川合典子 ブログ

英語教育、英語学習、発音習得、帰国子女の言語習得について書いています。

①GIGAスクール構想は失敗。コンピュータは大量に買ったけど教師を増やさないから。②デジタル庁(牧島かれん大臣)は犯罪集団「個人情報騙し取り庁」【国民の生涯学習支援の為】全国民の一生の教育データを収集すると騙す。データで教育はよくならない。データで金儲けする者の為に働くデジタル庁。③大学入試は各大学が行う入学試験だけで充分です。40年前の津田塾大学入試世界史は記述式でした 

2022年4月30日 GIGAスクール構想部分(緑色の部分)に加筆しました。
5月5日新井氏への質問はこのパートの下に青字で書いてあります。 なお「国民を誘導する劇場型詐欺」については「新井紀子劇場」としてこちらのブログの冒頭、水色の大文字部分の下に小さな黒字で詳しく解説しました。下村博文プロデュースです。


私は、青年期には論旨をとらえながら本を読んでいくことは論理的な思考を鍛える上でとても重要だと考えています。 新井氏のリーディングテストと読書量に全く相関関係がないなら(つまり国語教育で言うところの論理的な読解と新井氏のテストが関係ないなら)、彼女の作ったテストを青年期にさせる必要はないと思います。 以下にそれを説明し、結論のところに、詳しく書いてあります。


初めて新井氏の本「AI vs 教科書が読めない子どもたち」を読んだときから疑問を持っていた問題がありますので、それを書きます。
182ページに新井氏が行った大学生数学基本調査の問題が載っていました。問題は次の通りです。

次の報告から確実に正しいといえることには〇を、そうでないものには×を、左側の空欄に記入してください。

公園に子供たちが集まっています。 男の子も女の子もいます。 よく観察すると、帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。  そしてスニーカーを履いている男の子は一人もいません。

(1)男の子はみんな帽子をかぶっている。
(2)帽子をかぶっている女の子はいない。
(3)帽子をかぶっていて、しかもスニーカーを履いている子供は、一人もいない。

正しいのは(1)です。

国語の説明文というのは、まず、何を説明する文か、これを明確に決めて書きます。(私がアメリカ人の先生に習っていたエッセイもそうでした) だから知りたいことが書いていない文章を組み合わせて、知りたいことを探し当てなければならないような説明文はありません。 筆者は何を説明するかを明確に設定して説明文を書きます。 そしてそういう論旨のはっきりした良い説明文をたくさん読んで、子供達は論旨のはっきりしたわかりやすい説明文を書くようになります。 読み手が知りたいことをわざと隠したような説明文を国語の授業で読ませるようなことはありませんし、書くような訓練もしません。

新井氏の本によると、「この問題の正答率は64.5%でした。(中略)どこの大学に入学できるかは、学習量でも知識でも運でもない。論理的な読解と推論の力なのではないか。 6000枚の答案を見ているうちに、私(新井紀子氏)は確信するようになりました。」と書いてありました。

数学ではこれが論理的な読解と推論で解けるのであれば、数学の先生が数学の時間に文章題の解き方としてご指導なさればよろしいのではないですか。少なくとも国語では、こういう何を言いたいのかわからないような文章は説明文として学びません。


もし、上の選択肢の(1)、(2)、(3)のことを知りたかったら、国語では以下のような報告文を書くでしょう。

公園にいる男の子はみんな帽子をかぶっています。 女の子は帽子をかぶっている子もかぶっていない子もいます。帽子をかぶってスニーカーを履いている子が〇人います。

この問題は、わざと、知りたいことを隠して書いた文章から、知りたいことを求めさせる問題ですね。何を説明するかを明確に設定して書いてある説明文とは違います。つまり、国語の授業でこういう説明の文章(報告)を読むことはありません。  これは国語の授業で勉強する読解力とは異質な問題だと私は思います。(私の友人の娘さんは、こういう類の論理の矛盾を理解する勉強をするために、アメリカの大学院にもう一度勉強に行きましたけれど、それは、高校時代、大学時代を通じて、基礎となる、論理的な文章を書く練習を自分がたくさんした上で行う事です。日本で、そういう指導もしていないのに、知りたいことをわざと隠した文章を読ませて、知りたいことを探し当てるようなことをやっても生徒はちっとも論理的に考えるようにはなりません。 その結果、自分の意見を論理的に組み立てる力もつけませんから、論理的な文章を書けるようにもなりません。 学ぶ順番が違います。青年期にはまず、自分が論理的に考える訓練が必要です。) 



国語では「何を相手に説明したいのかわからない説明文(報告)」を子供達が学ぶことはありません。  たとえて言えば、国語の説明文が「タヌキ」について書く。ということであれば、この問題はタヌキがいることを書かないで木の陰に隠れているタヌキを探し当てるような設問です。  国語でタヌキの説明文を書く筆者は、最初からタヌキがよく見えるように書きます。  この違いですね。

国語では、論理的な読解をするには文章も論理的な骨組みに沿って書いてないとできません。何を言いたいのかわからない問題文から隠れたタヌキを探すような説明文は国語の時間には学びません。

東洋経済新報社はてなブログタグに載ったブログに「(この問題ができる)読解力が将来仕事をAIに奪われないかの分かれ道になるかも知れないのです。 」と書いてありましたが、会社で仕事していたらそれは全くありえません。 調査報告(説明文)は知りたいことが明確に書いて無ければ、使えません。 こんな報告を書いたら上司から「部署のみんなが知りたいと思っていることを明確にして書き直してこい」といわれるのがおちです。 

この問題文のような報告は、例えば、熱中症が心配でどれくらいの子供が帽子をかぶっているか調査している。帽子をかぶっている子とかぶっていない子で男女の違いがあるのか知りたいときなどこういう報告を書くでしょう。   
公園で遊ぶ男の子がスニーカーを履いているかいないか知りたい時、この問題文のような報告を書くでしょう。 そうでないことが知りたいのだったらこんな報告はするだけ無駄です。仕事なら上司から「調査して知りたかった事を明確に書いてこい」といわれるのが関の山です。

新井氏はこの大学生数学基本調査の問題で、大学生の読解力に疑問を持ったそうです。  
「どこの大学に入学できるかは、学習量でも知識でも運でもない。論理的な読解と推論の力なのではないか。」新井氏はそう確信したそうです。普通に考えてもこれは嘘です。 論理的な読解と推論の力で大学入試に合格するわけではありません。 大学入試に合格するには学習量も知識も必要です。 学習しなかったら大学入試に合格できません。世界史の暗記をした人はたくさんいるでしょう。 ここで彼女が「受験には読解力」と宣伝したい、という意図がみて取れます。彼女の最初の主張は「教科書の読解力が人生を左右する」でした。 私はこちらのブログでそれは嘘だと証明しました。彼女は「読解力をつければよい学校に入れる」と人々に思わせて、自分の読解力のテストを学校に売り込みたかったのでしょう。 それが彼女がベネッセや下村博文から請け負った仕事だったのでしょうね。 そうでなければ、それを嘘だと証明した私を政府がブログアクセス数を(1)にするほど妨害するのはおかしいです。 彼女のテストの間違いを指摘したら、どうして、政府から妨害を受けるのですか。 しかも、彼女は生徒に教科書を読ませたデータは全く取っていない。

この問題は、アミラーゼの問題と似ていますね。
アミラーゼについて書いた文を読ませてセルロースとデンプンの形を聞く問題です。

主題である、アミラーゼについては何も聞きません。「アミラーゼについて重要なことは何か」を考えながら読んできた子供たちの思考力は、何の評価も受けません。 アミラーゼの問題はただのひっかけ問題です。

タヌキをわざと隠してタヌキを探させる。  アミラーゼを説明してセルロースのことを聞く。 国語ではそういう説明文の読解はありません。
仕事では、こんな問題出来なくても、要求されている情報を的確に伝える文が書ければ、AIに仕事を取られることはありません。 むしろ、こんな報告文を書くより、仕事のスタッフが知りたいことを明確にストレートに書いた報告書が書けるほうが仕事では評価されます。  報告書を読むたびに隠れたタヌキを探すようでは仕事になりませんから。 会社というところは厳しいところです。 売り上げが上がらなければマネージャーはクビですし、オフィスはクローズですし、容赦なしです。 転職した先輩とあった時、先輩が「きのう、私の上司のところに業績の悪いマネージャーが呼ばれて、ドアイズオープンって言われてた。(やめるならやめてもいいよということでしょう)きびしいよね。」といってました。 就職した男の子は「この会社は UP OR OUT だよ」といわれたそうです。 業績上げて上に上がれなかったらやめるしかない。ということでしょう。 会社というところは厳しい所です。上司のNさんがアメリカ出張後、とても体調が悪そうだったので、「少し休暇を取られたらいかがですか」と私が言ったら、「僕が今長期に休まなければならないような病気になったら、僕はクビだよ」とNさんは言ってました。 新井氏は読解力がないとAIに仕事を奪われるといっていますけれど、仕事の厳しさをどれだけ知っているのでしょうね。 失敗したら政治家に泣きついて間違いを指摘した人間を徹底的に妨害して守ってもらえる職場はないですよ。


私は初めて新井氏の本を読んだときからアミラーゼの問題とこの問題が心に引っ掛かっていました。 少なくとも国語の授業でこういう読解力をつけさせるような説明文は読まなかった。 子供たちは読む練習を積み重ねたあと、書く練習に入ります。 そのとき、こんな文ばかり読ませていたら子供たちは何を言いたいのかわからないような支離滅裂な文章ばかり書くようになってしまうのではないか、と危惧しました。  これが論理的な読解力と推論で解く数学の文章問題なら、数学の先生が数学の時間にご指導なさればいいでしょう。 国語の授業ではこういう説明文は読みません。本を読むときもこういう説明文はありません。  本は明確な論旨に基づいて書いていきます。 何が言いたいのかわからないような本、知りたいことをわざと隠して書いたような本はありません。 だから新井氏のテストの点数と読書量には何の相関関係もないのでしょう。彼女の作ったこれらの問題は少なくとも、国語で言うところの読解力を測る問題ではありません。 私は青年期には、本が的確に読めるようになる読解力を育てることは非常に重要だと考えます。国語教育で言う論理的な思考は、論旨がはっきりした本を読むことによってついてきます。(その結果論旨がはっきりした文も書けるようになります。)論理的な思考は、青年期の思考力を育てるのにとても大事だと思います。自分の目標を達成するためには、どういうステップを取っていけばいいか、社会の問題を解決するためには何が必要か。そういうことを青年期に論理的に考えていけるようにするのはとても大事だと思います。なぜなら、自分が考えて出した結論に「それでいいんだ」と納得できた時、自分の考え方に自信が持てた時、若い人は今まで以上の能力と集中力を発揮して、目標に向かって行くことができるからです。それを実際の行動に移した時、自分のどこにそんな力があったのだろうと思うほど爆発的な力を発揮する若い子もいます。そのくらい、訓練をして、筋道を立てて考えられる、自分の出した結論、考え方に納得できるという事は大事なことです。  そういう観点からすると、新井氏の作ったリーディングテストの成績が読書量と関係ないなら、国語教育の意味で読解力を測っているかどうかわかりませんので、青年期に新井氏のテストをさせる必要はないと思います。(アミラーゼの問題だって、わざと子供たちを罠にかけて間違えさせる問題でしたし、こんなテストをわざわざ子供にさせる必要はありません)私は初めて新井氏のリーディングスキルテストの例題をやってみた時、読解力というよりはテスト問題に答える技術、という気がしました。それに、こういう何を言いたいのかわからない文を読んでいると何が言いたいのかわからない文を書くようになりますので、新井氏のテストなどやらなくていいです。 新井氏のテストをするよりは本を読んだ方が論理的な思考力を鍛えていけます。これからの人生に必要な論理の組み立てがしっかりした思考ができるようになります。青年期は論理的な読解により培った、骨組みでしっかり考えられる思考力を身に着けます。そういう読解力、骨太な思考力は彼らが生きていく上で力となります。良い本から力をもらうことはたくさんあります。 
 私は今回新井氏のことを知るもっともっと前から、「AIに負けない子どもを育てる」などという言葉を聞くと非常に違和感を感じていました。 AIというのは電源を入れると数量的な処理をする機械のことですよね。  機械は「思考」もしないし、「感動」もしないし、「問題意識」を持つこともない。 (私は「問題意識を持つこと」が、その人間が今まで気づかなかった自分の能力を発達させる大きな引き金になると思っています。 例えば、問題解決の方法は、現時点で誰も正解がわからないことを思考したり、実際に行動したりしながら求めていくことになります。 この過程で、思考力も行動力もとても鍛えられるでしょう) 機械はただの電気で動く「物」です。人間の持っている可能性は機械とは比べ物にならない。機械と人間は全く違うものです。 毎日生きている人間(子供たち)」を見ている教育者は「電気で動く機械に負けない人間(子供)を育てる」なんて考えもしません。 教育とはその子(人間)が内に持っている力を引き出して、育てること。今も昔もそれは変わらない。 人間が内に持っているものを引き出そうと毎日努力している教育者は機械のすることなんか考えない。  なんで機械とは全然違う人間(子供達)を同じところに置いて比べるの?と思います。私には「AIに負けない子供を育てる」は「銀行ATM(機械)に負けない子供を育てる」くらい違和感があります。 そんなちゃちなこと見て教育なんかしていない。 教育原理の伊勢田先生も教育心理の仁科先生も「教育とは人間を育てること」それを一番最初に私の心に植え付けてくれました。 新井さんは人間の子供達と電源入れれば動く機械なんかをよく比べる気になりますね。 


私は、こちらのブログで書いたセミナーで、通訳の方がとるメモの方法について習いました。 聞いている英語はどんどん進みますので、メモに時間を取っている暇はありません。 通訳の方々は→(矢印)や①,②などの番号や =(イコール)や括弧などを使って、手早くメモを取るようです。  それをそのセミナーで習って、実習が始まった時、ヘッドフォンで英語を聞きながらメモを取っている受講生の間を先生が回っていらっしゃいました。  その時、私の横にいらした先生から「以前こういうメモの取り方を習ったことがあるのですか」と聞かれました。私は「ありません」と答えました。  でも、今思うと私が10年以上にわたって自分が直面する問題を書いて整理し、解決を図っていた間に、そういう要点のまとめ方が身についていたのだろうと思います。実際、私は問題の構図がよく見えるようによく記号を使って図にしてまとめました。  そして、そういう要点をまとめていく思考の仕方はいつ身についてきたかといえば、この時だったのだろうと思います。 先生から、「川合、勉強しろよ。  君が集中して勉強出来るのは、これから結婚するまでの間だ。  先生の言う勉強は学校の勉強のことではない。  読みたい本を読め。  考えたいことを心ゆくまで考えろ」といわれ、私は、考えながら本を読み、本を読んでは考えました。 多分この時に思考を整理しながら、論旨を追って考えていくことが、思考の訓練になっていたのだろうと思います。 青年期に論旨をとらえながら本を読むことは思考力を鍛えるうえでとても大事だと思います。  新井氏のテストが、読書量と全く無関係なら、青年期にする必要はないと思います。 国語教育の意味で、重要な点を組み立てる読解力や思考力を育てているわけではないですから。
もし、私と同じことをやってみたいと思う高校生の方がいらしたら、一つお伝えしておきたいと思います。  いくら「心ゆくまで考えろ」といわれても、やはり、中間試験や期末試験の時はいったんその思考あるいは読書は中断して、試験の勉強をしてください。 その時やらないと後から追いつくのが大変になります。 それから、社会の問題などはいくら考えても出口が見つからないときがあります。まだ高校生ですからね。  そういう時は自分の無力さに絶望しないで誰かに話してみてください。友達でも先輩でもいいです。  大人はずるいって思うこともありますけど、大人にはちゃんと大人のやさしさがあります。 時には頼ってみてもいいと思います。   問題が全部解決できなくても人間一人分の努力が出来ればそれで充分だと思います。 

