の先生から頂いた資料を読む限り、エッセイを書く場合には反対派の視点を取り上げてそれについてコメントすることは基本のエッセイの形式には入ってきません。  まず、自分の意見をサポートする強力な根拠をあげて、事実や事例をどう選ぶか。 その指導を徹底して行うようです。 先生から「根拠をstrongに!」とよく言われました。 その根拠をサポートする事実や例を選ぶのも回数を重ねてやっていかないとなかなか3つは選べませんでした。 やはり、練習が必要です。  アメリカの教育の全体像を知らないで、ディベートだけ知って、どこに行っても賛成派と反対派で議論させるような指導は、いったい生徒になんの役に立つのか、よく考えてから行ってください。 指導にはきちんと順番があります。 まず、子供たちが自分の意見をまとめていく練習から入るのが正しい手順でしょう。 アメリカに行って自分の知らないことを見て、うれしくて日本で同じことをしようとするのでしょうが、指導にはきちんと順番がありますので、それを子供たちにきちんと行ってからにしていただきたいと思います。 こちらの新聞記事に出てくる立教大学教授松本茂氏の提唱する授業など、授業の目的は何なのか、よくわからないです。(解説はこちら) アメリカの子供たちが小さいときからどういう教育を受けているかも知らないで、聞きかじったことだけで、日本の教育をかき回さないでいただきたいと思います。



グローバルな世界に対応する教育というと英語のことばかり言いますけれど、英語については中学校でこちらのような学習をしてもらえば身につきます。  中学3年間で身につくものを小学校、中学校合わせて7年間もかけなくていいと思います。

一方、発表(プレゼンテーション)をする練習や論理的に考える、他人にわかりやすく書く練習をするのは、小学校からやっていかなければ、出来るようになりません。  特に人前で意見を言う練習(プレゼンテーションの練習)は小学校一年生からやらなければ、子供たちは絶対に変わらないでしょう。(こちらのブログ

私はグローバルな社会でやっていける子供たちを育てるために、小学校で教えるのは、この2つだと思います。  今まで、子供たちは、そういう指導を学校で受けることはありませんでした。  それでは、何の訓練も受けずに、異文化の世界に出ていくようなものです。  小学校では、文化の違う国を理解する授業も始まっていますが、「理解する」だけでなくそこに発信するにはどういう点に注意して発信を行えば効果的な発信ができるか、その練習はまだ、本格的に行われていないでしょう。  理解しているだけではなく、効果的に発信する方法を教え、訓練する必要があります。

こんなにコンピュータが普及して子供たちでもインターネットも使える時代なのですから、「どうすれば必要なことについて調べられるか」を知っていれば、知識だけを増やすことを、そんなに高い目標にしなくてもいいと思います。

グローバルな時代を生きる彼らに役立つ能力を育てるには、学んだ知識をどう使って、自分が「こうしたい」と思う方向で、どうやって多くの人々の協力を得られるか、そういう方法を教えて訓練していくことだと思います。



そして、世界の国々の中には、すでにその能力を小学生の時から鍛えている国があるという現実があります。  日本の教育は新しい時代に合わせて変えるべきだ、と誰もが思っています。  私たち、親の世代がなき後の世界を生きていく子供たちに今、大人ができるのは、そういう社会で、生きていける能力を教育で子供たちに育てていくことだと思います。  今まで開発されることのなかった、子供たちの中にある、もう半分の能力を引き出して育てていくことだと思います。  知識を身につけるだけでなく、身につけた知識をどう使って、自分達の実現したいことを現実にしていくか、そういうすべを身につける教育が必要です。

堂々と意見を述べている人は、「自信があって正しい」という印象を与えます。(こちらのブログを参照してください)内容が論理的ならば、その印象はさらに強くなります。  世界の国々の中で、そういうことを小学校から訓練している国があることを考えると、日本は、グローバル化に対応した学校教育として、英語で「ゲーム」だとか「歌」だとか、チイチイパッパみたいな英語教育を小学校でやっている場合ではないと、私は、思います。  (小学校から英語を勉強しても、子供の英語は、自動的に大人の英語にはならないのです。(こちらのブログに書いてあります) 成長していく年齢に応じた英語を使えるようにするには、大人になるまで、それぞれの年齢で英語を勉強していかなければなりません。)

そういう国では、論理的な思考力をつけるために、上に書きました説得的な文章だけでなく、その基礎になる説明的な文章を書く練習も小学生から始めています。
例えば、2つの物事を「比較」して説明する文章や、「原因と結果」を説明する文章などの書き方の基礎を小学校4年生くらいから学びます。  「比較」や「原因と結果」を明確にとらえる練習をすることが、説得的な文章の論理性をさらに増すことができるからでしょう。  小学校で英語をするより、プレゼンテーションの練習や、論理的に説明する文章の基礎を学ぶほうがずっと、グローバル化に対応した教育ができると思います。  何度も言いますが、英語については、こちらのように中学校で勉強していただけば、15歳のレベルで、完璧な英語コミュニケーション能力が付きます。  中学3年間で身につくものを小学校から7年もやらなくていいと思います。 

(続く)

2022年4月15日 書くことがなぜ思考力を高めるのか。

記述式が大学入試で取り上げられるようになった時、「書くことは思考力を高める」と盛んに言われました。 でも、ただ、書いているだけでは思考力は育たない、と私は思っています。 どう書く指導をすれば思考力を向上させることが出来るか、それについて書きます。 (表現力の問題は今回は含みません。 今回は書くことと思考力の関係について書きます。 私は記述式のテストをすれば、思考力が向上するのではなく、書くことを授業で教えることによって、実際に子供達の思考力を向上させていくことができる、と考えています。)

結婚前、会社勤めをしていたころから途中少し中断しましたがアメリカで子育てをしたころを含めて10年以上にわたって、日常生活で「自分が直面する問題をノートに書いて解決する」ということをやってきました。 まずその経験から入りますので、少し長くなりますが、お読みください。


結婚する前に、この会社で仕事をしていたとき、私は、それまで秘書の見習いの仕事をしていましたので、問題解決にあたるのは初めてでした。 秘書の仕事以外、ビジネスの経験はありませんでしたので、どんなに頑張っても、なかなか仕事がうまくできるようにはなりませんでした。