3/27新井紀子氏が東京都教育委員として説明責任を果たしていないことについてはこのブログの終わりの方にピンクの大文字で書いてあります。 (1)新井氏のテスト作成手順に重大な誤りがあること(子供たちに実際に教科書を読ませたデータを取っていない)、(2)設問に著しく不適切な内容があること(具体的には子供たちを罠にかける問題であること)、(3)読書と読解力は関係ないという主張。 読書量と新井氏作成の読解力のテストの点数にまったく相関関係がない。 でしたら、新井氏のテストが本当に読解力を科学的に測るテストであるのかどうか検証が必要です。(私は初めてこの問題を見た時は読解力というより「テスト問題に答える技術」という気がしました) 新井氏が教育委員としてこれらの指摘に全く答えず徹底的に無視して逃げ回っているのは「誠意がなくても教育委員の仕事なんかできる」という教育委員の仕事を軽視する姿勢の表れです。教育委員が教育者からの指摘に誠実に答えるのは当然の義務です。 都議会でお答えいただいても結構です。そうすれば各党の都議会議員も新井氏に質問ができますから。 (新井氏の教育委員への任命は都議会で行われたようですので。新井氏の教育委員としての任期は令和5年(2023年)9月30日までのようですね)その場合は、東京都に友人がいますので、資料を送ってもらいます。もちろんインターネットでも見られるでしょうけれど、私は正式な文書で新井氏の回答を残し、時間をかけて詳細にわたって検討したいと思います。  新井氏は教育委員として説明責任を果たしてください。 なお、ご回答の際は責任者である新井氏ご自身の言葉でお答えください。 他のどなたかに書いてもらうのは責任者としても、教育委員としても無責任だと思いますので、新井氏ご自身の言葉でお答えください。教育委員として誠実にご対応ください。 逃げ回ってお答えにならないのは、教育委員の仕事を著しく軽視している証拠です。 

(2022年3月4日)下村博文が教育行政にいることによって、日本の国際競争力は30%低下する。陰謀論を信じる人達にとっては下村博文は「どこかの国が日本を没落させるために送り込んだスパイ」のように見えるでしょうね。

「業者を儲けさせる為に、公教育の内容の一部を作為的に学校で教えないこと」によって、日本の国際競争力は30%低下する。

東京都は高校入試でスピーキングテストを実施することを決めています。 高校入試は本来中学校で習ったことを出題することが決まりですが、中学校でスピーキング教育は行われていません。 私がここで言っているスピーキング教育とは、「生徒が通じる正しい発音で英文を言えるようにする」教育です。 日本では現在、生徒に英語の教科書のCD(音声モデル)も持たせていませんので子供たちは発音練習するすべもありません。

学校で教えてくれないことが高校入試で出題されるとわかった時、保護者がすることは決まっています。 「塾や会話学校で教えてもらう」です。  けれども経済的な事情で塾にも会話学校にも行けない子供たちがいます。 以前塾に行っているのは生徒の7割くらい、と読んだ覚えがあります。 現在はどのような割合かわかりませんが、似たような割合だろうと思います。(そして、この高校入試でのスピーキングテストはやがて全国に広がっていくでしょう。 東京都に導入させた政治家は全国に広げるつもりでしょう。)

つまり3割の子供は必要なことを学校で教えてもらえなかったら、身に着けることはできません。 私は英語の教科書のCD(音声モデル)を生徒に与えてください、と言い続けてきました。  日本語と英語ではこれだけ音もリズムも違うのですから、それを身に着けようと思ったら、CDが必要だということは誰でもわかります。 コンピュータだって学校にあれだけ大量にそろえてくれるのですからCD一つ生徒に与えないのは、作為的に文科省がやっていると容易にわかります。  学校で、完璧なスピーキング能力を身に付けられれば、誰も会話学校に行きませんから。業者を儲けさせる為に公教育でするべき内容を作為的に教えないようにしています。 2020年「東大に英語民間試験をやらせろ」とすごんでいたのは下村博文でした。 教育行政で、業者が儲かるように方針を決めているのは下村博文です。

3割の子供は、スピーキング教育を受けられないまま高校受験に臨む。 本来なら学校でスピーキング教育を受け、学校から配布された教科書のCDで練習して、その努力に見合ったスピーキングテストの点数を取得して、自分が行きたい高校に入れるよう点数を取得できるはずなのに、学校で教えてくれないから、スピーキングテストの点数が取れないままの点数でいける高校に進学していきます。

つまり3割の子供たちは必要なことを教えてもらえない、そして自分にふさわしい教育を受ければ、本来の実力を発揮して進路を歩むことができたのに、不利をこうむった点数で進路を決めていくことになる。 つまり自分の本来の実力にあった教育を受けることが出来なくなる。 その子たちは自分の実力を十分に伸ばす機会を失います。

世界の国々では、業者が儲かるように公教育の内容の一部をわざと教えない、などという国はありません。  どこの国でも、国の未来を作る子供の教育では、教えるべきことはきちんと学校で生徒に教えています。  だから、例えば、外国では、10000人の子供に公教育を行えば、100人の各方面でリーダー的存在になる国民が育っていくとすると、日本では3割の子供が、公教育で充分な内容の教育を受けられないので、10000人の子供に公教育を行っても、70人しかリーダー的存在になる人間が育たない。ということになります。 

(大学入試でも、各大学はスピーキングテストをするよう文科省から求められていますが、自分の大学でスピーキングテストをする施設も人材もない大学がほとんどでしょうから、多くの大学が民間試験に頼ることになります。 その結果、経済的に複数回受けられない、あるいは住んでいる地域での受験が難しい、という理由で不利をこうむる受験生が何割か出てくるでしょう。 そうするとまた、受験料だけで済むはずの教育で、追加で課されるスピーキングテストのため、学力以外の要因によって自分の実力を充分に発揮して進路を選べない生徒が出てきます。 つまりここでも、何割かの生徒が充分に能力を伸ばす大学への入学が出来なくなり、人材の育成の割合が低下します。)

つまり、公教育の内容を「業者を儲けさせるために」作為的に取り除く下村博文のような政治家がいることによって、日本で育つ人材の数が低下するということです。

岸田首相が、日本の国際競争力を高める方針を懸命に実施しても人材が、他国より3割減少した人数しか育ちませんから、首相の努力は 0.7倍(3割減)しか機能しないことになります。 人材が育たない、というのはそういうことです。 政府がいくら良い政策を実行しようとしても人材が足りなかったら、効果は0.7倍(3割減)となります。

「公教育を浸食する」「業者が儲かるようにわざと公教育の内容の一部を子供に教えない」「公的なテストを業者に肩代わりしてやらせる」というのはそういう問題を引き起こします。  経済的に恵まれる、恵まれない、に関係なく能力や才能のある子はいます。 そのすべての子供の能力を伸ばそうとするのが、公教育の役割です。  ところが業者の利益のために、その公教育で本来教えるべきことをわざと教えない。 本来国がやるべきことをわざと業者に(例えば、スピーキングテストという形で)させる政治家がいると日本の人材は他国の0.7倍しか育ちません。 つまり3割少ない人数しか育たない、ということです。

公教育は国家の未来を創る人間を育成します。 公教育を浸食する政治家、下村博文がいるために、日本の国際競争力は30%低下します。
生徒全員に英語の教科書のCDを与え、学校で生徒全員にスピーキング教育をするべきです。
公教育を妨害し、日本の人材育成を妨害する下村博文は、首相の努力も政府の努力も妨げる。 陰謀論を信じる人達には、下村博文は「どこかの国が日本を没落させるために送り込んだスパイ」のように見えるでしょうね。


2022年1月31日 オレンジ色の文字の部分の下に「教育現場の先生方へ」という題で加筆しました。 その最後に赤い字でデジタル庁、文科省GIGAスクール構想)について加筆しました。一部そこから転載します。
国民を騙すデジタル庁のしたことは窃盗、監禁などと同じ「犯罪レベル」です。岸田総理は安倍元総理より悪質です。安倍元総理は高校時代のデータだけでしたが、岸田総理は「生涯教育」といって国民の一生分のデータをだまし取る。 国民の一生分の教育の歴史をだまし取る。 国民の人生の記録をだまし取って業者に売る(献金もらう)。 岸田首相は歴代首相の中で最も悪質です。 「全国民の人生の記録をだまし取って業者に売る」日本憲政史上最悪の総理大臣です。 2022年1月27日 デジタル庁の方針について最後の方にオレンジ色で加筆しました。その中に青字でデジタル大臣牧島かれん氏の間違いを指摘しました。2021年9月28日 中ほどに緑色の字で書いてある部分があります。     その下に文部科学省GIGAスクール構想は本当に個別最適化された学びを実現するものか?」を書きました。




(中ほど* * *の部分から今日のブログが始まります)そこに、私が受験したときの津田塾大学の記述式試験について書いてあります。

(2月27日木曜日教育再生実行会議の本当の目的)
私のブログアクセス数はどこからかの妨害によって見るも哀れな状態ですけれども、多くの方が読んでくださることを願っています。一応、親しい友人には、「私のブログへのアクセスができなくなったときには教えてね。」と2月1日(「民間試験導入へのシナリオはすでに出来上がっている」と書いた日)に頼んであります。

子供たちは授業で継続して「評価」を行うとこういうスピーキングをするようになります。民間試験を受けてもこうはなりません。「教育再生実行会議」の委員は英語教育については何も知りません。スピーキング能力を上げる方法も知りません。   今日(2月26日)先生方のツイッターこちらを見ました。ここまでしつこく民間試験に執着するということは「教育再生実行会議」の目的は教育の分野に業者を参入させることだったのですね。 また、こちらのポートフォリオというのも「ベネッセさんのシステムではなくあくまでも委託事業のシステム」と書いてありますが、業者が関係してくることは同じですね。 だったら、こんな回りくどい名前(教育再生実行会議)にしないで「教育に業者を参入させる会議」とはっきり命名したほうがわかりやすくてよかったと思います。 業者を参入させるために「4技能」「記述式」「主体性」と随分もっともらしい教育目標を考えたのですね。(でも、ベネッセのアルバイトに文章を採点させるとか、英検とTOEFLの対照表を作るとか、お粗末なものでしたけど。とにかく業者の参入が優先だから、こういうお粗末なものになるのですね。TOEFLと英検の対照表なんて、私の中では前代未聞の珍事だった。取り扱う英語が全然違うでしょう。)どんな理屈をつけても教育に業者を参入させるのが、この会議の目的だったのですね。(本当のことを言ったら、国民に受け入れられない、と命名した人は分かっていたんですね。つまり、「教育再生実行会議」という名前は最初から国民を騙すつもりで付けた名前ですね。) 教育の目的はビジネスの拡大とは違います。もし、本当に、「4技能」「記述式」「主体性」を子供たちに身に付けさせたいのであれば、まず、授業でそれにどう取り組むか、を考えるべきでしょう。それが、学校教育です。それこそが文部科学省がすることです。 まず、「評価」を持ってくるのは、「授業」では業者は入れられないけれど「評価」なら、業者を入れられるからですね。 このからくりでこの教育再生実行会議はずっと先生方を騙してきたのですね。 だましたのも一度ではないです。「民間試験を検討する」と言いながら、水面下で導入を目指し、ここでも、先生方を騙してきました。 人をだまして何かを教育の現場に導入させようとするこの会議は即刻解散するべきですし、この会議の決定も即刻白紙に戻すべきです。信頼のないところに教育などありえないです。(蛇足ですけれど、広辞苑によると「主体的」というのは、ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場に置いて行うさま。例「主体的な判断」「主体的に行動する」と書いてありますので、生徒に主体性を身に着けさせるには、まず、学校生活や社会生活で、自分から何をしていくかを考えさせて実践させることから始めたほうが良いのではないですか。そのほうが生徒の主体性を育てられると思います。教育では、「指導せずに評価する」などありえないです。 こんなに政治家に何度も騙されるなら、国民は自衛として、ベネッセの不買運動でもするしかないのでしょうか。でも、こどもちゃれんじとかやっているお子さんは多いですから、それも難しいのでしょうかね。だけど、これだけ悪質な企業も珍しいと思います。子供を食い物にするそのやり方が私はとても嫌です。ベネッセはそうやって儲かったお金で、献金するんでしょう。それでまた、ベネッセに有利な仕組みを作ってもらうのでしょう。皆さんが、教材など、もし選択肢がほかにあるなら、ベネッセ以外を選んでくださればいいなあ、と個人的には思います。)2月11日の朝日新聞東京大学・慶応大学教授鈴木寛氏が「民間試験を使うことが現実的です」とおっしゃっていますが、教室で評価したほうがもっと現実的ではありませんか?民間試験を受けさせても子供たちのスピーキング能力は上がりません。生徒と保護者(国民)も、なんの役にも立たない高額な民間試験より「学校で評価」してもらってネイティブ発音になる方がいいに決まっています。生徒は学校の勉強と家庭学習をしていれば、ネイティブ発音でスピーキングできるようになるのですから、お金もかかりません。 スピーキング能力の上げ方も知らないで民間試験を薦めるのはおやめください。 


国会議員が勝手に「○○会議」を作って、勝手に委員を選んで、国民の知らないところで協議して、「会議の総意でこう決まった」と言って業者が儲かる方法を国民の反対を押し切って全国で実施する。これが子供を食い物にする「ハゲタカビジネスモデル」です。 民間試験導入はこうして決まりました。 「教育再生実行会議」の人々は誰一人英語教育についてはご存じありません。知らない人に諮問して、知らない人の提言を実行して、教育の何が良くなるのですか。 国会はハゲタカビジネスモデルの使用を禁止する法律を制定してください。  そして国会議員が「特定の事柄を行うよう文部官僚に強要することを禁止する」と明記してください。違反した場合は議員活動停止など、具体的な罰則事項を明記してください。「ハゲタカビジネスモデル」がはびこる前にどうしても止める必要があります。 もし立法できなかったとしても、今後「○○会議」「○○委員会」が作られたらみんなで注視して、違反行為が行われていないか監視しましょう。もっともらしい名前に騙されないようにしましょう。教育は「再生」するどころか、もはやハゲタカに食い荒らされて、瀕死の状態です。「再生」していないのなら看板に偽りありですから、この会議は解散したほうがいいと思います。  逆に教育を食い物にした人の問題集はよく売れて儲かる。 まさに「教育再生実行会議」は「ハゲタカビジネスモデル」ですね。百害あって一利なし。即刻解散したほうがいいです。当然ですが、この会議が決めたことはすべて白紙に戻したほうがいいです。もちろん民間試験導入も。  

2月11日 朝、パソコンを開けたら(9:00)、ブログアクセス数は「0」でした。 10年ブログを書いてきて初めてでした。 文部科学省の妨害は相当きついですけれども、皆さんに知っていただきたい内容だったので、つぶされることも覚悟で書きました。 ツイッターなどで多くの方々にお伝えください。  私のように肩書もない一英語教師は圧力をかけられればすぐにつぶされてしまうのでしょうから(ブログだって、簡単にアクセス「0」にされてしまうくらいですから)つぶされる前に(まだ皆さんがブログを読んでくださっている間に)、最後に言いたかったことをひとこと言わせていただきます。  文部科学省や一部の国会議員、一部の大学教授、一部の経済界で活躍する方々は、もっともらしい名前の「会議」や「委員会」を作ってそこで子供を食い物にする「お金儲けの話し合い」をするのはおやめください。子供を守るのが大人の仕事ですから。 どんな立派な名前を会議に付けようと「ハゲタカ会議」や「ハゲタカ委員会」は子供にはいらないです。 「○○委員会」や「○○会議」は違法なことを「合法的に行った」というための隠れ蓑(かくれみの)に使われている。 自分の意向に沿った人間をたくさん会議に送り込めば、自分の思う通りに事を運べます。「ハゲタカ委員会」だって、「ハゲタカ会議」だってそうやって人選したのでしょう。思い通りにしたかったら何でも「○○会議」を作ればいいんです。 本来、入試を民間の業者に委託するかどうかなどという問題は国会で協議してから与野党の合意のもとに導入されるべきではなかったのですか。それを○○会議が決めたと言うからもともとが少数の意思であったものが(あるいは国会議員一人の意思であったものが)、まるで法律で決まったかのように導入できたのではないですか。 まるでマネーロンダリングのように「意見の出所を隠す」ために○○会議が使われたのではないですか。「資金洗浄」ならぬ「意見の出所洗浄」に「○○会議」が使われたのではないですか。 これからは「○○会議や○○委員会で決まったことは、国会の承認を経てから実行される」というような規定を設けたほうがいいのではないですか。そうしないと、好き勝手に委員会や会議を作って好き勝手なことをされてしまいますね。 これだけみんなが反対しているのに文部科学省が民間試験を死守しようとするのは、言われた通りしないと、怖いからなんでしょう?          私のブログのアクセスが禁止にならないことを祈っています。(私を「妨害する」ということは文部科学省だって、私の言う通りにすれば子供たちのスピーキング能力が上がるとわかっているのでしょう。分かっていてもそうできないのよね。ボスハゲタカが怖いから。人事権も握られているし。私の言う通りにしたら、ボスハゲタカがやりたがっている民間試験ができなくなってしまうからね。) 


民間試験導入のシナリオはすでに出来上がっている(2/1/2020)

文部科学省は、今は「民間試験導入に関して公平な議論をする」方針ではないのですか。 下のコメント(民間試験導入を主張する方々の中には、中学高校時代「学校の勉強の一環として」発音習得を行った人は一人もいない)と書いた日から、戻りつつあった私のブログのアクセスが再び激減しました。また同じ日から、いつも4つの検索ワードで検索すると2位に出てきていた「中学時代にきちんと発音習得を行った英語教育の専門家はいないのでしょうか」という2017年11月2日のブログが検索結果に全く出てこなくなりました。  文部科学省は今行っている、「検討会議」とか、調査とか、みんなただのポーズ(見せかけの態度)でやっていて、それが終わったら、「調査をやった」「検討した」「問題点を改善した。だから民間試験を導入する」というシナリオがもうすでに出来上がっているのではないですか? そうでなかったら、私のブログにこんな操作がされるのはおかしいでしょう。  上に上げたブログは1年以上毎朝同じ検索ワードで検索してきたものです。(昨年「英語教育改革は失敗した」と書いたとき一時検索結果に全く出てこなくなりましたけれど、その事をこのブログに書いた後、またいつもの順位に戻ってきていました)  いつもその検索では2位にあったものが、なぜおとといから突然、検索のどこにも出てこなくなったのですか?  また、同じ時から私のこのブログのアクセスが激減するのですか?(そういうことを専門に操作する機関がある、と昨年の7月知りました)  もしかして、文部科学省は民間試験に賛成する人たちが、「中学高校で学校の勉強の一環として、発音習得をやった経験がない」と私が書いたことを人々の目に触れさせたくないのではないですか? 私は文部科学省が公平な議論をしているようなふりをして、実は水面下で民間試験導入に向けて、情報操作をしている、とこの時、感じました。 だとしたら、今多くの先生方が一生懸命されている努力を踏みにじるものです。  この先に待っているのは、「検討した」「調査をした」「問題点を改善した」「だから民間試験を導入する」という文部科学省のシナリオではないのですか? 民間試験導入を「合法的に行っている」と主張するために「委員会」や調査をさせているだけではないのですか?  そういう視点から見ると、今、先生方が、疑問を呈している文部科学省の行動がよく説明できるのです。 私はこういうことをブログに書きましたので、この先、つぶされてしまうかもしれませんが、民間試験導入を生徒のためにやめさせようと努力されている先生方にお伝えしたかったので、怖かったですけれども書きました。 

民間試験導入を主張する方々の中には、中学高校時代「学校の勉強の一環として」発音習得を行った人は一人もいません。彼らは学校教育におけるスピーキングの指導と評価について何も知りません。彼らの言う通りにするとまた失敗します。

【2024年、再び民間試験導入の口実を作らせないために】  スピーキングのスキルは本来学校で教えるものです。学校で教えることを学校で評価できないはずはないでしょう。民間試験導入などと言う教師は学校教育におけるスピーキングの指導・評価の方法を全く知らない教師です。 発音を習得する中学、高校の時期には、学校で継続してスピーキング評価を行わないと、子供たちに正しい発音でスピーキングすることが定着しないのです。 学校でレッスンが終わるごとに継続して評価されるからこそ、子供たちは家庭学習でスピーキングの練習をしてくるのです。(基礎は最低中学2年間。長い文をスピードを上げてしゃべれるようにする高校時代は3年間。継続して学校でスピーキングを評価する必要があります。評価はその都度生徒に知らされます。 前より上がっていたら、励みにもなるでしょう。 下がってしまったら、「今度は頑張ろう」という気にもなるでしょう。このように「評価」は長い発音習得期間中、生徒のモティベーション維持にも重要な役割を果たします。 入試の際は3年間の総合評価を高校、大学に提出すればよいのです。)  中学生が学校教育だけでこういうスピーキングが出来るようになる「指導と評価の方法」はあります。高校生の「指導と評価の方法」もあります。(「中学生がこういうスピーキングが出来るようになる」と例示した音声はHP「通じない日本人の発音」より転載しました。私自身が50年前、学校教育だけでこういうスピーキング能力を習得しました。私のスピーキング能力習得過程は「スピーキングの指導と評価」に「民間試験は不要」「業者は不要」、「必要なのは授業での継続する評価」を証明するものです。 民間試験導入を主張する教師など「スピーキングの指導と評価」のやり方を全く知らない教師です

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大学入試は各大学が行う入学試験だけで充分です(40年前に思ったこと)
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私が大学生になるころまで、大学入試は各大学が行う入学試験だけでおこなわれていました。 そこへ突然、各大学が行う試験以外に「全受験生が受ける共通一次試験を行う」という案が起こってきました。  「各大学が試験をしているのだから共通テストなどいらないだろう」というのが当時の多くの人の意見でした。 特に私立大学はそれぞれ特色のある教育をしているのだから共通テストを学生に課する必要はない、というのが多くの私立大学の考え方でした。

ところがこの方針はなかなか取りやめになりませんでした。 当時、自分の大学受験が終わっていた私は、その問題を深く考えることもしませんでした。  たぶんそれが政府の方針で、すでに実行の方向は確定していたのでしょう。 そんなある日、教育原理の授業で伊勢田耀子先生が授業の合間にこういうお話をされました。 


共通一次試験を行うかどうかを話し合う方々の中に、自分が国立二期校出身の先生がいらして、その方が国立一期校と二期校の区別をなくしたいという強い思いを持っていらっしゃるのです。 それで、全大学共通の試験を実施しようと大変熱心なのです。」とおっしゃいました。  当時国立大学には一期校と二期校の区別があり、人々の間では「二期校は一期校より劣る」という認識がありました。ですから、その先生は自分が世間で劣ると思われている二期校出身だという事実をなくそうと共通一次試験の導入に一生懸命だったのだろうと学生だった私は思いました。(もちろんそれは政府の方針でその先生がどう思っているかなど関係ないことだったと思います。でも学生だった私は、「共通一次試験を行うかどうか、国の制度を変えるような大変なことが、個人の劣等感を強い動機に動かされるというのは、驚きだなあ」と思いました。今の民間試験もお金儲けが動機でしょうから、国の制度も非常に原始的な動機で動いているというのもあながち間違いではないかもしれませんね。) その時、講堂で授業を受けていた学生全体がどよめくようでしたから、私のように思った学生はたくさんいたと思います。  教育原理の授業は、数学、英語、社会科、すべての教師になる学生の必修科目でしたから、大きな講堂のような教室で行われていました。 その学生たちが一瞬どよめくようでした。 そして、共通一次試験実施によって、国立一期校、二期校の区別はなくなりました。  共通一次試験は、その後大学入試センター試験に変わり、今年で最後となり2020年度からは大学入学共通テストが実施されるそうですね。

私は、全受験生に共通のテストを受けさせることなど、もともと必要ないものであると今でも40年前と同様に思っています。 夫は私より少し年上の世代ですが、先日「お父さんは当時共通一次試験についてどう思った?」と聞いたら、「大学が入学試験をするんだから2回もいらないと思った。」と言っていました。当時はそれが、普通の反応でした。 なぜあの頃、共通一次試験という案が出てきたのか、すでに自分の大学受験が終わってしまった私は深く調べることもしませんでした。たとえ、調べても、今ツイッターで情報を公開してくださる先生方のような情報は分からなかったと思います。



伊勢田先生は教育原理の最初の授業で、次のようなお話をされました。「教育とは何か」  先生は教育の「教」という字の左側の部分の成り立ちを説明しながら、(教の字の左側半分の下の部分は「子」という字ですね。)この部分を「弱い子を抱きとる」というようにおっしゃいました。 つまり教育とは「弱い子を抱きとって育てる」とおっしゃいました。(インターネットで調べたら、これとは違う解説でしたが、私は伊勢田先生がこう教えてくださってよかったと思います) 

なぜ「教育」が「弱い子を抱きとって育てる」という意味なのか、それ以来、ときどき私は考えました。 弱い子と言うのは大事に育てないと死んでしまいます。  弱い子と言うのはやさしく手をかけて育てないと死んでしまいます。  たぶん教育というのは大事に手をかけて子供を育てることなのだろうと思いました。



私が大学受験をした年の津田塾大学国際関係学科の世界史の試験は記述式でした。  ただ一問「1870年以降の世界の情勢について述べなさい。」という問題だったと思います。    私の答案の書き出しは、「世界はこのころから帝国主義的傾向を強める。」だったように記憶しています。

「自分の書く文章を自分が入学して学びたい大学の先生が読んでくださる」そう思って、試験時間内、一生懸命書いたのを覚えています。  入学して、私の担任になってくださったのは藤村瞬一先生でした。  藤村先生はある時、学生との親睦の食事をしていた時に、「僕は世界史の答案を採点したんだけど、目にじんましんが出来るようだった」と笑いながらおっしゃいました。 大学の先生方は、どんなに採点が大変でも、「自分の大学に、こういう学生が欲しい」という強い思いを持っていらっしゃるから、目にじんましんが出来るような採点でも、一生懸命してくださるのだろう、と思いました。自分が入学したい大学の先生が読んでくださると思うから私も一生懸命答案を書きました。  藤村先生がそうおっしゃったとき、 「この先生が、私の答案を読んでくださったのだな」と思いました。 その時、自分の書いた答案の書き出しが頭に浮かびました。 大学の先生方は、「自分の大学にはこういう学生が欲しい」「こういう学生を教えて、育てたい」という強い思いを持っていらっしゃるから、一つ一つの答案をどんなに大変でも読んでくださるのでしょうね。 入学してから、いろいろな国際問題を考えてみると確かに入試に出題されたあの時代に原因の一端がある問題がとても多いと思いました。 先生は「今、国際関係を学ぶ学生にはあの時代のことをきちんと理解したうえで学んでほしい」という思いがおありだったのだ、と思います。 この記述式の入試問題は「国際関係学科で学ぶ学生には、この時代のことをきちんと理解した上で入学してほしい」という先生の思いの表れなのだな、と思います。「国際関係学科にはこういう学生が欲しい。こういう学生を育てたい」という先生の思いがよくわかる入試問題でした。

藤村先生は、一年生全員が履修する国際関係概論を教えていらっしゃいました。  前期後期の試験は記述式でした。 先生は「テストには何を持ち込んでもよい」とおっしゃいました。 学生はいつも数冊の本を持ち込んでいました。 私は、大学の先生というのは、学生の書いた文章を読めば、その生徒が、どのくらいそのことについて考え、勉強し、調べ、本を読んでいるか、よくわかるのだろうと思っています。  それは、その分野を研究し、教えてきた大学の先生だからこそわかることなのだろうと思っています。(ベネッセのアルバイトにはこういうことはわかりません。) 受験生の小論文を読んで、その生徒がそのことについてどれくらい考え、勉強しているか、判断できるのは大学の先生のほかにはいないと私は思っています。 私は今まで、大学の先生をとても尊敬してきました。 大学時代講義を受けた国際関係学科の先生も英文学科の先生も今でもそのお顔が鮮明に思い出せるほど、授業の印象は強く心に残っています。 おっしゃった言葉を時々思い出すこともあります。 でも今回、大学の先生にも尊敬できる先生と尊敬できない先生がいるのだということを目の当たりにしました。

物事というのは大きくなってくると大きなお金が動きます。  大きなお金が動くところには必ず、悪い人が入ってきます。  大学入試も各大学が個別に行っている分にはそれほど大きなお金が動くこともないし、それでお金儲けができると先生方は考えないでしょう。 生徒が多くなれば受験料も大きな収入でしょうけれど、「50万人」とは規模が違います。

ところが一回に受験生全体、50万人というと(複数回受験するとそれ以上)民間試験のような場合には、受験料の合計だけで、億というお金が動くことになります。  こうなると各大学の先生が受験生の採点の時に持つ「自分の学校にはこういう学生が欲しい」という思いとはかけ離れた思いを持つ人たちが入り込んできます。  もはや学生を「大事に育てたい」という思いのない人がたくさんそこに入り込んできます。  これが質の高い教育をどんどん壊していくと思います。(スピーキングの評価なら民間試験はいらないと何度も私は申し上げていますし、その証拠も音声で載せてあります。)

一連の試験の中で、先生方が自分の学校にとりたい生徒を選ぶときのような気持を持っていたら、それほど不正は生まれないでしょう。   各大学が入学試験をするのだから、共通試験などいらないのではないですか。 もともと共通一次試験などなぜ必要なの?とあの頃(40年前)みんな思っていました。 共通一次の話がでると、みんな「もう試験は大学がやっているんだからなんでそんなものいるの?」「??????」という感じでした。  

「基本的な部分は共通テストではかれて、個別試験で限られた層に適した問題を出すことが出来る」という意見もありますけれど、例えば、東京大学の試験を受ける人が、基本的な部分を勉強していないことがあるのでしょうか。当然、基本的なことは勉強しているでしょう。 基本的なことを勉強していなかったら、どんな層に適した問題だって解けないのではないですか。  共通テストをやめたって、本当に基本ができている生徒がとりたいと思えば、自分の大学の入試で、基本的な問題を出せばいいでしょう。 英語に関して言えば、基本ができていなければ、どんなテストも出来ません。   読解も出来ませんし、英作文も出来ません。 (単語を意味が通るような語順に並べることが出来ませんから)  だから、基本と各層に適した問題などと2度に分けてテストする必要はないと思っています。 (個人的なことを言えば、津田塾大学の世界史の試験は記述式一問でしたけれど、私は世界史は文明の起源から、第二次世界大戦後の世界まで、まんべんなく勉強しました。 受験生はみんなそうではないですか。 共通一次試験がなくたって、受験生はみんな基本は学んでいます。 あの時の津田塾大学の入試で「1870年以降の出来事」だけ山をかけて学んで、その他の世界史の重要事項は何も勉強していない、などという受験生は一人もいなかったと思います。 基本を勉強するのは、勉強の手順として当たり前です。誰でも学習の一番最初にすることです。 基本を勉強していなかったら、どんな問題も解けません。)



文部科学省がこれからは記述式問題を増やす方向で出題してほしいと思うのであれば、そのような要請を各大学にすればいいでしょう。  各大学はそれに沿った出題をするでしょう。  立教大学のように民間試験をしたい大学にはしてもらえばいいでしょう。 「規模の大きい大学はどうするか」それはその大学の先生方に考えていただけばいいでしょう。 先のブログで、民間企業の人たちは一見不可能に見える問題にも挑戦していかなければならない、と書きました。 先生方が挑戦したら、今まで誰も考えもしなかった良い方法が見つかるかもしれません。 最初から出来ないと思うことなどありません。 「学生に未知のものに挑戦して」というのなら、先生方も挑戦してみてください。

教育は「こういう学生を育てたい」という思いを持つ人々だけがかかわれるような規模で行えるようにしておくほうが、教育の質は保持できます。 大学教育というのは入学試験で「うちの大学にはこういう学生がほしい」と先生方が選ぶところからもう始まっているのではありませんか? だから各大学が行う入学試験だけで十分だと思います。

共通テストに記述式を入れてベネッセの学生アルバイトに採点させる、という話を、先生方のツイッターで読んだとき、「もう、だめだなあ。こんなことでは学力は上がらない」と思いました。 私はアメリカにいたと言ってもニュージャージー州の私の周りの高校生のことしか知りませんけど、アメリカ人は本当に書くことをよく鍛えていました。 中学生はリーディングの授業で本を何冊も読んでいました。 プロジェクトで考えることもたくさんさせられていました。 ベネッセのアルバイトに採点させる記述式ではもう、とてもとても太刀打ちできないと思いました。中止になったとはいえ、その程度の認識で考えていたのですよね。 子供を変えたいのなら、授業を変えなければなりません。 テストの話ばかりするのは「テストなら、業者を入れられる」 「授業には業者は入れられない」だからでしょう。 でもね、子供の実力をつけるのは授業、子供を変えるのも授業。 学校教育は授業なんです。 先生方が「テストを変えれば高校生の実力が変わるというのは考え方が間違ってる」と何度も指摘されています。 その通りです。 でも、民間試験を推進しようとする方たちはすべて承知でおっしゃっているのです。 なぜなら「テストなら、業者を入れられる」「授業には業者はいれられない」からです。 「民間試験を導入したい」と主張する方のお話しを聞くときは「テスト業者を参加させるのが最も大事」「テスト業者を儲けさせるのが最も大事」という前提で聞いていると、その方のお話しがよく理解できます。    一部の政治家の皆さん、お金儲けのために子供を売らないでください。 これはやがて、国を没落させることになります。 一時のお金儲けのために国を滅ぼさないでください。

悪い人を強制的に排除したかったら、共通テストをやめればいいです。 大きなお金が入ってこなければ、不正も減るし、業者も入ってこないでしょう。 40年前、「もう各大学が入学試験をやっているんだから、どうして、もう一つ試験をしなければいけないの?」と思ったその思いは今も同じです。 