何とかしなければならない、と思った私は、失敗したとき、それをノートに記録することにしました。二度と同じ失敗をしたくなかったからです。 平日は、家に帰るのは夜の12時ごろでしたので、週末にノートにまとめました。

ノートには下のように書きました。

「起こった問題。 ―――――――> 結果(つまり、どのように事が運んで失敗したか)」
その矢印の棒の下に私が問題解決のために取った行動を縦書きにして書き入れました。 

そして、自分なりに「なぜ失敗したか」を考え、箇条書きにしました。 例えば、「事前に誰誰に話をしておかなかったから。」とか。 最初のころはもっとも初歩的なミスの原因として、製品の知識が不足していた、ということもありました。

そして、その原因一つ一つに対して、それを取り除くために自分は何をしたらよいか考え実行しました。   「どうすれば失敗は避けられたのか」それを考え、解決法を書き出し実行しました。 

製品についての知識が不足しているとわかった時は、製品について勉強しました。
バイリンガルクレタリーとして基本的なことが身についていないとわかった時は、そのための学校に行こうと思いましたけれど、会社を出るのはいつも夜10時過ぎでいけませんでした。 それで、そういう学校のパンフレットを取り寄せカリキュラムをみて、同じ教本を取り寄せ、自分で勉強しました。 通勤電車の中しか勉強の時間は取れないので、百科事典のように大きな教科書は持って歩けないので、20ページくらいずつコピーしていつも持ち歩いて勉強しました。

予期しないことが起こったり、とんでもないテレックスが入ってきたりすると、頭が真っ白になり何も冷静に考えられなくなる。  この問題については予期しないことが起きても冷静に考えられるよう、仕事中努力しました。 けれども仕事中だけ努力しても出来ませんでした。 それで、仕事中もプライベートな時間も何が起きても冷静に考えられるよう努力しました。例えば、日曜日、高校のクラスメートの結婚披露宴でテーブルを囲んで久しぶりに会った友達と談笑していたら、突然ホテルの方が近づいてきて、新婦側のスピーチが足りないのでしてもらえますか? と言われました。 準備などしていませんでしたが、これも訓練。「はい、わかりました」と引き受けて、頭が真っ白にならずに、スピーチをまとめる練習をしました。 こちらの勉強会を立ち上げるときの説明会では、仕事を終えて、説明会開始直前に渋谷の会場に到着しました。 すでにもう、たくさんの人がいらしていましたが、発起人の方から「この勉強会に皆さんをお誘いするスピーチをしてくれませんか」と言われました。 そんなことを頼まれるとは考えてもいませんでしたが、これも訓練。「はい、わかりました」と言って引き受けました。 仕事中も仕事を離れてもとにかくできる機会を利用しては予期しないことがおこっても頭が真っ白にならないで冷静に考えられる訓練をしました。 この時は会社で顔をざぶざぶ洗って会場に到着。 だから顔は寝起きと同じ。昔お化粧をしないで出勤して先輩に怒られたことがありました。スピーチの組み立てが頭の中で終わった時、そのことに気づいて「どうしよう」と思いました。客観的に見てどうでもいいことでも、自分のどこかに不備がある、と思っていると力強いスピーチは出来ません。 「屁理屈でも何でもいいから、自分を納得させなくちゃ。」と思い、「ここにきている人は勉強会のことが聞きたいから来ている。 誰も私の顔なんか見ていない」そう自分を納得させて、スピーチを始めました。 でも、寝起きと同じ顔なのは事実。 努めて笑顔で、お話しました。 (もちろん考えたときに、来た人が期待しているもの。この勉強会が提供できること。 この勉強会しか提供できないことを中心に考えました)この時はたくさんの方が入会してくださったので、発起人の方からお礼を言われました。 

このころ父が交通事故にあいました。 家じゅうがパニックのようになりました。 母の顔を見たら、もう「母は自分が生きている心地もしないのだ」とはっきりわかりました。 この時は会社にいても、家にいても冷静に考えることに努めました。 特に母を安心させること。加害者との交渉はお役所の方が力になってくださいましたが、難しいことも多く、家じゅうが沈みこみ誰がパニックになってもおかしくないような日が続きました。そういう中でもとにかく母を安心させたくて、努めて冷静に対処する努力をしました。 いろんなことが落ち着いたとき、姉から「お母さんも私も、不安で不安で何も考えられなかった。 ただただ典子についていった」といわれました。 毎日毎日が仕事でも家でも冷静に考える訓練でした。

ノートは週末に読み返しました。 読み返したとき「表に見えることだけが本当の原因ではない」と気づいたこともありました。

仕事の失敗の原因に、田中さんに事前に話をもっていかなかったから。 という理由が2回ノートに書かれていました。  それは直接の失敗の原因ですけれど、なんで2回も田中さんに事前に話を持って行こうとしなかったのだろう、と考えてみました。 そうしたら、「私はあまり、田中さんの仕事に信頼を置いていない」ということに思い当たりました。 私は田中さんがあまり好きではなかったのですね。でも、田中さんの協力なしに私の仕事は出来なかった。 これは何とかしなければいけない、と思いました。 私は田中さんの長所をノートに書き出してみました。 その中に、「田中さんはとても正義感が強い」というのがありました。 これはあの頃の私には大変重みのある長所でした。 私は、田中さんへの評価を180度かえ、それからは田中さんと、うまく協力していくようになりました。

目に見える原因だけが本当の原因ではない、とわかったことは子育てをしていたとき、随分役に立ちました。

しばらくたつと、だいぶ仕事ができるようになったので、そのノートには仕事がうまくいったときの事、自分の仕事が評価された時のことも記録しました。 「なぜ仕事がうまくいったのか」その理由を記録しました。

今、覚えているのはこういうことです。 いつも周りの人に助けてもらうばかりだった私は、自分は自分のできることでみんなの役に立てばいい、と気づきました。 それで、とても気持ちが楽になりました。