繰り返しになりますけれど、もう一度掲載しておきます。
「基本的な部分は共通テストではかれて、個別試験で限られた層に適した問題を出すことが出来る」という意見もありますけれど、例えば、東京大学の試験を受ける人が、基本的な部分を勉強していないことがあるのでしょうか。当然、基本的なことは勉強しているでしょう。 基本的なことを勉強していなかったら、どんな層に適した問題だって解けないのではないですか。 共通テストをやめたって、本当に基本ができている生徒がとりたいと思えば、自分の大学の入試で、基本的な問題を出せばいいでしょう。    英語に関して言えば、基本ができていなければ、どんなテストも出来ません。  読解も出来ませんし、英作文も出来ません。 (単語を意味が通るような語順に並べることが出来ませんから)  だから、基本と各層に適した問題などと分けて2回もテストすることはないと思っています。  (個人的なことを言えば、津田塾大学の世界史の試験は記述式一問でしたけれど、私は世界史は文明の起源から、第二次世界大戦後の世界まで、まんべんなく勉強しました。 受験生はみんなそうではないですか。 共通一次試験がなくたって、受験生はみんな基本は学んでいます。 あの時の津田塾大学の入試で、「1870年以降の出来事」だけ山をかけて学んで、その他の世界史の重要事項は何も勉強していない、などという受験生は一人もいなかったと思います。  基本を勉強するのは、勉強の手順として当たり前です。 誰でも学習の一番最初にすることです。 基本を勉強していなかったら、どんな問題も解けません。)





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40年前、なぜ共通一次試験が導入されたのかわかりませんが、今の民間試験導入の問題を見ていると、受験生全体が必ず受ける共通一次試験の問題集でも出してお金儲けしたい人がいたのか、と勘繰ってしまいます。 その大学を受験する生徒の学力を一番真剣に判断するのはその大学の先生方です。 「こういう学生を取りたい」「こういう学生を育てたい」と思っている大学の先生方です。 それ以上真剣に判断する人はほかにいません。 だったら大学の先生方にお任せすればいいでしょう。  何で、50万人も一度に試験をやって機械で処理したものを使わなければいけないのですか。 そこには大学入試で一番大事な「こういう学生を取りたい、育てたい」という思いはかけらも存在しません。 共通試験をする理由を教えてください。 高校3年生の学力を客観的に判断する資料が欲しいなら、問題を配って高校でやってもらえばいいでしょう。 同じ日に50万人にテストを受けさせる。このために日本中が相当無駄なエネルギーを使っていると思います。監督の先生方、大きな会場。 共通テストは何のためにやっているのですか?  必要ありませんからやめてください。 そうすれば、不正も減るし、業者も入ってこないでしょう。 もちろん民間試験なんか必要ありません。「ベネッセのアルバイト」などという発想が出てくるような人が「教育再生実行会議」にかかわっているようでは、もう日本の教育は落ちるところまで落ちていきます。奈落の底まで堕ちていきます。 そこには「こういう学生を育てたい」という理想がないからです。 各大学に入学試験を任せたら、質が落ちることはありません。 大学の先生方は真剣ですから。 藤村先生が目にじんましんができそうなくらい大変でも見てくださったのは、「自分の大学にはこういう学生を取りたい」「こういう学生を育てたい」という強い気持ちがあったからでしょう。それに、大学の先生方というのは生徒の書いた文章を読めば、日常その生徒がどのくらい物事について考えているか、本を読んでいるか、いろんなことがお分かりになるのではないですか。 こういうところが、「大学の先生が評価してもベネッセのアルバイトが評価しても同じだ」としか思わない人たちとは先生方の見識が違うところなのです。 教育者には教育者しか持っていない感覚や物の見方があります。 教師をしていたころ、2年生を担任しているベテランの数学の先生と帰り道が一緒になったときがありました。 いろんなことを話していた時、その先生が、「電車の中で、中学生が4人並んでいたら、顔を見ただけで、その子たちの学校の成績もだいたいわかります」とおっしゃいました。  長いご経験からそうおっしゃったのでしょうね。 大学の先生方が生徒の文章を見て、感じることは、テスト業者が雇った人が感じることとは違います。 これが、同じだと思うような人が、共通テストなどに手を出すから教育が瀕死の状態になるのです。 共通テストに使うお金を各大学の入学試験に使ってもらったほうが、よほど良い問題を先生方が作ってださると思います。教育者が判断すれば済むものをなんでそこに業者を入れるのですか。 (英語に関しては「評価自体」学校で出来ます。業者は不要です。)

大学時代、仁科弥生先生の教育心理学の授業でこういう話を聞きました。  「アメリカの教育番組「セサミストリート」は当初期待されたほどの成果を上げることはできなかった。」 セサミストリートは良心的に作られた教育番組ですし、ゲストに話題性もあって、長く続いていますが、当初期待されていたほどの効果はなかった。ということでした。 ある程度の成果はあるのでしょうから、最初の期待がとても大きかったのかもしれませんね。  それに続けて仁科先生がおっしゃったのは、「やっぱり、その番組を子供と一緒に見て、~~なんだね。とかそばで言ってくれる人がいないと、高い効果を上げるのは難しいようです。」ということでした。 高い教育効果を上げるのは、その子をこういう風に育てたい、と思う指導者なんですね。 (あるいは、この子の興味を大切に育てたいと思う大人でしょう)



2021年9月28日 文部科学省GIGAスクール構想は本当に「個別最適化された学び」を実現するものか。

私は仁科先生の上の言葉が忘れられませんでした。 それは教育の核心に触れる大事なことを含んでいるからだと思います。  先生のこの言葉に関連して、文部科学省が進めるGIGAスクール構想について私が思うことを書いていきたいと思います。

下の解説(第1回から第5回まで記載してあります。 第1回の最初は黄緑色で書いてあります)を読んでいただけば、GIGAスクール構想が失敗するということがお分かりになると思います。 でも、政府はGIGAスクール構想が失敗するとわかったからといって、GIGAスクール構想の目的をどんどん変えて、失敗したときの逃げ道を作るのはおやめください。 2019年12月9日に発表された萩生田文部科学大臣のメッセージにあった「多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学び」これが目的だったのですよね。だから国民だって、莫大なお金を使って一人一台コンピュータを購入することに反対しなかったのでしょう。少なくとも逃げる前に「多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学び」を実現する努力くらいなさったらどうですか。  そうしなければ、国民を騙していたことと同じです。 「どんな子供でも理解度に合わせて学べる」とバラ色の未来を約束するようなことを言って莫大な予算を使っておいて、後で「そういう意味じゃなかった」というのは国民を騙すことと同じじゃないですか。少なくとも逃げる前に「多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学び」を実現する努力くらいしたらどうですか。


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2022年4月30日
結論から言うとコンピュータは授業で先生がその内容に合わせて適切に使ったとき、例えば実際に子供たちが見ることができないものを映像で見せるなどして活用したとき、効果的に使えると思います。また、生徒が調べものをするなどに使えばそれなりの効果はあると思います。

でも、生徒をコンピュータの前に一人で座らせて、コンピュータから一方的に送られてくる内容で、勉強させることが、学ぶ意欲を子供たちに起こさせることはないだろうと私は思います。  昔教えていた中学校の英語科の主任の先生が、英語教材テープのことを話していたときに、「Repeat after me. とか言って、英文を学習者に言わせて、生徒がしゃべった英文を聞いてもいないのに、Good. とかいわれてもねえ。」と言っていたことがありました。 それこそコンピュータは、生徒の反応なんか見てもいないし、聞いてもいないで、画面が流れていく。 その前に座って一方的に送られてくる学習をさせられながら、子供たちが勉強したいと思うようになるかどうかはわかりませんね。  私みたいなタイプの生徒は、先生の一言一言にいろいろなことを感じていろいろなことを考えましたから、私が生徒だったら、コンピュータの前に座って知識を一方的に教えられても、面白くもなんともなかっただろうと思います。 こちらのブログの社会科の授業のところに書きましたけれど、「ひろみちゃん、先生のお話はどんな小さなことでもノートに書いておいてくれる?」と頼んだのは私が、先生のお話のどんな小さなことでも、自分の好奇心や興味や、疑問に感じることを自分なりに考えることが好きだったからだと思います。  私みたいな生徒は、機械に教えられても能力が伸びることはなかっただろうと思います。 こっちは人間なのよ。決まったことしか言わない機械に教えられて、満たされるような頭や心じゃないのよ。 教育原理の伊勢田先生は「教育は弱い子を抱きとって育てること」と教えてくださいました。 コンピュータの前に座らせておくのは抱き取って育てることじゃない。コンピュータは知識を教えることはできるかもしれない(あくまで「かもしれない」です。なぜなら、仁科先生は、セサミストリートは当初期待されたような効果を上げることは出来なかった。とおっしゃいました。セサミストリートは学習することを楽しく教えようと制作された番組です。 それでも、高い効果を上げることができなかった。 だったら、子供たちが学びやすいように作られたコンピュータプログラムを一方的に見せられても、そんなに効果を上げるだろうか。と私は思います。 仁科先生は、「やっぱり番組を見ながら子供のそばにいて「~~なんだね。」とか言ってくれる人がいないと、効果を上げることは難しいようです。」とおっしゃいました。 その時と比べて、子供は今もあまり変わっていない、と私は思います。 機械が一方的にしゃべったことで、学力が上がるとは私には思えません。学力を上げるって、教師が一生懸命やっても子供のやる気も関係してくるし、すごく大変なことなのです。 (竹中平蔵みたいに教師は日本に一人いて、遠隔ですべての生徒に授業をすればいい、などということが私には信じられないです。 もう、教育が崩壊しますよ。)  せめて、そうやって機械で勉強した子供たちに、先生が、「どうだった?」「難しかった?」「どこが難しかった?」とか、結果を見て、「この前より、~~がたくさんできるようになったね」とか言ってくれたら、ずいぶん子供の勉強意欲も違ってくると思います。やはり、GIGAスクール構想が効果を上げるには先生方の存在が重要だということでしょう。)機械に教育は出来ない、と思います。 コンピュータは教師が適切な箇所で使えば、効果的に使える。 でも、子供を一人で画面の前に座らせて、勉強したいという意欲を起こさせることはできない。  昔、子供の教育についての話が出ると、子供にはそのことについて一流の人と接するようにさせるのがいい、とよく言われました。 海洋の専門家、宇宙の専門家、小説の専門家、音楽の専門家、彼らはそのことについて、膨大な知識、体験、思索、をし、自分なりの世界を持っている。 たとえどんな小さなことを教えても、彼らの持っている膨大な蓄積がいつもどこかで顔をのぞかせる。 それが、子供たちの学ぶ意欲や知識や興味を刺激する。 だから、子供にはそのことについて一流の人に接するように教育したらいい。とある時期、言われていました。子供がそういう人から思わぬ刺激を受けるからですね。一流の人たちが子供の反応を見ながら「この子はこういうことについてたくさん聞いてくる。これに興味があるんだね。」とか、「この子はこういうことが不思議でたまらないみたいだ、どうしてそうなるのか話してあげようかな」とか子供の反応を見ながらお話してくれる中で、そういう膨大な蓄積が顔をのぞかせて子供たちが刺激を受けるのだろう、と思います。 そういうことを考えると、コンピュータの前に座ってもそういう一流の人が持つ膨大な知識、体験、思索、から生まれる言葉はコンピュータは何も発さないわけですね。 先生方は、あることだけについて一流の専門家ではないかもしれませんが、少なくとも、教師になるにあたって、専門分野を勉強し、教育を勉強し、子供たちをどういう大人に教育したいかということはいつも考えていらっしゃると思います。  教えること以外についても教育者としての様々な蓄積を持っていらっしゃいます。それが授業の時に出てきます。  私はそういうものに反応して勉強意欲が高まったり、楽しさを感じたり、学んでいることに不思議さを感じたりしました。 コンピュータには、先生が持つそういうものは何もないですね。知識を切り取って教えるだけです。やっぱり教育をよくするには、良い教師を育成して、一人の先生が見る生徒の数を少なくすることでしょうね。その先生が、コンピュータを適切に使ったとき、GIGAスクール構想は効果を上げるでしょう。  工場の人手不足は機械が解消するでしょうが、教師の不足は機械で補うことはできません。 学生が教師と呼ばれる職業に魅力を感じられるようにすることも行政の大きな責任でしょう。教師の待遇の改善がまず先でしょう。英語教育の方針を見ても文部科学省は英語教育の専門家である高校の先生方の意見を非常に軽視しています。先生方は「英語で授業では生徒は理解できない」といっているのに、それを聞かず、松本茂氏や吉田研作氏の間違った意見をうのみにしている。 私に言わせれば、教師の存在を無視しているとさえ言える。 だから、劣悪な待遇で働かせても何も感じない。 教師をないがしろにする国が、教師に劣悪な待遇で働かせて、コンピュータをたくさん買っても、教育がよくなるわけないじゃないですか。コンピュータを大量に買うお金があったら、その前に先生方の待遇を改善したらどうですか。 30人学級の予算を認めたらどうですか。  ついでに言わせてもらえば、音声の面で先生方の指導力に問題がある、というなら、そういう先生方に英語教育をしてきたのは文部科学省の指導要領なんですよ。 先生方の「スピーキングの指導力に問題がある」としたら、それは中学校の学習指導要領(英語)にスピーキングの力をつけさせる教育が書いてないからです。 先生方を責めるのはお門違いです。 まず、文科省は指導要領にスピーキング力をつけさせる教育を入れるべきです。 そうすれば、ただちに教科書のCDを子供たちに配布して、まず正しい発音で子供達がしゃべれるようにする教育をスタートしなければならないとわかるはずです。 先生方のスピーキングの指導力を問題にして責める前に、自分の中学校学習指導要領(英語)の間違いを正すべきです。    (それをさせないのが下村博文です。 反社会的勢力(暴力団など)のようにすごんで「東大に英語民間試験をさせろ」と教育関係者を恫喝していた。下村博文は英語教育で一番重要なことを文科省にさせないで、「教育立国推進協議会」などたちあげて何の効果がありますか。 英語が通じない教育では教育立国にはならないです。下村博文は教育立国推進協議会など作る前に、中学生に英語の教科書のCDを配布するべきだ。 そうでなければ、下村博文のしていることは公教育崩壊推進協議会です。 そうやって下村博文は業者の利益のために日本の公教育を崩壊させている。この会議で講演を行った安西祐一郎氏は前出の「日本に教師は一人いて日本中に遠隔で授業をするのが究極の形だ」といった竹中平蔵氏と2017年7月1日に「教育改革推進協議会」を立ち上げてeポートフォリオを推進していた人ですね。竹中平蔵と教育観を共有するような輩(やから)に日本の教育ビジョンは描けません。 安西祐一郎にできるのはせいぜい教育で金儲けしたい下村博文竹中平蔵の為にもっともらしい理屈をつけることくらいでしょう。自分の肩書を利用して彼らの金儲けを金儲けに見せないような理屈をつけてやることくらいでしょう。 eポートフォリオはベネッセの見込み顧客データを国家に収集させる極めて危険で悪質なやり方で中止になりました。 安西祐一郎はそれを竹中平蔵と推進しようとしていた人です。(そんな人間、教育にはいらない。) その流れをくむデジタル庁の生涯教育データ収集も個人情報をだまし取る犯罪集団だ、と私は書きました。 データの収集なんかで教育はよくならない。教育者が一番よくそのことを知っています。 子供の学力を向上させるのは大変なことなのです。 データ取るくらいでそれが出来たら親も教師も苦労しません。そんなことを本気で言う人がいたら、「教育」を口実に個人情報をだまし取って金儲けしたい、と思って間違いないです。安西祐一郎も竹中平蔵も。    補足ですが。。。。私は上で、子供たちにそのことについて一流の人が接することが大事だとよく言われた、と書きました。  そういう意味でも、新井紀子氏が読解力に口を出すのはおやめになった方がいいと思います。新井氏が文学的文章と科学的文章の指導方法の違いも知らないのは読書量が非常に乏しいからでしょう。本をたくさん読んでいればそのくらいのことは誰でもわかります。 また、読解力と読書量には関係がない、などと平気で本に書いている。信じられないです。国語教育をする最低限の教養さえ持っていない。 新井氏に国語教育の素養はありません。) 



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文部科学省にはGIGAスクール構想というのがあるそうですね。  それについて書かれた記事を知人が時々送ってくれます。  最初に送ってくれたのは今年の1月。 二回目は8月でした。 その都度、私は文部科学省のHPでGIGAスクール構想のところを少しですが読んでいます。

コンピュータを使った一斉授業や生徒一人一人がコンピュータに向かって学習する形態などを見ました。  生徒一人一人がその子に合った教材で学習できるからでしょう、2019年12月9日に発表された萩生田文部科学大臣のメッセージの中に「個別最適化された学び」という言葉がありました。萩生田大臣は「この新たな教育の技術革新は多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性をはぐくむ学びにも寄与するもの」と述べています。 でも、GIGAスクール構想は本当に「多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学び」を提供するものなのでしょうか。 私はそれを考えていました。