上司のNさんのところにはいろいろな方がお見えになりました。  あるとき、白髪の業界でカリスマのような方がお見えになりました。  そしてある英文の資料をNさんにお渡しになりました。   私はお茶をお出ししたとき(昔の女性はお茶くみも仕事でした)にその資料を見ました。  「あら、この記事ではこの分析は遠心分離では出来ないと書いてありますけれど、私がこの前読んだ資料ではこれは遠心分離でできるとかいてありました。。。。。変ですね。」と思わず口にしてしまいました。

そうしたらその白髪の方の顔がさっと変わりました。「君が読んだ資料ではこれは遠心分離でできると書いてあったのかね?」とおっしゃるので、「はい、出来る、と書いてありました。」とお答えすると、「私は君のそういう感想が聞きたい。」とおっしゃいました。 その方は人ができない分離・分析をできるようにしてしまうような方でしたので(だからカリスマみたいな人でした)、特にそういう情報に関心がおありだったのだと思います。 そして、「君は遠心分離などという英語を知っているのか。」とおっしゃるので、「はい、本社からいろいろなデータや資料が送られてきます。  一応全部目は通しますので、知っています」とお答えしました。

当時パソコンはありませんでした。 コンピュータといえば、銀行にあるような部屋を一つ使ってしまうような大型コンピュータでした。 だから営業の方は自分が必要な分析データを探すのに少し手間がかかりました。 当時、アフラトキシンのようなよく問い合わせがあるデータはいつも持っていらしたでしょうけれど、あまりなじみのない物質のデータは探すのに少し時間がかかりました。 私は文書管理が専門ですから、アメリカから送られてくる、顧客に使ってもらうためのデータや学術誌に掲載された記事などの資料に関しては、問い合わせのものがオフィスにあればすぐにお渡しすることができました。  それからは、データや資料についても丁寧に読んで、記憶するよう努めました。 白髪の方が時々持って来られる資料も丁寧に読んで内容を頭に入れておきました。 それに関連あることが書いてある資料がアメリカから送られてくれば、見ていただいたりしました。

私はそれまで、仕事でわからないこと、出来ないことがあると、取引先のそういう方々に助けていただきました。 助けていただいても私は何もお返しができませんでした。 私も営業の人間でしたら、情報や人脈などで、役に立つこともできたでしょうけれど、私には何もできることはありませんでした。 それをいつも申し訳ない、と思っていました。 でも、この時のことをノートに書きながら、私は英語の資料を読んだり、データを頭に入れておくことはできる。自分のできることで皆さんの役に立てばいいのだ、と思いました。 それで、随分気持ちが明るくなりました。 半分冗談でしょうけれど、「川合さん、結婚して仕事を辞めても、データがどこにあるか、電話で教えてくれる仕事をすればいいよ。」と言われたこともありました。 パソコンを誰でも使う今の時代の方々にはピンとこない時代の話ですね。

このノートは結婚した後、使いませんでしたが、アメリカに行ったとき、またノートに書くことを始めました。 価値観の違う国で、いろいろな問題に直面したとき、どうやって解決するかを考えるとき、思考を整理するのに書くことはとても有効でした。  例えば、こういうことがありました。

子供が3歳の時、幼稚園で、掲示物を貼るピンで、友達を刺す子がいました。 痛いですし、(子供にはないでしょうが)肝炎などはそういうことでうつりますので、担任の先生に度々止めさせてください、とお願いしたのですけれど、その子はやめませんでした。

担任の先生にお話ししてもらちが明かないので、私はその学年の主任の先生にお話に行くことにしました。 幼稚園に話に行く前にアメリカにいた親友にどうすればいいか聞きました。 彼女は「法的手段に訴える気がなかったら、まず、学校を訴えるつもりはない。と最初に言いなさい。」と言いました。  「訴えられるかもしれない、と思うと向こうも構えるから、訴えるつもりがないなら、それを最初に言って、とにかくやめさせてほしいのだ、といいなさい」そういわれました。 この時、主任の先生がいろいろな努力をしてくださったのですけれど、結局、その子はピンで刺すことをやめませんでした。 最後に主任の先生との話し合いで、その方が、「私がミセスビットナー(担任の先生)のクラスに入って、その子が友達を刺しそうになったらとめます」とおっしゃったのですけれど、私はそれを聞いたとき、「これはだめだ」と思いました。 私が教師になったころ、よく、「教師は一国一城の主(あるじ)」と言われていました。 そこに主任の先生といえども、部外者が教室に入ってきたら、結局うまくはいきません。 だめだ、と思った私は幼稚園を変える決心をしました。 夫に言ったら反対されました。 「日本人の中であまり、目立つ行動をしてほしくない」というのが夫の方針でした。 その幼稚園にはたくさんの日本人のお子さんが通っていました。

私はノートに夫の意見。 私の取りたい行動。  そして、次の行に「今、一番大事なのは何か」と書きました。  私は普段は夫の意見を尊重していましたが、この場合は、一番大事なのは「子供の健康」でした。 「今のままでは子供の健康は守れない」「新しい幼稚園を探す」 私はそうノートに結論を書いて、新しい幼稚園を探すことにしました。 今の幼稚園にはたくさんの日本人のお子さんが通っていました。 だから私が具合が悪い時に自分のお子さんと一緒に私の子供を連れて行ってくださる方もいて、そういう環境から出ることは不安でしたけれど、「一番大事なことは何か」これを常に確認して、一人で新しい幼稚園を見つけて9月から息子を入園させました。

幼稚園の見つけ方についてはこれも親友に聞きました。 「幼稚園に実際に自分で行ってごらん。先生に会ってお話をし、教室を見て、子供を見れば、こんなところには絶対入れたくない、と思う幼稚園もわかるし、ここなら大丈夫、というのもわかる」といわれました。 それで、たくさんの幼稚園を見学しました。 新しい幼稚園には日本人の子供はうちの子ともう一人の女の子しかいませんでした。 でも先生がしっかりしていてよい幼稚園でした。 ですから、夫も何も言いませんでした。 日本人の子供が少なかったので、息子はアメリカ人の子供たちと遊んでいるうちに英語も身に着けました。 1年生になった時、普通、日本人の子は毎日1時間くらいESLのクラス(英語が母国語でない子供のためのクラス)で勉強するのですが、「太郎は必要ありません。」といわれました。 

他にもお母さん同士の問題がおこった時や、誤解を解くすべがなくてどうしたらよいかわからないときなど、私は、問題をいつもノートに書いて考えていきました。 心配や不安で気持ちが不安定になって、頭の中が混乱しているとなかなか、正しく考えられません。 そんな時、書いていくと少しは冷静に問題点を整理できました。

書くことが思考力を上げる、としたら「枝葉の部分を取り除いて、もっとも重要な要素だけを見ながら考えていけるからではないか」と思います。 つまり骨組みで考えていけるから、的確な思考が出来るのではないか、と思います。 その時、重要なことと枝葉の部分をより分けていく判断力も培われると思います。  私がアメリカでよく聞いていたトークラジオの人生相談のドクタージョイ・ブラウンは、やはり書くことが「的確に考えられるようにしてくれてよい結論やアイデアに導いてくれる」と思っていたようでした。 番組の中でよく「そういう時は紙と鉛筆を用意して問題を整理しましょう。」と言っていました。  

いろいろなことが頭の中で、ごちゃごちゃとしていると、何を軸にして考えていったらよいかわからなくなります。  幼稚園をやめるときも、いろいろな人から、いろいろなことを言われました。 例えば、幼稚園の先生に「その子がピンで刺すことをやめさせてほしい」と私がいうこと自体、「そんなことをしても、何にもならないからやめた方がいい」と私に言う日本人のお母さんもいました。

そういうことに惑わされていると大事なことを見失います。 つまり、自分は何のためにこういうことをしているのか、それを常に自覚していないと、問題の解決は図れなくなります。 書くことによって、自分が大事だ、と思うことに照準を合わせて骨組みで考えていける、というのが思考力を上げるために役に立つと私は感じました。  


だから、2度目の赴任で、アメリカの高校生のエッセイ(小論文)の書き方、つまり最初に骨組みで考え、それに基づいてエッセイを書く手法を見た時、これは「骨組みで考えるよい訓練になる」と思いました。 それで、息子にエッセイの書き方(ライティング)の指導をしてくれる先生にお願いして、私も教えてもらいました。

具体的な内容はグローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1) とこのブログ(グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(2)に書きました。

思考力、思考力といってただ書くだけでは子供たちの思考力は上がりません。 私は自分の受けた学校教育を思い出すと、作文の指導はありましたけれど、自分の言いたいことを骨組みで組み立てて、文章を書く、という練習はしたことがありませんでした。  書くことについては、中学3年生の時に、朝日新聞天声人語を毎日要約する、という勉強を行ったことはありますけれど、思考を組み立てて文を書く、という練習はしたことがありませんでした。  書くことによって思考力を上げるにはただ文章を書かせていてもだめで、子供たちにどういう思考ができるように訓練していくのか。 まず、指導者がその骨組みを示して、そのひな形に合わせて子供達に書く練習をさせて行かないと、思考力を育てる書き方はできないと思います。

こちらのブログには娘が6年生の時に「割合」を習ったときに受けた数学の授業で、先生が生徒たちに出した課題が書いてあります。

― 好きな野球チームを2つ選ぶ
― それぞれのチームの各選手の打率を調べる
― それぞれのチームの平均打率を求める
― 2つのチームの平均打率を比べる
― どちらが攻撃力のあるチームだと思うか
― その理由は何か。
― 数学は物事を調べる時にどのように役に立つか。


内容はプレゼンテーションの練習ですが「思考の組み立て方」「その材料の集め方」を先生が最初から最後まで、全部、指導して示しています。やはり的確に思考して結論に導くには最初は、先生が「こういう風に考える(骨組み)」「こういう作業をする」ということを具体的に生徒に教えていくのが一番効果的だと思います。 

よい書き方を子供たちに試行錯誤しながら見つけさせるのではなく、最初は先生が「良い書き方」「良い思考の仕方(骨組み)」をそのまま子供たちに真似させて、その形式でたくさん書く練習をさせていく方が、単位時間当たりの成果が高いと思います。

それでは、生徒の興味や個性を育てられないと心配される方もいらっしゃると思いますが、「江戸幕府が250年という長期にわたり存続した理由を書く課題」を見ていただけば、その心配は解消されるでしょう。  生徒たちは自分なりの意見を提示して根拠を示すことができます。

6年生の娘の数学の例はまず最初の訓練だったのだと思います。 こうして、思考の組み立て方を学んで身に着け、その後、自由な意見で、同じように思考を組み立てて書くことができるようになるのだと思います。

誰でも文章を書く前に自分の考えをまとめる作業をしています。 私がアメリカで見たエッセイ(小論文)の書き方はその考えをまとめて書くときの組み立て方を一定の形で表したものでしょう。

先生方は毎日子供達と接していらっしゃいます。 子供たちが、何ができて何ができないか、これを一番よく知っているのは先生方です。  まず、その子たちにできる、簡単な思考の組み立て方から教えて、だんだん高度なものにしていかれたらいいと思います。 何も全部アメリカの真似をする必要はありません。 参考になるものは参考にすればいいです。 

例えば、小学校高学年で最初に比較について書く、という例題を見ていたら、Aというピザ屋さんとBというピザ屋さんの比較について書く、という課題もありました。 これなら小学校高学年でも書けるのでしょう。