私が子育てで学んだ一番大きな教訓は何か、というと次のことでした。
「馬を水辺に連れていくことは出来ても、水を飲ませることは出来ない」ということです。 つまり馬が水を飲むかどうかは馬次第、ということです。 子供の場合で言えば、大人は子供にいろいろなものを与えることはできるが、それをするかどうかは子供次第ということです。 
子供を一人一人コンピュータの前に座らせれば子供は自動的にそのプログラムで学習を始めるか? これについては私は懐疑的です。 

コンピュータをよく知る人はコンピュータの画像はきれいだから子供の関心を引き付けるといいますが、いくらきれいな画像でも、私なら一週間見ていれば飽きてきます。  その子のレベルに合った教材だ、子供を飽きさせない構成になっている、といわれても内容は「お勉強」です。  息子が夢中でやっていたスーパーマリオボンバーマンとは違います。  2次関数や室町時代の文化や心臓の構造(右心室とか右心房とか覚えましたよね)でしょう。  それを子供がボンバーマンのように熱心にやるだろうか、と思います。 熱心に勉強するお子さんもいるでしょうが、残念ながら私の知る子供たちはそういう子供たちではありませんでした。

「コンピュータで学習後、理解度をテストする」といっても、テストの点数なんか悪くても全然気にしない男の子はたくさんいます。 中学生だってたくさんいます。 コンピュータの前に座っても心は違うことに向いてしまう子に対してはどうするのでしょうか。  まさか先生が横についてコンピュータの内容に集中するようご指導なさるのですか。  そういう子はクラスに一人ではありませんから、それでは先生は体がいくつあっても足りませんね。

私はこの話を夫にして、「コンピュータの提供するプログラムをまじめにやらない生徒はやっぱり勉強ができないままよ」といったら夫が、「それは従来型の教室の一斉授業だって同じだろう? 勉強する子はするし、しない子はしない、ということだよ」といいました。

私が「従来型の教室の授業と同じで、勉強する子は勉強するし、しない子は勉強しないのだったら、何もGIGAスクール構想で多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びに寄与するなんてわざわざ言わなくてもいいでしょう? 従来と同じだ、っていえばいいでしょう?」と言ったら、「そんなことをお父さんに言わないで。萩生田文部科学大臣に聞いてよ」と夫はもう答えるのが面倒くさそうでした。 GIGAスクール構想で「個別最適化された学び」が実現すると思っている人は、馬を水辺に連れて行ったら、自動的にガブガブ水を飲むと思っている人ではないか、と私は思います。 子供もそうだったら親は苦労しません。

今、子育て中のお父さんお母さんには「スマホに子供のおもりをさせてはいけない。」とよく言われます。  私が子育てをしていたときは「テレビに子供のおもりをさせてはいけない。」と言われました。  スマホやテレビはいけなくてなんでコンピュータはいいのですか? 内容がお勉強だからですか?  私は学習と称してコンピュータに子供のおもりをさせていいのか?といつも感じます。多分これは私が受けてきた教育が私にそう感じさせるのだと思います。  


この続きはまた後日書きます。 今、あまり体調がよくありませんので、一気に書けません。 書いたときはこちらのブログのトップでお知らせします。

これを書くにあたっていろいろなものを読みました。 堤未果さんが書かれた「デジタル・ファシズム」という本の204ページに竹中平蔵さんの言葉が書いてありました。引用させていただきます。

デジタル庁設立の中枢にいるパソナグループの竹中平蔵会長は、オンライン授業を主流にしてゆくと、教員の数は今よりずっと少なくて済むという。 「一人の優秀な教師が大勢の生徒たちを遠隔で教えられるからだ。  人手が足りない過疎地の学校も、少数の教師が遠隔でオンライン授業をすれば、廃校にせず存続させられる。 竹中氏はそう主張する。 〈究極的には通常の知識を教える教師は各教科に全国で一人いればよいのです〉と。


以上本から引用させていただきました。

教育は他の経済活動とは違います。 コストをカットすることが目的ではありません。 竹中平蔵は「教育とは何か」全く知らない。お金儲けは上手でしょうけれど。  教育は人間を育てる仕事です。 コストだけ考えてする仕事ではありません。 竹中平蔵は教育の根本を知らない。 こういう人は教育に口を出す資格はありません。 

私(川合典子)の考え方は竹中平蔵氏とは対極にあります。それは多分、私が受けた教育がそうさせるのだと思います。 それについても後日お話したいと思います。

10月1日 GIGAスクール構想は本当に「個別最適化された学び」を実現するか②

私のいうことは古いタイプの教育者だという人がいると思います。  でも哲学の先生に聞きましたが、人間は昔からあんまり変わっていないそうです。  世の中は変わり、インターネットや仮想通貨が現れたりしていますけれど、人間そのものは昔とあんまり変わらないそうです。  人間が悩むことは昔から「生きること」や「死」、「愛」など、あまり変わりません。 そして、アメリカ人の先生から、その人間の感情は聖書の中にすべて描かれている、とお聞きしたことがあります。 聖書は古い古い書物ですけれど、そこに人間の感情、例えば嫉妬とか恨みとか(アベルとカインの話を思い出しますね)、全部書かれているそうです。 世の中がどんなに変わっても人間そのものはあまり変わらないようです。 人間の子供は生物の中で、成人するまでに最も長い期間を要します。  その間、親が手をかけ、教育者が手をかけて育てていきます。  それも昔と変わりませんね。 


私が大学で勉強した教育原理の最初の授業で伊勢田先生は、「教育の主体は生徒である」と教えてくださいました。  私が大学で学んだのは昭和50年くらいの時でした。 戦前、戦中と権威主義的な教師主体の教育論が主流だったのを、新しい教育の理念として、伊勢田先生は「教育の主体は生徒である」と教えてくださいました。

教育の主体が生徒である。ということは、生徒中心に教育の仕方を考えていく、ということです。 教師中心ではなく、生徒を中心に教育を考えていくことです。

教育の主体が生徒であれば、教育をする教師は学習においては、まず現在の生徒の状態を正確に把握し、それに合わせて、子供たちが理解できるように教えます。 教えたことに対する生徒の反応を見ながら、その子に一番理解しやすい方法で教えていきます。  その例を私は大学4年生の春休み、ある先生の講演で聞きました。 

大学4年生の春休み、こちらの先生が、「来週市民会館で先生方の学校でのいろいろな教育の実践を発表する講演会がある。聞きにおいで」と声をかけてくださいました。  その講演会では7,8人の先生が普段学校で行っている取り組みについてお話されました。  その中で、今でも忘れられないお話が2つありました。

その中の一つは、いわゆる「不良」といわれる問題行動のある生徒を一定期間預かって、勉強を教えている数学の先生のお話でした。  当時、教室にいても全然授業がわからない生徒がいました。   その中には、茶髪で、だぶだぶのズボンをはいたいわゆる「不良」といわれる中学生もいました。 そういう生徒が何か問題を起こしたとき、一定期間預かって勉強を教えていた若い先生のお話でした。

そういう子供たちは、基本からわからないわけですから、先生はそこから忍耐強く教えます。  何度説明してもわからない場合もあるので、時間をかけて一つ一つ教えていきます。 お話の感じから、受け持っていたのは10人未満の生徒ではないかと思いました。  

いつも直接それぞれの子の反応を見ながら教えるわけですから、その子が何がわからなくてつまづいているのかを理解して教えることができます。

そうやって教えていくと、そういう子供たちでも、だんだん学習内容が理解できるようになってくるそうです。  そうすると彼らは自分から「先生、勉強やろうよ」と言うそうです。  そこで、先生も一生懸命教えます。  ただ、その先生が生徒を預かる期間は決まっているので、その期間が終わるとそういう子供たちはまた、もと居た学校に戻るそうです。  そうするとまた進度が速くなって、ついていけなくなってしまうそうです。  その先生はそれがとても残念だと思っていらっしゃるようでした。 公立学校の先生ですので、そういう教育も予算の関係で長くは受けさせられないのだろうと思いました。

私がこの先生のお話を40年も忘れられなかったのは、いわゆる「不良」と呼ばれる子供たちが、勉強がわかるようになって「先生、勉強やろうよ」と自分から言う。というところが忘れられなかったのだと思います。 その子が理解出来たかどうかを見ながら、その子の理解力に合わせて教えていくと、どんな子でも学習する内容がわかるようになるとこの先生は教えてくれました。 そのうえに、生徒が「先生、勉強やろうよ」と言う、ということは生徒が「学びたい」という気持ちを持ったことを表しています。

教育において、生徒が「学びたい」という気持ちを持つことは一番大事なことだと私は思っています。  また、生徒にとっても、少しわからないとすぐに投げ出していたけれど、自分はそこを頑張って、理解しようと努力したら、できるようになった。 こういう体験は彼らが自分自身に対して持っている「セルフイメージ」をも変えるだろうと思います。 「自分はやればできる」「投げ出さずがんばったら出来たんだ」という経験はその子自身が自分を見る目も変えるだろうと思いました。

よく授業は楽しくなければならない、という人がいます。 年齢が低い時はそうかもしれませんが、中学生くらいになれば、自分が辛抱して努力した結果、学習内容が理解できるようになった喜びを体験することも貴重な経験だと思います。 私は、中学生になっても授業が楽しくなければならない、という人を見ると、それでは子供たちの成長を見ることはないと思っています。

生徒の理解度や反応を教師が把握しながら、その子にあったやり方で教えていくことが「生徒が主体」の教育というのだと思います。 これをするためには教師が生徒をよく理解することが大事です。  そのためにも教師は自分が教えた時の子供の反応をよくつかんでいかなければなりません。  

それはコンピュータには出来ないことです。 コンピュータは、生徒の反応をつかむことも、この子にはどのような教え方をするのが一番効果的なのかを考えることもできません。 それが出来るのはやはり「人間」である教師です。  そこのところがセサミストリートについて仁科弥生先生がおっしゃったこととつながっている、と私は思いました。

一人の先生に生徒10人なんて言う学級は無理だ。と最初からあきらめて言う人が多いと思います。文科省が30人学級の予算を請求したら却下されたというニュースもありました。 でもコンピュータにはこれだけの莫大なお金をポンと政府は出してくれたんですよね。 だったら、教師一人が受け持つ生徒の人数を本気で減らす予算がないわけではないでしょう。(それは、業者を儲けさせはしませんけれど。 だから政府は出してくれないのでしょうけれど。)

こうやって本当に誰一人おきざりにすることなく、勉強がわかるようになる教育を日本で実現出来たら、日本は、変わるでしょうね。

私は今から20年前の2002年、アメリカに中学生(日本では小学5年生)と高校生(日本では中学3年生)を連れて行きました。 そして彼らが毎日パソコンで調べものをしながら宿題をし、パソコンで文章を仕上げて先生に提出するのを見ました。 アメリカでは当たり前のように生徒はパソコンを使っていました。 それを見て、こういう分野で日本はかなりの遅れをとっている、と思いました。私は日本の保護者の中で相当古くからこの分野で日本が遅れていると知っていた保護者の部類に入ると思います。 だから私も、子供たちがコンピュータを自由に使いこなせるようになるのは重要なことだと思っています。  でも私が思っているのは竹中平蔵のように、一人の教師が、生徒に遠隔で授業をするのが究極の形だなどと言うのとは全く違います。 堤未果さんの本に巨大企業がアフリカの教育を食い物にしている現実が書かれていました。 心ある教師の手に教育を戻してほしいという署名運動のことも書いてありました。

日本の教育を教師の手から離してはならないと私は思っています。 「人間が教育をする」ということは決して「コンピュータが教育をする」ということに劣ることではありません。 その子を見て、その子が最も理解しやすいように教えられるのは人間です。 人間を教育するのは人間です。 その人間がコンピュータを手段として使うことは出来ます。 それは文部科学省もわかっているようで、これは手段であり、目的ではない、と文部科学省のHPで読んだ記憶があります。  でも、本当にそう思っているのでしょうか。 私は疑問に思っています。 なぜ私が疑問に思ったのか、次回はそれについて、お話ししようと思います。

第3回(10月4日)
 
非常に単純化した例を挙げます。 教師が「この子は、足し算が苦手だから、足し算の問題をたくさんやった方がいい」と判断したとします。  そして教師の判断に基づいて、コンピュータでその子供に足し算の練習をさせる。 こういう使い方は、可能だと思います。 その子の状態をよく理解している教師の判断に基づいて、コンピュータでの学習が活用されるからです。
つまり、いくら「個別最適化された学び」といっても、それを実現するのは教師の判断に基づいてコンピュータを使ったときに実現されるものです。  文部科学省もそれはわかっているようで、文科省のHPで、コンピュータはあくまで手段であり、目的ではない、と読んだ覚えがあります。 でもだったら、どうしてこんなにコンピュータ導入にはお金も人も使っているのに、教師に対するサポートはお金も人も雀の涙ほどしか使わないのですか。 私が文科省のHPで先生方のサポートとして見たのは研修と各学校にアドバイザ^ーを置くくらいでした。

生徒一人一人に持たせたコンピュータを生徒の学習に合わせて活用するとき、その活用の仕方を判断するのはその生徒のことを一番よく理解している先生なのです。 この司令塔が適切な判断と指示を出せるからこそこのGIGAスクール構想は、成果を上げることができるのです。 コンピュータそのものが「個別最適化された学び」を子供にするのではなく、個別最適化された学び」ができるようにコンピュータを活用させる司令塔は教師なのです。 コンピュータは膨大なデータを持っていますから、理解度テストで何点なら、この教材がいい、とすぐに次の教材がしめされるでしょう。 でも生徒に対しては自動的にそれをクリックさせればそれで終わりということにはなりません。 これについてはこの後述べます。

先生方はそのほかに一斉授業でコンピュータを使う場合のために、「どんなソフトウエアがあり」、「どう活用したらよいか」を今から研修で学んで行くことになっていますね。 コンピュータを使って一斉授業をするティーチングプラン(教案)を自分で作れるようにするのですね。 それは、コンピュータの扱いに慣れていない先生にとっては休日も返上してやらなければ出来ないことでしょう。

コンピュータを使った個別学習の場合、子供の理解度別に推奨されるソフトがコンピュータのデータから示されるのでしょうけれど、だからといって子供にやらせっぱなしにすることは出来ないです。  教師なら、その子がその学習プログラムをやっている様子を見ていないと、その選択がその子にあっているかどうかを確認できません。  点数を見ればわかるといわれても、点数を見るだけで放っておいてよいとは先生は思わないでしょう。  終わった後、先生から「どうだった?難しかった? どこが難しかった?」と聞いてもらえるのと、全く放っておかれるのでは、生徒の気持ちは全然違います。

この場合、コンピュータに向かって学習している生徒を一人1分見ても、40人なら40分かかります。 終わった後、感想を聞いたり、その子の意見を聞いたりする時間を一人5分とっても一クラス40人なら200分かかります。 3時間20分です。  そのうえ、先生方はコンピュータを使った一斉授業のプランを作らなければならないのでは、慢性的な超過勤務に陥ることは目に見えています。  第一回のブログでも述べたように、コンピュータに向かって個別学習する時間も、コンピュータに集中して学ぶ生徒ばかりではありません。(馬を水辺に連れて行っても水を飲ませることは出来ない)  そういう子供たちへの対応もしなければならないとなれば、先生一人ではとても対応出来ないことは目に見えています。  今年の1月初めて文科省のHPでGIGAスクール構想について読んだとき、私は「これでは先生方は過労死する」と思いました。 それで、資料を送ってくれた方に、「問題点が一つありますね。」とメールしました。  そうしたら、その方が、「もう問題点を発見したんですか?」と驚いて返信をくださいましたけれど、教師にこのプランを見せたら、みんなそう思うのではないですか。  今の風潮だと、「あの先生はコンピュータも使えないの?」と言われたくないという気持ちがあるでしょうから、正面切ってそうは言えないかもしれませんけれど、私程度にしかコンピュータを使えない教師は、休日返上はもう目に見えています。  コンピュータに任せっきりにして、教育は出来ません。  あくまでその生徒たちの状態を把握している「人間」、つまり教師の判断に基づいて使ったとき、コンピュータは最もその効果を発揮します。

コンピュータの例ではありませんけれど、機械を使った学習についてこんな経験があります。
私が津田塾大学にいたころ、英語の学習にラボの時間というのがありました。  通常45分で学生は一人一人音声機器が備え付けられているブースに入ってヘッドフォンとマイクをつけてスピーキングの練習をします。