私は参考までにアメリカで先生に習った文章の組み立て方をブログ「グローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1)(2)」で書きましたが、日本の子供たちには今までそういう練習はなかったのですから、先生方が、まず、子供たちにも無理なくできる、という課題から始められたらいいと思います。  これは大学入試のためにいきなりやっても身につきません。 小学校高学年くらいから少しずつ訓練していくと年齢に応じて、高度な問題も上手に書けるようになるのでしょう。 もっともこういう思考を本格的に鍛える時期は高校生のようですけれど、大学入試のために始めるのではちょっと遅いと私は思います。もう少し小さい時から少しずつ書く練習を取り入れていった方がいいと思います。 小学生や中学生のころは自分の意見を主張することより、観察したことをわかりやすく説明する文章を書いたり、2つのものの比較をする文章を書いたり、起こったことを時間の経過に沿って書く練習の方が子供たちにやりやすい、と先生が判断されれば、そういう練習を中心にするのがよいと思います。  (論理的に書く練習は重要ですが、書きたいことを形式にこだわらずに自由に書ける、日本の作文のような書き方もぜひ残しておいていただきたいと思います。  私は、娘が中学3年で帰国して、受験科目に作文がある高校を志望校に選んだ時に、娘に作文を書かせてみましたら、全く書けませんでした。 その時、全国作文コンクールの入賞作品が収められている本を買って娘に読ませました。  ところが5文字ごとにつっかえるような読み方で、困りました。 それで私が代わりにいくつか読んで、録音し「作文はこういう風に書くの。聞いてみてね。」といって娘に渡しました。  私はその時読んだ入賞作品にとても感動しました。  社会の問題にこれほど真剣に向き合っている生徒がいる、家族の絆をこんなに大事にしている生徒がいる、などなど。。。本当に感動しました。 アメリカで、高校の先生にエッセイの書き方を習っていた時に、「こんなに論理的に考えて、意見やそれを裏付ける事実や例をたくさん用意しなくても、思ったことをそのまま書けるような文章をたまには書きたいなあ、と何度か思いました。 そういう文は、読んだ人に、書いた人の感情や状態を追体験させるような文章でもありますね。 そういう形式もまた、大事だと思います。作文の指導もぜひ続けていただきたいと思います。論理的な文章ばかりだと、私などは息が詰まってしまいそうなこともありました。) 生徒に書かせる内容は、先生方が今生徒たちにどういう事柄について考えてほしいか、それを題材にされたらよいと思います。 例は、こちらのブロググローバル化に対応した学校教育 中学、高校の場合(1)」にもいくつか載せてあります。

アメリカ人の先生にエッセイを教えてもらっていたとき、原因と結果について書く、という課題の例を見ていたら、「妊娠中絶が女性に及ぼす心身の影響」というものもありましたので、かなり専門的な分野でも「比較」や「原因と結果」「自分の意見を述べる」などの形式は、そのままつかえるのだと思いました。

先ほどのプレゼンテーションの練習でも見ていただきましたが、国語以外でも書くことはよく行われていました。 息子の宿題を見ていましたら、数学でも週3回宿題が出るとしたら、そのうち2回は記述式で答える問題が5問のうち1問入っていました。 物理の宿題でも記述式のものがありました。  化学のレポートもありましたし、書くことは文系、理系の科目どちらでも宿題はありました。(文学的文章は除きます)

ですから、どの科目の先生でも、論理的に思考を組み立てて書く指導を「自分の教科で使われる形」で生徒に教えていかれたら良いと思います。

漠然と「思考力を上げるから記述式」と言っていても子供達の思考力は上がらないと思います。 学校で、先生方が各教科、こういう思考の仕方ができるようになってほしい、と思う形をまず、骨組みとして子供たちに教えて、それに沿って書かせる練習をさせていかれたらいいと思います。 大学入試に記述式を出題すれば思考力が上がるわけではありません。 やはり授業で先生方がこういう思考の仕方(骨組み)をしていくと筋道を立てて考えられる、という形を教えて、子供たちに練習させていかれるのがいいと思います。 その時、どういう事例が重要で、どういうことが、それほど重要な意味を持たないか、取捨選択をする判断力も培われていくでしょう。

私は書くことそれ自体が思考力を上げるのではなく、

書くためにする次のこと
(1)結論にもっていくまでの思考の組み立て。(骨組みで考える)
(2)事柄の整理(たくさんある事柄の中から自分が書こうとするテーマにおいて重要な事柄とそうでない事柄を見分ける判断力。)

これらが思考力や判断力を向上させていくと思っています。


文部科学省も思考力を育てる書く練習が必要だと認めていますので、これは文部科学省の方針にも沿うものだと思います。 各教科、良い指導例は多くの先生方に共有してもらったらよいと思います。





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高校入試で子供たちが親の収入によって差別されない為に以下のお知らせを書かせていただきます。

高校入試のスピーキングテストについて(大学入試のスピーキングテストについても同様です)

高校入試のスピーキングテストは本来文部科学省が学校教育で正しい発音を生徒に教えてから行うべきものです。  しかし、文部科学省が教科書にCDもつけず、正しい発音の仕方も学校で教えないまま、高校入試でスピーキングテストを実施する動きが都立高校などで始まっています。 (大学入試でもスピーキングテストが行われようとしています)  これは、スピーキングスキルの習得を塾や予備校、会話学校に丸投げするものです。  学校で教えていないスキルを入試でテストすることはあり得ません。

これでは経済的に余裕のない、塾や会話学校にいけない家庭の子供は誰にも正しい発音を教えてもらえず、練習するCD(音声モデル)も与えられないまま、高校入試でスピーキングテストをされることになり、明らかに親の収入による進路の差別が始まります。(詳しくは2018年3月8日のブログ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」をお読みください。)

皆さんの身近に教育関係者がいらっしゃいましたら、ぜひ「高校入試のスピーキングテストは子供を親の収入で差別するもの」であることをお伝えください。  (大学入試のスピーキングテストについても同じことです)  
15歳で親の収入のために進路を差別されるのでは子供たちがあまりにもかわいそうです。

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英語教育については、下のブログも併せてご参照ください。  日付をクリックすると移動できます。
2017年10月12日
文部科学省 新中学校学習指導要領 英語 「4技能」は全く効果がない(子供たちが通じる発音でスラスラ話せるようになる学習指導要領の見本付き)




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この後は、いつも書いていることです。

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7月30日以降、私は、いつもブログに書いている3つのことの2番目、「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について」という項目の最初のほうに文章を付け加えました。 

それをお読みになると私がこの4年間、全く名前を出すことのなかった石渡誠氏の名前をなぜ書くようになったのか、その理由がお分かりになります。

英語で考える指導法の提唱者、石渡誠氏は、その方法が有効であるならば、日本語訳を使わず、アラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうかご自身でやってみて、その結果を公開してください。  「英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきて、良いことです」(2017年7月30日のブログ)などとおっしゃるのは、それを自分で証明してからにしてください。
  
自分で、その証明ができないなら、「英語で考える指導法」は、本当は実在しない「英語で考える詐欺指導法」であり、「英語を英語で理解する指導法」は、本当は実在しない「英語を英語で理解する詐欺指導法」ということです。この詐欺指導法を提唱する石渡誠氏は、自分が日本中の高校生、中学生(「英語で授業」は決定されましたが、まだ実施はされていません)にどれほどひどいことをしてきたか、真剣に自覚されたほうがいいと思います。 

教師としての良心があるなら、自分の商売を拡大する前に、今もなお石渡氏の「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になっている日本中の高校生、中学生にすることがあるでしょう。

石渡氏の2015年5月7日のブログを読むと、文部科学省にこの「英語で考える詐欺指導法」を持ち込んだのが石渡氏であることが分かります。  私たち国民は、この「英語で考える詐欺指導法」がどうやって文部科学省に持ち込まれたのか、知る権利(国民の知る権利)がありますので、このことを書き添えました。

私は、その数か月後、頭の打撲が治ったころ、インターネットで検索して、石渡氏のブログに書かれていたこの会合についていくつかのブログを読みました。  そこには、「この会合には英語界の重鎮中の重鎮の方々が集まっている」とか「英語教育界の大御所の方ばかり」とか書かれてありました。(「2015年5月5日 ついに変わる! 英語教育改革の全貌」で検索すると現在でもいくつか出てきます。)

石渡氏の5月7日のブログを読んだ私は、「どんなに立派な肩書をお持ちの英語教育の専門家の主張であっても、私の経験に照らし合わせてその主張が間違っていたら、私は一歩も引いてはならない」と決意しました。  そうしないと、日本中の子供たちが、「英語で考える詐欺指導法」の犠牲になってしまう」と思いました。

それで、2015年6月1日のブログを書きました。  どれほど、中学の英語の授業を英語ですることを阻止したかったかといえば、頭を打って、容体が急変した時は、知人にこのブログのアップを頼むほど、私は、それを阻止したいと思いました。(その時のことはこちらのブログに書いてあります)

石渡誠氏は、日本中の子供たちに誤った指導法をさせて、教師として、良心が痛むことはないのでしょうか。  今日も一生懸命、学校で勉強しているたくさんの子供たちのことを考えたことはないのでしょうか。

* * *

私は随分長い間、自分の本のランキングを妨害されていますが、おそらく、やっている人は、私が英語教育の分野からいなくなるまで、妨害を続けるのでしょう。

ただ、私は、英語教育の分野からいなくなるわけではないようです。

こちらのブログに書いた外国人の方が、1999年11月にこのことの後、どういう結末になるのか、私に教えてくれました。  少なくとも、私は妨害されて、英語教育の分野からいなくなる、とは言われませんでした。

18年前、その結末を聞かされていたので、私は、「英語耳」の松澤喜好氏に盗作されようと、妨害されようと、日本人が誰も聞けない音について本を書いていようと、今日まで、頑張って来ることが出来ました。  どんな立派な肩書を持つ英語教育の専門家の言うことも自分の経験から見て、間違っていたら、一歩も引かない、という決意ができたのも、文部科学省の方針に正面から反対したのも、50年間信じられていた松本亨さんの主張を否定したのも、この後、どういう結末が訪れるのか、あの時、その人から聞いていたからでした。  

なぜ、その人が、私にそんな先のことを教えてくれたのか、その時は分かりませんでしたけれど、今は、わかる気がします。

たぶん、その方は、2008年以降、私がどれほど苦しい思いをするかご存じだったのだと思います。 2008年以降、私が「英語耳」の松澤喜好氏と、KADOKAWA/アスキーメディアワークスのためにどれほど泣くことになるか、ご存じだったのだと思います。(詳細はこちらです。)  その時にくじけないように、その苦しさの先にある結末を教えてくれたのだと今は、思っています。

もう私の本のランキングを下げるなどという行為はおやめください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス社長塚田正晃氏は「著作権法に抵触するのは犯罪行為だ」と言っています。(こちら) 松澤さんは、「松澤は盗作!というのはすごーい!」とHPに書いていましたが、塚田さんの主張によれば、盗作は犯罪行為です。  

他人のランキングを妨害するのも、営業妨害ですから、犯罪行為です。    

もう妨害はやめてください。

KADOKAWA/アスキーメディアワークス(塚田正晃社長)は、隠ぺい工作までして、著者が自分のホームページで盗作を豪語するような悪質な出版はやめてください。(詳細はこちらです。)

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私の2冊目の本「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑色の本)を購入された方で、CDトラック6,13,18,19にある生徒さんと私の子音の長さの比較がよくわからない方は下のブログを参考にしてください。

2016年7月3日のブログ  子音を長く言う「川合メソッド2」「L」の練習 4週間後 (長いSの例)
2016年9月1日のブログ  RとFの練習 1か月後 マライア・キャリー (長いLの例)
2015年2月1日のブログ  「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」付属CDトラック6 例文 Where's my bag? 川合典子には生徒のWの発音はどう聞こえたか。

* * *

ここから先は、毎回掲載している3つのことです。「なぜ毎回3つのことを掲載するのか」その理由については、こちらのブログをご覧ください。 

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英語教育について

文部科学省の英語教育の方針は、効果がありません。

今年3月に発表された中学校の学習指導要領(英語)は全く効果がありません。  理由は、2017年10月12日のブログをご覧ください。


以下、効果のないものを列挙します。
1)現在、高校生が行っている「英語で授業」は効果がありません。  (理由はこちら
2)「CAN-DOリスト形式」は効果がありません。 (理由はこちら
3)「4技能」は効果がありません。  (理由はこちらこちら
4)現在、小学校の英語教育で子供たちが話しているのは、英語の発音ではありません。 (理由はこちら
5)大学教育を英語で行うと日本の学問は壊滅的な打撃を受けます。 (理由はこちら
以上の理由により、文部科学省の方針は効果がありません。

「発音」、「語順」、「英語で考える」、それぞれを習得する方法は2015年10月19日のブログ「川合式英語学習法」をご覧ください。

これは全部私自身がやってきたことです。  こうすれば、生徒たちは必ず通じる英語で話すようになります。
英語で考える指導法を提唱する人たちのように、「自分は日本語訳を使ったけれど、生徒たちは使うな」というような、誰も実際にはやっていないような指導方法ではありません。  私は全部自分でやっています。