あるとき、授業終了後、教室を出るとき友人が「びっくりしちゃった。私が文章をリピートしていたら、ヘッドフォンから、助手の人の声がして、もっと最初のTの子音を強く発音してください。って注意があったの。 私たちの発音をちゃんと聞いてチェックしているのね。」といいました。  私は一度もヘッドフォンから注意を受けたことはなかったので、助手の方が聞いてチェックをしていることは知りませんでした。  でも英語を勉強したいと志して入学してきた大学生の学習にさえ、ちゃんと機器に向かって学ぶ間、助手の方がずっと見ていてくださっているわけですね。(この時、ラボに入る一クラスの人数は、25人でした。)でしたら、子供をコンピュータの前に座らせておけばいいわけではないですね。 その間だって、やっぱり「先生が見ていてくれる」「終わったら、僕の感想を聞いてくれる」そう思えるのと放っておかれるのでは生徒の勉強に対する姿勢は全然違います。  なのに、生徒の数は40人もいるのに、先生方には助手一人付けてはくれないのですね。 私はこのGIGAスクール構想が成功するかどうかは、司令塔である先生方を文部科学省がどれだけサポートできるかにかかっていると思っています。  なぜなら、コンピュータを使いこなすのは先生方だからです。 それができなかった時、莫大なお金を投入したGIGAスクール構想は教育成果においては従来の教育と何ら変わらなかった、という結果になるだろう、と思っています。過労死する先生も出るでしょう。  

業者はGIGAスクール構想の効果がどうでも、コンピュータを大量に売ればいいのかもしれません。 政府もそれが目的かもしれません。 でも司令塔となる先生方への支援が不十分だった場合、子供たちはその恩恵に預かることはないでしょう。


「英語で授業」の時も高校の先生に「英語で授業をしていない」と松本茂氏も吉田研作氏も非難していました。(こちらのページで知りましたが、吉田研作教授は今年4月から、上智大学名誉教授、公益財団法人日本英語検定協会会長になられたそうですね。「英語で授業」という間違った方針を日本中の高校でやらせて、間違っていると指摘されたら、正しい方針に変える努力もしないで、逃げ出す、というのは非常に無責任です。 高校の英語教育をめちゃくちゃにしておいて「後は知らないよ」ということでしょう。もし、大学で教えていた間、ずっと「英語で授業」を提唱していらしたのなら、ずっと間違ったことを学生に教えてきたことになります。 無責任です。)  本当は日本語で教えている先生方の方が正しい教え方なのに、松本茂氏も吉田研作氏も先生方の意見に一切耳を傾けませんでした。  松本茂氏は自分から新聞記者にメールまで送って、高校の先生方を非難する記事を書かせました。(自分が間違っていたのに、今だに先生方に謝罪もしません。新聞に載った自分の写真が若く見えると喜んでいるだけです。 松本茂氏は何のために有識者会議の委員を引き受けたのですか。自分が目立つためですか? そういう幼児性からくる理由で有識者会議の仕事をお引き受けになるのはおやめください。  「英語で授業」のような間違った方針を押し付けられて高校生も先生方も大変迷惑しています。  そんなに目立ちたかったら、テレビのお仕事に専念されたらいいでしょう。 テレビに出て満足していれば、新聞記者にメールまで送って先生方を批判して目立とうなどとお考えにならないでしょうから。) 今度も失敗したら、「教師がコンピュータを使いこなせないからだ」と文科省は非難するのでしょうか。 その前に私は言っておきたいと思います。 失敗するのはこのGIGAスクール構想の要(かなめ)となる先生方への文部科学省のサポートが不十分だったからです。今度は失敗しても、決して先生方のせいにしないでいただきたいと思います。 「教師の指導力の問題だ」などとは決して言わないでいただきたいと思います。 「教師の指導力を問題にするとき、文科省は自分の支援が不十分だったと認めている、と思って頂きたいです。

コンピュータは、子供の反応は把握できません。 コンピュータは、教師の判断と指示のもとに使われた時、初めてその威力を発揮します。  竹中平蔵は「一人の優秀な教師が遠隔で日本中に授業をすることが究極の形だ」と言いましたけれど、それではその教師は「教育の主体である生徒」を見ることもない。 どういう生徒なのか、理解することもない。 自分の言ったことに対する生徒の反応も見ることもない。 つまり、教育の主体(生徒)については何も知らず、しゃべるだけです。  竹中平蔵の言っていることは教育ではありません。 教育の主体(生徒)を知らないでする教育などありえません。 

コロナ禍の今だって、先日NHKニュースで見た小学校の先生は、コンピュータを使って「朝の会を始めます。みんな元気かな?」といって画面に映る子供たち一人一人をよく見ていらっしゃいました。 教育の主体(生徒)をないがしろにする教育はありえません。





第4回

3年くらい前、私はアメリカのハイスクールの先生にアメリカ人の生徒が学校で学ぶエッセイのタイプを一通り教えていただいていました。 ある時「比較について書く」という課題をやりました。  先生が提示してくれたテーマから私は「IT型授業と従来型授業の比較」を選びました。  「IT型授業というのは生徒一人一人がパソコンの前に座って授業を受ける形、と解釈していいでしょうか?」と先生に確認したら、「それで結構です。」といわれましたので、それで、エッセイを書いて先生に提出しました。 
エッセイを提出した後、私は「それでは、私自身が一番影響を受けた教育とは何だっただろうか」と考えてみました。  私が最も影響を受けた教育、それは私を教えてくれた先生方、教師が、「何を一番大事だと思っていたか」ということでした。  授業で直接そういう話をしてくれた先生もいましたけれど、普段の授業の中で、それを垣間見ることもありました。 例えば、手を挙げて答えたけれど間違ってしまった生徒に対するフォローの仕方でその先生が、答えの正否より、その子が手を挙げたということを大事にしたいんだな、と感じたりしました。
先生方を見て、勉強しなくちゃいけないんだな、と思ったり、こういうことも考えなくちゃいけないんだな、と思ったり、しました。 「国語」とか「社会」とか文化系の科目ばかりでなく、例えば、こちらの理科の先生にスプーンが水流に吸い込まれるところを見せてもらったときは、「実際にやってみると私が思っていたことと全然違う結果になるんだな。 やってみなくちゃわからないんだな。」と思ったりしました。 その時の先生も、「やってみるとわかるんだよ。」といいたかったのかもしれませんね。 私が最も影響を受けた教育、私が今のような大人になるのに最も影響のあった教育は私を教えてくれた先生方が「何を一番大事だと思っていたか」ということでした。 どんな先生の授業の中にも私はそれを感じました。 「その先生が大事だと思っていることが私があまり好きでないものでも、それはその先生の考え方ですから、仕方ない、と思ったこともありました。私にとって教育というのはあくまで人間が人間を教えていくことの中にありました。  

教育の主体が生徒であれば、教育をする教師は学習においては、教えたことに対する生徒の反応をよく見ながら、その子に一番理解しやすいように教えていきます。 実際に教えてその反応を見ながら、また教えますので、必ずその生徒が理解できる教育をすることができます。 「その生徒の反応を見ながら教える」これこそが「個別最適化された教育」だと私は思います。 ですから、竹中平蔵が言うようにその子を一度も見たことのない教師は、良い教育などできません。  

では、そんな個別最適化された教育が日本で可能か、といったら、可能だ、と思います。 一人の先生が受け持つ生徒の数を少なくしていけば必ずできると思います。 政府はコンピュータにはこれだけお金を出してくれるのですから、先生の数を増やすことだって真剣に考えればできるでしょう。 ただそれは業者を儲けさせることはありませんから、国会議員にやる気が起こらないだけです。でも、そのお金は私たち国民が払った税金なんですよ。国会議員のポケットマネーではありません。 国民のために、国民が使ってほしいように使うのが、筋でしょう。 


堤未果さんは本の最後で「倫理を持たないAI vs. 未来を選ぶ私たち」という題で書いていらっしゃいました。  「倫理を持たないAI」は確かにあたっています。 そして私は、さらに、教育の主体である生徒に「こういう人間に育ってほしい」という思いを持つ教師が教えることが重要だと思います。 それは私がそういう教育に最も影響を受けたからです。  機械にはそういう思いはありません。  このすぐ下に、「津田塾大学の藤村先生には「こういう学生が欲しい、という強い思いがあったから、目にじんましんができるような大量の記述式答案も読んでくださったのだと思います」と書きました。  ここでも、先生の「こういう学生が欲しい」という思いが非常に大事になっています。 何を生徒に指導するにしても教師の持っている価値観は必ず指導の時に出てきます。 一回ではわからなくても一年間継続して習っていけば必ず、出てきます。 例えば、先ほどお話したように生徒が手を挙げて答えたけれど間違ってしまったような時に、手を挙げたこと自体をとても大事にする教師は、子供たちに自分の考えや意見を言う、ということはとても大事なのだよ。と教えたい気持ちがあるからですね。  そうやって、この子たちにどういう人間に育ってほしいと思っているかは、毎日の指導の中で必ず出てきます。 そして生徒はそれを感じます。 何となくでも、生徒は先生が、どういうことが一番大事だと思っているのかがわかってきます。

私にはそれが一番影響を受けた教育でした。そして、それは生きていくうえでとても大きな支えになりました。 私が今、こういうブログを書いているのはそういう先生の影響が大きいです。 「川合、誰も君の味方をしてくれなくても自分の意見は言いなさい。 たった一人でも言いなさい。 そうすれば他人はそういう意見がある、ということだけは認めざるをえまい。」そういわれました。 言われた当時の私は弱虫でとてもそんなことは出来ない、と思っていました。 今も「自分の本が裁断されて売られている」という事実を知った時、ぼろぼろ涙が出るくらい弱虫ですけれども(こちらのブログの一番最後に書いてあります。「◆◆◆裁断済◆◆◆ 各ページがバラバラで製本されていない状態です」と書いてあるところです)、教育については知っていることですから自分の意見は言えます。 政府からブログアクセス数を(1)にされるまで妨害されても言えます。 教育の場合教師の存在は非常に大きいと思います。  確かに自分と合わない先生もいます。 でもあるお母さん達が話しているのを聞いたら、「合わないなら合わないなりに子供はやっていくから、あんまり担任の先生はコロコロ変わらないほうがいい」といっているのを聞いたことがあります。

教師が教育には非常に重要だということはアメリカに娘を連れて行ったときもわかりました。  娘は全然英語がわからないのに、「宿題やっていきたいの。先生のことが好きだから」といいました。  特定の先生ではなく全部の先生が好きだったようです。  英語がわからなくても、どの先生も娘を平等に扱ってくれていたのだな、とわかりました。  私も娘が教科を習う5人の先生と一緒に6人で学期末の面談をしましたが、どの先生も「教師」の自覚あふれる先生方でした。 これなら娘がそう思う理由もわかりました。

また、学校になじんだ後も、「どこかに書いてあることをそのまま写して提出すると先生から呼び出しがある」という話をしたときに、「点数を下げられる、とか言うことより、先生にそういうことをする生徒だと思われるのが嫌だ」といっていましたから、先生方のことをとても尊敬していたのでしょうね。

どの子も置き去りにしない個別最適化された学びを実現したかったら、良い教師を育てることと、一人の教師が見る生徒の数を減らすことだと思います。
そう申し上げても今の政権はそういうことをする気は全くないでしょうね。 それは業者を儲けさせませんから。 (繰り返しになりますけれど、国家が使うお金は国民の税金です。 国会議員のポケットマネーではありません。国民がしてほしいことに使われるべきです。)

仕方がないので、せめてGIGAスクール構想で私が望むことを書きます。
もう少し先生方のサポートを真剣に考えてください。 しわ寄せを全部先生方に押し付けないでください。 そして、失敗したとき、間違っても、教師がコンピュータを使いこなせないのが問題だ、などと言わないでください。 それは教師がコンピュータを使いこなせるような支援をしなかった文部科学省の失敗です。 コンピュータ購入にはこれだけのお金と人と時間をかけているのですから、コンピュータを生徒の学力向上の為に使いこなさなければならない先生方のサポートにはそれに勝るとも劣らないお金と人と時間をかけていただきたいです。 先生方の判断に基づいて先生方がコンピュータを使いこなしたとき、コンピュータは最も有効に働きます。 このGIGAスクール構想はその時、効果を上げるでしょう。 







第5回


おそらくこのブログが最後のブログになると思いますので、言い残したことを書きます。

数年前マイケル・サンデルというハーバード大学の教授が日本にきて、NHKホールで公開授業をしたのを見ました。 そのあと一冊彼に関する本も読みました。 どちらで見たのか覚えていませんが、こういう彼の質問がありました。 「ある町の財政がひどい赤字になり、窮迫しています。 その時ある企業が、この町の名前を売ってくれたら、今の財政赤字を解消して余りあるお金を払う、と申し出ました。 町は名前を売るべきかどうか。」という質問でした。  

これを見た時、私の中でアラーム(警報)がなりました。  「この質問を考えてはいけない。 こういう命題を考える土俵に決して上がってはいけない。」とその警報はいっていました。  「こういう視点で考えることを自分に許した時、私の中で「私」を強固にしていたものが崩れる」私はそんな風に感じました。

それより少し前に私はシモーヌ・ヴェーユという人の書いた「根をもつこと」という本を読みました。 この本は有名な本のようですが、私はそういうことは全く知らず、目に留まったのでただ買って読んだだけでした。でもあるとき、夫に「シモーヌ・ヴェーユの本を読んだ」といったら、夫が「それはとても有名な本だよ。」といいました。  夫はそういう内容の本は読まない人ですが、若い時から新聞の書評欄を非常に丹念に読む人でしたので、その本がどういう本かは、知っていたようでした。 私は読み終わって、「自分の名前、生れた所、そこで私の体にしみ込んだもの、そういうものは私という人間を作っているなくてはならないものなのだ」と感じました。 今まで自分が当たり前だと思っていたものが、本当は自分をとても強固に支えてくれていたんだ、と気づいたような気がしました。  だからマイケル・サンデルの命題を見た時、「この命題を考えさせることによって、知らないうちに私が誰かに自分を明け渡すような考え方を自分になじませることになる」と感じました。  それで、私は、どんなに世の中でマイケル・サンデルがもてはやされても、彼に関する記事も本もそのあと、一切読みませんでした。

(私はマイケル・サンデルについてあれ以来一切読むことはしませんでしたが、10月2日、このブログを書くにあたって、やはり少しは調べておかなければいけないと思ってWikipedia を読みました。 そうしたら彼の評価のところに私のアラーム(警報)が私に言ったことと同じことが実際にドイツで起こっていたことを知りました。 引用させていただきます。「サンデルらの主導するコミュニタリアニズムに頼ったドイツでは、 (中略) ドイツの地域共同体からは自国の歴史・文化・伝統が失われた。」と書いてありました。 そして(彼の思想は) 「人々の繋がり・関係性を破壊する」思想であり、「国内の政情を混乱に落としめる」ものとして警戒されている。 」と書いてありました。 私は何も知らなかったのですが、私のアラーム(警報)は正しかったと思いました。つまり、自分の中に培われたアイデンティティ確立に作用したものの重要性に彼は気づいていなかった、ということです。)

「AIに仕事を奪われる」という言葉を読んだ時、私の中で、これと同じアラーム(警報)がなりました。私はマイケル・サンデルの時に感じたのと同じ危険を感じました。「AIに仕事を奪われる」そのような基盤で教育を考えることを絶対に自分に許してはならない。 私はそう感じました。 教師は子供を決して機械との比較でみてはいけない、と感じました。 そんな視点を一瞬でも持ってはいけないと感じました。 生徒が内に持っているものから教師は決して目を離してはいけない。 そう思いました。

「AIに仕事を取られる」と今騒いでいますが、人間は産業革命以来、いろいろな技術が発明されるたびに従来あった仕事を失ってきました。 それは産業革命以来260年の歴史の事実でしょう。  自動車が発明されれば人力車はいりません。 記憶に新しい所ではパソコンで文章を書けるようになった時、和文タイプの仕事はなくなりました。  でも、人間は歴史の波の中で繰り返しそういう目にあいながらどの時代も、生き抜いていかなければなりませんでした。 AIだけでなく二酸化炭素排出の問題で、雇用が大きく変わってくる分野もあるでしょう。 自動車業界では実際にそれが始まっています。 いつの時代も人間は社会の変化の中で生き抜いていかなければなりませんでした。 新井氏は「自分がどういう仕事がなくなるか」を予想したことがとても自慢のようですが、そういうことは260年も前から歴史の中で繰り返されてきたのですよ。今に始まったことではありません。 (新井氏は令和3年6月15日から東京都の教育委員だそうですね。)