「英語で考える」を提唱した松本亨氏の主張について

松本亨氏の「英語で考えるためには日本語訳を使ってはいけない」という主張は2006年、私の子供たちが全文和訳でバイリンガルになった事実によって否定されました。 

「英語で考える指導法」は詐欺である可能性が高いです。

松本亨さんの書いた「英語で考える本」「英語で考えるには そのヒケツと練習」という本に書いてある練習をしても英語で考えるようにはなりません。(2月4日のブログ「英語の思考活動」、3月1日のブログ「先生の宿題のプリント「英語で考える」ってどういうこと?」を参照してください)

英語で考える指導法を掲げる英語学校FORWARDの指導者、石渡誠さんは、松本亨さんの「英語で考える本」「英語で考えるには −そのヒケツと練習−」という本で勉強すれば英語で考えるようになると2017年1月19日のブログで言っていますが、この2つの本で勉強しても、英語で考えるようにはなりません。  「この方法を26年教えてきた」と書いていますが、26年間も効果のない方法を教えてきたというのは驚きですね。  

私は、この件について、松本亨さん(著作を含めて)以外の固有名詞を入れることをずっと避けてきました。  けれども、石渡誠さんの2017年7月30日ブログの冒頭の

日本の英語教育界もようやく変革の時が!英語を英語で教えるということが、中高でも広まってきています。良いことですが、

という部分を読んで、明記することにしました。  日本中の高校生を犠牲にしておいて、まだこういうことを言っていることに怒りを覚えました。  文部科学省でさえ、もう、中学校の英語の授業を英語で行うとは、言わなくなったのに、と思いました。  

石渡誠さんは、26年間も授業料を取って、「効果のない方法」を「効果がある」と偽って教えてきて、謝罪も損害賠償もしないのですか?  そうやって、「何を言っても何の責任も取らなくていい」と思っているから、いまだに「英語を英語で教えるのが良い」などとおっしゃるのでしょう。  

でしたら、ご自身がアラビア語アラビア語で学んで、アラビア語が堪能になるかどうか示してください。  それが出来ないのであれば、「英語を英語で理解する指導法」が間違っていたと認めてください。  そういうけじめをつけないからいつまでも「英語を英語で理解する」などという指導法を主張し続けるのでしょう。

日本中の高校生が迷惑していますので、自分もできない指導法を提唱するのはやめてください。

自分の商売のために子供たちを犠牲にするのは、もうやめてください。

Je suis Charlie. と母国語で言うフランス人が I am Charlie.という言語を学ぶとき、母国語の意味を参考にしていないはずはないでしょう。  日本人は誤った指導法を50年も信じて、大きく後れを取りました。


私は、英語で考える指導法の提唱者が、「Freedomを日本語に訳すとニュアンスが分からなくなるから英語のまま言わせる」とブログに書いているのを読みました。  でもそれでは何も教えていないのと同じです。

生徒から、アメリカ人にとって自由というのはそんなに大事なものなのですか?と質問されたら、アメリカ史がご専門の先生なら、「建国の歴史を勉強してみるとその理由が分かってきますよ」とお答えになるでしょうし、時事英語がご専門の先生なら、ニュースの中から、アメリカが個人の自由を制限する国に対して、非常に厳しい外交政策をとり、しかも大多数の国民がそれを支持しているというニュースを選んで、生徒と一緒に勉強していくでしょう。

Freedomを日本語に訳さずFreedom. Freedom と生徒に言わせる、などというのは何も教えていないのと同じことです。

それは、次のような例を想像してみるとよくわかります。

もし、アメリカで、日本語を学んでいる生徒が「日本の武士道とはなんですか?」と教師に質問した時、「日本人にとって武士道が、どういうものなのか知りたかったら、武士道を英語に訳さず、日本語のままブシドウ、ブシドウといいなさい」 などと指導する教師は一人もいないでしょう。   

仮に先生が「これが、日本語を日本語で理解する指導法だ」「日本語で考える指導法だ」などと言っても、生徒はばかばかしくてする気にもならないでしょう。  保護者からは「まじめに教えろ」と言われるでしょう。 

これが英語で考える指導法の正体です。

教える方は何も教えていない。
学ぶ方は何も学んでいない。
これが英語で考える指導法の正体です。

だから私はこの方法は詐欺だと言ったのです。(こちらのブログ

以前、この「英語のままFreedomと言わせる」と言っていた学校のブログで、車を売って受講料を払って学んでいるという生徒の例が紹介されていました。  それほどの高額の授業料をとって、「だますつもりはなかった」「知らなかった」では済まないです。  
詐欺は犯罪です。

詐欺は、刑法で刑罰が定められている犯罪です。

また、そのブログで、英語で考える指導法をする人々が、生徒の英和辞典を取り上げたり、生徒に英和辞典を窓から捨てさせたりする、ということも読みました。  中には最後まで生徒に英和辞典を返さなかったこともあったそうです。

「帰国子女に見る世界に通用する英語力の作り方」を読んでいただくとわかりますが、英語のわからない生徒にとって、英和辞典は命綱です。  英和辞典があるから、英語の意味が分かるようになります。  これを取り上げるなど、間違った指導法を盲信する指導者の誤りです。  英和辞典を取り上げれば生徒の英語力が上がるなどということは絶対にありません。

この詐欺商法を、中学や高校に持ち込んだのが文部科学省の「中学、高校の英語の授業を英語で行う方針」です。
だから、私は、「学校で詐欺を行わないでください」と申し上げたのです。
税金を詐欺に使わないでください、と申し上げたのです。
高校英語教育はいまだに詐欺ですね。
学校で詐欺教育をするために、車一台売るどころではない、莫大な税金が使われています。

早くやめてください。
高校時代は、高校時代にやらなければならない訓練があるのです。
複雑な英語を読み始めるときにどうしてもやらなければならない訓練があるのです。
この時を逸すると、取り返しがつかないのです。  高校生がかわいそうですから、「学校で詐欺」はやめてください。