人間の知恵というのは浅知恵だと私は思っています。(特に欲得ずくで考えたことは浅知恵だと思っています。)  どんなに考えても神様には勝てません。  AIに仕事を取られないためには読解力だと言って、子供に読解力のテストばっかりさせて5年10年と経ったとき、AIに仕事を取られない為にはやっぱり読解力より○○だった。となるかもしれません。 人間の知恵などその程度のものだと私は思っています。 「AIに仕事を取られないためには読解力」などというのは新井紀子喜連川優がベネッセのために考えた計画です。 何のエヴィデンスもありません。 皆さんは本当に新井さんの作った読解力のテストができたら、AIに仕事を取られないと思いますか? 私は全然思いません。 

だったら子供たちに何を教えたらいいか。 それはそんな一時しのぎのことではないでしょう。 読解力もコンピュータも必要でしょうけど、教育は5年10年と続いていきます。 今、AIに仕事を取られないためにやるようなものではありません。

2回目のブログでいわゆる不良といわれる生徒に数学を教えた先生の話を書きました。 また、こちらのブログでは夏休みの研究がアメリカの大学の先生の目に留まって「うちの大学で航空宇宙工学を学ばないか」といわれてアメリカに行った高校生の話を書きました。 やはりその子が持っている力をその子を理解して引き出していく。 その子に好きなことがあれば伸ばしてやる。 そうやって、教育していくことが未知の時代を生きていく子供たちに私たちができることでしょう。  仕事を取られるのは何も今AIに始まったことではありません。  だから読解力だ、読解力だとそんなに騒ぐ必要もありません。 私には読解力があればAIに仕事を取られないとも思えません。 新井氏は他に目的があるから読解力に目をつけて、テストを作ったのでしょう。「創造力」のテストではベネッセは「偏差値の高い学校に入れる」とそのテストを売り込めませんものね。だから新井氏も喜連川氏も読解力を選んだのでしょう。読解力としておけば、「偏差値の高い学校に入れる」ももっともらしいし、テストも売り込めると思ったのでしょう。

このプロジェクトについては国立情報学研究所所長喜連川優氏が「文章を正確に読む力を科学的に測るテストを開発/産学連携で「読解力」向上を目指す研究を加速」というニュースリリースまで出しています。でも、アミラーゼについて書いた文を読ませてセルロースとデンプンの形の違いを問うテスト問題など、科学的に読解力を測る問題でも何でもありません。


誰がどんな意見を持とうとそれは自由です。 新井氏の本の中の都合の悪い部分、(つまり子供を罠にかける問題や、読書と読解力は関係ないという主張や、新井氏が行ったのは自分が「読解力を測る」と言い張るテストをやらせただけで実際に生徒に一度も教科書など読ませてはいない、そして「読解力が人生を左右する、という主張は嘘だった(その証明はこちらのブログアメリカの高校のEXTRA HELPのところに書いてあります)」というような都合の悪い部分)には一切触れないで、「AIで仕事がなくなるは嘘か」と自分の本の中で、誰にも批判されないような一部だけ取り上げて大きく強調するなら、それはそれでも結構です。 でもそれは、私が「東洋経済新報社代表取締役社長駒橋憲一氏もこの詐欺を知っていたのでしょう」とブログトップに書いた直後に出たブログでした。 詐欺だという批判をかわそうとする社長の意向でそういうブログが掲載になったのですか。 関係者はそうだとは認めないでしょうけれど。 それならそれでも結構です。 私は、そういう本の記述の一部にいちいち付き合う気はありません。私は、そういうことをするのは新井氏のもともとの意図を隠そうとするものだと思います。  そういうことをする前に中学生に全く教科書を読ませたデータも取っていないのに、「教科書がすらすら読める順に偏差値の高い高校に合格していることが分かってしまったのです」、と言ったことにたいして新井紀子氏は説明責任を果たしてください。子供を罠にかけるような問題を著書に掲載して「読解力を測るテストだ」と述べていることに対して説明責任を果たしてください。 他にも「読書と読解力は関係ない」と主張するのは明らかに間違いだと思います。 読書量と新井氏のテストの点数に相関関係がないのであれば、新井氏作成のテストは本当に読解力を測るテストなのか検証が必要だと思います。  新井氏は東京都の教育委員なのですよね。 でしたらなおさら、こういう点について、明確に答える責任があるのではないですか。 特に子供を罠にはめるような問題を作って、それを読解力を科学的に測るテストだといって、学校に売り込んだことに対して、明確に説明する必要があります。 教育委員が学校を騙していいはずはありませんから。






私が言いたいのは、

その意見の中にある間違いを指摘したとき、政府から妨害を受けるようでは、その仕事は公明正大な仕事ではない、ということです。 裏がある。 その裏は人には言えない裏でしょう。政治家と業者の金儲けです。だから政府が私を妨害するのでしょう。 私自身は、新井氏が子供を罠にかけるようなテストの売り込みなどしなかったら、一切何も言うことはありませんでした。 私自身が「AIに仕事をとれらる」などという観点から書かれた本を決して読みたくない、と思っているのは上に書いた通りです。 新井氏の本を読まなければいけないと思って付箋を貼りながら、疑問点を書き込みながら我慢して読みましたが、正直大変苦痛でした。

間違いを指摘したとき、政府から妨害されるようなら、それは、その仕事が公明正大な仕事ではないからです。  裏に違う目的を持った仕事だからです。 やましい目的を隠した仕事だからです。

このことだけは、新井紀子氏と東洋経済新報社駒橋憲一社長にはっきりお伝えしておきます。

ここで、私が学校教育についてどう考えているか2021年1月14日のブログより転載します。(そのブログの私の中学高校時代の勉強の仕方のところに書いてあります)


新井氏は教科書を読んでその内容を問うテストにこたえられる読解力が人生を左右すると考えているようですが、学校教育の目的は字面の理解以上のところにあります。

例えば三権分立について教科書に書いてあったとします。 その説明と、権力を3つに分けて独立させる理由等が教科書に書いてあります。 その教科書の文を読んでテストの問いに答えられればそれでいいのか。 私はそうは思いません。 教科書を読んで理解することは必要ですけれど、学校教育の本当の目的は、それよりもっと上にあります。 教科書を読んだだけでは、何も子供の心には残りません。 子供の血となり肉となる教育は出来ません。 学校では先生の説明やお話もあり、子供たちはいろいろな学習活動をします。

例えば、子供はこんな風に考えます。

権力を分散しなかった時はどうなるの? その例はあるの?
昔だったら専制君主制があった。 今は独裁国家がある。
そういう権力が集中した社会では人々はどんな暮らしをするのだろうか?
法律はどう決めるの(立法)? その独裁者が都合のいいように決める。
日々の暮らしはどうなるの(行政)? 独裁者が決めたように行われる。独裁者がしてはいけないといったことは出来ない。 どんなにやりたくても出来ない。
裁判はどうするの(司法)? 独裁者が気に入らないことをした人は「国家反逆罪」とか言って逮捕されて、最悪の場合は死刑になる。 それが怖いから人々は独裁者に何も言えない。

こういう社会の様子を子供自身が自分の頭で考えると、子供はそういう社会では人々は安心して暮らせない、とわかってくる。 一人の独裁者のいいように国が動かされると、そのほかの多くの人々は、独裁者の気に入らないことは出来ない。 おびえて暮らすことになる、とわかってくる。 だから、権力はそれぞれ独立して判断して行使されることが人々が安心して自分の幸せを求めて暮らすためには大事なんだと自分で考えるようになる。  すると、自分がこれから生きていく社会はどうあるべきか、を子供は少しずつでも意識するようになる。 人々が幸せに暮らせる社会はどういう社会なのかを考える素地がその年齢なりに出来てきます。

これが国家が行う学校教育です。 なぜなら、国家は学校教育を行うことによって、その国の未来を創る国民を育てているからです。 多くの国民が幸せに生きていける国を作るその担い手を学校教育によって育てているからです。どういう国を作っていけば、みんなが幸せに暮らせるか、子供は子供なりに考えていきます。 これは何も文科系の科目ばかりに限ったことではありません。 高校時代「生物」を学ぶことによって生命の不思議さや尊さを学びました。 命の尊さはすべての人間の活動の基本です。  理科で天体を学んだ時、宇宙を研究する人たちが、なぜ「かけがえのない地球」というのかを教えてくれました。 現在のところ地球のような気候で人間の住める星はありません。 私は中学生の時、月の観察をして、夜、月を眺めた時、太陽と地球と月の位置の関係で、月が今こういう形に見えているんだ、と思ったとき、一瞬、畏怖のような感情に襲われました。 日々の生活では人間はその力でなんでもできそうな気がしますが、(私が若いころを過ごした時代の一時期、科学万能のような時代がありました。そのころだったのでしょう)もっともっと大きな力の中で生かされているにすぎないんだ、と肌で感じました。月を見ながら、本当に一瞬怖くなりました。

新井氏が言うように教科書を注意深く読んでテストの設問に間違いなくこたえて、高い偏差値を取っていい高校に行くことが国家が行う教育の目的ではありません。

学校教育は、この国の将来を作っていく子供たちを育てる教育です。
業者の金儲けしか頭にない人には学校教育は出来ません。 (下村博文のように、公教育に業者を入れて金儲けしよう、などと考えている政治家が公教育を牛耳っている限り、日本の未来を担う子供たちを育てる学校教育は出来ません。だから政治は日本を国民が幸せに生きられる国にしたい、という高い理想を持った政治家が行わなければだめなのです。 総理大臣や文部科学大臣がそういう高い理想を持っていなかったら、日本を良い国にする教育などできません。 今の日本の教育は業者とつるんで金儲けをしようという下村博文がいいようにやっているだけではないですか。 総理大臣も一緒になってやっている。こちらは朝日新聞DIGITALに載った「教育再生実行会議担当室」が設置された時の下村氏と安倍総理の写真です。

私は気負ってこういうことを言っているわけではありません。 それは私が受けてきた教育がそういう教育だったからです。 先生方の授業の後ろに私はいつも「君たちにこういう大人になってほしい」という先生方の思いをおぼろげですけれど感じました。 私たちより先に生まれた先生方が次の時代を生きる私たちにこういう社会で生きてほしいと思っているのが、おぼろげながら何となくわかりました。 だから今もこんな風に考えるのでしょうね。

ついでに言いますと、新井氏は、2021年1月15日のプレジデントオンラインに、「9割が教科書を読めていない」私立文系しか行けない子供たちの末路」という題で記事を書いていますが(2022年10月28日、今日偶然この2021年1月15日のプレジデントオンラインの記事を見て驚きました。 私が2021年8月に見た時の文章が書き変えられていますね。あのひどい新井教授推奨「家でできる子供の読解力をアップする方法」も書き変えられていますね。 私がひどいといったところはみんな書き変えたのですか? 知らないうちにこういうことをして新井氏は本当にいつも汚いやり方をするのですね。)、こういう風に「あなたはダメな子」とレッテルを貼る教育者に子供が心を開くことはありません。 だからこういう教育者が私立文系に行く子供が内に持っている能力や可能性を見ることはできません。(彼女の視点で行くと国立理系の方は豊かな人生なのですか?)  それにしても、自分のテストを売るためとはいえ、新井氏は子供に対して、随分ひどい言い方をしますね。しかも言い方が非常に差別的です。 こんな風に子供を見ている新井氏が教育者とは私にはとても思えません。 私は新井氏が子供のことを金儲けの道具のように粗末に扱うのがとても嫌でした。 子供の成長を暖かく見守る気持ちがみじんも感じられません。新井さんは教育者には向きません。 神様は不幸になっていい子供など一人もおつくりになりません。新井氏は子供の命を軽視している。私はそれが一番嫌だった。 (私はクリスチャンではないですけれど、20代の頃から現在もカール・ヒルティの著作が愛読書です。 だから神様は不幸になっていい子供など一人もおつくりにならない、と思っています。)

2021年1月14日のブログからの転載は以上です。
ここから元の話題に戻ります。




体調がよくないので、しばらくお休みしよう、と思います。  その間、ブログはこのままにしておきます。 子音の日本語化を日本のすべての英語学習者の方々に知っていただくまで、このブログはこのままにしておきます。   長い間読んでくださってありがとうございました。 (私がブログを書いていた長い間、ネット上で私のことを陰になり日向になり守っていてくださった方が何人もいらしたのではないかと思っています。 子音の日本語化について、私がネット上セミナーを始める前までは「子音は日本語も英語も同じじゃない」といっていた上川一秋氏がセミナー終了後、「日本人のMの発音は突然始まる。これを音の○○という。」といって、自分で名前まで付けて提唱しはじめたとき、それをやめさせてくださった方々がいらしたのではないかと思っています。  私に「音をよく聞いて発音しましょうという指導はやめましょう」といった発音教師に抗議をしてくださった方々がいらしたのではないか、と思っています。 また、ある時は、新しくブログを開設した人のブログが一週間分(一つを除いて)全部私のブログの無断引用だった時、その人をやめさせてくださった方々がいらしたのではないか、と思っています。いずれの場合も私は何もできませんでした。最後の場合はそのブログの掲載者を特定することさえ、私にはできませんでした。 でも、私が「困っています」とブログに書いたとき、それを特定してやめさせてくださった方々がいらしたのではないか、と思っています。 ありがとうございます。  盗作者松澤喜好氏とその出版社KADOKAWAにアマゾンの順位を毎日下げられ、政府からはブログのアクセス数を一桁にされるような妨害をうける日が続いても、そういう方々がいらしたから13年も頑張ってこられたのだと思います。本当にありがとうございます。)



私は第4回のブログで教師が生徒に対して持つ思い、「こういう大人に育ってほしい」という思いは指導の時、必ず表れる、と申し上げました。 またその思いは教師が教育法を判断するときにも必ず影響を与えます。 それを現実のものとして聞いたとがありますので、最後にそのことを書いてブログを終わらせたいと思います。

2回目のブログで大学生の春休み、市民会館でいろいろな先生方の実践をお聞きした、と述べました。その中に忘れられないお話が2つあった、と書きました。 一つは上に書きましたが、もう一つのお話はこういうお話でした。

ある中学校の取り組みを若い先生が話してくださいました。  その学校にA男君という男の子がいました。  その子が茶髪でだぶだぶのズボンだったかどうかは覚えていませんが、A男君は、学校の授業をよくさぼって、あまりよくない仲間と遊んでいました。  彼が中学3年生になって卒業の3月を迎えた時、先生方は話し合いました。  このままA男君を卒業させていいだろうか、と。

もちろん義務教育ですので、最終的には卒業になるのでしょうけれど、先生方は話し合って、こういう結論を出しました。  卒業式に他の生徒と一緒に卒業させることは出来ないけれど、中学卒業までに学ぶことで、大事なことを一週間各教科の先生がA男君に補習授業をして、その授業にA男が全部出席してきちんと学習を終えたら、卒業させよう、という結論を出されたそうです。  それを聞いてA男君のお母さんは、「教育委員会に訴えてやる!」と大変怒ったそうですが、先生方は予定通りにしました。 卒業式翌日に登校してきたA男君に各教科の先生がかわるがわる教えたそうです。(その発表をした若い先生は「A男は、登校してきても校門に隠れていました。わざと職員室から見えるように隠れていたんですけど。」とおっしゃいました)

英語や数学の先生が何を教えられたのかお聞きしましたが、40年も前に聞いたことですので、もう覚えていませんが、社会科の先生が教えたことは覚えています。  A男君は中学卒業後、働くことになっていたそうです。 社会科の先生はA男君に「労働基準法という法律があるんだよ。 もし君が法律で決まっている以上の時間を働かされて困った時は、君は役所に行って、こんなに長い時間働かされて困っています。と助けを求めることができるんだよ。 それは労働者の権利なんだよ。 君はそうやって不当に長い労働時間をやめてもらうことができるんだよ」と教えていたそうです。

A男君は16歳で仕事に就きます。 先生方は16歳で厳しい世の中に出ていくA男君に少しでも良い人生を歩いてほしい、という思いがあったのだと思います。 その先生方の思いがこういう補習授業をしてから卒業させよう、という結論に導いたのだと思います。 
そうやって各教科の先生が一週間補習授業をし、それに全部A男君が出席した後、教室で、先生方が出席して、A男君の卒業証書授与式を行ったそうです。

その先生が、「僕がA男は偉いな、と思ったのは、A男は二度と不良には戻らなかったことです」とおっしゃっていました。  それからしばらくしてA男君のことは本になったそうです。  今思うとその本の題名をお聞きしておけばよかった、と思います。  A男君は、そのことを聞いて「先生、僕のこと、本になったんだってね。」といったそうです。

教育には正解が用意されているわけではありません。  教育者はその子を理解しながらその子に最も適切な教育をしようと努力をします。  その時に、「その子にこういう大人になってほしい」「少しでも良い人生を歩いてほしい」という思いが大きく影響します。(だから私は「私立文系にしか行けない子供たちの末路」などという言葉を使う新井紀子が教育者だなどとはとても思えないのです。 実際彼女は金儲けのために教育に手を出したにすぎません。)