発音練習について

学生時代、私はアメリカのセルフヘルプの本を読むのが好きでした。  当時、そういう本は翻訳しか入手できませんでした。  その中にこんな話が書いてありました。

チャーリーさんが自動車の調子が悪くなり、修理工場に持ち込みました。  修理が終わって取りに行ったとき、調子が悪かった原因を尋ねると「OOのネジが一つ壊れて、不具合が生じていたので、新しいネジに変えました」と説明を受けました。

請求書を見てみると、とても高い金額でしたので、チャーリーさんは、「ネジ一つ取り換えただけなのに、これでは金額が高すぎます」と文句を言いました。  そうしたら、修理をした人が、「最初は、何が原因となって不具合が生じているのかわかりませんでした。  それで、私は自動車の内部を全部調べました。  そしてOOのネジが壊れていることを発見したのです。  自動車内部をすべて調べるのに何時間もかかりました。  請求書はその労働の代金を含んでいるのです」と言いました。  チャーリーさんもその説明で納得しました。

この話は、どこを直せばよいかわかっているものを直すのは、簡単ですが、どこが悪いかわからないものを直すのは大変だ、ということを例えた話でした。

私は中学時代に英語のきれいな発音に魅了されて発音練習を始めました。  中学生でしたから一生懸命練習すればお手本のアメリカ人と同じ発音になると信じていました。  一年半くらいはちっともうまくなりませんでしたが、その日の練習が終わると、自分が今日練習した分だけお手本の発音に近づけたと思えて、とても、心が満たされていたのを覚えています。  一年半くらいは目に見えてうまくなってはいませんでしたが、毎日練習が終わって、テープレコーダーの手あかを白いハンカチできれいにふき取ってしまうときは、とても気持ちが充実していたのを今でも覚えています。

だから発音練習は大変だ、とかつらいとか思ったことはありませんでした。(決してうまくはなかったのに、です)

最初の本「英語発音、日本人でもここまでできます。」(赤い本)の原稿を書いていた時、私は編集してくれた人に次のような心配をお話ししたことがありました。

「読者の皆さんに、私は何の苦労もなく、発音を習得した、と思われると困るのですが、、、」
そうしたら、編集をしてくださった方からこういわれました。

「川合先生の本を読んで、川合先生が何の苦労もなく発音を習得した、と思う人はいません。  そんなことを心配するより、むしろ、こんなサイボーグみたいな練習をしなければ発音はうまくならないのか、と思われることをご心配なさった方がよろしいんじゃありません?」

編集をしてくださった方は、スタンフォードでの留学経験もありますので、英語がとても上手な方でした。  こういうユーモアのセンスもお持ちでした。

私は苦笑しながら「はい。。。。」と言って、すぐひき下がりました。

確かに文全体をお手本と比べて違いを探すにはサイボーグみたいな能力がないとだめだ、と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。  (先日夫がチャンネルを回していたら、ターミネーター3でシュワルツネガーさんが人の着ている洋服を見て、一瞬で、それが自分に合うかどうかをピピピピ。。。と判断する場面がありました。  サイボーグと言うとそういうイメージが浮かんできますね。)  

けれども、発音を直すときは、最初は、気づいたところから直していけばいいので、本当はそういうことはないのですが、人によってはそんなことはとてもできないと思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、その2年後、私は、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」(緑の本)を出版しました。  そしてその本に、どこを比べて何を直したらよいか書きました。  漠然と、文全体を比べたら違いは分からないかもしれませんが、「この音のこの違い(例えば、長さ)を聞いて下さい」とピンポイントで言われれば、誰でもそれは聞けます。

先ほどの自動車修理工場の例でいえば、どこに原因があるのか車の内部全体を調べるのはとても時間がかかって大変ですが、「ここのネジを変えてください」と言われれば誰でも出来るのと同じことです。  具体的に言われたことはやりやすいです。

「続・英語発音、日本人でもここまでできます」にはどこを聞いて何を直せばよいのか、書いてあります。  そのポイントは日本語のくせから来るものがほとんどです。  それは日本人に共通する発音の問題点ですから、そこを聞いて直していただけば通じやすい発音になっていきます。

「ここのネジを取り替えてください」というのと同じように、努力すればだれでもできることです。  サイボーグのような能力はいりません。

読者の方から、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」は、「英語発音、日本人でもここまでできます。」付属のDVDで発音練習するときの参考書のように使っています」というメールをいただいたことがありますが、この2冊は一緒に活用してください。  

「なぜそういう練習をするのか」その原理もわかりますし、理解が深まると、相乗効果となって皆さんの発音がとても上達します。  発音は、口の練習だけではうまくなりません。  上手な人の発音って何か違いますでしょう?  体になじんでその音がでてきていますでしょう?  耳はもちろん、たくさんの感覚を使って習得すると上手になります。

表面的な練習だけやっていると表に現れないことが、その原理や仕組みを深く掘り下げて理解していると、口の動きに現れてきます。 

お手本の発音を聞いたとき、「どうやって発音しているのか手に取るようにわかる」この状態になるわけです。  この深く掘り下げる役目ををするのが、「続・英語発音、日本人でもここまでできます。」に書いてあることです。  

「上手な人の発音が何か違う」と感じるのは、口の動きの後ろにある、さまざまな感覚の関連性を意識して、練習しているからです。  「自分の体をどうするとあの音が出てくるか、体が知っている」この状態になっているからです。  表に現れたものだけ練習する場合、長く練習しても、あまり変化はありませんが、深く掘り下げて、練習していると、だんだん、音を捕まえる能力も向上しますので、長い間には、口の動きだけ練習してきた人とは随分違う発音が出来上がります。  発音練習の基本姿勢のブログに出てくる生徒さんみたいにですね。  「英語発音」と「続・英語発音」の本は一緒に活用してください。



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ブタさんが持っている旗については、こちらの「きのこの山とたけのこの里」というブログの後半を読むと、私がどうやって、子音の長さが聞けるようになったのか、書いてあります。
ウサギさんの持っている旗については、こちらのブログ「松本亨氏が提案した「英語で考える指導法」はインプットをさせないでアウトプットだけをさせる方法 英語学習者が実際にはできない机上の空論でした」をお読みください。