この学校の先生方の選択は、「A男君に卒業させない」という選択でも「そのまま他の生徒と一緒に卒業させる」という選択でもありませんでした。  最終的になぜ上のような選択をしたか、といえば、それは「A男君に少しでも良い人生を歩いてほしい」と願う先生方の思いの結果であったと思います。

思いはコンピュータでも測れませんし、理科で使う試薬で染めだすこともできません。  でも確かに教師の心の中に存在し、指導方法を考えるとき、必ず、それに影響を与えます。  だから教師の思いは教育において一番大事だと私は思います。 だから私は、「AIに仕事を取られないように教育する」などという観点から子供を見ることを決して自分にさせてはいけない。」と感じたのだと思います。

教育の主体は生徒である。 そしてその主体を理解し、その子に最も適した教育方法を考え実践しようと教師は努力します。 そういう教育者が適切にコンピュータを使う時、コンピュータは最もその力を発揮します。(2022年1月26日 デジタル庁が持ち出してきた教育データも同じです。 教育者が参考資料として適切に使う時、教育者の役に立つでしょう。     その子に最も適した教育方法を考え実践するのは教師です。 データはあくまでその参考資料です。なぜその参考資料をあれほど年月を追って、大掛かりにとらなくてはいけないのか、教育者の私にはわかりません。 子供は刻々と変わります。 その瞬間に立ち会う教師は今その子の状態に合わせて教育をします。 私はむしろ、教師は過去のデータなどで変な先入観を持つより、今、目の前にいる子供をよく理解することの方が、その子に最適な指導ができるのではないか、と思うくらいです。  子供は刻々と変わります。 良い刺激があれば、なおさらそういう変化を見せます。 例えば、このブログの前半に書いた不良と呼ばれる子供たちでさえ、丁寧に教えて勉強がわかるようになると「先生、勉強やろうよ」と自分から言うのです。 彼らのデータなど通知表は「1」や「2」ばかりでしょう。 でもそんなデータ、どうでもいいです。 「この子たちにわかるように教えたい」という教師の思いや適切な指導があれば、子供は変わるのです。 (文部科学省はすべての子に最適な教育をしたいのでしょう? だから莫大な予算を取って子供一人一人にコンピュータを与えたのでしょう? でも、本当に一人の子も置き去りにしない教育をするには一人の先生が見る一クラスの人数をなるべく少なくしていくことではないですか?)     デジタル庁はなぜそんなに長い年月をかけて、学校や塾や広範囲にわたってその子のデータなど取らなければいけないのですか? 教育は、確定したデータより、「この子たちにこれからこういう大人に育ってほしい」という観点から、研究実践されていくべき分野ではないですか? お金はデータの入力より、そちらの研究実践に使われるべきではないですか。 よい教師を育て、一人の先生が見る生徒の数を少なくするために使われるべきではないですか。 なぜならその教育によって子供たちが変わるからです。それが教育です。 それは何も、不良と呼ばれる生徒たちばかりではありません。 私は普通の生徒でした。 でも先生方の日々の授業で、国語の力も、理科への関心も変わりました。(こちらのブログに「赤い子馬」の授業の例を書きました。そのあとにちょっとした社会や理科のことも書きました。) 確定したデータなど、その時の子供たちを変える何の力もありません。 データに「教(おしえ)」「育(そだてる)」ちからはありません。 データはただの参考資料です。 膨大なデジタルデータが一人一人にあった個別最適な学習を可能にするなど、デジタル庁のどなたが提唱されているのですか? 私から見たら、そんな意見は教育を全く知らない人の言うたわごとです。様々な可能性を持つ人間を教育することの意味を全く知らない輩のいうことです。 デジタル庁のどなたの意見でこのような方針が決められたのですか。デジタル大臣牧島かれんさんの意見ですか。もしそうだとしたら、彼女は教育について無知すぎます。 教育者にとってデータは参考程度にあればいいものです。 デジタル庁が集める膨大なデータを本当に欲しがっているのは誰なのですか? その人たちの為に岸田総理大臣が国民の個人情報をだまし取って売るのですか?(献金もらう)それは国家の犯罪です。 総理の犯罪です。政権ぐるみで犯罪を犯しています。     データとしてデジタル庁が収集するのは教育に関するデータだけですね。 では、教育産業のための市場データの収集ですか? eポートフォリオはベネッセのための見込み顧客(高校生)データを国家に収集させるものでした。 今度はデジタル庁を使って教育産業に必要なデータを国家に収集させるのですか。 だとしたら、やはりデジタル庁は国民から個人情報を騙しとっています。「一人一人にあった個別最適な学習を可能にする」のはデジタルデータではありません。 「自分らしく学べる社会を実現する」のはデジタルデータではありません。いい加減なことを言って国民を騙さないでください。 デジタル庁はデジタルは専門家かもしれませんが教育については全く無知です。無知な人間が金儲け目当てに教育に口を出すのはおやめください。データなんか100万個取ったって教育はよくなりません。 子供たち(人間)を育てる教育がどれほど心血を注がなければよくすることが出来ないほど大変なものかデジタル大臣牧島かれん氏はわかっているのですか。データをたくさん取れば教育がよくなるなど、とてもまともな神経で言っているとは思えません。教育をネタにして国民から個人情報をだまし取りたいだけでしょう。 デジタル大臣牧島かれん氏は教育を何だと思っているのですか。教育は金もうけの手段ではありませんよ。だからデジタル庁はただの個人情報ぼったくり集団だ、といわれるんです。「教育産業の金儲けのために国民を騙して個人情報を入力させる」 デジタル大臣牧島かれん氏はそういう不正な手段で行政機関の仕事をしないでください。国会議員なのですから国民を騙す不正手段を使ってはいけないことくらいお判りでしょう。 そんなことも知らないで大臣をやっているのなら、教育ばかりでなく大臣の仕事についても相当無知だと思います。 データを入力すれば教育がよくなる、そんなまやかしを大臣が本気で国民に言うんですか。 政府は岸田首相の下で、デジタル庁が犯罪集団といわれることも牧島かれんデジタル大臣が国民の個人情報をだまし取っているといわれることも都合が悪いのか、私のブログの妨害はひどいままです。  大臣になったとたん、国民の個人情報をだまし取る牧島かれん氏に政治家を名乗る資格はありません。 ただの個人情報泥棒です。 教育を口実に子供を食い物にするのはおやめください。)

教育現場の先生方へ

初めてGIGAスクール構想の資料を知人が送ってくれた時「私はコンピュータのこともデジタルのことも何も知らない。私にこういう資料を送ってくださっても私は何も出来ない。」と思いました。 でも、せっかく送ってくださったので、文科省のHPを見ながら一生懸命読みました。 コンピュータのことやデジタルのことがわからなくても、教育として変だ、と感じることは初めて読んだときからいくつかありました。 例えば、先生の質問の答えを生徒にコンピュータの画面に書かせれば、手を挙げない生徒の書いた答えでも、良い答えだと教師にわかる、という例をみました。 「そんなの先生が教室をぐるっと回れば生徒のノートが見られるくらいの人数で教えていれば、いつでもできることよ。それを実現することにまず予算を使うべきだ。 子供は登校して教室にいるのに先生と画面でコミュニケーションするの?」と私にはとても違和感がありました。 たとえコンピュータやデジタルの専門家でなくても先生方は教育の専門家です。教育についてはデジタル庁などよりずっとよくご存じです。 デジタル庁は教育に関しては全く無知です。 あんな人たちのいうことを教育に持ち込まれたら大変なことになります。 教育をよくするのに個人情報などいりません。 どうぞ、先生方がおかしい、と思われたことに対しては、「おかしい」と声を上げられたらいいと思います。先生方は教育現場での経験も豊富にお持ちですから机上の空論で決められたことがおかしい、ということにはすぐにお気づきになると思います。毎日教科指導、生徒指導でお忙しいので、そこまでの時間がないかもしれませんが、どうぞ、「おかしい」と思うことに対しては遠慮なさらずにご指摘ください。実際に教育をしている人にしかわからないことが現実にはたくさんあります。 教育現場の声はとても貴重だと思います。(実際、GIGAスクール構想のページを読んでいると、言っていることは大変立派で素晴らしいですけれど、これを教室で、日々の授業でどうやって実行するの?と思いました。「一人一人にあった教育のためのフィードバックを全部先生がするの?(具体的には、いま行った学習の理解度を見て次にどのような指導をしたらよいかを考えて決める。例えば、もう少し教えたことを定着させるための練習が必要だ、あるいは、その前の段階で理解が不十分なところがあり、それがつまづきの原因になっている、などを判断して次の指導を決める)これを一人一人について全部先生がするの? 無理よね。一クラス40人だもの。」と思いました。机上のプランと実行段階の乖離が大きすぎる。その乖離を全部教師が埋めなければならない。 しかも教師へのサポートはないに等しい。 やってみればわかることだけれど。 うまくいかなかったら、また「教師の指導力の問題だ」って言って、文部科学省は逃げるのかしら。と思いました。デジタル庁は「教育産業のために国民の個人情報を騙してでも入力させる」文部科学省は、「一人一人の子供に最適化された教育ができると国民には言って、コンピュータを税金で大量に購入する。でもその使い方についてはおざなりな計画しか立てていない。 文科省の穴だらけの計画の不備は全部先生方の労働で埋めるよう押し付けている。」  デジタル庁、文科省、どちらも、子供に良い教育をすることを本当に願っているのでしょうか。業者に金儲けさせることがまずあって、そのために立派な理由を考えただけではないでしょうか。それで失敗したときは先生方のせいにしないでください。
私は、最初から国民を騙すつもりでやっているデジタル庁のしたことは特に悪質だと思っています。窃盗、監禁などと同じ「犯罪レベル」です。 こういうことをする集団を国の機関として置いておく岸田総理もひどいと思います。デジタル庁は「国の機関」という隠れ蓑の下で、総理に守られ、金儲けのためにやりたい放題悪いことをやっている。国民の利益なんかそっちのけ。最初から国民を騙して金儲けに使おうという犯罪集団。だからあんなお粗末な理屈を作って国民の個人情報をだまし取ろうとする。あの程度の理屈で全国民の個人情報を生涯に渡って騙しとれれば金儲けも簡単。「生涯教育」なんてもっともらしいこと言って国民一人一人の一生分のデータを全部だまし取る。 それは値段もつけられないくらい高価な市場調査データ。 政府が守ってくれるから、詐欺だって犯罪だってやりたい放題。デジタルで金儲けに必要なものは、今回みたいにデジタル庁に適当な理屈言わせて取らせればいい。 牧島かれんデジタル大臣には国会議員としての倫理はありません。金儲けしたい人の言う通り動いている。これからの金儲けはデジタルの分野でしょうから。デジタル庁は金もうけ目当ての人の言う通り動く犯罪集団。個人情報は私たちの個人財産です。他人が金儲けのために勝手に使っていいものではありません。 それをデジタル庁は「最適な教育の為」と騙して一生分国家権力によって強制的に持って行こうとした。(まさにデジタル庁は、「普通なら他人が手にすることの出来ない一生分の貴重な個人財産を力ずくで奪い取ろうとした」ぼったくり庁です。)  巷(ちまた)の詐欺師だって、だまして「同意させて」持っていくのに、デジタル庁は国家権力によって強制的に持って行こうとした。 巷の詐欺師より悪質です。デジタル庁は詐欺師より悪質な犯罪手口を使って国民の個人情報をだまし取る。 デジタル大臣牧島かれんは詐欺師より悪質な手口を使って全国民の個人情報を騙しとる。 岸田総理のすることは安倍元総理のしたことよりはるかに悪質です。 安倍元総理は高校時代のデータだけでしたが、岸田総理は「生涯教育」などといって全国民の一生分のデータをだまし取る。 国民の一生分の教育の歴史をだまし取る。 国民の人生の記録をだまし取って業者に売る(献金もらう)。 岸田首相は歴代首相の中で最も悪質です。 「全国民の人生の記録をだまし取って業者に売る」日本憲政史上最悪の総理大臣です。


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GIGAスクール構想の話題に戻ります。

政府、文部科学省はコンピュータにかけるのと同じくらい先生方の支援にお金も時間も人もかけてください。 現場の先生方の意見を丁寧に聞いてください。  その時「コンピュータを使えない教師が悪い」というような視点から先生方の意見をはねつけないでください。 業者は儲からなくても、先生方がコンピュータを使いこなせるかどうかにGIGAスクール構想の成否がかかっています。 失敗したとき、「教師の指導力の欠如」などという理由は決して言わないでください。



今日まで、「子供たちを守ってやりたい」という思いだけでやってきましたけれど、政治家、文部科学省、出版社、著者、政府、ブログを書く人(注*)など、たくさんの方面からの仕掛けに私一人で対処するのは、もう体がついていきませんでした。
(注*)政府や東洋経済新報社(新井氏)などが、私が指摘したことについて「間違っている」と言う目的でいろいろな人にブログを書かせているようです。 はてなブログタグでそういうブログをよく見ました。たいていの場合は私はスルーしていますけど。何人も何人も飽きもせず動員してくるのはすごいなあ、と思います。 一番傑作だったのは、私が「子供たちには新しい仕事を生み出す力がある」と書いた直後、「新しい仕事を生み出すのはAIに仕事を取られた子供たちではない」と書いたブログが載った時でした。 どこまで行っても「AIに仕事を取られる」という考え方から離れられないのね、と思いました。 指導者がそう思っていたら、子供たちは本当にそうなります。 それ以外に子供たちが持っている能力や可能性を指導者が見ようともしないからです。 それじゃあ人間の本当の力も見えないと思いました。)


これで、私のブログは終了いたします。 2011年から、長い間、読んでいただいて本当にありがとうございました。 子音の日本語化が多くの英語学習者に浸透するまで、このブログはこのまま掲載しておきます。 日本人が70年間も聞けなかった音ですから、皆さんに聞けるようになっていただけるまで10年や20年はかかるかもしれませんね。 それまでいるかどうかわかりませんけれど、娘には、頭を打った時、もしお母さんがこのままいなくなっても、ブログは10年くらいそのままにしておいてね。 英語学習にとっても大事なことが書いてあるから、といってあります。  他にも英語学習に役立つ記事がありますので、参考にしていただければ幸いです。  長い間、お読みいただきまして、本当にありがとうございました。 長い間、支えて下さった方々、ありがとうございました。





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ここから大学入試の話題に戻ります。

「こういう学生を育てたい」そういう思いのない、共通試験なんかやらなくていいのです。  そのうえ大学入試がベネッセのアルバイトで出来ると思っているような人がかかわってくるなら、共通試験など、やめることです。 共通試験に使うお金は各大学に良い問題を作ってもらうために使ってもらったほうがいいです。  

大学教育改革とかもっともらしいことを言っているけれど、大学入試のようなスタートのところで、大学の先生方と、受験生双方のやる気をそぐようなことばかりしているから、ちっとも効果が上がらないのです。 問題集を売って儲けたい人が作ったような問題、ベネッセのアルバイトが採点する文章、経済的に苦しい家の子供が最初からあきらめなければならない高額の民間試験、こんなことをやっているから、教育がハゲタカビジネスモデルで瀕死の状態になってしまうんです。  各大学が「こういう学生を育てたい」という志のもとに責任を持って入学試験を行うなら、こういうことは起こりません。(現在、○○大学の入試問題をつくっている先生が○○大学合格対策問題集を出しているなどと知ったら、大学当局が放っておかないでしょう。 学校の信用にかかわりますから。つまり公正な入試ということに対してもきちんとコントロールが行われるということです。今みたいに、野放しになるようなことはありません。)

誰も止めなかったら、子供たちはベネッセのアルバイトが採点するテストを受けさせられていたのですよね。こちらのお二人(下村氏と安倍首相)は、本当にベネッセのアルバイトの採点なんかで子供たちの学力が上がるとでも思っていたのですか。教育再生実行会議など、即刻解散させるべきでしょう。 彼らの決めたことは即刻白紙に戻すべきです。 英語教育に関しても彼らは何も知りません。

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先生方のツイッターで初めて「ベネッセのアルバイトが受験生の文章を採点する」という話を読んだ時、なんとも言えない悲しい気持ちになりました。  この国の子供たちはかわいそうです。 首相にまで売られてしまった。 と思いました。 大学受験のために子供たちがどれほど一生懸命勉強しているか首相は知らないはずないでしょう。 昨日もそのことを考えていたら、いつの間にかぽたぽたと涙が落ちました。  安倍さん、業者にお金儲けの機会を与えたいなら、子供と関係ないところでやってください。 「その国の最高学府で勉強したいと思う子供たちの実力を採点するのが学生アルバイトで良い」そんな首相ではもう日本は終わりです。